2019.11.15
スウェーデンは美人が多いと国として有名で、首都ストックホルムが「世界で最も美女が多い町」として選ばれたこともある。
http://www.pravdareport.com/society/105452-beautiful_girls/
何を美しいと思うかなんて人それぞれだし、こういう調査の主催者はたいてい白人だから、自分の見慣れた美を選ぶものだ。白人が東洋人の美しさを真に理解しているとは思えない。せいぜい、白人美女にどれだけ近いか、でしか判断してないと思う。
たとえば、このスウェーデン女性をどう思いますか。
文句なしに美人だよ。美人だけど、、、
・白人の青い目って酷薄そうに見えて、何か怖い感じするんだな。
実家で猫を飼ってるけど、明るいところだと瞳孔が閉じてて、いつもの魅力が半減する。薄暗いところだと瞳孔が開いて黒い目がくりっとして、一層かわいくなる。
日本で育った慣れのせいかもしれないけど、個人的には目は黒いほうがいいかな。
・あまりにも整った目鼻立ちって、人工的な感じがして、どこかなじめない。
西洋風の絵画とか彫刻のなかの顔、って感じで、日常的に接する顔じゃないのね。
なじめない美しさって、何だか緊張してしまう。こんな美人が嫁やったら、おちおち横になって屁もこけへんのぉ( ´Д`)
でもこういう、顔のパーツがでかい美女は、女優やモデルとしては非常に重宝される。実際、映画で見ててもスクリーン映えするんだな。
スウェーデン出身の女優と聞いて、まず浮かぶのは、グレタ・ガルボ(1905〜1990)だ。
顔の整った白人のなかにあっても、これほどの美人はなかなかいない。幼少期から舞台に上がっていて、美貌だけでなく演技のうまさも兼ね備えていた。
映画の黎明期を支えた大女優と言っても過言ではないくらいの人だけど、なんと、35歳の若さで映画界から引退してしまった。
引退後も映画界から復帰のオファーやマスコミの取材依頼が絶えなかったがすべて退けて、長い余生を過ごした。
突然の引退の理由はいろいろ言われている。
女性にしては声が低くて、無声映画では問題にならなかったけどトーキーには向いていなかった、という話もあれば、同性愛者であることに生きづらさを感じていたのではないかという説もある。どちらも事実のようだ。
現代日本に生きていれば、宝塚スターになれる器だろうね^^;
この人のエピソードで僕が一番好きなのは、ドナルド・キーンがこの人に会ったときの話。
キーンがニューヨークの友人宅を訪れたとき、たまたまガルボと会った。
引退してすでに数十年が経ち、すでに老いが否みがたく彼女の顔を侵食していた。しかし往年の大女優である。人に面会するときは、メイクすることを忘れなかった。
しかし、キーンは繊細な人である。ガルボの顔を見て、口紅が唇をはみ出していることに気付いた。
キーンはある噂を聞いたことがあった。「ガルボの家には鏡がない」という噂である。
ああ、そういうことか。キーンはすべてを理解した。
老いていく自分の顔を見ることが厭わしく、ガルボは鏡を遠ざけた。しかし、人と会うからには、化粧をしなければならない。そこで、鏡を見ないで紅を引くことになる。
キーンがガルボの唇に見たのは、老いへの嫌悪と女優としてのプライドの葛藤そのものだった。
老いは万人に等しく訪れる。そして、その先にある死も。
老いや死をどう受け入れるのか。そこにはその人の生き方がはっきり現れる。
老いは誰にとっても厭わしいものだけど、若い頃に美しかった人は特にそうかもしれない。
グレタ・ガルボは「もう美しくない自分」というのを、どうしても受け入れられなかった。強烈な自負やプライドというのは、ある意味十字架なんだ。この人の余生は、その重みに苦しむ日々だった。かわいそうに。しんどい人生だっただろう。
逆に、若い頃はパッとしない感じでも、年齢がその人に追いついてくるというのか、中高年になって魅力を増す人も確かにいる。
結局一番幸せなのは、時の流れに変に抗わず、恬淡とした自然体を保てる人なんだろうね。
2019.11.15
