院長ブログ

甘草

2019.1.28

漢方薬に使われている生薬のなかで、最もメジャーなのは甘草だろう。
非常に多くの漢方処方に含まれている。
まず特徴的なのは、その甘さ。砂糖の何十倍も甘く、しかも砂糖の甘さとは違う独特の風味がある。
甘さの立ち上がりが砂糖よりも遅く、後を引くが、この性質を生かして、西洋では昔から甘草のお菓子やアメ(リコリスキャンディー)が作られている。
漢方薬を飲んだことがある人にとっては、おなじみの味だろう。

甘草に含まれているグリチルリチンという成分に関しては、「多量摂取(漢方薬を不必要にたくさん飲むなど)によって、偽性アルドステロン症になる」ぐらいのことは医学部の授業でも習う。
でも一般の人は、こんな記述を見ても面食らう。まず「アルドステロン症」とか言われてもわからないのに、それの「偽性」と言われても意味不明だろう。
アルドステロンというのは副腎皮質から分泌されるホルモンで、腎臓の尿細管でナトリウムとカリウムの交換を促進し、尿とともにカリウムイオンと水素イオンを排泄する働きがある。
高血圧を発症する人のなかには、アルドステロンの過剰が原因になっている人がいて、そういう病態のことをアルドステロン症という。
一方、甘草の多量摂取などによって、血中アルドステロン濃度は正常であるにもかかわらず、まるでアルドステロン症のような症状を呈することから、これを偽性アルドステロン症という。
アルドステロン症であれ、その偽性であれ、カリウムを捨ててナトリウムを貯める形になる。ナトリウム(塩っ気)と水はだいたい連動して動くものだから、アルドステロン過剰によって体のなかに水もたまりがちになる。
結果、血管内の水分増量により高血圧、間質の水分増量により浮腫、という症状が現れることになる。

多量摂取で毒性が出るからといって、それが危険な物質だとは限らない。
醤油や酢にさえ、致死量があるぐらいなんだ。
「適量なら薬、摂り過ぎれば毒」
この性質はほとんどの物質に当てはまりそうな気がする。
甘草もその一つだ。
こんな論文があった。『肝臓病治療におけるグリチルリチン酸』
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4052927/
要約
「グリチルリチン酸(GA)は甘草の根に含まれるトリテルペングリコシドである。GAは甘草の根に含まれている最も重要な活性成分で、広範囲の薬理学的・生物学的活性を持つ。
GAは、グリチルレチン酸、18βグリチルレチン酸とともに、肝臓疾患に対する抗炎症、抗ウィルス、抗アレルギー作用のある成分として、主に中国および日本で研究が進んだ。
本レビューでは肝臓病に対するGAおよびその派生物の生物学的活性をまとめたものである。
GAの薬理学的作用には、肝細胞のアポトーシス(自死)、ネクローシス(壊死)の抑制、抗炎症および免疫調整作用、抗ウィルス作用、抗腫瘍効果などがある。
本論文は医師およびGAを研究する生物学者に有益な参考資料となるだろう。」

本文には、たとえば抗炎症作用がどのような機序で生じるのか(IL6やTNFαを介してどうのこうの)などが詳しく書かれている。
甘草研究の集大成、と言いたいぐらいによくまとまったレビューだ。
ただ、こういうのは専門家が読むのはいいけど、一般の人が読むには内容が固すぎるかもしれない。

