院長ブログ

田代まさし

2019.11.7

田代まさしの逮捕をマスコミが報じている。9年ぶり5回目の逮捕、ということで、ニュースとして特に新味はなく、多くの人が「ああ、またか」という印象を持ったことだろう。
NHKの番組で自身の失敗談を語ったり、YouTubeで自分のチャンネルを持つなど、世間への露出も徐々に増えていただけに、今度こそはちゃんと復活した様子があったが、やはり覚醒剤の恐ろしさは甘くなかった。

勤務医時代、アルコール依存やギャンブル依存の治療に関心があって、ダルクの講演会を何度か聞きに行ったが、演者に田代まさしが来たことがある。
「今、目の前に覚醒剤と吸引器があれば、どうするか。間違いなく、やります。ノーという自信はない。僕はまだ立ち直っていません。立ち直る途中なんです」
露悪的に言っているのではなく、自分の弱さを認めるのが強さ、みたいな文脈でそう語ったのだけど、その口調に妙に確信があって、あのときすでにやっていたのかな。

田代まさしはかつて売れっ子タレントだった。日本が空前の好景気に沸いたバブル時代に、テレビのレギュラー番組を何本も抱えていて、CMの出演本数も数え切れない。
ゴールデンタイムの番組でスポットライトを浴びる人気者で、どこに行ってもファンからちやほやされる。口座に振り込まれる金は、桁を数えるのに難渋するほど。
そんな黄金時代を経験している彼だから、芸能界への未練はあるはずなんだ。もう一度立ち直って、志村けんとコントをやりたい。
それなりの実力はあるし、芸能界へのコネクションもある人だから、彼は一度の失敗では終わらなかった。芸能界は再び彼を迎え入れた。しかし目をつぶるのは、せいぜい2、3回まで。再犯を繰り返すにつれ、助けの手を差し伸べる人はいなくなった。

ある雑誌のインタビューで、こんなやりとりがある。
記者「なぜ、やめられないんですか?薬物依存は自己責任で、強い意志さえあれば立ち直れる、とはならないんですか?」
田代「意志だけでやめられるんだったら、みんなやめてるよ。クスリの快感はね、もうハンパじゃない。覚醒剤を打った瞬間にものすごい量のドーパミンが出て、これ以上ない幸せが一瞬にして全身にめぐっちゃう。
芸能界の華やかなステージに立っている瞬間よりも、何よりも、気持ちいい。俺は芸能界を捨ててまでクスリに走った。何不自由なくいい生活をして、幸せな家庭があって、、、俺、けっこういいところにいたんだよ?それでもクスリはやめられない。
あのさ、芸能界でポッと出て一回売れるのはけっこう簡単なんだよ。一発屋とかいっぱいいるじゃん?でも、ずっと人気を維持して活動を続けるのってすごい難しいのよ。今まで何年もやってきて、毎日おもしろいこと言わなきゃいけないってことになってきて、それでだんだん疲れてきたの。そのときに、元気になるのありますよ、って言われちゃって、、、」

ここには正直な告白があると思う。
これまで築き上げてきたもの、すべてがどうでもよくなるくらいの覚醒剤の強烈な快感。売れっ子でい続けることのしんどさ。
この人は、根は素人なんだと思う。素人が、テレビで何度かおもしろいことを言って、ウケた。ヒットを何本か打っただけで、実力に不相応な人気が出てしまった。期待には答えたい。でも、自分には笑いの素養があるわけじゃない。漫才もやらないし、落語で腕を磨いたわけでもない。
素人に毛の生えた程度の実力しかなかった。その実力相応のところに落ち着いて、細々とやっていけば、芸能界にそれなりの居場所はあっただろうに。クスリに逃げるんじゃなくて、もっと別の身の引き方があっただろうに。

松本人志がこんなことを言っていた。
「自分はクスリは絶対に使わない。そもそも笑いというものが、人をハイにする麻薬みたいなものでしょう?本物の麻薬使っておもしろいことを言おうとするって、芸人として根本的に間違っている。人を笑わせて、自分がハイになる。それが芸人のあり方でしょ」
プロだね。長く第一線を張っている人は、やっぱりわかってる。