小学校のときからずっと「字が汚い」とか「ノートが雑」って言われ続けてきた。家族からも、先生からも。
授業を休んだ後日、隣りの席の女子からノートを見せてもらうと、すごくきれいなので驚いたことがある。でも成績は僕のほうがいいっていう^^
字はあくまで情報伝達の手段であって目的じゃない。きれいなノートを作ったものの全然復習しない、となっては意味がない。
ノートは汚くていい。汚すぎて自分でも読めない、となってはまずいけど^^;、内容が頭の中にまとまっているほうがはるかに大事で、こっちが本質でしょ。
もともと性格的に、外見よりも内容を重視するところがある。他人にもそうあるように求めるし、自分自身、そうあるように努めてさえいる。
たとえば化粧やおしゃれ。魅力を引き立てるものであるならば、一概に否定しない。しかしそれが、貧相な実体を取り繕い糊塗するものであるならば、嫌だな。
健康があふれて出て、結果、肌が美しい、となるべきだし、センスの発露ゆえそのファッションをしている、というのなら納得できる。
逆、「日頃の不摂生が正直に現れた肌を覆い隠すための化粧」とか、「こういう服を着ていたら、私、おしゃれに見えるでしょ」的な人が、ものすごく多い。
文も、どう書くかではなく、何を書くか、が当然重要だ。たとえば論述試験。ペン習字のテストじゃないんだ。きれいな字で内容空疎な文をどれだけ書いても、何も訴えられない。汚い字であっても、思考の密度が高い文章が高評価を受けるに決まっている。
そう、基本的にはそう思ってるんだけど、自分のなかで「字汚いのに勉強できる」というのがいつの頃からか、妙なプライドみたいになってて、清書で書くべき文書なんかでもきれいに書かない(書けない?)のに開き直ってる節がある。こういうふうになると行き過ぎかとも思う。
たとえば何かの学会に参加したとき、受付で「ご芳名」を書くように求められる。そういうとき、いい年して稚拙な字しか書けないって、やっぱり恥ずかしいんだ。せめて自分の名前ぐらいはちゃんと書けたほうがいい。
たとえば、何年か前にネットでこんな画像を見た。
安倍総理の字と、中国の習近平の字を比べて「漢字文化の真の継承者は日本だ」という記事。
安倍総理は毛筆で、習近平はマジック(しかも簡体字)だから、習近平に分が悪いとは思うけど、ネットで「乙女フォントみたい」ってディスられてて気の毒^^
身分のある人はそれ相応の字が書けないと恥をかく、ということだな。
未曾有を「みぞうゆう」、踏襲を「ふしゅう」と読んだり、聞いててこっちが恥ずかしくなる読み間違いをよくする麻生氏だけど、字は達筆。
日本の政治家は、教養として習字をたしなむ人が多いのだろうか。政治は全然ダメだった鳩山由紀夫氏もきれいな字を書く。
政治家の字がきれいだと、「さすが表面を飾るのがうまいな。美辞麗句、耳に心地のよい言葉で国民をだますプロだけあるよ」みたいな邪推をする人も出てくるだろう。
それでも、そういう邪推をされるとしても、立場に相応の美しい字を書くことは必要だと思う。
そう思うようになったきっかけは、最近僕の翻訳した本が出版されたことだ。
予想もしてなかったんだけど、「献本として、本に先生のサインをもらえませんか」と言われる機会がちらほらあって、これには参った。
もちろん、うれしい。そう言ってもらえるのは光栄なことだ。
でも芸能人じゃないんだから、いわゆるサインなんてもちろんない。普通に名前を書くしかないんだけど、その字がちゃんと「普通」に見えるかどうか。ある意味、汚すぎてサインに見えたりして^^;
求められれば応じますが、あまり求めないでくださいねm(._.)m
あと、以前のブログに『オーソモレキュラー医学入門』が欲しい方に向けてメールを受け付けるアドレスを書きましたが、そこに医学的な質問をされる方が散見されます。個別の質問には答えかねますので、ご遠慮くださいm(._.)m
2019.11.14
フェニルアラニン→チロシン→ドーパ→ドーパミン→ノルアドレナリン→アドレナリン
という流れがあって、さらにドーパミン以下のカテコラミンは、酸化されると、以下のようになる。
ドーパミン→ドーパノクロム
