院長ブログ

ありがとう

2018.7.10

「最近、人に感謝したようなこと、ありがとうって誰かに言ったこと、ないですか」
「うーん、あると思うけど、そんな急に言われても思いつかへんな。なんで?」
「私、歯科助手として働いてるんですけど、院長がそういう『ありがとう』的なことが大好きで、毎日その日の担当者が『ありがとうエピソード』を書いて、みんなの前で発表しないといけないんです。
明日、私の番なので、それでどうしようかなって困ってます」
「テキトーに話作ったら?電車の中でおばあちゃんに席を譲ったら、ありがとうって感謝された、とか」
「あ、それ、いいですね。その話、いただきます笑
うちのクリニック、院長の他にも二人の勤務医の先生と、歯科衛生士、事務員がいるんだけど、みんなで、この『ありがとうエピソード』の発表会を持ち回りでやらされてて、うんざりしてます。
それで、勤務医の先生なんて、発表するネタに困って(あるいは院長のバカバカしい趣味に付き合わされるのにうんざりして)、事務員に『ありがとうエピソード』の代筆を頼んだりしてます。
院長、人間的にはいい人なんだけど、こういう『ありがとう』の強制は勘弁してほしいなって思います」

『ありがとう』の強制。言葉の組み合わせとして新鮮で、おもしろいと思った。
感謝が胸からにじみ出て、それを何とか相手に伝えたい。その思いが言葉としての形をとって口から出るのが、「ありがとう」の本来の姿であるべきだろう。
半ば強制的に絞り出させる「ありがとう」に、いったいどれほどの意味があるのか。

この話を聞いたときに思い出したこと。
どこかの国が延々『謝罪と賠償』を日本に求めているけど、こういうニュースを聞いて僕は素朴に思うんだけど、その国の人はそんなふうに人を無理やり謝らせたとして、本当にうれしいのかな。
「すまなかった。謝って済む問題ではないかもしれないが、ぜひとも謝らせてほしい」という形で、自発的に、心の内側から自然とにじみ出た申し訳なさでないと、謝罪として意味がないと思うんだけど、お国柄の違いかな。
心を伴わない形だけの謝罪だとしたら、そんな謝罪はかえって不愉快だというのが一般的な感覚だと思う。

「ありがとう」などきれいな言葉をかけた水からは美しい結晶ができ、「ばかやろう」などの汚い言葉をかけた水からは醜く潰れた結晶ができる、という話が一時話題になった。
非科学的だ、と批判されることが多いけど、基本的にはいい話だと思う。
僕ら人間の体は6割がた水でできている。いい言葉を聞いた水には美しい結晶ができるのなら、いい言葉を聞いた僕ら人間にも、きっとプラスの作用がありそうだ。
言葉を大切にするべきだ、というのは教育として間違っていないと思うし、自分の経験を振り返っても、人の悪口とか人を罵倒するような汚い言葉を言ったときには、自分自身にもその毒っ気が当たっているように感じる。
でも、人間の複雑なところは、一見いい言葉のように思えるけど実はトゲのある言葉とか、一見ひどい言葉のように思えるけどすごくあたたかみのある言葉とか、単純にいい悪いで割り切れない言葉のほうがむしろ多いところだ。
僕の母はよく「アホやなぁ」と言った。
5歳のときだったか、幼稚園の帰りに、おしっこを漏らして家に帰ったことがある。トイレに行けばよかったのに、あるいはそれが無理なら、男の子なんだからそこらへんの原っぱで済ませてしまえばよかったのに、どういう事情だったのか、パンツの中でそのまま漏らしてしまったのだった。
家に帰った僕は、母の前で涙流した。屈辱の涙か、羞恥の涙か、よくわからない。そういう僕を見て、母は「アホやなぁ」と言って僕の頭をなでた。