そもそも、クスリになんて手を出さないこと。まず、ここが初手。
しかしいったん使ってしまうとその後は、日頃のストレスだとか心の弱さ、みたいな話は吹っ飛んでしまう。覚醒剤の強烈な依存性という、純粋に生理的な問題と向き合うことになる。
覚醒剤の作用の凄まじさは、経験者に聞くのが一番わかりやすい。
“歌のお兄さん”杉田あきひろ「梅干しを見ると、つばがわくでしょう。あれと同じ。普通の人が白い粉を見ても何とも思わないけど、僕ら経験者が見ると、脳からよだれが出る。鳥肌が立って、性的快感の百倍強烈なあの快感が、欲しくてたまらなくなる。よく逮捕された人が、二度と手を出しません、と言うでしょう。あれは嘘。一度覚醒剤を使えば、脳の構造が変化している。目の前に差し出されたら、使わないわけがない」
某暴力団関係者「覚醒剤をセックス目的で乱用する人は多い。男の場合、長時間行為に没頭できるようになり、女は感度が格段に上がる。
耳かき一杯程度のシャブで2、3時間はセックスできる。快感が普段の何千倍にもなって、自分の場合は性器を触られるだけで、全身の毛穴から精液が放出されるような気持ちよさだった。もう死んでもいいと何度も思った」

「脳からよだれが出る」「全身の毛穴から精液が出る」「もう死んでもいい」
経験者がそれぞれの表現で、覚醒剤の快感を語っている。
こんな経験者の声を聞けば、「危ないな。使うのはやめておこう」じゃなくて、「いっぺん試してみたいな」と思ってしまうじゃないか(;゚Д゚)
しかしその快楽はあくまで一瞬の火花であり、それと引き換えに「人生」を差し出すことになる。
恐ろしいことだ。一度好奇心でやってみるには、代償があまりに大きすぎる。
松本人志は薬物に頼らずとも、「笑い」でハイになっている。人間はこうあるべきだと思う。つまり、外からの薬物摂取でハイになるのではなく、何かに熱く生きることで自前の脳内ホルモンを分泌してハイになる。この「何か」を見つけることだな。
ただし、僕の場合はバックギャモン以外で^^;

バックギャモン2

2019.11.7

「いやぁ、あっちゃん。前回の院長ブログはひどいよ。大嘘書いてるじゃないの。
バックギャモンに一時期ハマってたけど今は封印してる?将棋で我慢?
ウソもたいがいにしなよ!今、現に、バックギャモンにドハマりしてるじゃないか!それで全然ブログの更新もしなくなっちゃったじゃないか!
もうね、完全なバックギャモン廃人だよ。あのさ、依存症の人の治療とかも、あっちゃんするわけでしょ?
全然説得力ないよね。だって、医者本人がバックギャモン中毒なんだから。これって、ギャンブル依存症そのものでしょ。
頼むよ、あっちゃんのブログ、楽しみにしてる人もいるんだよ。あっちゃんにしか書けない記事とか情報発信があるんだからさ、ちゃんと立ち直ってよ。
もうさ、テーマは健康のことじゃなくても、何でもいい。とにかく、ブログを書きなよ」

言ってくれる人がいるというのは幸せなことである。
そう、ふとしたきっかけで、またバックギャモン熱に火がついた。以来、隙間時間を見つけては、延々サイコロを振っている(オンライン対局だから、正確には『サイコロをクリックしている』のだが)。
つくづく思うのは、このゲームの中毒性である。
 本 当 に 、 こ の ゲ ー ム は ヤ バ い 。
おもしろすぎるのである。
診療に影響は出ていない。仕事はしっかりやっている。課金してるわけではないから、金銭的に損失があるわけでもない。
『バックギャモン廃人』とはおもしろい表現だが、決して廃人ではない。基本的には、いつもと変わらない自分のつもりである。
ただ、診療以外の時間、つまり生活の余白すべてを、バックギャモンに捧げている。当然ブログにまわすエネルギーと時間はない。

しかし、親身な友人の言葉で僕も反省した。確かに、度が過ぎていると思う。
今日できっぱり、バックギャモンをやめよう。
友よ、大丈夫。心配ない。やめようと思えば、いつでもやめられるんだ(←依存症者の常套句´Д`)。
僕は仮にも精神科医で、心のプロである。悪習の断ち切り方、つまり、半ば習慣化した常同的な行動のやめ方はわかっている。

こういうときは、メタ認知が重要である。
ハマっている自分をきちんと意識する。なぜバックギャモンがこんなにおもしろいのか分析し、要素に分解する。対象から目を背けたり、ハマっている自分を見まいとするのではなく、むしろしっかり見つめて、原因に切り込むことだ。

