「東大ね、やめちゃったよ。
上司がね、理三出身の人なんだけど、どうしても合わなくて。
バカな上司が理不尽にわめいているだけならさ、まだ耐えられる。表面上へこへこ取り繕って、内心では見下していればいい。
でも頭のいい奴が、ぐうの音もでない形でネチネチと責めてくる。ど正論だから、こちらも返す言葉がない。優れた理性と腐った人間性。この組み合わせって最悪で、この二つを持ち合わせた奴に上司になられちゃ、この世の地獄だよ。
それに研究の世界ってさ、すごくドロドロしてるんだ。
研究員の功績がボスに持って行かれる、なんてことはザラにある。
ほら、本庶先生がノーベル賞とったけど、あのPD1阻害薬の研究も本庶先生じゃなくてその下で働いていた研究員の仕事でしょ。iPS細胞にしても、果たして山中先生の独創的な仕事と言っていいものかどうか、そのあたりの事情は研究室仲間には公然の秘密だろう。
研究で求められるのは、独創性よりは政治力だ。何らかの画期的な発見があったとして、それを製薬会社なんかに上手に売り込んで、しっかり金を引っ張ってくる技術。大学ではそういう政治力のほうがはるかに評価されて、学長の覚えもめでたい。
論文に名前を連ねているだけで研究員としての仕事はろくすっぽやらなくても、政治力ひとつで教授になった人もいる。
いや、それはそれでいいんだよ。何も否定しているわけじゃない。
きれいごとで研究はできない。絶対に金がいるんだ。誰かがどこかから、それを持って来なくちゃいけない。それはわかる。
でもね、何だか疲れてしまったんだ。
好奇心の赴くままに素直な気持ちで研究に打ち込んで、そこに独創性があって、それがそのまま世間に認められる、みたいな牧歌的な風景は、もはやあり得ない。
金、政治、医局内の権力闘争。
その隙間に、かろうじて細々と研究が生きている、といった具合だ。
君は薬まみれの臨床に嫌気がさして、独立開業したって言ってたね。
そのあたりのつらさもわかるよ。大学病院の場合、製薬利権のしがらみはもっと露骨で、教授の鶴の一声で使う薬が決まったりする。薬を使わない、なんていうチョイスは論外だ。
でも研究は研究で、別の種類のしんどさがあるものなんだ」
酒を酌み交わしながらの話は、やがて恋愛話に移った。
「いやぁ、仕事もさっぱりだけど、恋愛もさっぱりだよ。俺、このまま結婚できないんじゃないかな。
でも別に焦ってるわけではなくて、まぁそれも悪くないか、って思い始めてる。
やばい傾向だね。あつしもそんな感じでしょ。
色恋がないわけじゃない。
でも、実がない、というのかな、結婚とか具体的な形に結実しない、遊びみたいな恋愛ばかりだよ。
ある病院で勤務していたとき、二十代半ばのナースといい感じになった。でも彼女、すでに結婚していたから、まぁ不倫ってことだね。
東京だと人目が憚られるから横浜でデートしたり、県外にちょっとした旅行に行ったり、何かと楽しかったよ。
あるとき、彼女とドライブしてたんだけど、彼女のケータイが鳴った。『あ、ダンナからだ』っていうから、車内で流していた音楽をミュートにした。『今日?仕事だよ。遅番だから、家に帰るのは夜10時か11時くらいじゃないかな』
そのとき突然、カーナビの音声案内が鳴った。『次、左です』
そのカーナビの声は、彼女のケータイの送話口を経由して、ダンナの耳に届いたらしい。
『お前、今どこにいる!』
男の激昂する声が、俺の耳にも聞こえた。
『もちろん職場だよ。休憩中。今テレビでカーナビの場面があっただけだよ』
『違うだろう!正直に言え!』
電話越しから聞こえるただならぬ怒声と、青ざめた彼女の表情。俺もこれはさすがにやばい状況だと思った。
