院長ブログ

方針

2018.8.9

院長ブログ、書くからには、大人の鑑賞に堪えるような文章を書きたいと思っている。
読んでくれた人が、ひとつ賢くなるような、ひとつ心が豊かになるような文章。
でもそれは簡単なことじゃない。
そもそもこのブログをやっている目的は、栄養療法のすばらしさを知ってもらうことなんだけど、どの栄養素がどういう病気に効くか、ということを書くだけなら難しくない。
それだけでいいのなら、ネタは無数にある。栄養療法の有効性を示すデータは膨大で、それを1日1論文という形で紹介するだけなら、そんな文章、いくらでも量産できるだろう。
でもそんなのは事実の羅列に過ぎない。
インターネットのあるこのご時世、検索すればすぐ拾えるような情報をここに得々と並べたところで、読者は「ふーん」で終わってしまう。
栄養療法に関する知識はあくまで素材で、この素材をどのように料理して、お客さんにサーブするか。そこが僕の腕の見せ所なんだけど、毎回、生みの苦しみを味わう。
factの寄せ集めは単なる辞書で、辞書はどう頑張ったって詩集にはならない。単なる事実の提示を超えて、いかに真実にまで高めるか。
そこがうまくいけば、「おもしろいブログだね」と言ってもらえるし、失敗すれば、誰も読んでくれなくなるだろう。

「ていうかね、そもそも誰も読んでへんよ、あんたのブログなんか。自意識過剰や。
だいたい、字ぃ多すぎるねん。もっと写真多くしたり、もっと文章を短くして、誰でも気軽に読めるようにしたら?」
姉の意見。
そう、僕は質にこだわりすぎで、確かに自意識過剰かもしれない。オーソモレキュラー栄養療法なんて舌を噛みそうな言葉、普通の人にはなじみのないものなんだから、読んでくれる人には、事実の紹介だけでも十分有益かもしれない。
でも、僕の姉は本とか全然読まない(読めない)人で、読書からではなく人間関係から人生を学んでいこう、っていうスタイルの人だから、まぁ、あくまで参考意見にとどめておこう笑
分かる人にだけ、分かればいい。
僕はそう思っている。
僕がどんな文章を書こうが、姉にはまったく影響を及ぼさないけど、ある程度知的な人には、僕の言葉は確実に届く。届いた結果が、賛同であることもあれば、反発であることもあるだろう。
いずれにせよ、僕はそういう、「分かる人」に向けて、ブログを書こう。
写真と短い文章だけの、いかにもIQ低そうなブログは僕の路線ではなさそうだ。

「ブログね、毎日読んでるよ。でも、ときどき、患者の個人情報に近いような内容があるね。あれはさすがにまずいんじゃないの」
友人のありがたい意見。
そう、誤解を招くといけないので、ここではっきり言っておこう。
僕のブログに出てくる症例的なものは、すべてフィクションです。
もとになった患者は実際にいるかもしれない。
でも、当然、事実の細部は変えているし、個人の特定につながるような情報は出していない。
というか、仮に事実そのものを忠実に描写したとしても、そんなもの、警察の調書みたいに無味乾燥なものになるだろう。
ある事実のかけらに詩を感じたら、そこから想像を膨らませて、真実に近づけていく、というのが僕のやり方だから、僕の描写に合致する患者はこの世に存在しません。

医者と患者の会話に限らず、会話というものはすべて、ごちゃごちゃしてとりとめのないものだ。
文法的に間違った表現は当然あるし、自分の思いを適切に表現する言葉が見つからなくて、とりあえずこの表現で、というような言葉もたくさんある。
話の順番が違っていたり、本当に言いたいことが言えてなかったり、ということもある。
そんな具合に言葉というものは、実に、不完全なものだけど、そんな不完全な言葉で紡ぎだされた会話のなかに、ときには詩が含まれているもので、僕はそういう詩をこそ、僕の言葉でつかまえて表現したいと思う。

って、あんまりえらそうなこと言って、自分でハードル上げてもたら、それこそ文章書けなくなるなぁ笑
できるだけ毎日更新したいとは思ってるんだけど、夜に書こうって思ってたら友人が飲みに誘ってくれたりして書けなくなることもざらにあるし、単純にさぼることもある笑
もっと考察を深めたいところ、僕の力が至らず、単なる「事実の提示」に終始している文章もあるだろう。
あまり期待しないでね笑

