ナカムラクリニック

阪神・JR元町駅から徒歩5分の内科クリニックです

2020年3月

奇跡のリンゴ

2020.3.5

『奇跡のリンゴ』で有名な木村秋則さんは、これまで不可能と考えられていたリンゴの有機栽培(無農薬、無肥料栽培)に世界で初めて成功した。
きっかけは、リンゴに散布する農薬によって妻の体調が悪化することだった。「人の体をこんなにダメにする農薬を撒いたリンゴが、果たして健康的と言えるのか」
そこから、リンゴの有機栽培目指す木村さんの挑戦が始まった。
数年間あらゆることを試みたが、しかし、何をやってもうまくいかない。
憔悴しきった木村さんは、真剣に自殺を考えて、地元の山に登った。
首をくくるのに手頃な太さの木を探しているとき、ふと、立派なリンゴを実らせる木が目についた。
奇妙だ。山奥の、誰も世話をしていない木である。農薬は肥料はもちろん、下草さえ刈っていない。それなのに、なぜ虫に食われないのだろう。
そこで木村さん、ハタとひらめいた。
「誰も世話をしていないのに、ではない。誰も世話をしないおかげで、農薬もなしにこんなに育つんだ」
結局、人為の卑小さこそ、すべての元凶だった。
収穫量を上げるために、化学肥料をまく。なるほど数年のうちは、それでうまく行くだろう。しかし結局土は瘦せ衰え、もはや肥料なしでは立ち行かなくなる。肥料の”毒”を吸った果実は、病害虫にも弱い。結果、大量の農薬が必要になる。
そう、まず根本は、土からだ。
土の回復を待つこと数年。ついに、リンゴの有機栽培に成功した。

この話は極めて示唆に富む。何もリンゴ栽培に限ったことではないだろう。
よく実る健康的なリンゴの木を育てることと、生き生きと健康的な体を育むことは、相似図形のような照応がある。
リンゴに散布する農薬や化学肥料は、人間でいうところの、抗菌薬などの様々な薬剤である。どちらも対症療法に過ぎず、根本的な原因に何らアプローチしていない。

勤務医時代の先輩のことを思い出す。娘がひどいアトピーで、同じ病院の皮膚科に通わせていた。ステロイド、プロトピック、ヒルドイドなど、何を塗っても全然よくならない。内服のステロイド、抗ヒスタミン薬も飲むが、効かない。皮膚を一日中搔きむしる。寝ているときさえ、掻いている。学校なんてとても行けない。
「ステロイドなんて塗ってても一生治らないですよ」と、言ってあげるべきだっただろうか。しかし、そんな”本当のこと”を言って、西洋医学の誇りを不用意に傷つけるのもはばかられる。他ならぬ自分の娘から、自分の実践する医療の矛盾を突きつけられることを、彼はどう受け止めるだろう。
結局、僕は無視を決め込んだ。わざわざ言うてあげるほど、優しくないんよね。

何をやってもリンゴが虫に食われる木村さんと、何をやっても娘のアトピーが治らない僕の先輩の姿は、似通っている。
人為の浅はかさに気づき、自然の力を信じることが、まず第一歩である。
西洋医学は、人間の自然治癒力を信じない。体を「救いようのないバカ」と考える。ステロイドで痒みを抑えてやらなくてはいけない。抗菌薬で細菌を殺してやらねばならない。糖尿病薬で血糖を、降圧薬で血圧を、スタチンでコレステロールを、下げてやらなくてはならない。
こういうアプローチでは、健康という果実は永遠に実らないだろう。

そう、木村さんはリンゴの有機栽培に成功した。この成功は書籍化され、映画化され、一応世間にも知られている。しかし、恐らく世間一般の人の認識は「ふーん、すごいね」程度だろう。
木村さんの成し遂げた功績の偉大さを一番認識しているのは、ロックフェラーである。彼らは木村さんの提唱する農業スタイルが普及することを、大げさではなく脅威だと思っている。
農業への介入。それこそが、彼らの世界支配のとっかかりである。農薬のみならず、医薬をはじめとする石油製品が不要であることが露見しては、彼らの計画が頓挫しかねない。木村さんの提唱する自然農法は、手法としても、また、その思想としても、彼らにとって看過するわけにはいかない。