日本史を習った人は、「賀茂川の水、双六の賽、山法師」という白河院の三不如意を覚えているかもしれない。
そう、強権をふるった白河法皇にさえ、サイコロの目はどうにもならなかった(歴史上の人物もバックギャモン中毒だったかと思うと、他人の気がしない^^;)
しかし、賽運のなすがままかというと決してそうではなく、高度な戦略によって勝ちを呼び込めるのがバックギャモンの魅力だ。
ビルダーをどう配置するか。どのタイミングでバックマンを逃がすのか。堅実に行くのが吉か。欲張るのがベターか。
「ここで4が出ればっ、、相手のブロットにヒットして、、大逆転っ・・!!」ざわざわざわ、と、カイジみたいに熱くなる ゚Д゚
作戦が当たって大勝ちすることもあれば(『ギャモン勝ち』という)、逆に、相手の策略にはめられて負けることもある。
負ければ腹立たしいことこの上ないが、勝ったときの興奮がたまらない。この興奮を求めて、「もう1ゲーム」「もう1ゲーム」と止まらなくなる。

ドストエフスキーの『賭博者』は、明らかに作者の経験が反映された作品である。
あの世界的文豪も、「カイジ的ざわざわ」の魔力に憑りつかれていた。
この本によると、ギャンブルは賭博場だけにあるのではなく、そもそも人生自体がギャンブル的なんだ。
ちょっとしたフラストレーションがあって、ドキドキがあって、その結果に一喜一憂する感覚的報酬。
この構造は、ギャンブルの骨格であると同時に、人生の構造そのものでもある。
たとえば恋愛。愛の告白、うまくいくだろうか。
たとえば仕事。上司へのプレゼン、うまくいくだろうか。
報酬の喜びを目指して、ドキドキを抱えながら未知へ飛び込む。ギャンブルに興じる心は、人生を切り開く意欲と根っこは同じなんだ。
子供の頃を思い出すといい。遊びでさえ、ギャンブルだ。
かくれんぼ、鬼ごっこ、缶けり、泥警、、、
どの遊びにも、「うまいこといくかな」のドキドキがあって、成功したり失敗したりする。

構造をもっとクリアにまとめると、こういうことだ。
問題(ルール)→試行(思考も含む)→結果の開示(報酬あるいは損失)
「ドキドキして、たまにうまくいく」
この射幸心の快感こそが、ギャンブルの骨子である(ギャンブル的報酬)。
それとは別に、バックギャモンのネット対局で言えば、勝つたびにコインが貯まっていく快感もあるし(コレクション的報酬)、勝つときの効果音や光の点滅(体感的報酬)もある。

RPG形式のオンラインゲームも、敵との勝ったり負けたりがあり(ギャンブル)、アイテムが増えていき(コレクション)、仲間のプレイヤーと連帯したり(体感)、という感じで、結局報酬のパターンはすべてこの三つに集約されるのではないか。
ゲーム制作者は人間のこういう依存性をよく知っていて、ハマる工夫を随所に散りばめているはずだ。

だとすれば、逆に、僕らが習慣化したい行動を意図的にギャンブル化することで、新しい習い事の三日坊主を脱却できるのではないか。
たとえばジム通い。体を鍛えるということは、基本的には苦痛だから、なかなか続かない。しかし、ボディビルの大会に参加したり(勝つか負けるかわからないギャンブル)、毎日太くなる腕を観察したり(コレクション)、純粋に体を動かす喜びを味わったり(体感)して、つまり、しっかり報酬を意識することで、継続する可能性が上がると思う。

そういう意味では、このブログを書くこと自体、ギャンブルに似たところがある。
僕の書いていることが読者に伝わるかどうかわからない。わかってくれる人もいれば、反発する人もいるだろう(ギャンブル)。
毎日書き続ければ、過去の文章という形で残っていく。「文を書くということは、恥をかくということだ」と確か開高健のエッセーにあって、僕もこの点にまったく同意で、僕は恥ずかしくて昔書いた自分の文章が読めないのだけど^^;、ともかく、たまっていく(コレクション)。
思考を文章に落とし込んで、そして、ブログとして公共の視線にさらす。頭の内側を見られるようで、こんなに恥ずかしいことってない。でも、文章を紡ぎ出す最中はけっこう本気になっている。書き終えた後には、それなりの高揚感があったりする(体感)。