8

2018.8.8

昔『トリビアの泉』で、「昭和33年3月3日に生まれた人は、平成3年3月3日に33歳の誕生日を迎えた」というのを見て、「へー」と思った。
昭和と平成をまたいでいるのがすごいね。昭和天皇の崩御がずれていれば成り立たないトリビアなわけだから。
このトリビアに対抗して、というわけでもないけど、僕にも同じようなネタがある。
僕は、1980年8月8日に生まれて、1988年8月8日に8歳の誕生日を迎えた。
8の連発。
そういうこともあって、8というのは、僕にとってはお気に入りの数字だ。
横に寝かせれば無限大。漢数字にすれば「八」で末広がりで縁起がいい。
化学的に見ても、オクテット則により原子の最外殻電子が最も安定するのは8個。オクターブというように、ドレミファソラシドの8個で音のワンセット。
タコは英語でoctopus、これはギリシャ語で「八本足」の意。Octoberは10月だけど、これは9月から12月までは数字が二つずれたからで、本来は8番目の月って意味だよ。
元号で言えば、昭和55年8月8日生まれ、ということで、5588という並び。これはこれできれいだ。5対8というのはほぼ黄金比だし。
中国人はゲン担ぎで8という数字を異様にありがたがる。八の発音が「発」に近くて、これには「発展」とか「富む」というプラスの意味合いがあるらしい。中国では8のゾロ目のナンバープレートとか電話番号が、高額で取引されている。
僕もこの生年月日なら、中国で生まれたほうが人生開けたかもしれんなぁ笑

そう、今日、僕は38歳になった。
姉とごうちゃんが誕生日を祝ってくれた。
しかし、ごうちゃん、ええ顔してるなぁ笑

普段糖質はあまり食べないんだけど、誕生日にサプライズでケーキをプレゼントされれば、どうするか。そういうときは、もちろん遠慮なく食べます。
「このケーキには大量の精製した砂糖、トランス脂肪酸、乳化剤が含まれてて」みたいな小賢しい知識は一時的にブロックする。説教くさい医者の仮面は脱ぎ捨てる。
僕の誕生日を祝おうとしてケーキを買ってきてくれた、その思いに応えて、ケーキを満喫する。そのときだけは、いわば、お祭りモードに切り替えるわけ。
でもその翌日には、ジムでいつもより長く運動したり、っていうことはするんだけど。
チートデイはあってもいい。「申し訳ないけど糖質は一切食べないから」と誕生日ケーキまで拒否するような生き方って、ちょっと寒い。そこまでして完璧主義に走る必要はなくて、8割主義くらいで充分だと思う。8が好きだから、というわけでもないけど笑
しかしさすが、ごうちゃんも姉も僕のことをよく分かってて、出てきた「ケーキ」は、写真のように、ロウソクを立てたスイカでした笑

老い

2018.8.8

『ヘビメタのフェスに行きたい、と老人ホームを抜け出した2人を保護』(http://news.livedoor.com/article/detail/15124653/)
特に何ということのない短いニュースだけど、いい話だ、と思った。
高齢者のリハビリ施設なんかに行くと、古い歌謡曲とか演歌をBGMに流していたりするんだけど、僕はこれに違和感があった。
じいちゃんばあちゃんのみんながこんな曲を好きなわけじゃないだろうに、と。
だいたい、クイーンのフレディー・マーキュリーが仮に生きていれば、今年で72歳。世界的なロックスターも、今や老人ホームにいてもおかしくない年齢なんだ。
若い頃にロックが好きだった年寄もいるはずなのに、『ご老人はこんな曲が好きでしょ』と昭和歌謡を流してる。これは若い人の偏見だと思うんだけど、先生、どう思いますか。