安保徹先生が著書のなかで、甘草について言及している。
一般の人にもわかりやすい切り口なので、紹介しよう。
まず、グリチルリチンの構造式をご覧ください。

何となくステロイドホルモンの構造式に似ている。
甘草の摂り過ぎでアルドステロン症が起こるのは、こういう構造式の類似を見れば腑に落ちる感じがする。
正常マウスの腹腔内にグリチルリチンを投与しても何も起こらないが、G-CSFを投与して顆粒球増多を誘導したマウスにグリチルリチンを投与すると、この顆粒球増多が消失する。
どういうことか、分かりますか?
顆粒球が増えているということは、交感神経の緊張状態、「闘争か逃走か」のモードになっている。そういう状態が、グリチルリチン投与によって緩和されたということだ。
これは人の実験でもデータがあって、顆粒球増多のある胃潰瘍患者にグリチルリチンを投与すると、顆粒球の値が正常化し、潰瘍も消失した。
逆に、リンパ球過剰状態にある人にグリチルリチンを投与すると、リンパ球の正常化が見られた。
つまり、顆粒球の多い人とは逆の反応が見られた。グリチルリチンは交感神経の緊張している人、副交感神経の緊張している人、両方に有効ということだ。
どのようにしてこんな薬理作用が生じるのだろうか。
グリチルリチンの構造式を見れば、約半分の側鎖が-OHや=Oで酸化し、残りの半分が酸化からフリーの状態になっている。
白血球分画は、自律神経系のレベルと相応しているが、自律神経系のレベルは生体における酸化還元反応のレベルでもある。
エネルギーを消費する(生体内物質の酸化)状態が交感神経刺激であり顆粒球増多を招く。逆に、エネルギーを蓄積する状態、つまり生体内物質の還元(生体内物質から酸素を奪う)反応が副交感神経を刺激し、リンパ球増多を誘導する。
つまり甘草は、酸化促進状態にある人(顆粒球優位、交感神経緊張状態)からはその側鎖で酸素を奪い、還元促進状態にある人(リンパ球優位、副交感神経過剰)にはその側鎖の-OHや=Oで生体を刺激している。
こうして、結果として、白血球や自律神経の偏りを正常化するわけだ。
甘草が多くの漢方薬に配合されている秘密はこのあたりにあるようだ。

2019.1.28

「月に取材した和歌は無数にある。
月の満ち欠けに権力の栄枯盛衰を重ねたり、『あなたを初めて見たのは月の美しい夜でした』といった具合に、月を心象風景として使ったり。
しかし不思議なことに、星を愛でる歌はほとんどない。
当然、千年前の日本の夜空に星が輝いていなかったわけではない。それどころか、電気が普及した現代とは比較にならないほど、漆黒の夜空を美しく彩っていたはずだ。
なぜなのか?なぜ、宮廷貴族たちは星を詠まなかったのか。
その理由はわかっていない。
本当だよ。一見すごく簡単そうに思えることだけど、学者にもその理由がわからない。
恐らく、かつて公家たちの間で、それは暗黙の了解だったのだろう。星はタブーであり、星の話題に触れないことは、彼らの『常識』だった。
そして常識は、わざわざ記録されない。
君たちだってそうだろう。日記を書くとして、『朝みそ汁とご飯を食って、昼にはパンを食って、夜には肉を食った』なんて、そんなこと書かないだろう?
そう、当たり前の日常は、あえて記録されない。紙の貴重な時代には、なおさらのことだ。
記録されるのはむしろ非日常、『お、これは珍しい。メモっておこう』ということが記録され、文字媒体として後世に受け継がれていく。
歴史的文献というのはそういう側面があることを、常に念頭に置いておく必要がある。
こうして、記録されなかった『常識』は、千年経つ間に自然と消滅してしまった。
千年前の人々にとって星がどのような存在であったか、もはや推測するより他ない」

高校のとき、古典の先生が言っていたこと。卒業して20年経っても印象に残っている。
一般に、あるものに気付くことは簡単でも、ないものに気付くのは難しい。
古典を研究している人が、あるときふと、気付いたんだろうね。「星の美しさを詠む和歌って、皆無じゃないか」と。
月のことはあれだけ礼賛するのに、星のことは完全にスルー。言われてみれば確かに不思議だ。
そもそも太陰暦を使っていた頃は、月は夜空に浮かぶカレンダーそのもので、農耕民や漁師にとって極めて実用的なものだった。
かつ同時に、ファンタジーをかき立てる存在でもあって、月から来たかぐや姫の物語なんていうのも千年前に書かれている。

