院長ブログ

人生相談

2018.8.24

質問
自分でマッサージしてもそんなに気持ちよくないのに、人からしてもらうと気持ちいいのはなぜですか。
回答
「人は、自分の体内で起こっている物事に対して、鈍感です。そういうふうに進化してきたんですね。
なぜって、自分の体のなかで起こっている変化、たとえば、「あ、今下垂体からホルモンが分泌されたな」とか「交感神経が興奮して血液の駆出量が多くなっているな」なんて、自分で気付いてしまったら、うるさくてうるさくて、まともに日常生活さえできなくなるでしょう。
体内で起こる内的変化に対しては感覚を閉ざし、その代わり、自分以外から来る外的変化に対しては、敏感。それが私たちの体なんです。
試しに自分で自分の体をくすぐっても、全然くすぐったくないでしょう。それは自分でしようと思った行動であり、神経系はその動きを全部把握済みだから、刺激を感じないようになっているんです。
でも、他人から殴られたときは違います。親が子供の顔を殴った。「父さんだってな、同じぐらい痛いんだ」と言うかもしれません。
これは精神的な意味で言っているんでしょうけど、少なくとも肉体的な意味では誤りです。
物理的には作用反作用の法則で、子供の頬が受けたのと同じ衝撃をお父さんのこぶしも感じている。でも、お父さんにとって、それは予想された動きだから、子供が頬に感じるほどの痛みは感じていないはずです。
人の体に触れるときには、このことを思い出してね。
優しい愛撫も冷たい殴打も、相手はあなたが思う以上に、強く感じるものだから。」

これ、マリリン・ボス・サバントの回答。どこかで読んでうろ覚えに覚えていたのを再現したから、細部は違うかもしれないけど。
この女性は「世界一IQが高い人物」として、ギネスブックにも載っていた。「IQを正確に測定することなんて不可能だ」という批判のため、現在ギネスブックにはこの項目自体が削除されているんだけど、少なくとも「かつてギネスブックに世界一IQが高いと認められていた最後の人物」ではあるわけだ。
IQの高さだけで言えば、アインシュタインやノイマンよりも高い人かもしれない。
こんなにも頭のいい彼女が、一体どういう仕事をしているのか、知りたいと思わない?
なんと、彼女の仕事は、人生相談です。
人々から彼女のところに寄せられた悩み相談に答える。これが彼女の仕事です。
世界一の頭脳の持ち主が選んだのが、言ったらあれだけど、そこらの占い師のおばちゃんでもできるような仕事をしているわけで、これほどもったいない話も他にないと思われるかもしれない。
でも人々の悩みに対する彼女の回答を見ると、どれも含蓄がある。教養やユーモアを感じさせる回答が多く、やはり、人生相談は彼女の天職だと思う。
上記の質問についても、ああいう回答をするにはある程度医学的な知識が必要だし、ウィットも備わっていないといけない。
やっぱり、そこらへんの占い師のおばちゃんにはできひんレベルの仕事やね笑

誌上人生相談の類が好きで、よく読んでいる。
相談者の質問を読む。自分がこういう相談をされたら、どんなふうに答えるだろうか、とちょっとだけ考えてから、回答を読む。
質問者の置かれた苦境、悩みに対して、どのような対処法、処世術を提示するか、というところがこの手の記事の見もので、そこには回答者の知性や人柄、人生観がモロに出る。質問者は真剣で、回答者もそれに全力で応じようとするから、人間性を出さざるを得ないんだ。
その回答に共感することもあれば、反発を感じることもある。

北方謙三が昔雑誌でしていた人生相談には、しばしば「ソープに行け」というフレーズが出てきた。
「うじうじ悩むな、小僧ども。ソープに行け。ソープに行けば、お前らの悩みなど一瞬にして吹き飛ぶ」
どんな悩みに対してもこれで通じる鉄板の回答で、こういうマッチョな回答者、好きやわぁ笑
北方謙三といえばこのフレーズ、くらいに有名になっちゃったけど、彼、さすが作家だけあって、胸にグッと来る回答、他にもいっぱいあるんだけどね。
『試みの地平線』。今読んでも古びていない。

中島らもにとって相談者の悩みは『お題』で、そこからいかに笑いのある回答をするか、ということが彼の腕の見せ所だったと思う。ユーモアセンスのかたまりみたいな人だったけど、晩年はアルコールの海にすっかり溺れていて、読んでて痛々しい文章書いてた。ファンとしては辛かったな。

