2019.2.7
70年以上前の古い文献だけど、おもしろそうなので、訳してみます。
https://jamanetwork.com/journals/jama/article-abstract/256511
編集者さんへ
バレンジャー医師が6月27日に貴誌に寄せた薄毛にまつわるいくつかの疑問は、イリノイ大学医学部解剖学教室で行った私の技師としての観察(1916年から1917年まで)によって、解決されるかもしれません。
当時私は、80人のご遺体から神経学の授業の用途別に応じて、脳を除去する作業に従事していたのですが、そのときに偶然気付いたことがあります。それは一見明らかな関連と言えるかもしれませんが、頭皮への血液供給と毛髪量の間にある関係性です。
薄毛になっているのは、頭蓋骨の石灰化によって縫合線が固く接合し、かつ、様々な小さな血管孔が閉鎖したり狭小化している症例ばかりでした。すっかりハゲている症例において、そうした所見が最も顕著でした。これらの血管は頭蓋骨の海綿状組織にある板間静脈とつながる静脈が主体でしたが、その海綿状組織が孔の石灰化により、著明に狭小化していました。頭皮の血液循環が損なわれるプロセスの進行度合いは、石灰化と相関して観察されました。
ということは、この事実は、薄毛が起こるメカニズムを説明するのみならず、なぜ男性は女性よりも薄毛になりやすいのか、という機序の説明になっているものと考えられます。なぜなら、骨の成長(石灰化)は一般に女性よりも男性で活発だからです。
こうした機序を考慮すれば、ヘアトニックやビタミンが血液循環の回復に寄与しないことは恐らく明らかであります。また、カルシウム摂取の増加が薄毛の発症率の増加(および育毛療法の売り上げ増加)につながっている可能性があります。
フレデリック・ヘルツェル
上記はLetter to the editor(編集者への手紙)で、厳密には論文ではないから、エビデンスとしてどうのこうのという話にはならないんだけど、「エンピリック(経験的)にはこうだった」という情報や次に行われるべき研究への示唆が含まれていたりする。
この手紙を書いた人は、たくさんの剖検症例を観察しているうちに「薄毛の原因は頭蓋骨内の海綿状組織の石灰化ではないか」とひらめいたんだな。原文のcalcificationという言葉を「石灰化」と訳したんだけど、これは「カルシウム沈着」と訳してもいいと思う。
そもそも、老化とはカルシウム沈着のことだ、とも言える。
たとえば動脈内壁にカルシウム沈着が進行するということは、動脈硬化の進展そのものだ。カルシウムの濃度は、ざっと、骨:細胞:血液=1億:1万:1に保たれているけど、加齢などの影響でこのバランスを保つことができなくなると、細胞内や血中のカルシウム濃度が上昇する。
実際、アルツハイマー病や糖尿病の人では、細胞中・血中のカルシウム濃度が高い。
細胞内のカルシウム濃度が上がると、活性酸素の産生が活発になり、組織に酸化ストレスによる炎症を引き起こすことがわかっている。
文中、「ビタミンは血液循環の回復に寄与しない」という記述には、栄養療法をやっている身としては異議のあるところなんだけど^^、カルシウムの悪影響を説いている点でトーマス・レビー先生の主張を先取りしている形だ。レビー先生は「カルシウムと鉄は極力摂るな」とあちこちで口を酸っぱくして言っている。
生物は体に不調をきたし始めると、まず生存に必須ではない箇所を退化させて、より重要度の高い体の「本丸」を守ろうとする。たとえば毛母細胞というのは、体にとって、どちらかというと贅沢品だから、このあたりから切り捨てていく。
逆にいうと、豊かな毛髪というのは、生存に対する余裕の現れなんだな。
異性の選択の際、フサフサの男と薄毛の男がいて、他の条件が同じなら、女性はフサフサを選ぶ。どちらが健康体なのか、本能的に知っているんだな。
もっとも、女性が薄毛にならない、というわけではない。