西洋は、日本とは反対に、月よりも星を愛でる文化だ。
星で未来の吉兆を占おうとする占星術も西洋由来だし、「何座?」って聞かれたときにたとえば「しし座」とか「かに座」とかって答える、ああいう黄道十二星座も西洋文化のたまものだ。
ミシュランの三ツ星とか、格付けに星を使うのもそういう文化の名残と言えなくもない。
医学との関連で言えば、現代の病院に欠かすことのできないMRIやCTさえ、実は星の研究が土台になっている。
非常に巨大で、かつ極めて遠くにある物体を造影する天文学の技術を細胞に応用することで、癌細胞を可視化することができないだろうか。
この発想をもとに、開口合成の原理を応用して開発されたのがCTであり、MRIだった。

理科の動画がyoutubeにたくさんあって、最近よく見ている。
物理や化学、生物は得意だけど、地学は中学生以降全然勉強していないので、月の満ち欠けとか惑星の運行とか、小学生を対象にした動画であっても、すごく勉強になって楽しい。
さて、問題です。
月と星、地球から見て、距離的に身近なのはどっち?
圧倒的に月が身近です。
星にもいろいろあるけど、たとえばベテルギウスは地球から640光年離れている。
光年というのは、光が1年間に進む距離だ。
一方、月と地球の距離は、38万km。光年で言えば、0.00000004光年=1億分の4光年。
つまり、地球と月の距離は、地球と星の距離に比べれば、ほとんど誤差程度、ゼロに等しいぐらいの距離だ。
星は、とてつもなく遠い。ベテルギウスから、今、この瞬間に放たれた光が地球に届くのは、640年後ということだ。
ベテルギウスは星としての寿命を迎えつつあるというから、すでに500年前に死んでいて、僕らが見ているのは死後の光だと考えることもできる。
理論上、1000光年離れた星から、極めて精度の高い望遠鏡で地球を見たら、平安時代の日本が見えるはずだ。
かつての公家たちがなぜ星をそんなに忌避したのか、その理由も垣間見えるかもしれない。

シアナマイド

2019.1.27

アルコール依存症の激しい飲酒欲求に対して、ナイアシンが著効する。
ホッファー先生の成し遂げた大発見の一つである。
しかし栄養療法の存在を知らず、一般の病院を受診すればどうなるか。
恐らく、抗酒薬の処方を受けることになるだろう。

抗酒薬は、シアナマイドかノックビン(成分名:ジスルフィラム)が使われることが多い。
違いとしては、シアナマイドは液状で即効性があること、ノックビンは粉末で遅効性だがその分効果が長く続くことだ。
作用機序は同じようなもので、どちらもアルコール分解酵素(アルデヒド脱水素酵素)を阻害する。
酒が飲める人と飲めない人の違いは、アルデヒド脱水素酵素の活性の違いだから、この薬はまさに、体を強制的に「下戸」にする薬だ。
個人的な印象としては、ノックビンよりもシアナマイドが処方されることのほうが多いと思う。シアナマイドは1日1回服用だから、「禁酒の誓い」として毎朝これを飲み「今日も一日断酒、頑張るぞ」と、ちょっとした儀式的な意味合いを持たせることができる。そういう点が好まれて、ノックビンよりシアナマイドが多く使われているのかもしれない。
しかし意外なことに、シアナマイドはアメリカで販売されていない。ノックビンだけ。なぜなんだろうね。だから、シアナマイドの効能についての論文でアメリカ発のはほとんどない。

