2018.8.30
手術台の上の横たわる若い女性患者がいて、その横には麻酔科医がいるものだから、A先生、患者が深く眠っていると思い込んで、オペ室に響き渡る大きな声で言った。『おー、いい乳してるなぁ』
看護婦がすばやく先生のもとに駆けつけて、耳元でささやいた。『先生、ルンバールです。全麻じゃありません』
オペ室に麻酔科医がいると、つい全麻のオペだと思ってしまうのが外科医の習性なんだな。
しかしこの患者さん、恥ずかしかっただろうな。いっそ麻酔で眠らせてくれって思ったと思う笑
こんな話をすれば、この先生がすごくふざけているような印象を持ってしまうかもしれない。でもそれは違う。
A先生、手術中にはすごくよくしゃべるっていうことで、オペ看の間では有名な先生で、この饒舌さは先生のスタイルなんだ。
手術室というのは基本的に、非常に緊張感の漂う現場だ。麻酔で人工的に眠らせた患者は、死体のように動かない。いわば「死んでいる」。いったん死んで、その間に病巣を除去し、再び生き返る。手術室での「死」は、さらに輝く「生」を得るための手段なんだ。
この「死」は、肉体的にはリスキーな状態で、下手すれば本当に死んでしまう。ティッシュトートはあってはならない。手術室に緊張感が漂うのは当然のことだ。
手術室の空気というのは、メッサーが作るものだ。
無駄口ひとつたたかず、常人離れした集中力と洗練された手技で、すばやく術式を完了させる、というのもひとつのスタイルだろうが、A先生のスタイルは真逆なんだ。
手と同じぐらい、口が動く。まぁ、よくしゃべることしゃべること。でも集中していないわけでは決してない。器械出しのナースや鉤持ちの研修医相手に、きのうの晩飯に何を食ったとか、息子が思春期で最近自慰の味を覚え始めたらしいとか、本当に実のないバカみたいな話をしてるんだけど、手の動きは正確無比で、着々と手術を進めていく。
こういう具合だから、A先生の手術室は、緊迫感のなかにもどこか和やかなものがある。A先生は自分が神様じゃないことを知っている。あってはならないことだが、自分だって時にはミスをする。そういうときに、誰も口出しできないような雰囲気だったらどうなるか。取り返しのつかないことになるかもしれない。何か異変に気付いたら、それをすぐに指摘してもらうための空気を作る。それがA先生の狙いどころなんだ。
手術というのは共同作業であって、一人ではできない。雰囲気が重要だ。
過度に張りつめず、適度な緊張感のある手術室の雰囲気。だらけず、かつ、硬くなりすぎず、オペに携わる各人が100%の力を発揮できる雰囲気。
この大切さは外科医なら誰しも知っている。では、どうやってその雰囲気を作るか、となると、先生ごとにスタイルが違ってくるわけだ。
音楽を使う先生もいるね。高校生のときからずっと好きだ、ということでBOOWYの曲ばっかり流す先生もいれば、クラシック流す先生もいたり。
ゲーテの一節にこんなのがある。
王に捧げる玉座を作る職人にとって、製作中、その玉座は完全に職人の手の中にある。どんな彫金を入れるも装飾を施すも自由。しかし、完成後、ひとたびその玉座を王に献上すれば、その職人も他の下々の民同様、その玉座に腰かける王の前にひざまずかねばならない。もはやその玉座に触れることさえ許されない。
外科医もこの精神だよね。オペ中、患者の体は外科医の前に開かれて、すべてが委ねられている。手術により病巣を摘出した患者の体は、外科医にとってひとつの作品だろう。しかしひとたびオペが終了し、患者が麻酔から目覚めたならば、患者はもはや人格を持った別の存在であって、敬意を持って接さないといけない。
もちろんA先生もこの精神を持った外科医だ。ただ、ときにはこの饒舌スタイルのせいでエラーをしてしまう。『いい乳してるなぁ』はさすがにひどい笑
でも個人的にはこういう先生、人間味があって好きだなぁ。
2018.8.29
「男のまったくあずかり知らない世界だろうが、ママ友の世界というのがあるのだよ。
だいたい同じくらいの歳の子供がいるお母さんたちが、一緒にお茶したりランチしたりしながら、旦那のグチやら自慢やらの雑談に花を咲かせる、ゆるやかな社交の場、といったところだよ。
それは入会資格のいるような「会」では決してない。リーダーがいるわけでもなければ、月会費が決まっているわけでもない。
しかし、境遇の似たような同世代のママたちが複数集まれば、そこにはおのずとパワーバランスが生まれる。カチッと固定したものではないが、そこには確かに「上下関係」がある。