「まぁ君の言っていることはわかるんだけど、意外にそうでもないんだよ。
人間は年を取るにつれ、『古きよきもの』に何とも言えない安心感や親しみを感じるという傾向があるのも、また事実なんだ。
昼から夕方にかけての時間帯に、『水戸黄門』や『遠山の金さん』のような時代劇をテレビでやっているだろう。
若い人には、あの手の番組の魅力は理解できない。『毎回同じような話じゃないか』って思うんだ。
トラブルがあって、そこに黄門様が出てきて、印籠を見せる。悪者がハハァ、と平伏する。これにて万事、一件落着。
どの話も細部は異なるが、話の大筋は似通っている。こんなの見て何が楽しんだ、と、若い人は思う。
でも、年を取ればこういう番組の良さがわかってくる。
もうね、変化球はいらないんだよ。どんでん返しとか、裏の裏を読み合うとか、そういう予想外の展開はいらない。
起承転結。序破急。バカでもわかるようなストーリー展開で、十分楽しいんだ。
若い頃にロックを聞いて育った世代も、今やおじいちゃんになってるというのは確かにその通りなんだけど、ロックっていうのはそもそも、自分の満たされない不満や愛を激しいビートに乗せて叫ぶ、という音楽だろう。
70代80代にもなれば、『そういうのは要らない。もっと丸い、静かな曲がいい』という人たちが必ず出てくる。好みの音楽というのも、変わってくるものなんだ」

なるほど、そういうものか。
だとすると、僕もいつか、そういうふうになるのかな。
『水戸黄門』の安直なストーリー展開に安堵を感じ、舟木一夫の『高校三年生』を聞いて楽しくなる、という。
そういう自分はちょっと想像つかないんだけど笑
ポーリングやホッファーなど、栄養療法を確立してきた偉大な先人たちがどのような晩年を迎えたのかを見てみると、彼ら、全然老け込んでない。
90歳を超えてなお、仕事をこなし、最新論文に目を通し、知識の研鑚に余念がなかった。死ぬ直前までそういう具合だった。
彼らの栄養療法を攻撃した医師たちは皆、早死にしていったが、栄養療法を提唱した医師たちは、自らの説の正しさを実証するように、健康的で生産的な晩年を迎えた。
隠居して、番茶飲みながら『水戸黄門』の再放送を見るホッファーの姿は想像できない。文化が違うせいもあるけど笑
国語の授業で習ったサミュエル・ウルマンの詩は、やっぱり深いことを言っていると思う。

「人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。
人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。
希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。」

栄養療法は、肉体的な若さはもちろん、心の若さを保つのにも有効だ。
僕も、ヘビメタのフェス見たさに施設を抜け出す、それぐらいの気力のある老人でありたいなぁ。

2018.8.7

「医学部の学生が女子ばかりになったら、眼科医と皮膚科医ばかりになっちゃうって、確かに西川先生の言う通りかもね。私も眼科医だし。
マイナー外科って、女医からしたら何かと都合いいんだよ。内科的なことも外科的なことも両方できるし、勤務医としてどこかの病院に一時的に腰掛けるには好都合なのね。
特別手先が器用っていうことはないけど、黙って作業するのって好きなの。
ほら、前にも言ったかもしれないけど、私、スキューバダイビングが好きなんだけど、あれも、水の中、会話のない世界で黙々としてるところがいいの。
だから、内科か外科か、どっちかひとつだけを選ぶとなったら、学生のときから断然外科だと思ってた。
ただ、メジャーな外科はちょっとね。。。いろいろ大変そうだし。だから漠然と、マイナー外科かなって。
でも、眼科に入局して分かった。私、手術、向いてないんだ、って笑
手術に必要なのって、手先の器用さというか、決断力だと思うの。こういうのって、きっと男の先生のほうがある。
性格的に女医には難しいんじゃないかなって思うのね。
自分のメス裁き、そのひとつひとつに責任の重みが伴っている。そういうことを思ったら、私、切れなくなっちゃったの。
目って、手術の失敗、絶対許されないの。
『うーん、この血管、切ってもいいかな、どうかな~』ってのがあって、それがたとえば大事な神経だったら、どうなる?
下手すれば失明だからね。
かといってビクつきすぎてノロノロとやってたんじゃ、オペにならない。
でも眼科のいいところは、あるいは大学病院のいいところは、ってことだけど、住み分けができるってことよね。
白内障の手術ならこの人、網膜剥離ならこの人、って具合に、それぞれの病気を得意分野にしている先生がいて、専門分化が進んでいるわけ。
内科的なことで、特に加齢黄斑変性なら私のところへ、みたいに、私にもきちんとした居場所がある。
こういうのが眼科の本当にいいところだと思う。」