ノルアドレナリン→ノルアドレノクロム
アドレナリン→アドレノクロム
この○○クロムには催幻覚作用がある。
統合失調症の幻覚・妄想は、脳内でこれらの物質が産生されていることによるのではないか。これがホッファーの提唱した『アドレノクロム仮説』である。
ホッファーがこの説をひらめいたきっかけは、「幻覚を見るぜんそく患者」の話である。
現在では薬局に置いてある薬は、使用期限に配慮して古くなった薬は患者に出さないようにしているはずだが、当時はそういう管理がけっこうデタラメで、使用期限を大幅に過ぎた薬が処方されることもザラにあった。古くなったぜんそくの治療薬(アドレナリン含有製剤)を服用した患者が妙な幻覚を体験する、というのは、医者界隈では知られた話だった。ホッファーはここから着想を得た。「アドレナリンの酸化物こそ、幻覚物質ではないか。だとすれば、カテコラミンの酸化を防ぐことで統合失調症を改善できるのではないか」
もちろん近年の研究では、カテコラミンだけでなく、グルタミン酸、GABA(γアミノ酪酸)、アセチルコリン、セロトニンといった脳内物質の変化も、統合失調症の病理に関わっていることがわかっているが、ホッファーの着想は大筋で正しかった。
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4032934/
上記のカスケードを見て、素朴に思った。そもそも、フェニルアラニンやチロシンを含有する食材の摂取を控えれば統合失調症が軽快することはないだろうか。
いや、しかしこれは違うな。
たとえば牛乳、肉、卵にはフェニルアラニンが多く含まれているが、これらの多食が統合失調症を増悪させることは考えにくい(ただ、牛乳の多飲は危うい印象だけど)。
チロシンはチーズや納豆に多く含まれるが、これらを多食しても、やはり特に問題は起こらないだろう。
研究によると、チロシンのサプリの大量摂取によって、なるほど確かに、ドーパミンやノルアドレナリンの血中濃度が上がったが、特に気分に問題はなかったという。
前回のブログで、キノコチロシナーゼ(mushroom tyrosinase)という言葉が出てきた。これは研究試薬としてよく用いられるものだけど、一般にキノコにはチロシナーゼが多いのだろうか。チロシナーゼを多く含む食品の摂取によって、ドーパミンの産生が亢進することはないか。キノコにチロシナーゼが多く含まれているとすると、キノコの多食で統合失調症が悪化する可能性は?
しかしこれは直感に反する。キノコといえばβグルカンが豊富で健康によいイメージである。実際、この線で調べてみたところ、ある種のキノコ(ヤマブシタケ)には、統合失調症を改善させる作用がある、との論文を見つけた。
『ヤマブシタケの生物活性物質により統合失調症が改善した』
https://www.longdom.org/open-access/recovery-from-schizophrenia-with-bioactive-substances-in-hericium-erinaceum-2469-9837-S1-003.pdf
著者らはヤマブシタケに抗認知症作用があることについては過去に報告していた。その機序としては、神経成長因子の誘導、細胞毒性物質(アミロイドβ)の抑制、酸化ストレスおよび小胞体ストレスによる神経細胞死の予防が挙げられる。
以下、ヤマブシタケが著効した統合失調症患者の症例報告である。
『54歳男性。
18歳で統合失調症の診断を受け、クロールプロマジン、ハロペリドールの服用を開始した。
20代は幻聴と妄想から、精神科への通院、入退院を繰り返した。
薬の副作用がひどく、唾液過多、発汗、頭痛、アカシジアの症状に悩まされた。
33歳時、陰性症状(無為自閉)が出現し、さらに水中毒(水の病的多飲による)も見られるようになった。
49歳時、幻聴、罪業妄想が悪化し、入院。退院後、薬の副作用の不快さから、服用している薬をすべてやめたところ、悪性症候群を発症した。
52歳時、2週に一度リスペリドン(37.5mg)の注射を開始。