アルコールというのは、本来微生物の生み出した有害産物である。
しかし適量だと酩酊による快感を楽しむことができて、人との友好関係を深めるツールとして大昔から利用されてきた。
しかし長期間大量摂取すれば、体は大きなダメージを負う。
しかも失うのは健康だけじゃない。
家族や社会からの信頼、仕事、収入、財産、地位、名誉。アルコールは、全てを奪っていく。
「俺は病気だ」本人も自覚している。しかし、それでもなお、酒がやめられない。
涙を流しながら、酒をあおっている。
AA(断酒会)の場には、こういう「底つき体験」をした人がたくさんいて、僕は勤務医時代、彼らの体験談を聞いてきた。

彼らのほとんど全員が、何らかの形で抗酒薬を飲んでいた。
アルコール性肝硬変で、主治医から「このまま酒を続ければ、間違いなく死にます。命をとるか、酒をとるか、どうしますか」と迫られた結果、命を選択し、抗酒薬の服用を始める。
主治医の言っていることは間違っていないと思う。
ただ、この主治医先生、抗酒薬よりもベターなチョイスであるナイアシンの存在を知らないことに加えて、実は抗酒薬自体が肝臓にあまりよくないことも知らない。

論文を紹介しよう。
『シアナマイド関連性アルコール性肝障害〜一連の組織学的評価』というタイトル。https://onlinelibrary.wiley.com/doi/pdf/10.1111/j.1530-0277.1995.tb01616.x
要約をざっと訳すと、、
本論文は我々の知る限り、慢性的なアルコール使用とシアナマイドの服用、その両者の組み合わせによって引き起こされる肝疾患の組織病理学的な進行を追跡したものである。29人のアルコール依存症者(シアナマイドによる治療を受けながらも再飲酒してしまったことがある患者)に対して、肝生検を2回行い、標本を採取した。
シアナマイドは肝細胞内に擦りガラス様封入体(GGIs)を生じさせた。
GGIs病変が増加しているか減少しているかによって、患者群を2つに分けたところ、この振り分けはシアナマイドの投与期間および無投薬期間によって決まっていることが明らかになった。
第1群は14症例からなり、彼らはGGIsが2回目の生検標本でのみ見られたか、あるいは1回目に比べて2回目の生検標本でGGIsが増加していた人々である。
第2群は15症例からなり、彼らは1回目、2回目、いずれの生検標本でもGGIsが見られなかったか、あるいは2回目の生検標本で1回目よりGGIsが減少していた人々である。
第1群では、5症例(33%)が2回目の生検標本で好酸性体が増加していたが、第2群では増加は全く見られなかった。
門脈炎症の重症度は、第1群の10症例(71%)で増悪したが、第2群で悪化したのは2症例(13%)だけだった。線維化の進行具合については両群で違いは見られなかった。
これらの違いは、両群の1日のエタノール摂取量および再飲酒期間の長さによっては説明できない。シアナマイドで治療を受けたアルコール依存症者が再飲酒すると、シアナマイドとアルコールが相乗的に悪影響を及ぼし、GGIsの出現とともに、好酸性体や肝門脈炎症の増悪を引き起こすのである。

中島らもは抗酒薬を飲んでてもなお、酒を飲み続けた。
上記の論文によれば、アルコールとシアナマイドの相乗毒性が出て、肝臓には最悪の飲み方だった、ということになる。
こんな飲み方をしてしまうぐらいなら、抗酒薬はむしろ飲んではいけない。
そもそもシアナマイドは、アルコールという毒物の代謝能力を阻害するわけだけど、弱くなるのがアルコールに対してだけかというと、そんな保証はどこにもない。肝臓のデトックス能力自体を落としてしまう可能性もある。
中島らもと、この前亡くなった勝谷誠彦氏は共通点が多い。どっちも尼崎出身で、どっちも灘高で、どっちもうつ病で、どっちも酒で才能を潰して、そして致命的なことに、どっちもナイアシンのことを知らなかった。
ナイアシンで救える命がある。
シアナマイドより、まず、ナイアシンでしょうに。