さて、ロックフェラーが危険視する当の木村さんは、実に、飾らない人柄である。別段偉ぶるわけでもない、自然体の人である。
嘘のない人だから、自分の経験したことは素直に、さらりと言う。
高校生のとき、時間が止まり、巨大な龍が現れ、その龍と会話を交わした。
しょっちゅうUFOを目撃し、そればかりか、宇宙人にUFOの中へ連れて行かれ、そこで宇宙人から、UFOの動力源のこと(ボブ・ラザーの証言と一致する)や、もうすぐ世界が終わることなど、様々なことを聞いた。

自然農法に成功し、その普及を目指す人である。その木村さんが、そういう”トンデモ”系の話をすることには、メリットがない。それどころか、下手をすれば、自然農法の評判自体にも傷がつきかねない。「リンゴの有機栽培に成功した人って、頭おかしい人らしいじゃない」と。

木村さんはUFOのなかで、カレンダーの整理をしている人(人というか、神かもしれない)を見た。そのカレンダーは、1年あたり畳一枚ほどの大きさで、木村さんはその整理作業を手伝った。ふと、ある年代以降のカレンダーがないことに気付いた。「これ以降のカレンダーはないんですか?」と尋ねると、「ああ、もう必要ないからね。人類が終わるから」

あけすけに何でも語る木村さんだが、この終末年、カレンダーがいつ終わるのかについては、決して語らない。「2、3年ということはない。ただ、決して遠い先というわけでもない」と言葉を濁すのみである。
柔らかい人柄の木村さんだが、芯の強さは常人離れしている。言わないと決めたことは、どんな脅しをかけられたって絶対言わない。
ところが最近、高野誠鮮さんらと一緒に酒を飲んでいるときに、酔った勢いでポロッと言ってしまったという(ちょっと!木村さん!^^;)。

残り12年。
干支が一周するほどの時間である。
農業肥料による亜酸化窒素が気球温暖化を推し進め、結果、各地で異常気象が続発し、食料をめぐって紛争が勃発する。
自然農法は日本生まれである。岡田茂吉に始まり、福岡正信が継承し、木村秋則が再度復活させた。龍の国日本が、今こそ立ち上がらないといけない。
「もう時間がない」木村さんもそういう危機感があって、あえて意図的にポロッと漏らしたのかな。

『地球カレンダーの残りの枚数 温暖化の本当の原因 』

休校

2020.3.4

フェイスブックで広くシェアされている記事。
後追いのようだけど、僕もシェアしたい。

子供からすれば、2,3日くらいの休みなら、「ラッキー」ってなもんだが、こんなにがっつり長期の”休校”となっては、「ちょっと待ってよ」という感じだろう。
特に、それぞれの学校の最終学年(小学6年生、中学3年生、高校3年生)は、もうすぐ卒業する学校で過ごす最後の日々だった。それがいきなり「明日から学校は休み」となって、そのまま卒業となる。

残り少なくなったお菓子は、いとおしみながら食べるものである。
生徒たちも、終わりが見えてきた学校生活を、どうやって楽しもうかと思いながら過ごしていた。
「普段あまりしゃべったことのない同級生。もうすぐ卒業となれば、一生会うこともないかもしれない。でも魅力的な奴だと思っていて、卒業の前に、機会があればもう少し親しく話しておきたい」
「内心密かに好意を寄せていた異性。卒業後は、お互い違う進路に行くことになる。同じ教室で過ごす最後の日々。愛の告白、なんていう大げさなことはしない。でも、もう少し話してみたい」
そういう思いは、すべて断たれた。
休校である。「学校を休んでもいい」ではない。むしろ、「学校に行くな」である。
下級生はまだいい。4月以降、恐らく学校生活が再び始まるだろう。しかし最終学年は、「もう終わり」である。

こんなふうに学校生活が終わる、というのはどういう感じだろうか。
野球で言えば、急遽、8回で終了。サッカーで言えば、後半30分時点で終了、という感じだろうか。
なるほど、多くの試合は大勢が決しているだろう。しかし最後まで分からないのが試合であり、しかもドラマは、しばしば最後に起こるものである。
2時間ものの推理ドラマを最初の90分だけ見て、残りのどんでん返し30分が映像の不具合で見れないとなればどうなるか?残るのは、不完全燃焼の思いだけだろう。