目というのは、耳や舌のような他の五感を知覚する器官とはかなり違う印象がある。
「目は脳の出先機関」、あるいはもっとはっきり、「目は脳そのもの」、という科学者もいる。
発生のプロセスから考えても、脳の一部が分化して目という器官を形成した、と言って間違いではない。
目とは、つまり、外部に露出した脳なんだ。
「目は口ほどにものをいう」が、事実はこの言葉以上かもしれない。口は嘘をつけるが、目は嘘をつけないからだ。(https://books.google.co.jp/books?hl=ja&lr=lang_ja|lang_en&id=moFIAwAAQBAJ&oi=fnd&pg=PA129&dq=lies+pupil&ots=wmR7iM5Ksm&sig=CPMIP_jxFtvxBwZl6yO1GUtncw8#v=onepage&q=lies%20pupil&f=false)
「ねぇ、あなた、私のこと好き?」と問われて、男、どう答えたものか、視線を右上に漂わせつつ、言葉を探す。
彼女はじっと男の目をのぞき込む。男の目は、いつもよりまばたきが多く、また、瞳孔が開いているようだ。
「もちろん、好きだよ」とかろうじて返答があったとしても、彼女、この答えを信じることはできない。
目は言葉の内容以上のことを語るのだ。
相手の真意が伝わるのに、1秒目が合うだけでいい。
それだけで充分。こういう人間の繊細さは、AIがどれだけ進歩してもなかなかAIには模倣できないと思う。
もっとも、視線の意味を読み違えることも人間はけっこうあって、異性からの好意の視線だと思ったら、「汚ねぇな、目クソついてるぞ」って思われてる視線だったりする笑

「目の手術ってグロいですよね。きつくないですか。
目は人間の精神性の象徴、というところがあるので、そこに注射したりメスを入れたり、というのはすごいなと思います」
別の眼科医の先生、答えて曰く、
「そうかな。僕に言わせれば、他の外科のほうがよほどエグいと思うけど。肝臓とか心臓とか。
目なんてきれいなものだよ。というか、すべての器官のなかで一番きれいなんじゃないかな。ほとんど血が出ないしね」
なるほど、出血という意味では確かにそうかもしれない。
「でも」と食い下がる。「目って、人間の器官の中でもかなり特殊だと思います。好きな人と目が合ってドキッとするとか。
ことわざにも、『目は口ほどにものをいう』とあるように、人間の感情を最も雄弁に伝える器官のようにも思います。
そこにメスを入れるということが、相当すごいと思うのですが」
先生、きょとんとしている。
「うーん、よくわからないな、君の言ってること。
目が感情を伝える?そうかな。感情を伝えるのは表情筋でしょ」
アスペルガー的な雰囲気のある先生。でも手術の腕前は全国有数で、遠く県外からこの先生の手術を受けに来る患者も珍しくない。
やはり、手術に何より必要なのは、正確無比な決断力で、女医さんの責任感とか僕の妙な感傷は、かえって邪魔なのかもしれない。

PTSD

2018.8.6

【症例】13歳 女児
【現病歴】幼少時に父母が離婚。父は現在刑務所に収監中。母は失踪(現在警察により捜索中)。現在、父方祖父母宅に同居している。
祖父は聾唖であるため、筆談でしか意思疎通できない。
過去に二度、リストカットによる自殺未遂がある。
本日、学校に来ていないため、特別指導員が女児宅を訪問したところ、インターホンを押しても返事がない。
そのまま家に入ったところ、意識喪失状態の患児を発見。枕元に鎮痛薬の空き容器が大量に散乱していた(同封のビニール袋を確認のこと)。
教員が揺り起こしたところ、意識を取り戻したため、教員に付き添われ、来院。

まず、こういう患者が来たらどうするか。
アセトアミノフェン中毒にはNAC(Nアセチルシステイン)の投与が有効だ。(https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJM198812153192401)
オーバードーズした後、できるだけすぐに飲むとそれだけ効果が高いし、意識のある人には経口投与でもOKというのが便利だ。
頭痛や生理痛のある女性には、鎮痛剤が手放せないという人がいるものだけど、栄養療法的にアドバイスするなら、そういう人はNACのサプリを飲むといいよ。
アセトアミノフェンの肝毒性を軽減してくれるだろう。

さて、適切な救急対応により一命はとりとめたとしても、この女の子が抱えている問題はもっと根深い。体の問題と同時に、心の問題もからんでいる。
人間は飯さえ食ってりゃそれでいい、というわけではない。健全な成長のためには、愛情も必要なんだ。
機能不全家族に生まれた子供を見ていると、何とも言えないほど胸が痛い。
身体的虐待、性的虐待、心理的虐待、ネグレクトなど、様々な形の不幸があって、「幸福な家庭はどれも似通っているが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである」というトルストイの言葉が、ここでも当てはまるようだ。
何とか助けてあげたいと思うけど、ひとりの医者がどんなに手を尽くしたからといって、解決できる問題じゃない。