毎日新聞でやってる人生相談。あれ、高橋源一郎の回だけ集めて本になったら、絶対買うんだけどな。この人は相談に対して真っ正面から向かいあうというよりは、「僕の場合は」という具合に自分の経験を語っているだけなんだけど、最終的には一応の回答になっているという不思議な技を使う。ときには、質問者の非をズバリと指摘する回もあって、相談者に媚びない感じが、読んでて爽快。

考えてみれば、僕の仕事も、人生相談に対する回答のようなものだと言えなくもない。
問診の横道で、患者たちがふと漏らすため息。
「職場の人間関係に、もう、ほとほと疲れていまして」
「夫がギャンブルをやめられなくて」
「家にはストレスしかありません。夫婦としては実質終わっていますけど、子供もいるし世間体もあって、あえて離婚していないというだけです」
答えはないのだと思う。
でもこの、答えのない問いに向かいあって、一歩一歩手探りしながら歩いていく。
結局人生ってそうやって進んでいくしかないんよね。

病理学

2018.8.23

「病理学的には、皮膚表面も爪も髪の毛も皆、脱核した細胞でできている。脱核しているというのは、つまり、死んでいるということだよ。
つまり、僕らの体は、いわば『死』で覆われている。
僕らは上着よりも下着よりも何よりも、まず、『死』を着ている。それが体に最もフィットした衣服ということだ。

さらにいえば、僕らの体内において『死』は極めてありふれている。
古い細胞がアポトーシスを起こして『自殺』したり、何らかの外的な要因からネクローシスを起こして『壊死』したり。
環境中に満ち満ちた細菌やウィルスが侵入するが、白血球という防衛軍がそれらの病原菌と常に戦争していて、双方に大変な死者が出ている。
僕らはそうした体内の『死』に気付かない。
『死』は自分と無縁などこか遠くのもの、いつか訪れるけど今はまだ来ていないもの、と考えがちだが、そうではない。
それは常に、ここにあるんだ。
『死』は『生』の対極にある概念ではない。
『死』と『生』が不可解にまじりあい、せめぎあう場。それが僕らの体なんだ。
だからね、何もことさらに死を恐れる必要はない。
『死』は急に降ってわいたように訪れるんじゃない。
体の中にある『死』が『生』とせめぎあいつつも、次第にふくらんでいき、やがて体全体を覆う。
人間はそういうふうに死んでいく。
『生』の始まりを定義することはある程度簡単だ。精子と卵子が結合し、受精卵ができた、その瞬間を『生』の始まりと呼んで差し支えないだろう。
しかし『死』の定義は実に曖昧なんだ。医学的には、呼吸停止、心停止、瞳孔散大を死と呼んでいるが、こんなものはあくまで便宜的なもので、死んだ後にもヒゲが伸びるという話は君も聞いたことがあるだろう。
このあたりは、国家の滅亡とアナロジーをなしているように思える。政治機能の停止、経済機能の破綻、象徴的存在の消滅といった現象を国家の滅亡と定義しても、かつての国民たちはけっこう生き残っていたりするわけだ。
平時には免疫の監視下に共生関係を築いていた腸内細菌が、ゲリラ部隊となって全身を暴れ始める。腐敗が始まり、『生』はいよいよ崩壊に向かうが、言葉を換えれば、それは微生物という新たな『生』への変換プロセスだとも言える。
つまり、『死』は次なる『生』を育む土壌なんだ」

病理学者は世界を違った風に見ているようだ。
臨床現場でなまの患者を見るよりは、毎日顕微鏡をのぞく仕事である。
普通の人が見ない角度から世界を見ることで、見えてくる真理というものがあるようだ。
「死と生は対極の概念ではない。我々の体は『生』のみからなるのではなく、『死』と『生』の混合物からなる」
これは見事な弁証法になっていて、確かに一面の真理を突いているようだ。

実際の患者と触れ合わず、ただ、患者から取り出した組織片にだけ興味があって、その顔つきが良性か悪性か、その判断を下す。
病理学者のこういう仕事は、いくらか非人間的と思われるかもしれない。
しかし、彼らももちろん人間。ときには、感情が揺らぐ。