「ブログを書くことがギャンブル的?けっこうなことじゃないか。それならバックギャモンやめて、ブログ書きなよ」
うむ、しかし植木等がこうも言っている。
わかっちゃいるけどやめられない、と(←あかんやん)。

バックギャモン

2019.11.1

将棋の森内俊之は「天才のなかの天才のなかの天才」と言われているんだけど、この意味、わかりますか?
まず、棋士になる時点で、文句なしに天才。
全国から集まる将棋少年のなかでも、奨励会(プロ棋士養成機関)に入れるのはごく一部。
奨励会のなかで互いに切磋琢磨して、勝ち星を重ねた人が初段、二段と昇進し、地獄の三段リーグを勝ち抜けば、晴れて四段(プロ棋士)となる。
四段になれるのは、年にわずか4人だけだ。
東大生は毎年三千人ほど生まれていることと比較すると、東大に合格するよりはるかに狭き門である。「いや東大受験者数とは母数が違うし、求められるものが全然違う」と言われそうだけど、棋士がトップレベルの頭脳を持っていることは間違いない。
故米長邦雄の言葉に「兄貴はバカだから東大に行った」というのがある。棋士の自分のほうが東大の兄より格上、と言いたいのだろう。米長らしい下品な言葉だね。でも、事実の一面は含んでいると思う。
→だから、まず「天才」。
プロ棋士は、順位戦を始め、様々な棋戦に参加する。棋士にとっての名誉は、そうした棋戦での優勝、特にタイトルを手にすることだ。
将棋のタイトルは、名人、竜王、棋聖、王位、王座、棋王、王将、叡王の8個ある。
現役で活躍するプロ棋士は160人ほどいて、そのなかでもタイトルホルダー(あるいはタイトル経験者)は30人ほど。
ほとんどの棋士はタイトルに縁のないまま、棋士人生を終えることになる。
タイトルをとるということは、天才がひしめく将棋界にあっては、並みの天才には不可能な偉業なんだ。
→つまり、タイトルホルダー(あるいはタイトル経験者)であるということは、「天才のなかの天才」。
さらに、タイトルには「永世」称号がある。永世を名乗る資格は各タイトルによって異なるが、たとえば「永世名人」は名人位を通算5期獲得した棋士に与えられる。
永世竜王、永世棋聖など、「永世」を名乗る資格のある存命中の棋士は、6人しかいない。森内俊之はこの6人のうちの一人で、永世名人有資格者である。
→つまり、「天才のなかの天才のなかの天才」。

しかしこの森内九段、2017年にフリークラスへの転出、および順位戦からの引退を表明し、ちょっとしたニュースになった。
順位戦を引退するということは、他の棋戦には参加できるものの、セミ・リタイヤを意味する。
46歳という若さなのにもったいない、という声がある一方、順位戦でA級から陥落するなど、黒星が増えていたのも事実だった。
加齢に伴う棋力の衰え、台頭する若手、永世名人という称号の重さなど、いろいろな外的・内的要因があったのだと推察する。
そこらのありきたりな棋士ではなくて、地位も名誉もある一流棋士である。しかしそのせいで「純粋に将棋を楽しんで指す」ということができなくなったんじゃないかな。
背負うものの大きさゆえの葛藤。僕はこういうプレッシャーとは無縁のへぼ将棋でよかった笑

さて、最近、この森内九段の息子がニュースに出ていた。
『森内俊之九段の息子、森内貴之さんがバックギャモン世界選手権ジュニアの部門で優勝』

バックギャモンをご存じですか?
僕は人生の一時期、これに激ハマりしていた。ネット対局で世界中の人と対戦していた。
もともと凝り性だから、何かに夢中になると猛烈にハマる、というところはある。
しかしバックギャモンのおもしろさは中毒的だ。ソリティアにハマっていたこともあるけど、バックギャモンのスリルに比べれば退屈な時間潰しに過ぎない。
バックギャモンにハマるのは僕だけではなく、数千年前の人も同じだった。
すでに古代エジプトやメソポタミアでプレーされていたし、日本でも大和朝廷がこれを賭博として禁止していた。
禁止する側の気持ちはよくわかる。仕事そっちのけでハマったり、財産を潰してしまう人もいたに違いない。