このヒエラルキーのトップにいるママのことを、ボスママと呼ぶ。ママ友同士の会話は、自然とこのボスママを中心にしてまわるようになる。
集団の性質は、このボスママの性格がかなり反映される。たとえばボスママがいじめっ子気質で、立場の弱いママのかげ口を言ったり、排他的なところがあると、集団の性質もなんとなく殺伐としたものになったりする。
ボスママになるには、いくつかの条件がある。
まず、きれいであること。これはね、男から見た「きれい」と少し違う。「若くてかわいい」ではないんだ。年相応に年齢を重ねていてもいい。「この人、こぎれいにしているな」って、女が同性を評価する感性というのがあるんだよ。そこで認められることが、ママ友内での「きれい」なんだ。
それから、夫のステータス。夫の職業、収入、家柄とかね。今の社会では、経済力というのは、実際の腕力よりもはるかに強い「力」だ。医者、弁護士とか、名のある企業に勤めているとか。旦那がどんな仕事をしているかは、ママ友内での発言権の強さと直結している。
最後に、子供のスペック。子供が勉強ができるかどうか、運動神経がいいか悪いか、ルックスはどうか。男の子ならハンサムか、女の子ならかわいいか。ママさんは、別のママの子供を実によく観察しているものだよ。で、お互いの子供のことを褒めあったりするが、それは社交辞令であることもあれば、本気でうらやましく思うこともあるだろう。子供が有名中学なんかに受かった日には、ママ友内での地位も二階級特進、といったところだ。
逆の場合を考えてみればいい。半分「女」を捨てたような汚い格好してて、旦那はスッカンピン、子供はパッパラパーっていうママが、ママ友内での尊敬を勝ち得ると思う?
女が、他の女の力量を見抜く観察眼ってのはすごいよ。ああいう値踏みは男にはできない。こうして、ママ友内での暗黙の値踏みの応酬をくぐり抜けた勝者が、ボスママとして場の雰囲気の仕切り役になるわけだ。
実はね、うちの嫁は、いわゆるそういうボスママなんだ笑
家で俺に見せるのは、妻としての顔であったり母としての顔であったりするんだが、ママ友内での顔という、俺が全然知らない顔もあるわけだ。
別に不必要に偉ぶる性格じゃないから、ママ友内で誰かをいじめたり、っていうことはないと思うんだけど、どうかな、詳しいことはわからない。
二十年以上連れ添ってなお、俺の知らない顔がある。互いのことを知り尽くして、終わり、じゃなくて、未知の面があるほうが、案外夫婦としてうまくやっていけると思うんだ。」
きのう、ごうちゃんと中学の同級生と飲んだんだけど、そのときに同級生が言ってた話。
ママ友内での人間関係の力学ってのがあるんだね。
物理は得意やけど、この「力学」は知らなんだ笑
「幸せも不幸も、他人との比較から生まれる相対的なものだ」という前提に立てば、ボスママに君臨するということは「最も持てる者」ということで、これほど楽しい人間関係もないだろうけど、そのヒエラルキーの下のほうにいるママさんは、正直苦痛だろうね。
苦痛を感じているなら、サッと抜けたらいいようなものだけど、部活とかサークルみたいなカッチリした集団じゃないだけに、それだけにかえって簡単に抜けにくいところがあるかもしれない。
嫁がいくつになっても身なりとかこぎれいにしてるのは、夫としてはうれしいことかもしれない。
でも、家計のためにブランドものとか買えずに小汚いカッコしてても、育児、家事に尽くしてくれる嫁なら、僕としては全然オッケーで、「ママ友ヒエラルキー?そんなめんどくさい人間関係、捨ててまえ。幸せは主観的なもんやろ」って言ってやりたいんだけど、こういう僕の価値観について来てくれる女性はあんまりおらへんやろなぁ。
2018.8.28
子供のとき、姉がりぼんを買っていたので、僕もそれを読んでいた。
ちびまる子ちゃんは毎週読み切りで、ジャンプでいうこち亀みたいな感じで、ストーリー展開に引き込まれる、みたいな魅力はないんだけど、作者のさりげない人間観察に何とも言えない味があるマンガだった。
ギャグもあれば、人生の本質を突くようなドキッとする表現もあったり。マンガという表現形式で随筆を書いているような印象を受けた。
りぼんによくある、「クラス一の美男子に密かに恋するちょっとパッとしない主人公が、なんだかんだでその美男子と結ばれる」的な、「女の妄想全開」の典型的少女マンガにはいまいち共感しなかったけど、りぼんに載ってる作品のなかでさくらももこと岡田あーみんはちょっと異質で、僕はむしろそういうのが好きだった。
そのさくらももこ氏が亡くなったという。