この「アホやなぁ」を水はどう判断するのだろう。
汚い言葉として、醜い結晶を作るのだろうか。
故人を思うときにいつも頭の中で再生される言葉は、ほほえみながら言う、この「アホやなぁ」なんよ。個人的にはこれほど胸があたたかくなる言葉って他にないんやけどね。
言葉の使われ方や内容を度外視して、「この言葉はオッケー、この言葉はダメ」ってさ、言葉狩りと一緒だね。
状況によって「ありがとう」が刃物になって突き刺さることもあるし、「ばかやろう」が何とも言えないなぐさめを与えてくれたりもする。
そういう複雑さこそが、言葉のおもしろさだと思うんだけど、一方で、こういうあやふやさを煩わしく思う人の気持ちも分かる。
だから、「ありがとう」=いい言葉、と公式化するのは個人の自由だと思うんだけど、それを部下や職員に強制までし始めたら、「ありがとう」教という宗教みたいで、何か危ういね。

統合失調症と癌

2018.7.10

統合失調症と癌の関係について、ホッファーはいろんなところで書いてて、たとえば “Orthomolecular Medecine for Everyone”の212ページにこのように書いている。

「統合失調症の発症には、その主な要因の一つとして、アドレノクロムが関与している。アドレノクロムはアドレナリンの酸化物質の一つである。アドレノクロムには幻覚作用があり、細胞分裂阻害毒である、というのが私の作業仮説である。従って、癌と統合失調症は当然対極のものであり、両者が同時に起こり得ない、というのは筋が通っていると思われる。ある患者が過剰な酸化反応によってアドレノクロムを過剰産生したとすると、その人は癌ではなく統合失調症を発症する可能性がある。アドレノクロムには細胞分裂を抑制する作用があるからである。患者が十分なアドレノクロムを産生しないならば、統合失調症ではなく癌を発症する可能性がある。幻覚作用を発揮するのに十分な量のアドレノクロムがないためである。
1955年以来、私は5000人以上の統合失調症患者と1400人以上の癌患者を診てきた。これらの患者のうち、癌と統合失調症の両方に罹患したのは10人だけだった。彼らは皆、オーソモレキュラー療法で回復した。私は統合失調症患者が癌で死ぬのをただの一人も見たことがない。この明確な対照関係は、相関の程度は弱まるものの、第一度近親者(親子兄弟姉妹)にも当てはまる。癌患者の家族785人のうち、3人が統合失調症であり、89人が癌だった。統合失調症患者の家族437人のうち、29人が統合失調症であり、26人が癌だった。
フィンランドで行われた大規模研究により、統合失調症患者における癌発症率は、一般人口におけるそれよりも低いことが分かった。これは文献に掲載された同様の知見を裏付ける格好となった。癌に罹患した統合失調症患者が、標準治療とオーソモレキュラー療法を組み合わせた治療を受けると、両方の疾患から回復するだろう。癌の発生率の低下は、統合失調症を遺伝子多型にした要因の一つであり、統合失調症者の生殖を阻もうとする様々な圧力にもかかわらずこの病気は生き残ってきた。統合失調症は癌に対する主要な防御として進化しているのである。カテコラミンの酸化派生物であるアミノクロムは核分裂抑制物質だと分かっている。この仮説は癌に対応する際に抗酸化物質がいかに重要であるかの説明を提示するものであり、真剣に検証されるべきものである。」

どうですか、上の文章。
読みやすいですか。お堅くて読みにくいですか。
何を隠そう、僕の翻訳なのです^^ 
本全体の翻訳はもう一年ほど前に完成したのに、出版社が全然仕事を進めてくれなくて、いまだに出版されてません泣
もういっそ、この院長ブログ上で翻訳文を全部公開したろかな、とか思ってます。
出版されたところで、本が売れる売れないには興味ない。翻訳者としての印税なんてたかが知れてるし、そもそも金が動機で翻訳を思い立ったんじゃない。
「オーソモレキュラー栄養療法というこのすばらしい治療法が日本人全員の常識になればいい。そうすれば病気で悩む人の数は確実に減るはずだ」
僕が関心があるのはこの一点だけだ。
だから、ネット上に翻訳データを全文公開することが、出版社との契約違反とかにならないのであれば、僕としては全然公開してもいいと思ってます。