薄毛に悩む女性を対象にしたこんな研究があるので、紹介しよう。
https://www.researchgate.net/publication/292926716_Use_of_the_phototrichogram_to_assess_the_stimulation_of_hair_groth_-_An_in_vitro_study_of_women_with_androgenetic_alopecia
要約
アンドロゲン型脱毛症の女性を二つの群に分け、一方の群には粟の種子抽出物、Lシステイン、パントテン酸カルシウムを経口投与し、もう一方の群にはプラセボを投与する6ヶ月間の無作為化プラセボ対照二重盲検試験を行った。
この研究の評価項目は、成長期の毛髪の発育速度の変化とし、その変化はフォトトリコグラム(頭皮の一定区画をマーキングし、そこの毛髪をマイクロスコープで撮影し、同区画の毛髪の変化を経時的に見る方法)で測定した。標準的な毛髪量の80%以下を脱毛症、85%以上を正常とし、研究開始から3ヶ月後に中間測定、6ヶ月後に最終評価を行った。
実薬群は本研究の評価項目を満たし、女性のアンドロゲン型脱毛症に対する有効性が示されたが、プラセボ群ではそういう変化は見られなかった。
この研究は、露骨にスポンサーのバックアップがあって、上記成分を含む商品を売りたい魂胆が見え見えなんだけど、で、実際、効果は本当にあるようだから、それを試したい人は買えばいいと思う。
ただ、成分の手の内を明かしてくれているわけだから、それを自分で試すこともできる。たとえば粟抽出物、なんて化学的な抽出物をとらずとも、普通にスーパーで売ってる粟でいいと思うよ。一日水に浸しておくと、ふやけて、案外そのままでもおいしく食べられます。システインは本来非必須アミノ酸なので、必要に応じて体内で合成されるんだけど、あえてサプリから摂ってもいいし(とるならNACがいい)、食品から摂るのならタマネギがオススメ。パントテン酸は、panthos(=汎。どこにでもある、ということ)が語源であるように、どんな食品にでも含まれているぐらいなんだけど、納豆、卵がオススメかな。もちろん、サプリから摂ってもいい。
できるのなら食養生が最善で、次善策がサプリ、最後に薬、という順番が基本です★
2019.2.6
僕はとある地方国立大学の医学部出身なんだけど、同級生にはざっと二通りのタイプがいた。
「国公立の医学部にすべり込めて大満足」というタイプと、「自分の偏差値からすれば、このレベルの医学部は実に不本意」というタイプだ。
医学部に合格し入学するというのは、ひとつの大きな達成であるはずなんだけど、後者の人は、「とても達成なんて言えたもんじゃない」と思っている。
「前期試験は某旧帝大を受けて、ダメだった。滑り止めの後期試験で受かったのがこの大学。
浪人するのが嫌だったから一応入学したけど、自分としては妥協も妥協。自尊心が傷つくくらいの妥協をしている。当然、今は仮面浪人の身で、来年は再受験するつもりだ」
キューテーダイ?漢字変換が頭の中に浮かばないんだけど。
「旧帝国大学のことだよ。具体的には、東大、京大、東北大、九大、北大、阪大、名大のことだ。
ここの医学部みたいな戦後にできた新設の医科大学とは、歴史と伝統の重みが違う。最低でも旧帝大クラスでないと、と思っている」
この気持ちは、僕にも分からなくはない。
僕もいわゆる進学校出身で、先生たちが「今年は東大に何人、京大に何人、医学部に何人受かった」みたいなことで目の色を変える学校で育ったから、彼のいう『自尊心』は分かる。
しかし今、医者になって思うんだけど、いったん医者になってしまえば、どこの大学出身だろうが関係ないよ。
これは医者になる前から周囲のみんなが言っていたことだ。
「研究でやっていくのなら大学にこだわる意味はあるかもしれない。学閥があるからね。旧帝大のほうが研究資金も潤沢だろうし。でも臨床をやるのなら、出身大学は関係ないよ」って。