俳優や作家のような、死後にその作品が残る人の場合、作品のイメージに影響するから死因をはっきり公表しないこともあるという。
たとえば「心不全」と公表しても、人間誰しも死ぬ前には心臓が止まるから、間違いではない。でもこの人の場合、はっきり「乳癌」と公表している。
小林麻央さんのときのように、このニュースの影響で乳癌検診の受診者は間違いなく増加するだろう。
しかし乳癌検診はむしろ有害無益、というのが疫学研究の示すところである。(https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJMoa1206809)
そもそも何のための検診か。癌を早期発見し、早期治療に結び付け、患者の寿命を延ばすこと。これが目的だ。
乳癌検診の導入によって、なるほど確かに、初期癌の患者数は倍増したし、進行期の乳癌は減少した。
しかし一番肝心な、「患者の寿命の延伸」にはつながっていない。
癌治療に関して、何か最も根本的なところで、西洋医学は大きな勘違いをしているのではないか。
さくらももこ氏が乳癌に対してどのような治療を行ったのか明らかではない。
しかし、小林麻央さんについては、闘病の経過をブログに公表していたこともあり、抗癌剤治療を行っていたことが明らかになっている。
抗癌剤治療は、本当に「治療」として機能したのだろうか。
むしろ、「早期発見、早期死亡」という、逆の結果につながった可能性はないのか。
「従来型の癌治療(手術、抗癌剤、放射線)では癌は治癒しない。癌の根本治療は、ビタミンCの大量投与および糖質制限によって可能である」というのが、ポーリング、ホッファーを始祖とするオーソモレキュラー医学の考え方である。
「末期癌患者にビタミンC1日10gを最初の10日間は静脈投与で、その後は同量を経口投与したところ、対照群と比べて4倍長生きした」というポーリングの報告を始めとして、ビタミンCの抗癌作用を示す報告は無数にある。(http://www.pnas.org/content/73/10/3685.short)
しかし、それだけのエビデンスがあるにもかかわらず、一般の医学は癌治療の選択肢として「ビタミンC大量投与」を認めていない。
僕も大学でこんなことは習わなかったし、一般病院でこういう治療が行われている光景を見たことがない。
「効くことはわかっている。しかし、行われていない」という、デタラメがまかり通っているのが、今の癌治療の実情だ。
厚労省は本気で医療費の削減に取り組む気があるのだろうか。高額で、しかも根治につながらない抗癌剤などすぐさま廃止して、代わりに、安価かつ有効性の高いビタミンCの大量投与療法を保険適応すればいい。
そうするだけで、大幅な医療費の削減が可能だし、日本の癌死亡者は激減するだろう。
でも、同時に、製薬会社の闇の深さを知っている僕には、そういうことはまず起こらないということもわかる。
僕一人の力でそういう闇を変えることなんて、絶対できないこともわかる。
僕にできることは、縁あって僕のクリニックに来てくれた人に、僕なりのベストを尽くすことだ。
「大きなことはできませんが小さなことからコツコツと」の西川きよし的精神で行くということ、これしかないな。
2018.8.26
・うつ病の大規模スタディーによると、初発から18ヶ月後に調子の良さを自覚している人の割合は、精神療法群で最も高く(30%)、抗うつ薬治療群で最も低かった(19%)。(NIMH 1990)
・統合失調症の予後は、インドやナイジェリアといった貧困国のほうがアメリカなどの富裕国よりもはるかに良好である。貧困国では抗精神病薬を定期的に服用するのは16%に過ぎないのに対し、富裕国では抗精神病薬の服用が標準治療である。(WHO 1992)
・547人のうつ病患者を6年間追跡した研究によると、投薬治療を受けた人はそうでない人に比べて予後不良である確率が7倍以上高く、仕事、家事など「主要な社会的役割」を果たせなくなる可能性が3倍高かった。(NIMH 1995)
・抗精神病薬により脳の形態的変化が引き起こされ、これが統合失調症の症状の悪化と関連している。(ペンシルベニア大学 1998)
・うつ病の診断を受け投薬治療を受けている人は、非投薬群に比べて、一年後のうつ症状および全般的な健康状態のスコアが悪化していた。(WHO 1998)
・長期間のベンゾジアゼピン系薬物の使用者が薬の離脱に成功すると、「機敏になり、かつ、より深くリラックスし、不安も少なくなる」。(ペンシルバニア大学 1999)