「ほら、ごらんのとおり狭い田舎町だからさ、患者に昔の同級生とか、知り合いが来ることもまれじゃないんだ。
病理医だから、患者を直接的に診るわけじゃない。でも検体が届いて、その名前を見ればすぐにわかるよ。
患者のほうで僕を認識しているかどうかは知らないけどね。
でもとにかく、患者と『やぁ久しぶり。どうしてる?』なんて会話するんじゃなくて、その人の組織片と、いわば会話をする。それが僕の仕事なんだ。
微妙な症例があった。
卵巣癌の1a期かつグレード1なら妊孕性温存術の適応になる。しかしその症例、腹膜の洗浄液の読み方次第では2c期とも見えた。
そうなれば全摘だ。今後彼女が子供を産むことはあり得ない。
彼女の肉体の健康を優先して全摘するか、挙児希望の彼女の心を優先して温存術を選択するか。
二つに一つ。真ん中はない。
その判断が、僕の判断にかかっている。

実はこういう微妙な症例は珍しくない。
『白』か『黒』か、簡単に判断のつく症例も多いが、どちらとも言い難い『灰色』の症例に対して、いかに適切な判断を下すか。
そこが僕らの仕事の肝だとも言える。
しかしその症例の判断は、いつも以上に悩ましかった。
その患者は僕の知り合いだった。
知り合いというか、もっとはっきり言うと、高校生のときに僕が密かに好意を持っていた女性だった。
そういう感情的要素は一切捨てて、虚心に病理像を見て判断すべきことは当然わかっている。
その人はすでに誰かと結婚している。僕が付け入る隙はない。それなのに、一体僕は、何を当惑しているのだろう。
高校生のときの憧れの人。その人から女性性を奪うか否か、の判定だ。
そしてそれは、青春時代に自分の抱いていた淡い恋心に、ピリオドを打つかどうかの判定であるようにも感じてしまったんだ。
仕事の重さに、気が滅入りそうだったよ。
こんな形で再会したくなかった。もっと普通に、町ですれ違うとかして再会したかったよ」

病理医はそういって力なく笑う。
『死』と『生』がまじりあう僕らの体には、いくらか『性』のスパイスもふりかかっているようで、そのことで人生が一層悩ましくなるのかもしれない。

ドラマ

2018.8.22

最近、将棋のネット対局をするのが日課になっている。
ハマるともっとやりこんでしまいそうなので、1日に2,3局するだけにとどめている。
20級から始まって順調に昇級したけど、2級で頭打ち。たまに初段の人に勝つこともあるけど、3級の人に負けたりもして、ずっと2級のまま停滞している。
結局このあたりが今の自分の実力ということなんだな。

どうすればもっと強くなるかは分かっている。序盤をもっと研究することだ。
先手なら早石田、後手ならゴキゲン中飛車で指すことがほとんどで、それ以外の戦法を知らない。
序盤のかけひきは、将棋の強さというよりも、形を知っているかどうかの「知識」の問題だから、いろんな戦型の強み弱みを把握しておくことが重要なんだけど、その勉強を本気でやりだすと時間をどこまでも食われてしまうだろう。
将棋はあくまで趣味であって、趣味が仕事にまで影響し始めてはまずい。
だから、研究しない。実践で勝った負けたを一喜一憂しているだけだ。

序盤をうまく乗り切って、中終盤にかけて定跡をはずれる力将棋に持ち込めたら、そこからはいい勝負になるんだけど、序盤で大きなリードを許すことも多くて、そうなるとまず勝てない。
指し手に困って、「相手が間違えてくれれば優位になるけど、適切に応じられれば不利」みたいな手をしょっちゅう指す。
棋譜を振り返って悪手を反省することがないから、同じような失敗を何度も繰り返す。
そりゃ万年2級だよな、と我ながら思う。
将棋のレベルとしては高段者から見れば目も当てられないものだろうけど、指している僕は楽しんでいる。
別にプロを目指すわけじゃない。へぼ将棋、大いに結構と、開き直っている。