「あぁ、結婚するんじゃなかった、お前なんか産むんじゃなかったって、いうのがお母さんの口癖。
私が少しでもご飯をこぼしたら、床ふき用のぞうきんで私を殴った。私が泣くと「泣くな!うるさい!」と言って、私の髪をつかんでゆさぶった。
お母さん、夜の仕事をしていたんだけど、あるときから家に帰ってこなくなった。男ができて、どこかに出て行ったんだと思う。
お父さんも暴力をふるう人。髪をつかんで部屋中を引っ張りまわされたり、足首をつかまれてお風呂に逆さ吊りにつけられたりした。夜には私の寝てる布団の中に入ってきて、私の体を触った。
お父さん、何か犯罪をしたみたいで警察に捕まって、今は刑務所にいる」
僕はかける言葉がない。
「そうか、つらいなぁ」と、かろうじてあいづちをうつ。
彼女、僕を見て、
「私も普通の家庭が欲しかった。家に帰ったら普通のお父さんがいて、普通のお母さんがいて、家族みんなでご飯を食べる。私もそういう普通の家庭が欲しかった」
彼女の目から涙が急にあふれ出て、肩震わせて泣き始めた。
ドラマなら肩を抱いてあげるところだろうな、と思ったけど、ただ、黙ってそばにいた。
やがて、ふと顔をあげて、
「先生さ、かっこいいよね」
女の目だった。
13歳というのは微妙な年頃である。
自分自身の女性性を本人も意識し始め、同時に異性への関心も強くなる頃である。
「自分の女としての魅力は、この男にも通じるだろうか」「普通の父親がいないのなら、自分で手に入れればいい」
機能不全家族に育った女児の性交年齢が低いのは、異性への関心に加えて、父親を求める思いが重なるせいかもしれない。

精神科に勤務していれば、患者が陽性転移を起こすこと、つまり、患者に好意を持たれることは珍しいことではない。
患者の心の深いところまで一緒に降りて行って話を聞くのだから、自分のことを深く理解してくれる人に好意を持つというのは、ごく自然なことだろう。
そういう場合に、精神科医としてどうするべきか。これはフロイトやユングの昔から議論されてきたテーマである。
ユングはフロイトの弟子だったが、考え方の違いによりあるときから袂を分かつことになった。
たとえばフロイトは、治療者が患者と性的な関係を持つことは決してあってはならないとしたが、ユングは治療の一環としてそうした関係性を持つことが必要なこともあり得る、とした。

個人的には、ここではフロイトの見解をとりたい。
自分がその子のこと、一生面倒見るって責任を持てるのならいいと思うけど、僕はひとりひとりの患者に対して、そこまで責任を持てない。
とはいえ僕も男だから、色目使われるとグラっと来そうになるんだけど笑、頑張って踏ん張る。「大人をからかうもんやないでー」と笑いに紛らす。

こういう子は後年、PTSDを発症することがある。
自分の内面に抑圧した記憶がときどきふとよみがえって、恐怖、苦痛、怒り、哀しみ、無力感などいろいろな感情が突発的に湧きあがったりする。
PTSDに対しては、栄養療法的に打つ手はいろいろある。
まずホッファー先生の一押しは、ナイアシン。戦争帰還兵のPTSDにナイアシンが著効したことを報告している。
個人的にはロディオラの有効性も実感している。
GABAやセントジョンズワートも効くようだ。(https://pdfs.semanticscholar.org/3dc2/582b7d4486366826741e0f3b9f050611ff87.pdf)

僕の両親は子供の頃、よく夫婦喧嘩していた。子供の僕は、それがとてもつらかった。
父と母が怒鳴り合ってるときなんか、地獄だった。家って、一番くつろげるはずの場所やのにね。
幸いというか、虐待されたことはないんだけど、夫婦喧嘩でこんなにきついんだから、虐待の苦痛は想像を絶するほどだと思う。
子供のときのつらい経験は、残念ながら、なかったことにはできない。でも、栄養療法的にちょっとしたお助けをすることならできる。
ナイアシンやロディオラがもたらしてくれる心の穏やかさは、セックスによる一瞬の火花よりも、もっと深い救いになるよ。