NSAIDs

2019.1.27

『NSAIDs誘発性小腸障害におけるミトコンドリア障害』というタイトルの論文をご紹介します。https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3045683/
要約をざっと訳します。
小腸内視鏡を使った近年の研究によって、NSAIDs(低用量アスピリンも含む)が高頻度で小腸への障害を引き起こすことが明らかになった。
NSAIDsによる小腸粘膜障害の機序には、腸内細菌、サイトカイン、胆汁など、様々な要因が関連している。
実験によって、NSAIDs誘発性小腸障害の発症には、ミトコンドリア障害およびシクロオキシゲナーゼ阻害が原因であることが示されている。
ミトコンドリアとは有機体のエネルギー産生において中心的役割を果たす小器官である。多くのNSAIDsは直接的にミトコンドリア障害を引き起こす。
NSAIDsによってミトコンドリアの膜に『ミトコンドリア透過性転移孔』と呼ばれる巨大なチャンネルが開き、これによって酸化的リン酸化の非共役化が起こる。
胆汁酸や腫瘍壊死因子αもこの透過性転移孔を開大させる。
透過性転移孔の開大によって、ミトコンドリア基質からシトクロームCが細胞質へ流出し、これを機に一連のカスケードを経て、細胞死に至る。
つまり、こうしたミトコンドリア障害は、粘膜のバリア機能を破壊し、小腸粘膜の透過性が亢進し、結果、NSAIDs誘発性小腸粘障害のプロセスが進行する。
NSAIDs誘発性小腸障害の予防や治療の有効な手立ては未だないため、今後のミトコンドリア研究の進展が待たれる。

NSAIDs誘発性小腸障害の予防?
簡単だよ。
使わなければいい。それだけの話じゃないか。
現代医学は、簡単な話をムダに複雑化させているだけだ。
「NSAIDsは頭痛や生理痛には手放せない薬。これなしでは私、やっていけない」っていうお母さんは、この薬をすごくいいものだと思っているかもしれない。
あるいは、たかが痛み止め、たかが解熱薬、と軽く考えているかもしれない。
でも甘く見てはいけないよ。
NSAIDsによってミトコンドリアが壊れ、結果、細胞が壊れてしまう。
この論文は小腸でそういうことが起こるって言ってるんだけど、同じことは全身の細胞で起こっている。
脳で同じことが起こればどうなるか。
たとえば子供がインフルエンザで寝込んでいる。親は寝込む子供が不憫で座視するに忍びない。病院に連れて行き、医者に何とか治してやって下さい、と懇願する。高熱を下げようと考えた医者は、NSAIDsを投与する。熱は見事に下がった。
しかし一時的な解熱と引き換えに払った代償は、あまりにも大きかった。
NSAIDsは脳細胞のミトコンドリアを破壊し、引き続いて脳細胞自身のアポトーシスを引き起こし、脳浮腫、やがて意識不明となり、死亡。
でも解熱薬が原因で死亡しただなんて、医者は絶対認めないだろう。

病態としては、ライ症候群による急性脳症そのものであって、つまり、解熱薬が誘因になっていると正しく解釈する医者もいる。良心的で、よく勉強している先生だ。こういう医者は、少なくとも患者を殺さない。
しかし不勉強な医者は、「インフルエンザウィルスによる急性脳症であって、解熱薬は症状に無関係だ」と強弁するだろう。
多くの医者がこんな具合なんだ。
だから、僕は、何度でも言う。
死にたくなかったら、病院に行ってはいけない。
地雷ドクターを引いたら、マジで人生が終わってしまうよ。
高熱で苦しむ我が子に何かしてやりたい親の気持ちはわかる。でも、そういうときでも、子供に生来備わった自然治癒力を信じる、ということができないものだろうか。
水分摂取して、布団にくるまって温かくして、たくさん汗をかくこと。
結局これに勝る治療法はないんだよ。