今やプロ棋士でさえコンピューターに勝てない。
レベルの高い棋譜が見たいのなら、日本将棋連盟の棋譜サイトよりもフラッドゲート(コンピュータ将棋のための連続対局サーバー)に行けばいい。
局面の最善手を導き出すのは、人間ではなくコンピューターだということは、認めざるを得ないんだから。
でも、フラッドゲートで棋譜を勉強している人は、よほど物好きな人で、多くの人はいまだにプロ棋士の棋譜を見ている。
なぜだろう。
人間は、もうコンピューターに勝てないんだ。
ハイスペックなコンピューターが精緻なアルゴリズムに基づいて紡ぎだす棋譜のほうが、うっかりや凡ミスの多発する人間の棋譜よりも、はるかにレベルが高いはずなのに、なぜ、いまだに僕らは人間の棋譜を見ることを好むのか。

きのうまで夏の高校野球が行われていた。
秋田の金足農業と大阪桐蔭の決勝戦。
秋田県勢としては103年ぶりの決勝進出で、勝てば秋田県はもちろん、東北として初の甲子園優勝ということで、注目の一戦だった。
注目度は数字にはっきり表れていて、平均視聴率は関東地区で20.3%、関西地区で15.9%、仙台地区で27.8%、福島では34.6%だった。
高校野球って、高校生のクラブ活動だよ?なぜいい年した大人たちが、彼らのプレーに熱狂するのか。
プロ野球ならまだわかる。プロ野球選手というのは野球で飯を食っている人たちなわけ。ハイレベルなプレーを見せるのが彼らの仕事なんだから、それに注目するのは筋の通った話だ。
ところが実態は逆で、近年プロ野球の野球中継は視聴率がふるわず、テレビの放映権料も低下傾向だ。
要するに、どうも僕らは、レベルの高さを求めているのではないらしい。僕らが見たいのは、プレーそのものというよりは、その背後にあるドラマのようなんだ。

小学生のいとこが地区の野球チームに所属していて、その試合があるということで、見に行ったことがある。
守備のエラーやら暴投やら、試合のレベルとしては両チームともすごく低くて、点の取り合いみたいな展開だったけど、プレーしてる子供たちの必死さは如実に伝わってきた。
何しろ野球してる子供たちのすぐ近くで観戦してるものだから、彼らの表情とか動きがありありと見えた。久しぶりに面白い野球を見たと思った。

僕の棋譜は恥ずかしくて人に見せれたもんじゃないんだけど、互いの手の応酬のなかにドラマを感じる対局をできることがあって、そういうときはネットの向こう側にいる顔も知らない対局者に対して、妙に親近感がわいたりする。
コンピューターと対局できるスマホのアプリをダウンロードしてるんだけど、ほとんど使っていない。
コンピューター相手に、ドラマって感じられないから。結局やっぱり、人間なんよね。

運動

2018.8.21

運動しないとな、と思い立って、鉄アレイ上げたり腕立て伏せしたりして、「毎日15分でいいから筋トレをする」というのを自分へのルールとして課したかと思えば、仕事の忙しさを言い訳にして、またやめたり。
かと思えば、やっぱり再開したり。
昔からそういう具合で、まったく運動しないわけではないけど、かといってずっと継続的に続けているわけでもない。
でも、1年ほど、筋トレを一切やっていなかった。
「ただでさえ開業準備や開業後のドタバタで心労がたまっているところに、筋肉にまでストレスを与えてどうする」と自分に言い訳してたんだけど、これが嘘であることは、誰より自分自身が気付いている。
開業してひと段落の時期。たくさんの患者が押し寄せて忙しいのなら心労もたまるかもしれないが、幸か不幸か、逆に暇すぎてストレスを感じているという笑
せめて筋肉ぐらいはいじめようか、と、ジムに通い始めた。

もともと筋肉質ではあるんだけど、アダプトゲンを服用しているおかげか、筋肉がさらにつきやすくなったように思う。
様々なアダプトゲンがあるなかで、それらをどのように組み合わせて摂取するのが最も効果的か。これはソ連の研究課題だった。
実験の結果、彼らが導き出した処方の一例は以下のようである。
・ロディオラ(イワベンケイ)の根抽出エキス50mg
・エレウテロ(エゾウコギ)の抽出エキス100mg
・シサンドラ(朝鮮五味子)の果実抽出エキス150㎎
この組み合わせによって、服用者のエネルギー、集中力、知覚能力、作業の正確性、反応時間が有意に向上した。(Baranov, V.B.,”Experiment trials of herbal adaptogen effect on the quality of operation activity, mental and professional work capacity” in Russian, contract 93-11-615, Stage 2 Phase 1, Moscow, Russian Federation Ministry of Health Insutitute of Medical and Biological Problems(IMBP),1994)