9月8日クエチアピン200mgと眠前フルニトラゼパムを開始。症状軽快し、11月19日退院。
退院後、毎日午前11時頃に起きていたが、起きている間はずっと眠気が残存し、無気力のまま過ごした。』
↑
こういう症例は、精神科に山ほど溢れている。統合失調症の、極めてありふれた経過だ。
しかし論文を読んでいて、精神科の勤務医時代の記憶が蘇って、胸が痛くなった。
治るわけもない薬を出さなきゃいけないつらさ。でもつらいのは僕だけじゃない。患者もつらい。副作用がきつくて、できれば薬をやめたい。でも薬をやめると、ひどい副作用が襲ってくる。患者は薬の罠にかかって、がんじがらめで動けない。
もう、一生飲み続けるしかない。
そんなときに上記患者、ヤマブシタケを飲み始めた。
『12月2日、アミロバン3399(ヤマブシタケ製剤)を1日6錠開始。
2週間後の12月16日、日中の眠気が著明に改善し、一日を活動的に過ごせるようになった。陰性症状がなくなった。彼の母は息子の軽快に驚いた。「この35年間、こんなに元気なこの子を見たことがない」と。
アミロバン3399を開始して1年後、服用している薬は、ミルタザピン(45mg)とゾピテン(5mg)である。
以後4年間、好調を維持している。』
ヤマブシタケ製剤という形でしっかり商品化されているところに、商売っ気を感じるが、試してみる価値はあると思う。サプリ(lion’s mane) として誰でも買えるから、興味のある人はネットで注文してみるといい。
しかし一番いいのは、普通にヤマブシタケを食べることじゃないかな。ヤマブシタケは、マツタケみたいにレアで貴重なキノコではない。シイタケとかマイタケ、シメジなんかと同じように、養殖栽培が可能で、スーパーで普通に売っている。
鍋物の季節だから、シイタケやマイタケなんかと一緒に、具材として使ってみるのもよさそうだ。
2019.11.14
医者の仕事は、ざっと三通りに大別できる。臨床、研究、教育の三つだ。
『臨床』はベッドサイドあるいは診察室で患者を相手にする仕事。普通、特にことわりなく医者というときは、臨床医のことを指す。
細胞や動物を使っていろんな実験をしたり、というのは『研究』で、新しい医学的知見は多くの場合、ここから生み出されている。
『教育』は医学生や研修医、看護学生、ときには他学部の学生などに医学知識を教える仕事。
医者は、子供のときからそれなりに勉強して厳しい受験倍率をくぐり抜けてきているせいか、そもそも勉強することが苦じゃない人が多いんだ。
学ぶことが好き、というのは、医者にとって必須の素質だ。いや、正確には、学生のときに身につけたような大昔の知識でもやっていけないことはないんだけど、インターネットがあって医学的知識が医者の独占物じゃなくなった今の時代、勉強しない医者は患者に見放される可能性が高い。患者に見放されたって、勤務医なら問題なく生活していけるだろう。しかし古い知識でやっている開業医は、相当しんどい時代が来るような気がする。
医学の進歩とともに知識のアップデートが常に必要だから、医者は一生勉強なんよ^^;
そういう職業柄のせいか、人にものを教えるのが好き、という医者も多いと思う。
To teach is to learn.教えることと学ぶことは反対語のようでいて、実は同義語なんだ。こういう医者は大学病院に向いている。
僕は本来、性格的には大学病院向きだと思う。教えることが好きだし、黙々と試行錯誤する研究畑にも憧れる。
臨床現場は目の前の患者と一対一の真剣勝負で、やりがいはもちろんある。でも、そういうふうに一人一人の患者と向き合い治療に当たっても、僕個人ができることは限られている。それよりは、研究に従事して、何か画期的な方法論を編み出すほうが、多くの人を救えるのではないか。たとえば、ホッファーは臨床医であると同時に研究者でもあって、治験を通じてナイアシンの様々な有効性を発見した。彼の功績がどれほど多くの病める人を救ったことか。
しかし、教えることが好きといっても、今の医学部教育で行われているような、患者を救えない知識、それどころか有害無益な知識を広めることになんて、加担したくない。