アドレノクロム、というのが非常に重要なキーワードだ。
催幻覚物質であり、かつ、細胞分裂抑制物質だという二面性があって、癌と統合失調症のトレードオフの関係性はこの二面性に由来する、という話。
「統合失調症患者の多くは抗精神病薬を飲んでいるわけで、そうした薬が何らかの機序で発癌を抑制しているのではないか」という反論があり得るが、ホッファーは別の論文でこう言っている。
「すでに1893年に、Snowが精神病患者が癌にかかりにくいということに言及している」。
スノウといえば、医学部出身者なら統計学の授業で聞いたことがあるはずだ。
1854年ロンドンでコレラが大流行し、市当局は困惑していた。そこでスノウは徹底的な調査を行い、「原因は某所の井戸ポンプから汲まれた水に含まれている汚染物質だから、この井戸ポンプの使用を中止するように」と疫学的データを示して役所を説得した。しぶしぶその通りにしたところ、コレラの発生は見事に終息した。これが疫学的データが公衆衛生政策に生かされた世界最初の例だ。
コレラの終息を見届けて4年後、1858年、スノウは脳卒中でこの世を去った。
ん?それなのに、スノウ先生、1893年にも論文出してるって、どういうことだ?
調べてみれば簡単で、コレラのほうはジョン・スノウ、1893年の論文はハーバート・スノウっていう、スノウつながりの別人だったというだけの話。
1893年当時、抗精神病薬はまだ開発されていない。
だから、抗精神病薬が癌の発生を抑制したのではないか、という指摘は当たっていない。
これはRice(1979)によって確認されたし、Gulbinat(1992)によって再確認された。

アドレナリンが酸化されるとアドレノクロムになり、アドレノクロムが酸化されるとアドレノルチンになる。
アドレノクロムは可逆性で、体内に抗酸化物質が適量備わっている健常者では還元されて再びアドレナリンに戻るが、統合失調症者など体内のセレン濃度が低い人(グルタチオンペルオキシダーゼの低い人でもある)ではアドレノクロムがさらに酸化されて、アドレノルチンになる。
この物質は不可逆で、幻覚作用もあるので、統合失調症患者の血中にはではアドレナリンが少なく、アドレノクロムおよびアドレノルチンが多い。
統合失調症患者の喫煙率は非常に高いが、これは、タバコを吸うことによって、減少したアドレナリンを補うことができるからだ。つまり、「統合失調症患者にとって、喫煙は自己治療的な意味合いがある」というのがホッファーの見解だ。
近年、総合病院のみならず精神科単科の病院でも院内全面禁煙の流れが進んでいるけど、タバコの統合失調症に対する薬理効果を考えれば、タバコを一概に悪者と断定するのは違うと思うんだな。

参考: Why Schizophrenics Smoke but Have a Lower Incidence of Lung Cancer: Implications for the Treatment of Both Disorders; A. Hoffer et al

心理学

2018.7.9

「大阪で地震が起こったとき、ちょうど通勤途中で、電車に乗っていた。
電車の中はパニックだった。
激しく揺れて電車が止まって、ケータイの地震警報があちこちで鳴り響いて。
僕のすぐ近くにいた若い女性が、大声出して叫んだ。「死にたくない!」
別に僕に言ったわけではもちろんなくて、本能的な危機感から出た自然な叫び声という感じだったけど、僕のすぐ横だったから、「大丈夫。何とかなるって」とその人に言った。
涙流した顔をこちらに向けた。きれいな人だったから、ドキッとした。
男ってしたたかなもので、ああいう危機的な状況でも、「吊り橋効果でお互い好き同士になれたらいいな」とか思った。結局何も起こらへんかったけどね笑
そこからがきつかった。車内に2時間ほど閉じ込められてさ。
地震が起こった直後のパニックが落ち着いたら、今度はみんな現実的になって、ケータイをチェックする。地震速報がすぐネットで流れるから、大阪で地震が起こったんだ、と自分の状況が客観的に見えてくる。
それと、みんなあちこちに電話をする。会社とか家とか友人とか。でも電話も通じにくかった。
僕の勤める会社は、電車の止まった場所のすぐ近くだったから、駅員に「早く降ろしてくれ。歩いていくから」って駅員によほど言いたかったけど、言わなかった。
車内で閉じ込められて、ガマンしてるのはみんな同じだしね」

