2020年2月28日

手塚風マンガ

2020.2.28

シド・フィールドの”Screenplay: The Foundations of Screenwriting” を読むと、物語にはパターンがあるのだということがよくわかる。
いや、もちろん、起承転結とか序破急という日本語があるくらいだから、ストーリー展開そのものに対するメタ認知は日本にも大昔からあった。
しかし、さすが、ハリウッドで無数の映画脚本を手掛けた人である。ストーリーを作る上で必要な方法論が、こんなにもきっちり確立されていることが、まず驚きだったし、それを惜しげもなく紹介していることにも驚いた。
そう、感動は、「作れる」のである。しかも、量産可能である。

当然反論はあり得るだろう。
「シェイクスピアでもドストエフスキーでもいい。優れた作家が、人生の意味を問い、悩み抜きながら見出した”答え”を、文学作品として結実させる。
そういう具合に、作品は本来、個人の人生観が極めて色濃く反映されたものだ。そして、その個性ゆえに感動を呼ぶのであって、起承転結などという小手先の類型化によって『感動を量産』できようはずがない」などと。
僕もそう思いたい。でも、現実はそうではない。ハリウッドには、感動を生み出すためのノウハウが、ちゃんとある。まるで工場のように。
もっと言えば、人間がストーリーを作る必要さえない。ストーリー展開は、パターンの組み合わせである。人工知能を使って、人間が「おもしろさ」「感動」などを感じるメカニズムを要素に分解し、解析し、その傾向から新たに物語を生み出すことも可能である。
実際、人工知能におもしろい短編小説を創作させるプロジェクトがあって、その作品が星新一賞の一次選考を通過した、というニュースがあった。
『人工知能創作小説、一部が「星新一賞」1次審査通過』
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG21H3S_R20C16A3CR8000/

創作過程のすべてをAIだけに任せることはまだ難しいようだが、AIの生み出すアイデアを作品に生かすことは現時点でも充分可能だろう。
そして、驚いたのが昨日のニュース。
『AIで作った漫画に“手塚治虫らしさ”は宿るのか? 前代未聞のプロジェクト、ピンチ救った「転移学習」』
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2002/27/news064.html
なんと、AIに”手塚風”のマンガを描かせることに成功し、連載が始まったという。
もちろん、記事を見ればわかるように、AIが独力ですべてを生み出したわけではない。というか、「AIが作った手塚マンガ」という表現はやや過剰で、AIはあくまでサポート役にとどまっていると思う。
それでも、キャラクター造形やストーリー展開というかなりコアの部分で、AIの力が発揮された作品には違いない。

ゴッホやピカソの作風をAIに学習させて、いかにも”ゴッホ風”、”ピカソ風”の絵を描くことはすでに可能だという。
また、AIを使って前衛的な絵画を延々作成するサービスさえある。
https://gigazine.net/news/20200217-art42-infinite-stream-ai-art/

芸術という、独創性が最も必要とされる領域においてさえ、AIが力を発揮し始めた。
これはある意味、「芸術家は、死ななくなった」ということだと思う。自分の死後にも、”自分風”の作品ができるわけだから。
これは将棋の分野にも言えて、多分、「プロ棋士は、死ななくなった」ということも言えると思う。
たとえば羽生善治がこれまで指した棋譜データは、”羽生風”を導き出すのに十分量あるだろうから、「この局面なら羽生はどう指すか」をAIが模倣することは充分可能だろう。
おかしな話だね。羽生先生はまだ存命中なのに^^;
”ただ強い将棋ソフト”を模索する段階はとっくに終わって、AIはさらなる高みに向かっているようだ。

もっと言うと、「人は、死ななくなった」とさえ言えると思う。
たとえば、明石家さんまがこれまで出演したテレビやラジオをデータとしてAIで解析して、”さんま風”を把握することも可能かもしれない。
”さんま風”のボケ、ツッコミが、本人の死後にも生き続けるとしたら、どうなるだろう?
笑えるかな?おもしろいかな?
さんま本人が存命のうちは、「おまえ、機械のくせに俺のマネすんなや!気持ち悪い」とかいじって、笑いになりそうだけど^^

本当に、とてつもない時代に突入しつつあると思う。
ものすごく幸せな時代になりそうな気もするし、ものすごく不幸な時代になりそうな気もする。
個人的には、できれば希望を持って未来に進んでいきたいと思っているけれど。

告知

2020.2.28

『安心』に連載を持たせてもらっている。
毎月締め切りが近づくにつれ、何を書こうかとネタに悩み始め、なかなかテーマが決まらないまま悶々と時間だけが過ぎ、締め切り前日には編集者氏から催促のメールが来る。『安心』のせいで『不安』になっているという^^;
でも、全国誌に連載をもたせてもらえるなんて、こんなにやりがいのあることはない。
若年者はネットから情報を仕入れるものだから、僕の情報発信を目にする可能性がある。しかし中高年者に対してアピールするには、やはり紙媒体がいまだ強い。普段ネットをいじらない人にも、僕の健康情報が届けば、と思う。

新型コロナウイルスがいまだ収束の気配が見えないなか、『安心』4月号臨時増刊号が出版された。
家庭で自分でできる「新型ウイルス対策」が盛りだくさんで、僕が読んでも非常に参考になった。
この増刊号に僕の記事も掲載されている。こんな具合に。

第3章、僕以外の執筆者を見てください。
全員教授っていうね( ゚Д゚)何か気が引けるわー^^;
藤田紘一郎先生は腸内細菌研究の第一人者として著書も多く、みなさんご存知だろう。僕も何冊か先生の本を読んで勉強させてもらった。
そういう先生と、執筆者として同じ並びに名前を連ねることができるだけでも、光栄に思います。

さらに、NHK文化センターから、受講者募集のご案内が届いた。

池上彰や秋元康も来たりするんだなぁ。
個人的には、相撲が好きなのでやくみつるのトークのほうが聞いてみたい^^
この「ご案内」のなかに、なんと!

