2020年2月18日

見えないもの3

2020.2.18

祈るということには、絶対的な力があると思っている。
たとえば医療に従事している人なら、”そういう症例”をいくつか経験してるものじゃないかな?肉体的な意味では、もうアウト、お亡くなり、のはずが、精神の力で奇跡が起きた、みたいな。
こういうのは、祈りの価値があると思う。患者本人であれ、患者家族であれ。人の人生がかかっているわけだからね。
でも、ほら、たとえば正月に神社に行って賽銭5円投げ入れて柏手打ってお祈りする。ああいう祈りを軽い気持ちでするのは、やめておいたほうがいい。
神様に、簡単に祈るな。

もし、本当に、ワラにもすがる思いで神様に何かを祈りたいのなら、神様に何を求めるのか、具体的に明らかにしないといけない。そうしないと、祈られる神様のほうで困ってしまう。
そして同時に、その願いと引き換えに自分が神様に何をするのか、ということも明らかにしないといけない。
そもそも祈るということは、神様との契約である。
契約なのに、一方が「願いを伝えるだけ」「せいぜい、賽銭箱に5円玉投げるだけ」となっては、人間の傲慢極まりない。
漫然と祈るな。

祈りと供え物は必ずワンセットである。文化人類学によれば、これは世界中の儀式・神事に共通する特徴である。供え物は、多くの場合、命である。それは人間(人柱)の場合もあれば、動物のこともある。神に何かを要求するのだから、当然の”対価”である。
日本の神道においても、かつては生け贄が捧げられていた。
明治以降、「残虐」「文明的ではない」ということで生け贄の儀式は廃止された。以後、どこの神社においても祈る行為は形骸化し、人間が神様に一方的にお願いするだけの、単なる”甘え”に成り下がってしまった。
現代の僕らは、この、甘えた祈りにすっかり慣れている。祈るということの意味も知らず、簡単に神社に行く。
神様に甘えるな。

特に日本は八百万の神の国である(森元総理の「日本は神の国」という発言は何も間違っていなかった!)。
適切に祈れば(きちんとした神社に行き、願いを明確にし、相応の犠牲を約束すれば)、願いは本当に叶う。叶ってしまう。
ラッキー、って思いますか?
でも願いが叶うことが、必ずしも幸運とは限らない

そう、日本には本当に心願が叶う神社がいくつもある。
『某県にある某神社』などとぼかすのはよして、ずばりと名前を出そう。
たとえば、京都の天津神社である。
ある男が参拝し、宮司に願い事を語った。
「宝くじを当てたいんです。1億当たったら、お礼に5千万円は神社にお返しします。約束します」
その後宮司が、神妙に頭を下げる男の上で切麻(きりぬさ)を振り、お祓いをした。そこで宮司、神託を得た。
「今から神社から帰るその足で、こちらの方向に進み、見つけた最初の宝くじ売り場で1万円分宝くじを買いなさい」
宮司の言葉通りにしたところ、なんと、本当に1億円当たってしまった。ふらっと入った宝くじ屋で、一等1億円が当たる。確率的にあり得ないことが起こっている。
「神の御利益というのは、実在するのだな」男は驚嘆した。
しかしいざ、実際に現金を目の前にしてみると、欲望がふつふつと沸いてくるのが人間である。
「まさか、この半分、5千万をお返しするなんて」全額ごっそり頂きたいところだが、さすがに無視はできかねる。「まぁ500万も納めれば充分。神様もわかってくれるだろう」
彼は三年後に病死することになった。まだ若い、健康的な男だったのに。

繰り返すが、日本は八百万の神の国である。
しかし、なぜ「いい神様」ばかりだと思うのか。そこには、荒ぶる神(鬼神、邪神)もいれば、疱瘡神や疫病神もいる。
神は不義理を許さない。地の果てまでも追いかけて、罰(バチ)を与える。相応の償いを求める。ときには命さえ奪う。どこにも逃がさない。

三木大運和尚の話
「寺の老朽化がひどくて、本堂の建て直しが必要でした。ただ、どうしてもお金がありません。
そこで、私、普段はお祈りなんてしないのですが、心の中で仏様に強く祈りました。何とか助けてください、と。
そうするとその日の夜に、不思議な夢を見ました。どこの宝くじ売り場に行ってどのタイミングで何万円分買えと、ものすごく具体的な指示が聞こえました。
すると、ありがたいことに、本当に高額当選しました。めでたく寺を修繕することができました」

願い事とは、神との対話である。その対話には、それなりの決意とそれ相応の犠牲を覚悟して臨まないといけない。
「5円の賽銭投げてご縁があれば」だって?そんな甘えた気持ちで神社仏閣に行くくらいなら、いっそまったく行かないほうがいい。

天津神社は僕の家からはやや遠いが、実は僕の比較的近所にも、心願が叶う神社がある。
やはり、はっきり名前を出すと、六甲山神社(むこやまじんじゃ)である。
土地の”気”を感じる人に言わせると、パワースポットということで、全国から観光気分で来る人が多いが、すごさの意味を取り違えていると思う。
この神社もやばい。本当に、叶ってしまう。それゆえに、僕は行かない。

僕には何かを犠牲に捧げる気持ちの準備がないから、神様を拝まない。
そういう僕だけど、バックギャモンやポーカーをやると、つい気持ちが熱くなって「4出ろ!4出ろ!」だの「頼む!エース来てくれ!」みたいな状態になる。
こんなつまらない”願い事”を、まかり間違って神様が聞き入れてくれたとなれば、と思うと、僕はギャンブルが何か怖くて、だからもうあんまりやりたくないんよ。
自分の読みだけが勝負で確率の要素がほとんどない将棋が、やっぱり僕の性に一番合っていると思う。