研究がやりたいといっても、製薬会社の利益に貢献するだけの研究しかできないのなら、そんなのはごめんだ。
教育にせよ研究にせよ、本当に患者のためになることがしたい。
先日、浅井ゲルマニウム研究所の中村宜司さんの研究チームが、また新たな論文を出された。そう、僕がやりたいのは、こういう研究なんだ。
その新たな知見を世に提出することで、ひとつ、世の中が明るくなる。圧倒的な情報の洪水のなか、それはごくささやかな情報のひとつでしかないけれど、それでも、そのひとつ分だけ、世界がよくなる。
今から研究の道に進むのは難しいけど、せめて、そういう情報発信者ではありたいと思うんだな。
『有機ゲルマニウム化合物THGPはメラニン合成を抑制する』
https://www.mdpi.com/1422-0067/20/19/4785
有機ゲルマニウム化合物3-(三水酸化ゲルミル)プロパン酸(THGP)には様々な生物学的活性がある。以前我々は、THGPがcis-diol構造と複合体を形成することを報告した。L-3,4-二水酸化フェニルアラニン(L-DOPA;メラニンの前駆体)は自身のカテコール骨格のなかにcis-diol 構造を含んでおり、過剰なメラニン産生によって皮膚の黒ずみやシミが生じる。そのため、化粧品業界ではメラニン産生を抑制する物質の研究が精力的行われている。
本研究で我々は、キノコチロシナーゼ(チロシン分解酵素)とB16 4A5メラノーマ細胞を用いて、THGPがL-DOPAとの複合体形成を通じてメラニン合成を抑制するかどうかを調べた。
THGPがL-DOPAに作用する能力を1H-NMRによって分析し、THGP(およびコウジ酸)のメラニン合成に対する影響を調べた。
さらに、THGPの細胞毒性、チロシナーゼ活性、遺伝子発現に対する影響も調べた。
その結果、THGPはL-DOPA(cis-diol構造を持つメラニン前駆体)に作用していることがわかった。
さらに、THGPはメラニン合成を抑制し、コウジ酸と相乗作用すること、しかもチロシナーゼ活性や遺伝子発現には影響しないこともわかった。
これらの結果は、THGPがメラニン合成を阻害する有用な基質であること、また、THGPの効果はコウジ酸との併用で増強されることを示している。
一般の医学部教育でも、
フェニルアラニン→チロシン→L-DOPA→ドーパミン→ノルアドレナリン→アドレナリン
という代謝経路は学ぶ。
栄養療法を学んでいる人なら、このカスケードを見れば、ホッファーの功績を思い出す。つまり、「ドーパノクロムやアドレノクロム(ドーパミンやアドレナリンの酸化物)には催幻覚性があって、統合失調症の幻覚・妄想はこれらの物質の作用である。また、これらには細胞分裂抑制作用があるため、統合失調症患者はめったに癌にならない。ドーパミンやアドレナリンの酸化を防ぐために、ビタミンCを摂りましょう」
そういう文脈でこの代謝経路を見ることはあるけど、L-DOPAがシミの原因でウンヌン、という話はどちらかというと美容系の話で、僕にはなじみが薄いので、この論文は新鮮だった。
コウジ酸と有機ゲルマニウムの併用によって、L-DOPAの悪影響をブロックできるのなら、両者は美肌のためのみならず、統合失調症にも有効ではないか。
僕が研究者なら、こんなふうに、検証してみたい仮説はたくさんあるんだけどなぁ。
2019.11.13
毎日将棋のネット対局をしている。
勝ったり負けたりだが、終局後、気になる局面があればソフトで解析する。
たとえば、最近の対局からひとつ、こんな局面を紹介しよう。
最近僕は嬉野流をよく指すんだけど、相手も同じ嬉野流で、相嬉野流の展開になった将棋。画像は後手の僕が60手目5八銀と打ったところ。
ここで先手の投了となり、僕が勝たせてもらった。以後、同金なら同飛車成、6八合駒、6九銀で詰み。
しかし、同金以外の変化は読み切っていなかったので、この局面をソフト(やねうら王)に読ませてみた。
すると、なんと、後手の評価値が-330点。ほぼ互角ながら、僕のほうが若干不利と出た。
どういうことか、わかりますか?