バックギャモンを知らない人のために簡単に説明すると、要するに、すごろくゲームだ。
サイコロを投げて、15個の駒を進めていく。相手より早く全部の駒をゴールさせれば勝ち。
細かいルールがいくつかあって、それがこのゲームに戦略性を与えていておもしろいんだけど、一番熱い(そして中毒性を高めている)のは、「ダブル」のルールだと思う。
ゲームの途中で優勢を意識した側が、相手に「ダブル」を提案する。相手がその提案を「テイク」すれば、勝った側が得られるポイントが倍になる。「パス」すればその時点でゲーム終了で、提案した側が1点勝ちになる。ゲームの流れがまた変わって、提案された側が再度「ダブル」を提案すると、勝ち点がさらに2倍、つまり当初の4倍になる。また提案のやり返しで8倍になったり、どんどん増えていく。つまり、勝ち点が倍々に膨らんでいく。

これは丁半ばくちのような雰囲気があって、熱くならないわけがない。
しかしバックギャモンは、運を天に任せるような完全他力の賭博では決してない。知性と戦略性が求められるゲームだ。
たとえば僕が森内九段と将棋で対局しても、勝つことは絶対にない。天地がひっくり返ることがあり得ても、素人がプロ棋士に勝つことはあり得ない(元奨励会員を素人と呼ぶ場合を除く)。
しかし僕がバックギャモンの世界チャンピオンと対戦するとなれば、1パンチ入ることは普通にあり得る。バックギャモンは、運の要素も強いからだ。
だから、バックギャモンは通常、一発勝負ではない。何ポイント先取というスタイルで、複数回ゲームを行う。複数回やれば、実力差が如実に現れる。
森内九段の息子がバックギャモンの世界大会で優勝した、とのニュースを見て、さすが天才の息子は天才だな、と思う。
戦略性と勝負勘、そして運、この三つを持ち合わせていないと、世界は獲れない。競技は違えど、勝負師の血をしっかり受け継いでるんだろうね。

運の要素があって、ときには強い人にも勝ててしまうのがバックギャモンの魅力だけど、僕はあえてこのゲームには近寄らないように決めている。
理由は、単純に、おもしろすぎるから。ハマると診療にまで悪影響が出ると思う。
おもしろすぎて危険だ、と自覚しているから、あえて遠ざけているんだ。
仕事を引退して余生を過ごす年齢になれば、バックギャモンざんまいの日々を過ごすのも悪くないが、それまではお気楽な将棋で我慢だな。

小麦2

2019.10.25

勤務医の頃、統合失調症患者で、牛乳を毎日2パック飲む人を見たことがある。
多飲水は、精神科医には見慣れた症状で、それの牛乳バージョンかなと思った。コーラなどの清涼飲料水をバカ飲みする人も珍しくない。
多飲の背景に、食物アレルギーがある可能性もある。
食物アレルギーと聞けば、皮膚にブツブツができたり、呼吸が苦しくなったり、というイメージを思い浮かべるかもしれない。確かにそれが一般的な症状だが、少数ながら、「原因物質への惑溺」という症状が現れる例もある。
アレルギーの原因食材を、病的なほど大量に摂取する。本人にもなぜかわからない。もうとにかく、それが欲しくてたまらない。「過食症などの摂食障害は、食物アレルギーの結果ではないか」と考える先生もいて、臨床をやっていればその説に説得力を感じる。

「統合失調症は古今東西、発症率はだいたい一定で、100人に1人、つまり1%程度である」と医学部で教えられる。しかしこの説にはまったく根拠がない。
「統合失調症の発症率には、地域差、時代差が、明らかに存在する」そして、「その発症には小麦の摂取が大きく影響している」このことをデータで以って示したのが、
カーティス・ドーハン(1907〜1991)である。
第二次大戦中、食料不足でパンの入手が難しかった時期、フィンランド、ノルウェー、スウェーデン、カナダ、アメリカでは、男女とも統合失調症による入院数が減少したが、終戦後小麦の消費量が増えるにつれ入院数が増大したことを彼は示した。
さらに、同様のパターンはニューギニアの狩猟採集民にも見られた。西洋の影響を受ける前には、統合失調症の発症率は0.003%(住民6万5千人あたり2人)だったが、西洋の食習慣が浸透し、小麦製品やトウモロコシを常食し、大麦由来のビールを飲むようになると、統合失調症の発症率は65倍に跳ね上がった。
こうした事実に注目したドーハンは、小麦と統合失調症の間に相関があるという仮説を立て、その証明に乗り出した。
60年代半ば、フィラデルフィアの退役軍人病院に勤務していたドーハンは、入院患者の食事から完全に小麦を除去してみた(この研究は患者らに一切通告せずに行われたため、今の基準からは倫理的に相当問題があるが、そこはひとまず置くとして)。
すると、小麦を抜いて4週間経つ頃には、入院患者の全員で症状(幻覚、妄想、幻聴、自閉など)の改善が見られた。
そこで再び患者の食事に小麦を戻すと、症状はまた元に戻った。再び小麦を抜くと、また回復した。もう、あからさまにコロコロ変わる。結果は誰の目にも明らかだ。