本当にその通りだった。
旧帝大医学部出身だから給料が多く、私立大学医学部出身だから給料が少ない、ということは全くない。出身大学による待遇の差別は、存在しない。
医師免許を持っているかどうか。ポイントはそこだけだ。
官僚になるための国家公務員一種試験では、仮に試験に受かったとしても、受験時の成績が一生ついてまわって、成績の順番によって出世の可否が半分決まるらしいんだけど、医師国家試験ではそんなバカげたことはない。
受かるか落ちるかは天と地の差だが、満点で受かろうが最下位ギリギリで受かろうが、違いはない。出身大学も無関係なら、医師国家試験での合格順位も無関係だ。
もちろん、周囲に与えるインパクトは違うと思うよ。
「ほう、今日来る研修医は京大出身かぁ」となれば、上級医やナースもちょっと構えるところがある。どんなに頭のいい先生かな、と。
でもそれだけのことだ。給与面での待遇をを左右するのは、医者として何年キャリアを積んでいるか、専門医資格を持っているか、といったことで、出身大学の違いは影響しない。
「小学校のときからずっと塾に通っていて、『勉強ができる』ということが、俺の自尊心の大きな部分を占めていると思う。
それはそういうものじゃないか。昔から運動が得意な人は身体能力に自信を持つだろうし、ルックスがよくて異性にチヤホヤされて育てば、自分の容姿が誇りになるだろう。
俺の場合は、それが勉強だった。
誰もが知る中高一貫の有名進学校に合格した。この学校はもともと、東大志向よりも医学部志向が強いんだ。確かに同級生には、俺も含めて医者の息子が多かった。
同学年のうち、東大に行くのはだいたい3分の1くらいで、半分は医学部に行く。
仮にこの半分の学生が医学部志向を捨てて東大志向に切り替えたとすれば、ちょっとした騒ぎになると思うよ。その年の東大の難易度が一気に上がった、ということで。
同級生にはすごい奴がいっぱいいる。数学オリンピックや物理オリンピックのメダリストとか、神童としか言いようのない天才がいて、そういう中にいると、自分はとりたてて才能のない凡人なんだなと思う」
いや、小学校6年生の時点でね、あの算数の入試問題を解いて合格するっていうのがすごいと思う。
今、大学レベルの数学の知識を一通り身につけた上で解いても、満点はもちろん無理だし、合格レベルまでいけるかどうか。特に二日目の記述問題とかね。
「合格したものの、俺だってもう一回受験したとして、受かるかどうか笑。
あんなに難しい試験でも、毎年満点をとる生徒が一人二人いる。末恐ろしいほどの才能だと思う。
あの学校の合格者は、三通りに分かれると思うんだ。そういうずば抜けた『天才』と、一般的な『学校秀才』、それに『凡人』。
俺は『凡人』だと自認している。合格者全員が『すごい人』という認識はむしろ偏見だ。
ただ、あそこで学ぶ6年間で、強烈に刷り込まれる意識がある。『俺たちは、灘なんだ』と。
中学生や高校生のうちから輝かしい才能の光を放って、マスコミから注目される天才がいる。そういう天才が、あの学校のブランド価値を高めている。
俺のような凡人にああいう真似はできないが、ただ、共感し、誇りが高まるんだよ。『ほら、また灘の仲間がやってのけたぞ』って。
卒業生はこの誇りを背負って生きていくことになる。しかしこの誇りは、時には大変な重荷なんだ。
たとえば、君は今『国公立の医学部ならどこでもよかった。この大学で万々歳、大いにけっこう』という気持ちで入学したと言っていた。
そういう君には済まないが、俺は、挫折と屈辱を胸に抱いてこの大学に入学している。今の自分は仮初めの自分なんだ、とさえ思っている。
灘出身という強烈な自負心が、現状を肯定させてくれないんだ」
いや、そんなこだわりはナンセンスだよ、という言葉が出かかったけど、飲み込んだ。