学校が休校だということは、塾業界が繁盛する、と予想していた。学校で学ぶことができない子供たちは、塾に行って勉強するだろう、と。
しかし塾関係者の話によると、塾でも授業ができないようなんだ。
「子供をコロナウイルスに感染させないための休校なのに、塾がそういう国の意向を無視して、子供たちを集めて授業をやっていては、もしもそこでウイルス感染なんかが蔓延したときには、塾としては責任が取れない」
別に法律的な強制ではないようで、あくまで塾側の自粛、ということのようだ。
むしろ、進学塾に子供を通わせている父兄としては「通常通り授業をして欲しい」という要望も根強い。
高い授業料を払っている。家にいたらゲームばかりして勉強できない子供だから、塾まで休校にされてはかなわない。
そういう親の気持ちもわかるが、塾側としては万が一ウイルス感染が発生したときのリスクが怖く、結局自粛、という傾向が強いようだ。

混乱したのは学校の生徒ばかりではない。先生のほうも同じである。
大学時代の同級生のお母さんが小学校の先生をしているが、今年度で定年が決まっていた。
最終学年の生徒たちが残りの学校生活を噛みしめて過ごすように、この先生もまた、長い教師生活の最後を、いとおしむように過ごしていた。
それが休校という形で、突然の終了である。
「児童の感染リスクを避けるため」という理屈は、頭ではわかっている。
しかし、である。こういう形の終わり方しか、他になかったものか。そういう思いが拭えない。

ウイルスの流行ということで、外出を自粛する向きが多いようだ。
僕がよく行くバーのマスターも「コロナのせいで、最近の客入りはさっぱりです。ちなみに、完全にとばっちりですけど、コロナビールの売り上げも落ちてます」と笑っていた。
当院の患者来院数もいつもより少ない。
「病院に行くことはウイルス感染の最大のリスク」と考えるべきで、そう思うと客足の鈍りは歓迎すべきことである。
さりとて、僕も一応商売なので、ずっとこの傾向が続くのもなぁ。。。

アサイゲルマニウム誕生50周年2

2020.3.4

前回に続き、アサイゲルマニウム誕生50周年記念の特別インタビューから。

深澤肇医師
「アサイゲルマニウムとの出会いは37年ほど前。岩手医大で講師と病棟医長をしていたときのことです。
上顎に悪性黒色腫ができた患者がいました。腫瘍径が3 cmぐらいで、ステージ4。手術するとなると、顔の大部分をとらないといけない。
こういうときには、BCGワクチンで免疫力を高めておいてから抗癌剤を使うBCG免疫療法をして、腫瘍が小さくなってからオペをする。
この患者も腫瘍はだいぶ小さくなった。でも、やはりというべきか、肝臓とかあちこちに転移して、痛みと全身の黄疸が出てしまった。
そういうときに、ある縁で、浅井ゲルマニウム研究所のことを知りました。
当時は癌となれば3か月は入院。仮に退院できても、ほとんどは再発して戻ってくる。でも、BCG免疫療法を受けた症例では、そんなに簡単に再発・転移しない。
でもこの悪性腫瘍の患者のような例もある。この人にゲルマニウムを使ってみたところ、非常に経過がいい。免疫系が活性化して、癌の進行を止めているようだ。
それで思ったんですね。「そもそも、BCGやピシバニール(抗癌剤)を使わなくても、ゲルマニウムで治ってしまうのではないか?」と。それから、だんだんゲルマニウムだけを使うようになりました。

浅井先生の本『ゲルマニウム讃歌』のまえがきに、こういう言葉があります。
「ハーバード大学の教授が『我々人類がこれまで用いていた薬を、いっさい海に投じたとしたならば、我々人類は確かに、今日よりずっと幸福になったであろう』と書いている」
なるほど確かに、その通りだと、この一節が気に入りましたね。
薬は副作用が大変。薬害がひどいわけだよね。高血圧でも糖尿病でも骨粗鬆症でも、飲み続けたらどうにかなっちゃうような薬ばかりでしょ。
その点、副作用がないのがアサイゲルマニウムのいいところだよね。

アサイゲルマニウムがもっと、おおっぴらに使えるようになってほしい。薬にするのは難しいだろうから、サプリメントでもいいから、広く使ってもらえるといい。もっと宣伝してもいいんじゃないかな。
癌に限らず、大手術をする前にゲルマニウムを使うことには意味があるし、そもそも癌にならないための予防的なサプリメントという考え方は、当然あっていいと思うよ。
ゲルマニウムアはなるべく飲み続けるのがいい。休んだり減らしたりしてもいいけど、バタッとやめてしまうのはよくない。
量は多くなくてもいいから、毎日飲み続けると長生きできると思うよ。」