・今日の双極性障害の患者の長期的な予後は、投薬治療が導入される時代以前と比べると、格段に悪化している、というのが疫学研究の示すところである。この悪化は、抗うつ薬や抗精神病薬の有害な作用の影響と思われる。(イーライ・リリー; ハーバード医学校 2000)
・短期間のうつ症状を生じているカナダ人1281人を対象とした研究によると、抗うつ薬を服用した人ではそのうちの19%が長期的なうつ状態に移行したのに対し、投薬治療を受けなかった群で長期的なうつ状態に移行したのは9%だった。(カナダの疫学研究 2001)
・薬による治療が導入される以前には、長期的な経過のなかで双極性障害患者が認知能力の低下をきたすことはなかったが、今日、彼らは統合失調症患者と同程度の認知能力低下が見られる。(バルティモアのシェパード・プラット・ヘルスシステム 2001)
・長期のベンゾジアゼピン系薬物の服用者では、「中程度から高度」の認知能力低下が見られる。(オーストラリア 2004)
・エンジェルダスト、アンフェタミンなど、精神症状を惹起する薬物はすべて、脳内でのD2受容体の発現を増加させる。抗精神病薬も脳内で同様の変化を引き起こす。(トロント大学 2005)
・9508人のうつ病患者を5年間追跡した研究によると、うつ症状の見られた期間は、抗うつ薬服用者では年に平均19週であったのに対し、未投薬群では年に平均11週だった。(カルガリー大学 2005)
・統合失調症患者を15年間追跡した研究によると、抗精神病薬をやめた群の40%が寛解した一方、投薬群で寛解に至ったのは5%だった。(イリノイ大学 2007)
・ベンゾジアゼピン系薬物の服用者の長期的な予後は、「顕著に不良」から「極度に不良」であり、常にうつ症状や不安症状が見られた。(フランス 2007)
・ADHDの診断を受けた子供たちを追跡した大規模研究によると、診断から3年目までに「投薬治療を受けているかどうかは、良好な予後の指標ではなく、悪化の指標であった」。投薬を受けた群では、非行に走る傾向も高く、また、背や体格も小柄になる傾向が見られた。(NIMH 2007)
・双極性障害の追跡研究によると、予後不良の主要な予測因子は、抗うつ薬を服用しているかどうかだった。抗うつ薬服用者では、そうでない人と比べて、「ラピッドサイクラー」型双極性障害になる可能性が4倍近く高かった。「ラピッドサイクラー」型双極性障害の長期的な予後は不良である。(NIMH 2008)
上記の記述は、『Anatomy of an epidemic』(Robert Whitaker著)からの引用(p307-309)で、僕がテキトーに訳したものです^^;
この本は文句なしの傑作だと思う。
現代の精神科医療は、とても「医療」なんて呼べるシロモノじゃない、単なる製薬会社の金儲けの手段に成り下がっているんだということが、とてもよくわかる。
著者の筆致は淡々としていて、「製薬会社の不正を糾弾する!」とか「患者よ、今すぐ薬を捨てよ!」みたいに扇情的なわけではない。
筆者の目線は常に中立的で、読者に事実を提供する。「精神科の薬にはこういうメリットがあります。でも、こういうデメリットもあります。さて、皆さんはどうしますか」といった感じで、ことの是非は読者に委ねる、というのがこの著者の基本スタンスのようだ。
現代の精神科医療がどのようにして成立してきたのか、抗精神病薬や抗うつ薬の開発の歴史や、製薬会社が大学や精神科学会などで影響力のある人物にどのように取り入ってきたか、そういったことが淡々と語られる。
精神科医は、内科医や外科医など他の医者から常に一段下に見られていた。
『精神医学?あんなものは科学じゃない。フロイトの精神分析療法とか正気の沙汰じゃない。まじないの世界だよ』と。
ところが抗精神病薬の登場により、事情は一変した。不治と思われていた統合失調症患者が、次々と改善し始めたのだ。精神科医の復権だ。内科の診療風景が抗生物質の登場で一変したように、精神医学もついに『魔法の弾丸』を手に入れたのだ。
当時の精神科医がどれほどうれしかったことか。読みながら、僕にも伝わってきた。
もっとも、抗精神病薬の長期予後がよくないことはすぐに明らかになって、バラ色の未来を約束するような薬じゃないことは露呈したんだけどね。
この本、英語だとアマゾンで1700円くらいで買えるけど、邦訳版は4000円もしちゃう。(https://www.amazon.co.jp/心の病の「流行」と精神科治療薬の真実-ロバート・ウィタカー/dp/4571500092/ref=cm_cr_arp_d_product_top?ie=UTF8)