ドーハンはこの結果を論文にまとめた。この論文を見たイギリスのシェフィールド大学の精神科医が追試をしたところ、同様の結果が得られた。以後も各所で追試が行われ、なかには統合失調症が完全寛解した症例報告さえあった。
たとえばデューク大学の医師によると、「53年間にわたって幻覚・妄想に悩まされ、何度も自殺未遂をしていた70歳の統合失調症女性が、8日間の小麦断ちで寛解した」という。
こうした報告により、ドーハンの仮説はすっかり立証された形となった。

ドーハンの論文を一本あげておこう。
『再発性統合失調症患者〜牛乳・穀物抜きの食事による急速な回復』
https://www.cambridge.org/core/journals/the-british-journal-of-psychiatry/article/relapsed-schizophrenics-more-rapid-improvement-on-a-milk-and-cerealfree-diet/FFC577948B95FFF692F341A8AF71407E

しかし、みなさん、「統合失調症の人は小麦を控えましょう」なんて話、聞いたことがありますか?
ないでしょう。なぜ、ないと思いますか?
情報統制が行われているからです。「そんなことは教えるな」と、当局からしっかりブロックされています。
僕ら医師も「小麦を断てば統合失調症が治る」なんて習いません。医師さえ、事実を教えられていないんです。一般の医学教育を学んだところで、患者を真に救える医療なんて、実践できるわけがないんです。
笑っているのは、食品業界と製薬業界だけ。小麦製品や乳製品が売れてウハウハ。病人が増えて薬が売れてウハウハ。この2つの業界のマッチポンプで、医者の役割はこのポンプの回し役。
イヤな世の中だよねぇ。

参考:『小麦は食べるな』(ウィリアム・デイビス著)

小麦

2019.10.25

体調が悪い人には、「甘いもの、小麦製品、乳製品はいったんやめましょうね」と言うようにしている。
でも、どれだけ本気になるかは本人次第だし、
「甘いものって、精製した白砂糖はダメだとしても、黒砂糖や蜂蜜は多少いいですよね?」とか、
「小麦がダメってことですけど、精製した穀物がダメなんですよね?じゃ、全粒粉のパンはいいですよね?」とか、
「プロテインもダメですか?ホエイプロテインは牛乳から作ってるわけですけど、有害なカゼインは抜いてあるので大丈夫ではないですか?」とか聞かれると、真っ正面から組み合わないで、
「そのあたりは、ご自身の判断に任せます。自分の体ですから、体に聞いてみてください」と何となくボヤかすようにしている。

「甘いものを食べられない人生なんて地獄だ」と思ってる糖質依存症者に完全な甘いもの断ちを強いるのは酷な気もするし、「何十年も朝食にパンを食べ続けてきた」という人にパン一切禁止といえばアイデンティティが揺らいでしまうかもしれない。プロテインで体調が改善した人も実際にいるだろう。

つまり、僕には確かなことなんて、何も言えない。だから、確信を持って何かを強制したりはしない。
ただ、助言するだけ。それを容れるか容れないかは、本人次第だ。
もちろん助言はエビデンスに基づいている。エンピリック(僕の臨床経験)に基づいたものも多少はあるけど、ごく一部だ。

小麦の有害性に関してはエビデンスは無数にある。学術論文をここに引用してもいいのだけど、今回はお固いのはやめて、一般向けの書籍を参考にしよう。
小麦(およびパン)の危険性を告発する本はたくさんあって、ざっとこういうのがある。

なかなか壮観な眺めである。
本のタイトルは内容のエッセンスになっているものだから、少なくともこれだけの著者がパンの危険性を告発しているわけだ。
ただし、刺激的でキャッチーなタイトルをつけて部数を伸ばしたい出版社の意向もあるから、そのあたりは割り引いて見る目も必要だけど。