カーナビ

2019.1.25

「東大ね、やめちゃったよ。
上司がね、理三出身の人なんだけど、どうしても合わなくて。
バカな上司が理不尽にわめいているだけならさ、まだ耐えられる。表面上へこへこ取り繕って、内心では見下していればいい。
でも頭のいい奴が、ぐうの音もでない形でネチネチと責めてくる。ど正論だから、こちらも返す言葉がない。優れた理性と腐った人間性。この組み合わせって最悪で、この二つを持ち合わせた奴に上司になられちゃ、この世の地獄だよ。
それに研究の世界ってさ、すごくドロドロしてるんだ。
研究員の功績がボスに持って行かれる、なんてことはザラにある。
ほら、本庶先生がノーベル賞とったけど、あのPD1阻害薬の研究も本庶先生じゃなくてその下で働いていた研究員の仕事でしょ。iPS細胞にしても、果たして山中先生の独創的な仕事と言っていいものかどうか、そのあたりの事情は研究室仲間には公然の秘密だろう。
研究で求められるのは、独創性よりは政治力だ。何らかの画期的な発見があったとして、それを製薬会社なんかに上手に売り込んで、しっかり金を引っ張ってくる技術。大学ではそういう政治力のほうがはるかに評価されて、学長の覚えもめでたい。
論文に名前を連ねているだけで研究員としての仕事はろくすっぽやらなくても、政治力ひとつで教授になった人もいる。
いや、それはそれでいいんだよ。何も否定しているわけじゃない。
きれいごとで研究はできない。絶対に金がいるんだ。誰かがどこかから、それを持って来なくちゃいけない。それはわかる。
でもね、何だか疲れてしまったんだ。
好奇心の赴くままに素直な気持ちで研究に打ち込んで、そこに独創性があって、それがそのまま世間に認められる、みたいな牧歌的な風景は、もはやあり得ない。
金、政治、医局内の権力闘争。
その隙間に、かろうじて細々と研究が生きている、といった具合だ。
君は薬まみれの臨床に嫌気がさして、独立開業したって言ってたね。
そのあたりのつらさもわかるよ。大学病院の場合、製薬利権のしがらみはもっと露骨で、教授の鶴の一声で使う薬が決まったりする。薬を使わない、なんていうチョイスは論外だ。
でも研究は研究で、別の種類のしんどさがあるものなんだ」

酒を酌み交わしながらの話は、やがて恋愛話に移った。
「いやぁ、仕事もさっぱりだけど、恋愛もさっぱりだよ。俺、このまま結婚できないんじゃないかな。
でも別に焦ってるわけではなくて、まぁそれも悪くないか、って思い始めてる。
やばい傾向だね。あつしもそんな感じでしょ。
色恋がないわけじゃない。
でも、実がない、というのかな、結婚とか具体的な形に結実しない、遊びみたいな恋愛ばかりだよ。
ある病院で勤務していたとき、二十代半ばのナースといい感じになった。でも彼女、すでに結婚していたから、まぁ不倫ってことだね。
東京だと人目が憚られるから横浜でデートしたり、県外にちょっとした旅行に行ったり、何かと楽しかったよ。
あるとき、彼女とドライブしてたんだけど、彼女のケータイが鳴った。『あ、ダンナからだ』っていうから、車内で流していた音楽をミュートにした。『今日?仕事だよ。遅番だから、家に帰るのは夜10時か11時くらいじゃないかな』
そのとき突然、カーナビの音声案内が鳴った。『次、左です』
そのカーナビの声は、彼女のケータイの送話口を経由して、ダンナの耳に届いたらしい。
『お前、今どこにいる!』
男の激昂する声が、俺の耳にも聞こえた。
『もちろん職場だよ。休憩中。今テレビでカーナビの場面があっただけだよ』
『違うだろう!正直に言え!』
電話越しから聞こえるただならぬ怒声と、青ざめた彼女の表情。俺もこれはさすがにやばい状況だと思った。
気軽にドライブを楽しむ空気ではないから、路肩に車を止めて、エンジンを切った。そのとき、またカーナビが余計なことを言いやがった。『ETCカードが残っています』
この声もきっちりダンナの耳に届き、ダンナの怒りは今や絶頂に達した。
『おい!どこだ!今すぐ行く!場所を言え!』
それでも彼女は、何とか状況を丸めようとした。
『ごめんね、実はね、今日は本当は仕事じゃないの。職場仲間のユイが、合コン行きたいから一緒に付き合ってって言うからさ、今ユイの運転する車に乗ってる。
合コンに行くなんて言ったら、気分を悪くすると思ったから、今日は仕事ってことにしといたの』
『じゃ、今そいつと変われ!』
『運転中だから無理だよ』
こそくな時間稼ぎでのつもりで言った彼女の言葉に、ダンナは意外にもすぐ折れた。
『そうか、わかったよ。じゃ、また後でな』
後でわかったことは、ダンナはこの電話の直後に、彼女の勤務先に電話していた。
タイミングの悪いことは続くもので、そのときユイは遅番の病棟勤務に出ていた。
電話口に呼び出されたユイは、怒気をはらむ男の声に、もはやウソをついてもムダだと悟った。
ユイはすべて知っていた。彼女とは仲が良くて、彼女が医者の俺と不倫をしていてることも知っていたし、どこかに遊びに行く言い訳に自分を使っていることも了解していた。これまで、俺との旅行とかどっかに遊びに行くとか、そういうのは全部ユイと一緒に行ってる、ということになっていた。でもそのウソが、今やすべてダンナの知るところになってしまった」