僕の講演へのご案内もあります^^まだ残席がありますので、興味のある方はどうぞ!

さらに、けっこう先(今年10月24日)のことだけど、浅井ゲルマニウム研究所の中村宜司さんから「比較統合医療学会でアサイゲルマニウムをテーマにしたシンポジウムが行われます。よかったら、一般演題で症例報告をされませんか?」とのオファーを頂いた。
これもまた、名誉なことである。「ぜひ、やらせてもらいます」と引き受けた。

しかし、思うのは、最近ちょっとずつ人前に出て話す機会が増えてきた、ということである。
「まだまだ勉強中。知識を吸収する身分」だと思っているから、人前に出て講釈を垂れるのは、「俺なんかが演者で、ほんまにええの?」の思いをぬぐえない^^;
しかし、僕が表に出ることで、栄養の重要性(および栄養療法の有効性)を少しでも多くの人に知って頂けるなら、と思って仕事を受けているが、そもそも僕は見知らぬ人の前で話すが得意ではない^^;
それは、ひとつには、僕が言葉を選び過ぎるからだと思う。書き言葉ならまだいい。時間はたっぷりあるから、ゆっくり推敲すればいい。
しかし講演は、話し言葉である。さらさらと立て板に水のように、言葉を紡ぎ出さなければならない。
そもそも、僕は全然未完成なんだ。未完成だから、絶対の自信を持って何かを断言するなんて、本来できないはずなんだ。
しかし、正確さを期して脚注的なコメントばかり付け加えながらしゃべっては、実に自信なさげな、おもしろみのない、説得力のない講演になることはわかりきっている。

そう、わかっている。講演に来る人は、もっと自信のある演者を求めていて、そういう講演を求めている。
僕は、それに応じようと思う。つまり、多少「役者」しようと思っています^^;
講演に来てくれたお客さんを、ちゃんと満足させる。有益な情報を持って帰ってもらう。
なるほど、その情報には、一応のエビデンスがある。ホッファーやポーリングなど、様々な天才の知識が積み重なって築き上げられたのがオーソモレキュラー栄養療法であり、これによって無数の人々の健康に貢献してきた。その事実には、圧倒的な説得力がある。
しかし同時に、オーソモレキュラー栄養療法はいまだ完成された学問体系ではない、というのもまた、事実だと思う。
根底からひっくり返るようなことはさすがにないだろうが、新たな知見の蓄積が、ある種の矛盾を暴かないとも限らない。
そのあたりの点に一応配慮して、断定的な表現は普段は避けている僕だけど、それは、ある意味事前の「逃げ」を打ったスタイルだとも思う。

人に話すとは、何かを伝えるとは、どういうことか。
講演する必要に迫られていることもあって、そういうことを最近考える。
そのうえで参考になるのが、たとえばこの動画。上岡龍太郎という人は、やっぱり天才だったんだなと再認識する。
「話者が断定してやる」ことの効用について、説いている。
ざっとまとめると、
「世の中には断定的に話せることなんて、そう多くはない。しかし、かといって不安そうにしゃべっては、おもしろくない。
たとえば女性を口説くとき。『お茶を飲みに行きませんか』こんな誘い方では、女性は困る。『この人は自分で判断することを放棄して、こちらに責任を求めている』と。
そうではなくて、『お茶を飲みに行きましょう』『食事に行きましょう』ズバリと誘うことだ。そうすれば、女性としては『半ば無理に誘われたんだ』と言い訳が立つ。精神的にはむしろ楽なんだ。
断定的な物言いを避ける傾向は、戦後民主主義教育によって強まった。「何々してみたいと思います」「何々やってみたいと思います」こんな遠回しな、奇妙な婉曲表現は戦前には存在しなかった。
戦後は「思います」「思います」と、「思う人」ばかりになった。民主主義は多数決である。民意にはからなくてはいけない。そこで「何々したいと私は思いますが、みなさん、ご異議ございませんか」
そういう計算が、この「思います」に含まれている。「自分は断定なんてしていません。判断主体は私ではないし、責任も私にはありません」
なるほど、柔らかくて当たりはいい表現である。しかし、見ている人を惹きつける魅力はない。
多少傲慢でもいいから、断定してやることだ。そうすることで、聞き手は言葉の切れ味にある種の快さを感じる。
現代は何事もそうで、誰もが断定を避ける。そのせいで、皆、基準を失ってしまった。
世の中には「絶対」も「永久」もあり得ない。だから、何事も断定なんてできない。それでも、断定することだ。それこそが、聞き手に安心感を与える。」

有吉やマツコが人気の理由がわかる。
彼らは、ちゃんと「断定」してくれるものね。

『上岡龍太郎 生放送 EXテレビ』
https://www.youtube.com/watch?v=LlYHJ-O4rEI