気軽にドライブを楽しむ空気ではないから、路肩に車を止めて、エンジンを切った。そのとき、またカーナビが余計なことを言いやがった。『ETCカードが残っています』
この声もきっちりダンナの耳に届き、ダンナの怒りは今や絶頂に達した。
『おい!どこだ!今すぐ行く!場所を言え!』
それでも彼女は、何とか状況を丸めようとした。
『ごめんね、実はね、今日は本当は仕事じゃないの。職場仲間のユイが、合コン行きたいから一緒に付き合ってって言うからさ、今ユイの運転する車に乗ってる。
合コンに行くなんて言ったら、気分を悪くすると思ったから、今日は仕事ってことにしといたの』
『じゃ、今そいつと変われ!』
『運転中だから無理だよ』
こそくな時間稼ぎでのつもりで言った彼女の言葉に、ダンナは意外にもすぐ折れた。
『そうか、わかったよ。じゃ、また後でな』
後でわかったことは、ダンナはこの電話の直後に、彼女の勤務先に電話していた。
タイミングの悪いことは続くもので、そのときユイは遅番の病棟勤務に出ていた。
電話口に呼び出されたユイは、怒気をはらむ男の声に、もはやウソをついてもムダだと悟った。
ユイはすべて知っていた。彼女とは仲が良くて、彼女が医者の俺と不倫をしていてることも知っていたし、どこかに遊びに行く言い訳に自分を使っていることも了解していた。これまで、俺との旅行とかどっかに遊びに行くとか、そういうのは全部ユイと一緒に行ってる、ということになっていた。でもそのウソが、今やすべてダンナの知るところになってしまった」
で、それからどうなったの?
「結局離婚したよ。離婚して、彼女、故郷の九州に帰っちゃった。都会に嫌気がさしたのかもしれないな」
離婚したおかげで、晴れてフリーの身、これで不倫みたいな日陰の恋じゃなくて、堂々とお付き合いできるぞ、ってならなかったの?
「ならなかったね。離婚をきっかけに、俺と彼女との関係も終わった。『あなたのせいで離婚することになった。どうしてくれるのよ。責任取ってくれる?』などと詰め寄られていたとしたら、俺もさすがに結婚していたかもしれない。
しかし、今になって当時のことを思い出すと、あの子、いろんなものを終わらせようとしていたんだと思う。
まず、そもそも、結婚相手のダンナのことがあまり好きではなかった。好きなら不倫なんてしないよね。子供もあえて作らないようにしていたっていうし。さらに言うと、俺のこともそんなに好きじゃなかったんだと思う。
彼女はそういう、いまいちパッとしない関係を清算する機会を、常に伺っていたように感じるんだ。
たとえば俺と一緒にいるときに、ケータイにかかってきたダンナからの電話に出ちゃうとかね。危険極まりないじゃないの。でも彼女にとっては、危険で大いにけっこう。何ならダンナと俺をぶつけて、二つの関係性を一気に終わらせてしまえるわけだから。
どこかそういう、破滅型のにおいのする子で、あんまり家庭的な感じの子ではなかったな。でも彼女のそういうところは、俺には何とも言えないほど魅力的だった。そもそも俺にしたところで、お付き合いしている女性の中から将来の嫁さんを探そうなんて思ってなくて、火遊びを楽しんでいる感じだから、そういう女がちょうどいいんだ。
離婚させてしまった当初は、俺も焦ったよ。とんでもないことをさせてしまった、一人の女性の人生を狂わせてしまった、と。
でも後になって冷静に考えれば、案外彼女にそういう具合に利用されていたところもあるのかな、ウィンウィンの関係性だったのかなって思ってさ。
つまらない話を延々してしまったね。
この話には、君が期待するようなオチも何もないよ。
ああ、ただね、一つ、教訓はある。
車のカーステレオをミュートにしても、カーナビの音声案内はミュートになっていない。
それが彼女との付き合いから俺が得た、とてつもなく苦い教訓だ」