一番上の本『小麦は食べるな』は翻訳書で、原題は”Wheat Belly”、直訳するなら『小麦腹』という感じだ。アメリカとカナダで130万部以上を売り上げた本だが、この直訳のタイトルでは日本で売れにくいだろう。
この本、実際に読んでみた。

「小麦は世界で最も破壊された食材であり、諸病の源である」というのが著者の最初の言葉であり、結論でもある。
なぜそう言えるのか?
すでに遺伝子組み換えの大豆やコーンが流通して僕らのテーブルに上っていることは多くの人が知っているだろう。しかし、遺伝子組み換え小麦はまだ一般に流通していないのではないか、と思われるかもしれない。
しかし小麦は、20世紀後半に大幅な品種改良が行われた。これは遺伝子組み換えではなく、交配によるものだった。学者の間には、なぜか「交配による品種改良は安全」という神話がある。そのため、動物実験も人体への安全確認の試験も行われることなく、この新種が市場に流通することになった。
この背景には、あの巨大な力が働いている。ロックフェラーだ。

そもそもの事の始まりは1943年、ロックフェラー財団の協力のもと、国際トウモロコシ・コムギ改良センター(IMWIC)が設立されたことである。「今後予想される人口増加による世界的飢餓から人々を救うため」というケチのつけようのない目標を掲げた組織で、品種改良を通じて病気、日照り、高温、除草剤に対する耐性を高め、収穫量を増やす研究が精力的に行われた。

実は収穫量を上げること自体は簡単で、大量の窒素肥料をまけばいい。そうすると、小麦の先端に巨大な種子が実る。この事実は古くから知られていた。しかし、実った種子の重さで茎が折れて収穫に差し支えるし、下手をすれば枯れてしまう。
様々な試行錯誤の末、ついに、茎が短く太い矮小小麦が開発された。
この新種はアメリカはもちろん、中国、インドなど世界中に広まり、今や世界中の生産量の99%以上を占めている。そして、小麦の生産量は1960年代から90年代にかけて、ざっと10倍に増えた。

交配によって生まれた新種が無条件に安全だというのは危険な思い込みだ。新品種の小麦に発現したタンパク質を、二つの親の品種と比較すると、子品種のタンパク質の95%は親と同じだが、5%は二つの親いずれとも異なる、というのが農業遺伝学の示すところである。
特に、グルテンの構造は交配によって大幅に変化する。ある交配実験では、二つの親品種にはない14種類の新しいグルテンが子品種に存在することが示された。さらに、百年前の品種と比べてみると、現代の小麦にはセリアック病に関連するグルテンの遺伝子量が多いこともわかっている。

2日間に渡って著者自身が行った実験が挙げられている。
1kgの全粒ヒトツブコムギ(古代小麦)をひいてパンを作った。現代小麦のように成形しやすくはなく、作りにくいが、パン生地のにおいが非常に芳しく、ピーナッツバターのように濃厚だった。味はずっしりとした木の実のような味で、渋い後味があった。
実験1日目、この自作のパン100gを食べる。食前の血糖値は84 mg/dl。食後の血糖値は110 mg/dl。炭水化物を食べた後の標準的な値である。吐き気、眠気、痛みなどの症状もなかった。
2日目。現代の有機栽培の全粒小麦粉で、同様の手順で作ったパン100gを食べた。食後血糖は167 mg/dlと高く、しかもひどい腹痛と吐き気を生じた。胃のむかつきは36時間続いた。夜は鮮明な夢をいくつも見て、何度も目が覚めた。翌朝は頭が働かず、読むつもりだった研究論文が理解できなかった。同じ段落を4、5回読んでも理解できず、ついにあきらめた。1日半経って、体調はようやく回復した。

この実験結果には深く共感する。僕もパンを食べると、そういう具合にあからさまに調子が悪くなるからだ。ナチュラルハウスっていう、有機栽培の食材をメインに置いた店のパンであっても、調子が悪くなる。「おかしいな、ものはいいはずなのに、なんでだろう」って思ったけど、何度食べても調子が悪くなるものだから、認めざるを得なかった。パンは僕には無理なんだな、と。
これは僕だけじゃなく、多くの人にも言えると思う。
つまり、、、
もう、そもそもの小麦の品種からしてダメになっているわけだから、全粒粉だからオッケーとか有機栽培だからオッケーとか、そういう話ではなくなっている、ということだ。
悲しいけど、それが小麦の現実なんだ。