院長ブログ

2019.11.15

小学校のときからずっと「字が汚い」とか「ノートが雑」って言われ続けてきた。家族からも、先生からも。
授業を休んだ後日、隣りの席の女子からノートを見せてもらうと、すごくきれいなので驚いたことがある。でも成績は僕のほうがいいっていう^^
字はあくまで情報伝達の手段であって目的じゃない。きれいなノートを作ったものの全然復習しない、となっては意味がない。
ノートは汚くていい。汚すぎて自分でも読めない、となってはまずいけど^^;、内容が頭の中にまとまっているほうがはるかに大事で、こっちが本質でしょ。

もともと性格的に、外見よりも内容を重視するところがある。他人にもそうあるように求めるし、自分自身、そうあるように努めてさえいる。
たとえば化粧やおしゃれ。魅力を引き立てるものであるならば、一概に否定しない。しかしそれが、貧相な実体を取り繕い糊塗するものであるならば、嫌だな。
健康があふれて出て、結果、肌が美しい、となるべきだし、センスの発露ゆえそのファッションをしている、というのなら納得できる。
逆、「日頃の不摂生が正直に現れた肌を覆い隠すための化粧」とか、「こういう服を着ていたら、私、おしゃれに見えるでしょ」的な人が、ものすごく多い。

文も、どう書くかではなく、何を書くか、が当然重要だ。たとえば論述試験。ペン習字のテストじゃないんだ。きれいな字で内容空疎な文をどれだけ書いても、何も訴えられない。汚い字であっても、思考の密度が高い文章が高評価を受けるに決まっている。

そう、基本的にはそう思ってるんだけど、自分のなかで「字汚いのに勉強できる」というのがいつの頃からか、妙なプライドみたいになってて、清書で書くべき文書なんかでもきれいに書かない(書けない?)のに開き直ってる節がある。こういうふうになると行き過ぎかとも思う。
たとえば何かの学会に参加したとき、受付で「ご芳名」を書くように求められる。そういうとき、いい年して稚拙な字しか書けないって、やっぱり恥ずかしいんだ。せめて自分の名前ぐらいはちゃんと書けたほうがいい。

たとえば、何年か前にネットでこんな画像を見た。

安倍総理の字と、中国の習近平の字を比べて「漢字文化の真の継承者は日本だ」という記事。
安倍総理は毛筆で、習近平はマジック(しかも簡体字)だから、習近平に分が悪いとは思うけど、ネットで「乙女フォントみたい」ってディスられてて気の毒^^
身分のある人はそれ相応の字が書けないと恥をかく、ということだな。


未曾有を「みぞうゆう」、踏襲を「ふしゅう」と読んだり、聞いててこっちが恥ずかしくなる読み間違いをよくする麻生氏だけど、字は達筆。
日本の政治家は、教養として習字をたしなむ人が多いのだろうか。政治は全然ダメだった鳩山由紀夫氏もきれいな字を書く。

政治家の字がきれいだと、「さすが表面を飾るのがうまいな。美辞麗句、耳に心地のよい言葉で国民をだますプロだけあるよ」みたいな邪推をする人も出てくるだろう。
それでも、そういう邪推をされるとしても、立場に相応の美しい字を書くことは必要だと思う。
そう思うようになったきっかけは、最近僕の翻訳した本が出版されたことだ。
予想もしてなかったんだけど、「献本として、本に先生のサインをもらえませんか」と言われる機会がちらほらあって、これには参った。
もちろん、うれしい。そう言ってもらえるのは光栄なことだ。
でも芸能人じゃないんだから、いわゆるサインなんてもちろんない。普通に名前を書くしかないんだけど、その字がちゃんと「普通」に見えるかどうか。ある意味、汚すぎてサインに見えたりして^^;
求められれば応じますが、あまり求めないでくださいねm(._.)m

あと、以前のブログに『オーソモレキュラー医学入門』が欲しい方に向けてメールを受け付けるアドレスを書きましたが、そこに医学的な質問をされる方が散見されます。個別の質問には答えかねますので、ご遠慮くださいm(._.)m