僕は勝勢を意識していたし、相手も劣勢を自覚していた。だからこそ、投了したわけだ。
ところがソフトの読みは、むしろ逆。僕のほうがよくないという。
実際、この局面からソフト同士で対局させてみると、先手はまず7六歩と突いて玉の逃げ道をあけ、その後大熱戦となり、もつれにもつれた。
ようやく127手目に終局したが、結果は後手玉の詰み。
投了の局面から終局まで67手も続くわけだから、素人同士の対局ならまだまだ互角で勝敗不明だし、神のように強い者(ソフト)同士が指し継いだら勝敗が逆転した、ということだ。
将棋には序盤、中盤、終盤とある種の流れがあって、互いに頭の中を読み合って一局の将棋を紡いでいくわけだけど、そのプロセスで、対局者はお互いのことを信頼し合っている。
先を読むが、相手も同じように手を読んでいるはずだから、自分の頭の中にある局面と同じものを、相手も頭の中で見ているはずだ、という信頼である。
「こういうふうに間違えてくれたら都合がいいな」というスタンスでは、よほどの実力差がない限り、勝てない。逆に信頼が行き過ぎて「相手は強い人だから、この手はすでに読んでいるに違いない」と、相手が読み抜けているにもかかわらず、買いかぶってしまうこともある。
こういう対局者心理というのは、極めて人間的だと思う。
ネット対局ではなくてリアルの対局だとこのあたりはもっと露骨に出て、相手の駒を指す手つきがいかにも自信満々だと、すっかり読み切られている気持ちになる。ネット対局でも、時間の使い方でそういう雰囲気は感じる。
でもソフトにはそういう予断がない。淡々と局面の優劣を判断する。
手つきとか時間の使い方とか、そういうハッタリはソフトに当然通じないし、もっと言えば、一局の流れ、というのもソフトは見ていない。
人間同士の対局の場合、局面が一手ごとに変化して、対局者は互いに優勢や劣勢を感じている。一直線に押し切られる将棋もあれば、逆転につぐ逆転という将棋もある。
上記の将棋は僕が一方的に優勢な展開で、持ち時間も僕に余裕があったので、相手の人は僕を信頼して戦意喪失してしまった。評価値が乱高下するような逆転の連続の将棋なら、相手の人もまだまだ希望を捨てずに7六歩から玉を逃がす手を考えたと思う。
かつてコンピューター将棋の黎明期には、コンピューターの指し手を見て、人々は失笑したものだった。
それが次第に強くなり「ふむ、7級くらいの力はあるな」、もっと強くなって「まぁ強いね。有段者レベルだろう」
さらに強くなって、ついに2013年には公の場で初めてプロ棋士を破った。その後もソフトは強くなり続け、2017年には名人を破るに至った。
さらにソフトの進化はとどまるところを知らず、世界コンピューター将棋選手権では優勝ソフトが毎年のように入れ替わっている。
ソフトは、もはや人間には遠く及ばない異次元の強さを手に入れた。
こういう状況になると、どういうことが起こると思いますか?
ソフトが人間を評価するようになります。
かつて人間がヘボ将棋ソフトを上から目線で評価したように、今度はソフトが人間の指し手を評価するようになる。
この事態を「コンピューターに評価されるなど屈辱的で受け入れ難い」と否定的にとらえる人もいれば、「ソフトの正確無比な形勢判断のおかげで、客観的な評価が可能になった」と肯定的に受け入れる人もいるだろう。
個人的には、こんなに楽しい時代はないと思っている。
これまでは、素人には自分の将棋の検討なんて、不可能だった。ところが今や自分の対局をソフトで解析すれば、自分の手が好手だったのか悪手だったのか、悪手だったならどうすればよかったのか、すぐにわかる。ある程度の基礎があれば、あとはソフトを使った自学自習で強くなれる。プロ棋士よりも強いソフトを家庭教師に使えるのだから、極めて能率的だ。
ソフトの進化がもたらしたのは、それだけではない。
棋譜資料が残っている江戸時代の名人や、すでに物故した名人(大山、升田など)の棋力を、棋譜の解析によって、客観的なレーティングによって推定することができる。
客観的、というところが重要で、たとえば将棋ファンが知りたい次のような質問に対して、これまでは主観を排した答え以外は不可能だった。
「現在の将棋界で一番強いのは誰なのか」
「将棋の歴史上、一番強いのは誰なのか。やはり羽生なのか、それとも別の若手か、あるいは江戸時代の名人か」
「全盛期の羽生と全盛期の大山、一体どっちが強いのか」
「江戸時代の将棋の名人は、名前だけのものか、それとも本当に強かったのか」
この論文が、こうした問いに答えを与えている。
『将棋名人のレーティングと棋譜分析』
https://ipsj.ixsq.nii.ac.jp/ej/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=106492&item_no=1&attribute_id=1&file_no=1&page_id=13&block_id=8
2014年の論文だから、藤井聡太七段の名前はまだない。5年前の論文であるということを念頭において、という条件付きではあるが、、、
・勝敗の結果および棋譜内容からの推定によると、この20年で最強のプレイヤーは羽生である。
・羽生名人は、大山15世名人よりも、レーティングで約230点優れている。
など、おもしろい分析だと思った。
ソフトの出現によって、プロ棋士の威厳は地に落ちる、という悲観論があるが、逆じゃないかな。
ソフトがプロ棋士を正当に評価して、「やっぱりさすがだな。アマチュアとは別格だ」ということが、素人にわかりやすく伝わる可能性もあると思う。
いずれにせよ、技術の進化は止められないんだから、前向いていくしかないんだよね。