酒井良介医師
「僕はゲルマニウムと出会う前から、漢方薬の効能に注目していました。娘が漢方薬にずいぶん助けられたので。浅井先生にもそのいきさつを話したことがあります。
漢方に使う薬草には、ゲルマニウムが入っていますからね。僕は昔は神経質だったけど、ゲルマニウムを飲み始めてから、そういう気分がなくなった。
浅井先生の本に、『私のゲルマニウムは薬ではない』と書いてある。薬には必ず副作用があるけど、ゲルマニウムは相当飲んでも害がないし、いくら飲んでも中毒にならない。
ゲルマニウムはサプリだけど、何にでもいい。病気になって病院に行くとお金がかかるから、結局ゲルマニウムを飲んで健康維持に努めることが、一番安上がりだと思う。
僕は医者にも歯医者にもかかったことはない。ここまで病気しないでこられたのは、ゲルマニウムのおかげ。
これを証明するために、僕が見本になって、130歳くらいまで生きようと思っています(笑)実現する見込みは、絶対にある(笑)多くの人に飲んでもらいたいと思う」

そう、漢方薬のよさというのは、結局、有機ゲルマニウムのよさである、とも言える。
柔軟な医者であれば、有機ゲルマニウムのよさに気付く。「自分が処方している毒みたいな薬より、どう考えたって有機ゲルマニウムのほうが優れている」と。
しかし医者において、「認識が行動を変える」という定理は成り立たないのが普通である。
つまり、医者は「わかっちゃいても、毒みたいな薬を出し続ける」のである。
これはもう、根本にある医学部の教育システムが変わらない限り、どうにもならないと思う。
『難病の新薬は1回2億円超 「財政を圧迫」説は本当か』
https://www.asahi.com/articles/ASM9C5FP2M9CULZU01D.html
1回打つのに2億円かかる抗癌剤がアメリカで承認された。アメリカに追随するのがいつものパターンだから、日本でも近々承認されるだろう。
こんな高い薬でも、自己負担はせいぜい百数十万円ぐらいじゃないかな。
このままだと、保険医療が破綻しないわけがない。厚労省の役人は、当然わかっていると思う。わかっていても、抵抗できない。
もはやグローバル企業の圧力の前に成す術もなくて、ノーと言えないんだろうね。

縁あって、この記事を読まれた人に伝えたい。
癌になれば、高額な抗癌剤よりは、まず、有機ゲルマニウムを!
抗癌剤のような副作用がありませんし、値段も多分、2億円よりは安いと思います^^

アサイゲルマニウム誕生50周年1

2020.3.4

株式会社浅井フーズクリエーションの社史は、以下のように始まる。
『1967年浅井一彦、水溶性の有機ゲルマニウム「アサイゲルマニウム」を創製』

1967年に生まれたアサイゲルマニウムは、2017年、50歳を迎えた。
この年、アサイゲルマニウム誕生50周年を記念して、特別インタビューが組まれた。
生前の浅井博士と親交のあった医師や、臨床でアサイゲルマニウムを使用している医師に取材が行われたが、そのうちのひとりに、岡澤美江子医師もいた。

岡澤美江子医師
「45年ほど前、朝日新聞の記者の方が自然気胸にかかりました。肺が破れてしまう病気です。治療法は特にありません。穿刺や吸引などの処置をしたり、オペをしたり、ということもないわけではありませんが、基本は安静です。この記者さん、縁あって浅井先生とお会いして「だまされたと思って俺についてこい」と言われ、ゲルマニウムを服用しました。効果はてきめんで、命拾いをされました。すっかり元気になって仕事をしているという話を、記者さんと同じ新聞社に勤めていた私の兄から聞きました。興味が出て、その記者さんを紹介してもらい、浅井先生のお住まいに伺うことになりました。
忘れもしません。1972年4月14日のことです。この日は、私の第二の誕生日です。第二の人生の始まった日だと思っています。この日の先生との出会いがあったからこそ、その後多くの患者を救うことができ、そして長生きしている自分があると思っています。
先生のお宅でお話を伺っているうちに、「ゲルマニウムを使えば、今私が診ている患者はみんなよくなるに違いない」と思って興奮しました。生まれ変わったような気持になって自宅に帰り、今さっき出会った浅井先生のことを母に話すと、母が一番最初に飛びついてきました。「私もゲルマニウムを飲んでみたい」と。
母は幼い頃にひどい中耳炎にかかり、それ以来片方の耳が聞こえませんでした。しかしゲルマニウムを飲みだして半年ほど経ったときに「聞こえない方の耳で、子供の声がにぎやかに聞こえるようになった」というのです。母の喜びと浅井先生への感謝の思いは途方もないもので、居ても立ってもいられない母は、先生に感謝の手紙や短歌を何度か送りました。その短歌のひとつは、先生の著書『ゲルマニウム讃歌』にも引用されています。