頭のいい彼には「そんなこだわりはナンセンスである」ということはとっくに分かっている。それでも、こだわらずにいられない、ということなんだ。
入学後、彼は医学部の勉強はもちろん、部活にも熱心で、充実した大学生活を楽しみながら、同時に再受験の勉強も並行して続けた。
しかし某旧帝大を受験するも不合格。翌年、再度チャレンジするも、失敗。
二度の失敗を経て、ようやく、彼は現状を受け入れた。自尊心のうずきを抑え、この大学でやっていこうと腹をくくった。
長らく使い込んだ受験参考書を処分した。
受験参考書を開くたび、彼は優越感と劣等感の入り混じる、甘いような苦いような、複雑な気持ちになるのだった。
数学、英語、物理、化学、国語。
様々な科目の参考書を山積みにして、ビニールテープでくくり、廃品回収に出した。
彼はそのとき、自分の中でひとつ、はっきりと何かが終わったような気がした。
『勉強ができる』という自尊心、『灘』という強烈な自負。
それはそれでいまだ彼のなかにあるのだが、それにとらわれることをやめ、新たな自分を模索し始めた。
医師免許取得し、初期研修を終えて以後、彼は臨床を診ていない。現在、外資系の経営コンサルティング会社で勤務している。
凡人?とんでもない。
才能のある男には、異色の経歴がよく似合っている。
2019.2.5
頭頚部の異常な発汗を主訴に来院した50代男性。
「何でもないときは何でもないのですが、体にスイッチが入ると言いますか、ふとした瞬間から、汗が止まらなくなります。
顔からの汗です。それも尋常な量じゃありません。『滝のように流れる』という比喩そのもの、みたいな汗です。
症状は2年ほど前から始まって、ここ半年特にひどくなってきました。
時間帯としては、だいたい昼前から出始めます。昼食を食べる頃、額からだらだらと汗が流れ始め、食べ終わってからも2時間ぐらい汗が続きます。
熱いものや辛いものを食べると汗は余計にひどくなります。
夏に特にひどい、ということはありません。今みたいな冬でも、汗の量としては夏とそれほど変わらないと思います。
当初は職場の同僚から『暑いですか?エアコン調整しますか?』なんて聞かれてたけど、今は特に聞かれません。そういう体質なんだ、と思われています。
関係あるのかどうかわかりませんが、口の内部、前のこのあたりと舌が、しびれるような、痛むような感じがあります。唇も同じ感じです。
手足が冷えるような違和感もあって、足にサポーターを巻いています。
便通はどちらかというと下痢気味です。」
50代にして急に多汗症を発症するというのは、一般的なことではない。何か原因があるはずだ。
しかし何だろう。
分からない。
原因を推測しながら、様々に話を聞いていく。問診は、推理小説を地で行くような作業だ。
原因をピタリと特定し解決策を提示できることもあれば、謎を解明できず迷宮入り、ということもある。
発汗のメカニズムについて解説などしつつ、探針を入れてみる。
「そもそも発汗という現象は、人間にとって必要なことです。
交感神経と副交感神経のせめぎあいのなかで揺れ動くのが、僕ら人間です。
人間の行動原理は、実にシンプル。エサ取り行動と休息、この二つです。
日中には交感神経を高めて、狩りにいそしむ。運動量が増え、体内のグルコースや脂質が異化作用で消費されます。
そういうときに、日光の暑さでダウンしないために、汗をかいて体温を一定に保つ。また、敵に襲われたときに、手足がパサパサに乾燥していては、木に登って逃げたりできない。
汗をかくということは、そういう意味で非常に合目的的な現象です。
一方、夜は副交感神経優位の時間。休息と消化の時間です。日中に捕まえた獲物を食べて、栄養分の同化を行います。
日中よりも活動量は低下していますから、汗はそれほど出ない時間帯だと言えます。
人間の体の多くの器官には、自律神経の二重支配といって、交感神経と副交感神経の両方が分布しているものですが、汗腺だけは例外です。