参考
北野誠の茶屋町怪談(MBSラジオ)

見えないもの2

2020.2.18

手札がすでにペアで、フロップが3枚出た時点でスリーカードができたから、まぁいけるだろうと思って、ちょっとずつ賭け金を釣り上げた。大きく張っては相手が警戒して降りてしまうから、様子をさぐりつつ。
コミュニティカード内でキングのペアができて、手元のカードと合わせてフルハウスに昇格した。
右隣のプレイヤーがキングのスリーカードができてて、確かにこれならオールインしてでも突っ張りたくなる気持ちはわかる。
しかし結果、2人のオールインを引き出し、それをしかも高い役で撃退して、僕の勝ち。
ポーカーでこんなに気持ちのいい勝ち方って、なかなかない。

でも、何か複雑なんだよね。
バックギャモンもそうだけど、サイコロ投げたりカードめくったり、ああいう運否天賦の要素が大きいゲームって、変な話、「本当に僕が勝ったのかな」という気がする。
もちろん、ゲームをしているとき、僕はプレイヤーであり、状況判断をしながら最適な(と思われる)プレーを選択している。判断の主体は、確かに僕だ。
そのはずなんだけど、たとえ勝ったとしても、「僕が勝った」というよりは、「結局はツキやんか」という虚しさが拭えないんだな。
それに比べて、将棋で勝ったときの、あの純然たる喜び。確率の要素が大きいほど、勝ちの喜びが曇っていくように感じる。

リアルのお金が動いていないから、というのが理由ではないよ。
賭け金の有無にかかわらず、ゲームをする限り、「勝ちたい」と思ってプレーしている。
サイコロを振るときの「ここで5出ろ!5出ろ!」とか、カードが配られるときの「エース来い!頼む!」とか、内心熱くなっている。
この熱こそがギャンブルの核心で、この熱を感じないようではギャンブルは何もおもしろくないだろう。
負ければ当然不愉快だが、しかし勝ったとして、その勝ちが、胸の内の強い熱、強い期待によって招き寄せられたものだと思うと、僕は、何か、怖いんだ。

僕の言っている意味がわかりますか?
わからない人にはわからないと思うし、そういう人の「わからなさ」もわかる。
「完全に確率の話だろう?ネット対局のバックギャモンもポーカーも、結局、乱数発生のプログラムを使っている。熱とか期待とか、そういうのは人間の勝手な意味づけであり、幻想にすぎない。
熱を込めようが期待しようが、『サイコロをふって1の目が出る確率は6分の1』こういう確率法則は揺るがない。それを君は、怖いだなんて、言っている意味がわからないな」

そう、僕自身、こんな感情は不合理だとわかっている。
わかっていても、やっぱり、怖い。
それは結局のところ、僕が、『祈り』とか『思い』(あるいは『呪い』などのネガティブなものも含めて)みたいな、精神的な力を信じているせいかもしれない。
「ポーカーに勝ったとして、それが、僕の『思い』が通じて勝ったかと思うと、何だかたまらない。こんな、たかがポーカーごときで」
心のどこかにこういう思いがあるのだと思う。勝ちを単純に喜べないのは、そのせいかもしれない。

人間の思念が確率的現象に及ぼす影響については、すでに多くの研究がある。
もともとはテレパシーの研究から派生して、精神的遠隔操作(たとえば「サイコロで願った目を出し続けることが可能であるか」)の可能性が研究されるようになった。
デューク大学のライン(Joseph Rhine)は、サイコロの転がし方の影響を完全に排した状態にして、54人の学生にサイコロを多数回ふらせる実験を行った。
その結果、ラインは「サイコロの出目には精神的な影響が加わる」と結論した。

こういう研究は、ひとつだけでは説得力がない。そこで、複数の研究を検証したメタ分析を紹介しよう。
『意識がサイコロの出目に及ぼす影響について~メタ分析』
http://deanradin.com/evidence/Radin1991DiceMA.pdf
「この論文は、意識(特に精神的な意図)がサイコロの出目に影響を及ぼすか否かを検証した実験のメタ分析である。1935年~1987年に出版された73本の報告を対象としたが、この研究では特に、合計52人の研究者による148の論文(被験者の総計は2569人、サイコロをふった総回数は2百万回以上)を分析した。」
その結果、わかったことは、
ある種の思念(たとえば「6出ろ!」とか)を持った試行は、出目に対して有意に影響している。「偶然」を平均0とする正規分布を考えれば、なんと、2.6σも離れている。統計学を勉強したことのある人なら、これがいかに飛びぬけた値であるかがわかるだろう。
要するに「念ずることで、サイコロの目は影響を受ける」ということが、科学的に証明された形になったわけだ。
そこらへんの三流大学の教授が売名のために書いた論文ではない。ノーベル賞を68人、フィールズ賞を15人出してる天下のプリンストン大学の研究者が、これまでに出た論文を詳細にメタ解析した結果、こういう結論が出たんだ。
それ相応の重みを持って受け止めるべきだろう。

とまぁ、上記のように「公平であるべき確率的現象に精神の力が何らかの影響を及ぼす」ということには、科学的なエビデンスがある。
かといって、「科学的エビデンスがあるから、何かを強く念じることが怖い」というわけではもちろんない。
そもそも恐れという感情は、本能的で、デタラメで、不合理で、無根拠なものだ。
しかし、何かを強く念ずることの、一体何が恐ろしいのだろう。
うまく表現できるかな、自信はないけど、次もう一回だけ、この手の話が続きます。