浅井先生はいろいろな人や組織から邪魔をされたりだまされたりと、大変な苦労をされました。あるとき電話でお話をしていて「もうゲルマニウムを扱えなくなるかもしれない」といつになく弱気にこぼされました。私は「困ります。ゲルマニウムがダメになったら、一番先にダメになるのは私の母です」と言いました。母はゲルマニウムを、文字通り、拝んで飲んでいましたから。一週間後くらいにまた電話があって「お母さんに心配はかけません。悪と戦います」と。本当にいいもの、真に人を救うものを作った先生が、賞賛を受けるどころか、様々な攻撃を受けておられました。
浅井先生の成し遂げた仕事は本当にすばらしいと思います。

アサイゲルマニウムは、薬ではありません。薬には副作用がつきものですが、ゲルマニウムにはそういう症状はありません。
薬だなんて思うと、調子がよくなったら飲まなくてもいいような気がしますけど、そもそも薬ではないのです。毎日たくさん飲む必要はありません。ただ、具合の悪いときに少しだけ飲んで「全然効かないじゃないか」となっても困ります。調子が悪いときは中途半端ではなくしっかり飲んで、よくなれば減らす、という具合でいいと思います。
「なんだ、あんなもの」なんて言う人は放っておくことです。縁がある人は、きちんと飲んで、救われていきます。実際に使ってみると効果を実感するから、とりこになるんですね。そういう人ばかりです。
何はともあれ、自分の命を大切にすることです。私にとってアサイゲルマニウムは、心の糧であり、命の泉です。これを飲み続けていれば、永遠に生きてゆけるのではないかしら(笑)いつまで生きるか、自分の体で実験ですね」

岡澤先生は今年の8月で99歳を迎える。
クリニックはすでに閉院されたが、月一回、別の場所で患者からの相談や唾液検査の依頼に応じている。
つまり、今なお現役のお医者さんということだ。

そう、岡澤先生が言われるように、本当に”縁”だと思う。
マスメディアの発達以前は、「人を介して」「口コミで」ということが、縁のつなぎ場だった。その後、新聞、雑誌、ラジオ、テレビと、縁の形は多様化した。
今や、縁の供給源として最大のものは、インターネットに違いない。こうやって、ブログに書き込む僕の情報発信があなたに届いているのも、ひとつの縁だろう。

しかし、縁というものは、単なる情報との接触ではなく、心と心の通い合い、だと思う。
というのは、僕のクリニックに通ってくれている患者さんに「この人にはきっと効くだろうな」と僕のほうからゲルマニウムを勧めても、「いや、それはちょっと」とお断りされることがしばしばある。
こういうときは、僕もあえて強く勧めない。ただ、「まだの人なんだな」と思うだけだ。
縁は、単なる情報ではない。機が熟して、気持ちが通じ合ってこそ、つながりが生まれる。
これは千年前だろうがネットの時代だろうが、同じことだと思う。

アホとバカ

2020.3.3

以前のブログで、アイヌの模様や沖縄シーサー、沖縄の塩(ぬちまーす)にはよからぬ霊を遠ざける力がある、と書いた。
どちらも、日本の北と南、両極であることがおもしろいと思った。

北と南、今は端っこである。しかし、かつては、端っこではなかった。ずっと昔、彼らは、つながっていた。
何を言っているか、わからない?
これから説明していこう。

昔、探偵ナイトスクープで、こんな依頼があった。
「関西では人を罵倒するときに、『アホ』と言います。しかし、東京では『バカ』と言います。
一体、この『アホ』と『バカ』の境目は、どのあたりになるのでしょうか?」
この一見単純な依頼は、しかし民俗学的に極めて重要なテーマを含んでいた。当初は誰も気付かなかったが、一バラエティ番組が扱うにはあまりにも巨大なテーマだった。
このあたりの経緯は『全国アホ・バカ分布考―はるかなる言葉の旅路』(松本修 著)に詳しいので、ここでは立ち入らない。
ただ、結論だけいうと、このテーマを深く掘り下げた松本修氏は、最終的にはその研究成果を学会発表し、各方面から賞賛を受けることになった。
それは、柳田国男の方言周圏論の正しさを見事に裏付ける研究だった。
方言周圏論というのは、一言でいうと、この図である。