汗腺は交感神経の線維にのみ、支配されていて、副交感神経の支配はありません。
しかしまた、さらに例外的なことに、本来交感神経の末端から分泌される神経伝達物質はノルアドレナリンなのですが、発汗運動神経からはアセチルコリンが分泌されます。
つまり、交感神経に支配されているにもかかわらず、汗腺にはアセチルコリン受容体があるわけです。
異常なほど汗が出る、ということは、汗腺にあるアセチルコリン受容体が何らかの原因で刺激されている、という機序が想定されます。
何か原因があると思うのですが、何でしょうね」
そう、アセチルコリン受容体が不必要に刺激されることで発汗が起こっているということは、治療としてはアセチルコリンをブロックする抗コリン薬を投与すればいい。
保険適用のある処方薬としては臭化プロバンテリンがある。しかし、のどが渇く、尿が出にくくなる、などの副作用があって、しかも人によっては大して効果がない。
「今日は大事な女性と会う日だから、この日だけは異常な汗を止めたい」ということなら、この薬を一日だけ飲むというのはありだろう。
しかし毎日飲み続けるというのは、副作用を考えたとき、躊躇するだろう。
こういう場合には、別のアプローチを考える。
水毒の滞りを改善する漢方である防己黄耆湯、自律神経をアンバランスを整えるハーブティ、汗疱に効果のあるルミンAなどを試すのも一法かもしれない。
しかし、これらの方法はいずれも『足し算』だ。
原因は無視して、ひとまず症状を抑えることをターゲットにしたアプローチであり、治療法としてはあくまで次善策だ。
50代で急激に多汗を発症するというのは、きっと何か原因があるはずだと僕は踏んだ。
「ひょとして、何か薬、飲まれていませんか?」
「尿酸を下げる薬を飲んでいます」
「いつ頃から飲まれていますか?」
「5年ほど前です。痛風発作を発症しまして、それ以来、飲んでいます。薬を飲みだしてから、発作は起こっていません」
ビンゴ。
当たりが出たようだ。
詳しく話を聞くと、他院で定期的にフェブリク40㎎を処方されているという。
「尿酸値はずいぶん下がっているんですけどね。発作が起こったときに処方された用量のままで飲み続けています」
フェブリクの副作用として、多汗は比較的一般的な症状である。
機序はよくわからないが、甲状腺刺激ホルモン(TSH)が増大したり、腎機能低下(尿量減少、尿中β2ミクログロブリン増加)が見られることから、水分の代謝に影響していることは間違いないだろう。
口の中の違和感、手足の違和感もフェブリクの副作用の可能性が高い。
痛風を診てもらっている主治医に、減薬あるいは断薬が可能であるかどうか相談するよう、勧めた。
「フェブリクをやめてもなお、発汗が止まらないということであれば、そのときにまたお越しください」と告げて終診とした。
そう、薬の足し算ではなく、引き算で病態が改善するなら、そっちのほうがずっといい。
我が身を守ってくれていると信じている薬が、予想外の形で副作用をもたらしていることがあるものである。
2019.2.4
ワシントンポストの記事から、こんな話を紹介します。
https://www.washingtonpost.com/lifestyle/magazine/pearls-before-breakfast-can-one-of-the-nations-great-musicians-cut-through-the-fog-of-a-dc-rush-hour-lets-find-out/2014/09/23/8a6d46da-4331-11e4-b47c-f5889e061e5f_story.html?utm_term=.a565bb2de83e
「ワシントンDCの地下鉄に男が座っている。ふと立ち上がり、バイオリンの演奏を始めた。
寒い1月の朝である。彼は45分にわたり、バッハ、シューベルト、メンデルスゾーンの作品を演奏した。