コンマ何秒タイムを縮めれば世界記録が出るとか、あと数センチ飛距離が伸びればメダルの色が変わる、みたいな、世界レベルで戦っているアスリートの能力を、さらにもう一歩押し上げてくれるのがアダプトゲンなわけで、運動に関してドシロートの僕が飲むのは、何だか申し訳ないな笑
アダプトゲンは本来、血の涙を流すほど極限まで自分を追い込むトレーニングをつんでいるような人にこそ、ふさわしいと思うんだけど、自分にダダ甘の僕でさえ、確かに効いていると感じた。
ごうちゃんもアダプトゲンの効果を実感する一人だ。
「運動不足解消のために自転車に乗っている。西区にある自宅から玉津のあたりまで、40キロほどの距離を走るんだけど、ロディオラを飲み始めてから明らかに疲労感が減った。タフになったと思う」
でも全然やせへんな笑
「会社の付き合いとかで、行きたくもない食事や飲み会に参加せなあかんから、つい食べ過ぎてまう。確かに太ってるけど、ロディオラがなかったらもっとやばいことになってたと思うで」
実は、2か月ほど前にごうちゃんの上半身の裸写真を撮影してて、「ロディオラのおかげでこんなにやせました」っていう、使用前・使用後の比較写真をここにアップしようって思ってたんだけど、計画は頓挫しそうだ。この腹回りでは説得力ゼロやわ笑
むしろ、僕の使用前・使用後写真を撮っとくべきだったな。

さて、ジムに行ってるとはいえ、僕が使うのは筋トレをするマシンとかダンベルだけで、トレッドミルとかバイクは全然使わない。
筋肉を効果的にいじめるためのマシンはジムにしかないけど、走ることなんてどこでもできるやん、というのが大きな理由なんだけど、もう一つ理由がある。
バイクトレーニングを目的にジムに通っている人を不快にさせる思惑はないんだけど、こういう文献があるのね。
(https://www.researchgate.net/publication/5287517_Dirty_Electricity_Elevates_Blood_Sugar_Among_Electrically_Sensitive_Diabetics_and_May_Explain_Brittle_Diabetes)

キロヘルツとか、強めの電磁場のせいで血糖値が上がるタイプの人がいて、Brittle型(不安定型)糖尿病の人は、いわば「電気過敏性糖尿病」ではないか、というのがおおよその内容。
論文に挙げられている57歳女性の症例はけっこう衝撃的で、この人、ふつうに散歩すれば運動前・運動後を比較すると血糖値が下がっているのに、トレッドミルによる運動後では、むしろ運動前より血糖値が上がっている。
著者はこのような、電磁場に曝露されることで起こる血糖上昇を、3型糖尿病と呼ぶことを提唱している。
ただ、すでに、「3型糖尿病」はアルツハイマー病を指す言葉として使っている人がいるから、この点は今後どうなるか微妙だね。

電磁波の有害性については、すでに先行する論文がたくさんあって、それ自体に新味はない。
疫学的な調査によると、高圧電線の近くに住む小児では白血病の発生率が高く(Ahlbom et al., 2000)、低周波の電磁場に曝露することで癌(Havas, 2000)、流産(Li et al., 2002)、ALS(Neutra et al., 2002)の発生率が増え、携帯電話の長時間の使用によって脳腫瘍の発生率が増える(Kundi et al., 2004)。また、携帯電話の基地局や電波塔の近くに住んでいる人では、癌や電磁波過敏症に罹患する確率が高い(Altpeter et al., 1995; Michelozzi et al., 2002)。
研究室の実験では、電磁波によって、乳癌の増大(Altpeter et al., 1995; Michelozzi et al., 2002)、DNAの破壊(Lai and Singh, 2005)、血液脳関門の透過性亢進(Royal Soc iety of Canada, 1999)、細胞内へのカルシウム流入量の変化(Blackman et al.,1985)、オルニチン脱炭酸酵素活性の変化(Salford et al., 1994)が引き起こされることが分かっている。

ケータイ電話の会社とか電力会社ってマスコミにとってはけっこうなスポンサーだから、電磁波の有害性がテレビで大々的に報じられることはまずない。
でも、報じられないということは、存在しないということじゃない。
科学的にはその危険性が明らかになっているものでも、世の中で普通に使われていたりする。
ケータイ電話の危険性については知っている人もある程度いるだろうけど、健康によさそうなランニングマシンにもリスクがあるっていうのは、そんなに知られてないと思う。
知識を仕入れて、我が身を守りましょう。