で、それからどうなったの?
「結局離婚したよ。離婚して、彼女、故郷の九州に帰っちゃった。都会に嫌気がさしたのかもしれないな」
離婚したおかげで、晴れてフリーの身、これで不倫みたいな日陰の恋じゃなくて、堂々とお付き合いできるぞ、ってならなかったの?
「ならなかったね。離婚をきっかけに、俺と彼女との関係も終わった。『あなたのせいで離婚することになった。どうしてくれるのよ。責任取ってくれる?』などと詰め寄られていたとしたら、俺もさすがに結婚していたかもしれない。
しかし、今になって当時のことを思い出すと、あの子、いろんなものを終わらせようとしていたんだと思う。
まず、そもそも、結婚相手のダンナのことがあまり好きではなかった。好きなら不倫なんてしないよね。子供もあえて作らないようにしていたっていうし。さらに言うと、俺のこともそんなに好きじゃなかったんだと思う。
彼女はそういう、いまいちパッとしない関係を清算する機会を、常に伺っていたように感じるんだ。
たとえば俺と一緒にいるときに、ケータイにかかってきたダンナからの電話に出ちゃうとかね。危険極まりないじゃないの。でも彼女にとっては、危険で大いにけっこう。何ならダンナと俺をぶつけて、二つの関係性を一気に終わらせてしまえるわけだから。
どこかそういう、破滅型のにおいのする子で、あんまり家庭的な感じの子ではなかったな。でも彼女のそういうところは、俺には何とも言えないほど魅力的だった。そもそも俺にしたところで、お付き合いしている女性の中から将来の嫁さんを探そうなんて思ってなくて、火遊びを楽しんでいる感じだから、そういう女がちょうどいいんだ。
離婚させてしまった当初は、俺も焦ったよ。とんでもないことをさせてしまった、一人の女性の人生を狂わせてしまった、と。
でも後になって冷静に考えれば、案外彼女にそういう具合に利用されていたところもあるのかな、ウィンウィンの関係性だったのかなって思ってさ。
つまらない話を延々してしまったね。
この話には、君が期待するようなオチも何もないよ。
ああ、ただね、一つ、教訓はある。
車のカーステレオをミュートにしても、カーナビの音声案内はミュートになっていない。
それが彼女との付き合いから俺が得た、とてつもなく苦い教訓だ」