その間、ラッシュアワーということもあって、数千人もの人々が駅を通り過ぎた。その多くは通勤途中の人々である。
演奏を開始して3分後、ある中年男性が、音楽を演奏する彼に目を止めた。彼は歩度をゆるめ、数秒立ち止まったものの、やがてまた職場に急ぎ始めた。
その1分後、バイオリニストは彼の最初のチップを得た。ある女性がバイオリンケースに金を投げ入れたのだ。が、彼女もまた、立ち止まることなく歩み去った。
数分後、壁にもたれて彼の演奏をしばし聞く者があったが、彼も腕時計に目をやり、また歩み去った。
演奏家に最も大きな注目を払ったのは、3歳の男の子である。少年はこの演奏の美しさに息をのみ、思わず足を止めて見入った。彼の手を引く母は、彼をせっついて先を急がせようとした。
しかし少年はその場にとどまった。母に強く押されて、ようやく子供は歩き始めたが、歩きつつもなお、バイオリニストを何度も振り返った。
その音楽家が演奏した45分間に、立ち止まり、少しでもそこにとどまったのは、たったの6人だった。
およそ20人がチップを投げたが、わざわざ立ち止まって聞くことはなかった。彼が手にしたのは32ドルだった。
彼が演奏を終え、音楽の余韻を残す沈黙が周囲に満ちたとき、誰もそこにいなかった。拍手なんて誰もしなかった。
誰も気付かなかったが、このバイオリン奏者はジョシュア・ベル、世界最高の音楽家の一人である。
彼は非常に難しい技巧の要求される旋律を、350万ドルのバイオリンで奏でたのだった。
彼が地下鉄で演奏する二日前、ボストンの劇場で行われるジョシュア・ベルのチケットは、一席100ドルと高額にもかかわらず完売していた。
これは実話である。
ラフなシャツとジーパンを着て、野球帽をかぶって地下鉄で演奏するジョシュア・ベル。
これはワシントンポストの発案で、社会実験の一つとして行われたものだった。
この実験から得られる教訓。
我々は、世界最高峰の音楽家が演じる最高の音楽にさえ、立ち止まって耳を澄ませることはない。
ということは、我々は普段の生活の中で、一体どれほど多くの美しいものを見逃していることか」
おもしろい実験だ。
僕らがいかに芸術を理解していないかがよくわかる。
朝の通勤時間帯で忙しいとはいえ、世界でトップレベルの音楽家が目の前でライブ演奏をしていると知っていれば、ちょっとぐらいは足を止めて、彼の音楽を聞こうとするだろう。
しかしこれは、音楽を聞いているのではない。いわば、ジョシュア・ベルという『情報』を聞いているに過ぎない。
実際、彼をジョシュア・ベルその人だと気付かない多くの人は、彼の演奏を耳にしても何も感じないで素通りして行った。
彼の奏でる音楽の美しさに気付いたのは、少年だけだった。
少年は、もちろんジョシュア・ベルを知らない。ただ、目の前の男が演奏する音楽をきれいだと思った。そしてもっと聞きたいと思い、立ち止まった。
しかし大人は気付かない。
ゴミ箱の横に立つラフな格好の男。彼の奏でる旋律が、音楽表現の到達し得る最高度の美しさであることに、大人は誰も気付かなかった。
それなのに、ジョシュア・ベルの演奏するコンサートのチケットには、惜しみなく大金を払う。
もうね、いい加減、通ぶるのはやめたほうがいいな^^;
ほとんどの人は、芸術なんてわかっていない。身近にある美しさに気付かない。
世間から太鼓判を押された美しさのことを芸術だと思っているだけなんだな。
2019.2.3
たかが子供、じゃない。子供は国の未来だ。
心身ともに健全な子供を育てる上で、食事の重要性は強調してもし過ぎることはない。
では、何を食べさせればいいのか。
ネットにこんな記事があった。https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190131-00000019-nkgendai-hlth
『子供のIQは朝の米食で変わる』という記事。ソースは日刊ゲンダイ^^;