鶴亀算

2018.8.20

中学受験を目指す小学生のための塾の講師をしている友人がいて、彼が塾で使っているという算数の問題集を見せてくれた。
パラパラと見ていると、こんな問題があった。
『池のほとりにツルとカメがいます。ツルとカメは全部で14匹いて、その足をすべて合計すると44本です。ツル、カメはそれぞれ何匹いますか』

「まず、言葉の使い方ね。鶴は鳥類だから、数え方は1羽、2羽の「羽」。
亀は匹でもいいけど、鶴と亀っていう縁起物を並べている状況を踏まえるなら、亀はミドリガメやクサガメみたいな小さなタートル(turtle)ではなく、リクガメのような、ある程度の大きさを備えたトータス(tortoise)である可能性が高い。
となると、単位としては、「匹」よりは「頭」が適切だろう。算数は国語ではない、と言われれば確かにそうだが、まず議論の前提として、このあたりは正確にしてほしい」
「いや、でも、池のほとりに、ってあるよ。池のほとりに複数匹集まる亀となれば、ミドリガメみたいな小さい亀だろう。リクガメが集まっている状況というのは考えにくいと思う。生物的な観点からいうと、リクガメは群れない。単独行動が基本だから」
「そこを言うのなら、鶴と亀という異種の動物が至近距離で集まっている状況自体、かなり特殊だよ。ある程度広い範囲を持つ「池のほとり」を、双眼鏡で観察したのかな。
君が生物学を持ち出すのなら私もそれに乗っかるが、そもそもこの問題文の記述は、鳥の足が2本であることを前提にしているようだが、これはまったくナンセンスだ。
鳥の足、と簡単に言うが、「あし」には,脚(leg)と足(foot)の二つの概念があって、両者を合わせて肢(limb)と呼ぶ。さらに肢は、前肢と後肢に分けられる。
鳥は進化の過程で前肢を翼に変えたのだが、だからといって、前肢がなくなったわけでは決してない。「鳥の足は2本である」という前提は、生物学的には不正確極まりなく、看過できない」
「状況の不自然さで言えば、鳥類と爬虫類という異生物の頭数をたし、しかもそれらの足の数に注目するというのは、常人の発想を超えているね。
鶴と亀だからまだしも許容されるだろうけど、問題の設定を変えて『部屋にゴキブリと人間が合わせて5個体いる。足の数の合計は31本である。ゴキブリ、人間の各個体数を求めよ』とでもしてやれば、出題者の異常性が浮き彫りになるだろう」

いい年した大人が寄ってたかって小学生の問題集にツッコミいれまくるっていう笑
でもそんなチャチャをいれつつも、鶴亀算の解き方のページを読みながら、僕は感動していた。
「すべての個体が鶴だったら」と仮定して、そうだった場合の足の合計本数と実際の本数のズレから、各個体数を求めていく、というやり方。
芸術的やなぁ、と思った。
方程式の解法という目線で見れば、要は、未知数の係数をそろえて引き算している、ということに過ぎないんだけど、x、yの未知数を置いてシステマチックに解くやり方ってさ、洗練されすぎててつまらなんだよね。
意味を考えずに手さえ動かせばできるから確かに便利なんだけど、一周回って、小学生流のやり方に、何とも言えない味わいを感じるんだな。
結局やってることは方程式と同じだったとしても、「すべての個体が鶴だったら」っていう、その手作り感ね。こういうのが出てくるのは、小学校の算数までだと思う。

あとあと数学をやる段階になって必要になるのは、方程式の考え方のほうだ。方程式を作ったほうが見通しがいいし、何かと応用がきく。
二元の一次方程式として理解すれば、じゃ、三元は?n元は?となって、一般性があるし、さらに、行列を使えば非常にクリアに表現できる。
中学、高校、大学と、数学の内容が高度になればなるほど、抽象度も一般性も高くなる。それは空高くにどんどん上がっていくようなもので、より広い範囲を俯瞰で見ることができるようになる。
でも、そういう数学の便利さを分かって、なお思うんだ。ハイハイする赤ちゃんの目線ほどの高さしかなくても、それにはそれ相応の味わいがあるものだな、と。