精神科医を目指す人には必読の一冊だと思う。
というかこの本を読了してなお、精神科医になりたいって言える人がいたら、尊敬するわ、逆に。
薬での治療をすでに始めてしまった人は、薬を急に抜くのは危険だよ。ベンゾは特にね。でも栄養療法なら、減薬、断薬のお手伝いができますよ。
2018.8.25
飲み屋でたまたま同業者と知り合って、その人、とあるプロ競技のスポーツドクターだった。外国で国際大会があるたびに日本代表チームに一緒に同行して遠征する。
自分の整形外科クリニックを開業してるんだけど、遠征のときにはクリニックを留守にせざるを得ないから、代診をたてるという。
「また今度、僕が留守するときに、代診のバイトしない?」
「ええ、機会があればお願いします」
言葉の上だけのことだろうと思って軽く受けておいたら、先生、後日メールをくれて、本当に仕事を回してくれた。
内科・精神科が本職の僕が、整形外科を診るという恐ろしい状況になったわけ笑
筋肉の起始、停止とか関節の名前、整形外科の病気とか、学生時代の知識で止まってる。というか、正直、そういう知識もほとんど忘れてる。
先生、さすがに復習しとかないとまずいですよね。
「いや、大丈夫。理学療法士やレントゲン技師がしっかりしているから、基本的には彼らに任せておけばいい。カルテの操作とかでわからないことがあれば事務員に聞けばいい。
君の仕事は、患者の話に耳を傾け、共感することだ。普段精神科医としてやっていることをやってくれればいい。実務的なことは他の職員がやるから」
確かにその通りだった。リハビリの患者がほとんどで、門外漢の僕が重大なジャッジを下さないといけないなんてことはなかった。
ただ、ちょっとした判断を求められることはあった。
右手関節の痛みを主訴に来院した13才女児。テニス部所属。
聞けば、先週までテニス部の合宿で、きつい練習をこなしていたという。
どのように対処すべきか。
レントゲン撮影をし、疲労骨折などの有無を確認。骨折の際には固定し、NSAIDsの処方および安静の指示。
みたいなのが標準的な流れかもしれないけど、こういうのってやりすぎだと思う。
若い女児で被曝のリスクもあるんだから、不必要にレントゲン撮ることなんてない。
直感的には、ハードワークによる手関節への過負荷だということは明らかだから、こんなの、休めとけば勝手に治る。
「痛み止め、いる?」
と聞いてみた。その際、薬のメリット、デメリットについて合わせて説明する。
なぜ薬を飲んで痛みが止まるのかって、考えたことあるかな。痛みというのは体からの大事なサインで、「そこに炎症があるよ」ということなんだ。炎症があることで、血流が多くなって、体は頑張ってその部分を修復しようとする。薬を使えば、痛みは確かに楽になるよ。でもそれは組織の修復プロセスを阻害することでもあるから、治りは遅くなるよ。
どうしても痛いのなら我慢する必要はない。痛みは強いストレスでもあるから、耐え難いほどなら、薬の恩恵にあずかればいい。でも「ちょっと痛いな」程度なら、あえて薬は飲まないほうがいいと思うよ。どうする?
いりません、このまま様子を見ます、ということだったので、特に薬の処方は行わず、最低2週間の安静を指示した。
東洋医学の言葉だろうか、出典は知らないけど『症状即治療』には説得力を感じている。本当にこの通りだと思う。人間の体調不良というのは、基本的には放っておけば治るんだ。
食の不摂生とか、この症例で言えば右手関節の過負荷とか、何かしら明らかな原因があるのなら、それを取り除くことが優先だけど、原因を除去すれば、あとは勝手に治る。
西洋医学というものは、人間の自然治癒力を全く前提にしていない。「痛みがある?それはいけない。それ、鎮痛薬だ」と、すぐ薬の投与に走る。
NSAIDsにどれだけ副作用が多いことか(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/24393558)、プロスタグランジンの産生を抑えることが全身にどれほどの影響を及ぼすことか、そのあたりを知れば安易な投薬は躊躇するはずなんだけどね。
何しろ僕らは、学校で薬の副作用についてあんまり習っていない。せいぜい「NSAIDs出すならムコスタも一緒に出しとけ」ぐらいなもんでしょ。
病気そのものの症状と思われているけれど、実は治療のつもりで投与している薬による薬害だったということは、世間の人が思う以上に、はるかに多い。
精神疾患なんて、その最たるものだと思うんだよね。
このテーマについて語り出せばきりがないから、また別の日に。