記事の内容を1行で要約すると、、、
朝食にパンではなくごはんを食べている子供では、脳の灰白質の容量が大きく、かつ、IQも高かった、という話。
農協から依頼されて書いた提灯記事かな、とか邪推してしまう笑
糖質制限が一般にも広く知られるようになった今、米の売り上げが下がって困ってる人がいるのは確かだろうけどね。
記事を一読して思ったのは、灰白質の違い、IQの違いが、本当にごはんとパンの栄養素の違いだけに由来するものか、かなり疑わしい。
夜遅くまで仕事したり晩酌したりして朝の苦手なお母さんだったら、朝食にはごはんよりもパンを食べさせるだろう。ごはんだと前日に米を研いで炊飯器のタイマーをセットしたりするのがめんどくさい。しかもごはんの場合、米を炊いて茶碗に入れて出すだけではダメで、味噌汁なり惣菜なり、何らかのオカズを一緒に供することが暗に求められているところがある。
子供の食事なんてどうでもいいと思っているお母さんにとって、米食は手間のかかることこの上ない。でもパンなら、菓子パンひとつぽんと手渡すだけで終わり。食パンでも、せいぜいジャムやバターを塗る手間だけ。
ごはんとパン、栄養的にはもちろん違いがある。
パンに含まれている小麦グルテンは人によっては腸の炎症を惹起するアレルギー物質だし、粗悪なパンには大量の砂糖はもちろん、トランス脂肪酸や臭素酸カリウムなど、毒物みたいな添加物が含まれている。
パン食の子供でも、食べているのが昔のヨーロッパ人が食べてたような精製度の低い黒パンだったなら、この研究の結果は当然違っていただろう。
そう、ごはんとパン、両者の栄養価の違いは明らかなんだけど、仮にそれを差し引いたとしても、やっぱりごはん群の子供がパン群の子供より有意に優秀、という結果が出たんじゃないかな。
お母さんが子供にどれだけ手をかけているか。これが核心だと思う。
子供に米を食わせているかパンを食わせているか、というのは、母親の子育てに対する根本的な姿勢を試すリトマス紙になっている。子供に食べさせる料理をおろそかにしないお母さんは、多分、その他の面でも手を抜かないお母さんだろう。しっかり者で、知的レベルも高いかもしれない。
一方、料理の手間を嫌がってパンで安易に済ませるお母さんは、子育てにあまりコミットしてなさそうだ。良く言えば放任主義で、子供は案外それでタフに育つものかもしれないけどね。
こんな論文もある。
『ヨーロッパの子供における心理社会的幸福感と健康的な食事習慣の間にある双方向的関連性』
https://bmcpublichealth.biomedcentral.com/articles/10.1186/s12889-017-4920-5
毎日健康的な食事をしている子供は心身ともに健全であり、逆に、心身ともに健全な子供は毎日健康的な食事をしている、という一見当たり前の直感が、きちんと統計的に裏付けられたというのがこの研究の主張だ。
8ヶ国から選んだ2歳から9歳までの子供7675人をコホートとした研究(IDEFICS)から調査した。2007年9月から2008年6月に1回目の調査を行い、2年後にもう一度調査した。心理社会的幸福感は自尊心と親子関係についての質問(KINDL)および感情、交友関係の問題(『子供の強さと困難さアンケート』)によって測定した。
『健康食事習慣スコア』(HDAS)は43項目の食品から食べる頻度を計算し、子供の食事摂取が栄養ガイドラインにどの程度沿っているかを測定した。
よい食習慣を保っている子供ほど、健全な自尊心を持ち、感情が安定していて、問題行動が少なかった。また、健全な自尊心の子供ほど、好ましい食習慣を保っていた。
僕らの食べるものが脳を含め体を作り、脳が心という精神現象を生み出す。
だから、テキトーなものを食べていれば心もテキトーになるし、もっと言えば、人生までテキトーになるよ。
健康な食生活を心がけましょう。