かつて千年間にわたって、この国の都は京都にあった。
京都で起こった文化(衣食住にまつわる文化、学問にまつわる文化、はやり言葉など)が、全国に広まっていった。従って、文化の波及は、都を中心とした同心円状の広がりを見せる。
この理論の直接的な証明はできないが、現在各地に残る様々な文化の痕跡を追いかけることで、理論の正しさを傍証することはできる。
たとえば、方言である。
カタツムリを表すのに、最も離れているはずの東北と九州で「ナメクジ」と同じ表現を使い、比較的遠い中国と信州で「カタツムリ」と同じ表現を使う、といった具合である。

この理屈を、『アホ』と『バカ』に当てはめると、『バカ』は『アホ』よりも古い時代に使われていたはずである。
『バカ』という表現に飽き足らなくなってきた若い人たち(言葉の流行を作るのは、いつの時代もしばしば若者である)が、『アホ』と言い始めた。
古い『バカ』は周辺(九州、関東)に波及し、新しい『アホ』は関西にとどまっている。しかし明治以降、情報発信の中心が東京に移ったことで、京都を中心とした文化の波及は終息した。

実は方言周圏論は柳田の独創ではない。1872年ヨハネス・シュミットが提唱した「波状伝播説」を日本に適応したものである。
また、すべての言葉が周圏的に分布するわけではない。柳田自身、晩年には「あれはどうも、成り立つかどうかわかりません」と懐疑的になっていた。
しかし彼の死後6年後に刊行された『日本言語地図』では、「牝馬」「もみがら」など、調査した言葉のおよそ27%に周圏分布が見られた。

理屈ではなくて、「何となく似ているな」の直感から、学問が始まったりするものだ。
岡山出身の友人が、名古屋の大学に進学してそこで暮らし始めた。岡山と名古屋。全然違うはずである。
しかし、何か、似ている。言葉、料理の味付け、町の雰囲気。
北海道出身者が、寒い地元に嫌気がさして、真逆の沖縄に移住した。すべてが違うかと思いきや、何か似ている。
皆、酒が強い。顔の彫りの深さに、妙に親近感が沸いたりする。

アイヌと琉球の類似に初めて気付いたのは、日本人ではない。お雇い外国人のベルツである。
明治時代に日本に招聘され、東大医学部で教官を務めた彼は、1911年に論文を発表した。
「かつて本州で狩猟採集の生活を行っていた縄文人(アイヌ人、琉球人とも)は、頭蓋骨の分析から、小さい丸顔で彫りが深い点が共通している。
一方、約3000年前に渡来して稲作をもたらした弥生人は、北方寒冷地に適応していたため、顔が平たく長い傾向がある」、とベルツは指摘した。
つまり、彼によれば、弥生人が縄文人の間に「割って入った」のである。そして彼らを国の両端に追いやった。

北海道、東北に、また、九州、沖縄に酒豪が多い、という研究。
共通しているのは、アルコール分解酵素のタフさというただひとつの遺伝子だけと、限定して考える必要はない。
現代にはDNA分析という武器がある。この手法の強力さには、敬服せざるを得ない。
2012年日本の研究チームがDNA分析により、アイヌ人と琉球人の遺伝的近縁性を証明した。
北と南、地理的なへだたりにもかかわらず、琉球人は本土人(弥生系)よりもアイヌ人に近いことが示されたのである。

北と南、最も遠いようでいて、実は、かつてはひとつだった。両端はかつて、つながっていた。
日本人とは何か、ということに、学問的な手法で以てひとつの解答を与えようとしているわけだけど、単なる知的好奇心を満たしてくれるだけではなくて、何か壮大なロマンを感じる。
アイヌ、琉球、どちらもアニミズムで、霊は万物に宿るとされていた。
彼らの文化が生み出した、ちょっとした小物(アイヌ帯、沖縄シーサー)にも、共通して魔除けの力があるのが、おもしろい。
まぁ、彼らからすれば、僕は「間に割って入った」弥生系の末裔ということになるんだろうけど(^-^;