今年大学を卒業して社会人になったばかりのいとこの話。
酒を飲みながらの話だったせいか、その後の話題はもっぱら吊り橋効果の話になった。
「吊り橋効果を吊り橋効果として認識しているうちは、吊り橋効果なんて起こらないんじゃない?」
「いや、そもそもそんな効果、ほんまに存在するの?」
「吊り橋を渡る緊張感を、一緒にいる異性に対するドキドキと勘違いするって?そんなアホ、ほんまにおると思う?
むしろ逆やと思うわ。
こいつと一緒におるせいで、ピンチになってもた。こいつは貧乏くじ引く疫病神や、と。
それで相手への好意も冷める、という感情のほうが、よほど現実的じゃない?」

心理学は、学問と名乗るには微妙なところがあって、ある実験報告を読んでそれを追試しようにも、結果の再現率が非常に低いんだ。化学ならこんなことはまずあり得ない。
スタンフォード監獄実験というのがあって、映画化もされた有名な実験なんだけど、これがウソだったということもバレてしまった。http://karapaia.com/archives/52261130.html
要するに、心理学は学問というよりは占いなんだと割り切ったほうがいいと思う。なまじっか学問としての正確さを要求しては、その不正確さにイライラするだろう。占いに毛の生えた程度の代物、ぐらいに思っているほうが、かえって楽しめると思う。

でも個人的に、実臨床で役立っている心理学がある。
バーナム効果って知っていますか。
誰にでも当てはまることなのに、まるで自分にだけ当てはまるような気持ちにさせて、ドキッとさせちゃう効果なんだけど、これ、精神科医として患者と接するときには、非常に使えるテクニックだ。
「みんなの前では社交的にふるまっていて、周りからは悩みなんてなさそうでうらやましい、って言われても、本当はそんなことないですよね。ときには家で一人、じっとしていたい。そういう気分にもなりますよね」
「ありのままの自分を愛されたい、と思う一方で、こんな私じゃダメ、変わらなきゃ、もっと成長しなきゃ、って思う。自分を高めたいっていう思いは、すばらしいですね」
問診の途中で、こういうセリフをさりげなく挿入する。患者は、ハッと僕の顔を見て、「この先生、私のこと、すごくわかってくれてる」って思う。
でもね、違うんです。みんなに当てはまることを言ってるだけなんです笑
そもそも、アンビバレントで両極の間を揺れて行ったり来たりしてるのが人間なんだ。自信満々に生きているように見える人も、内心怯えていたり、萎縮してビクビク生きているように見える人も、人には譲れない信念を内に秘めていたりする。
両義的なのが人間です。
だから、つまり、吊り橋効果をバカにした僕だけど、やっぱり内心、吊り橋効果でドキドキするような出会いには憧れているのです笑

結核

2018.7.8

1950年代、結核病棟で新薬(イプロニアジド)を投与したところ、末期の結核で半死半生の体にあった患者が陽気になったり、踊り出したり、という事例が見られた。
新薬が見事に結核を治癒させたから?
いや、残念ながら結核自体はアクティブなままだったが、どうもこの薬には抗うつ作用があるらしい、ということで、うつ病を薬で治そうとする研究はここから始まった。

そもそも、なぜ人は陽気になるのか。
モノアミン(ドーパミン、セロトニン、アドレナリン)が出ているおかげだ。
ドーパミンが出ると気持ちいいし、セロトニンが出ると気持ちが安定するし、アドレナリンが出ると気持ちが上がる。
でも、出過ぎても困る。いつも快楽ホルモンが出っぱなしじゃ、あえて何をする気も起きないだろう。人生は山あり谷あり。退屈や不愉快こそが、人生のスパイスであり、人を動かす動機にもなっている。
そこで、人間の体には、モノアミンを分解するモノアミン酸化酵素(MAO)というのがちゃんと備わっている。古くなったり過剰になったりしたモノアミンを掃除する役目だ。
でも、モノアミンが少な過ぎても、もちろん困る。パーキンソン病やうつ病になってしまう。
イプロニアジドを飲んだ結核患者が陽気に踊り出したのはなぜか。
それは、イプロニアジドがMAOの働きを阻害し、シナプスでのモノアミン濃度が高まったせいではないか、と科学者たちは考えた。

さらに研究が進み、MAOにはMAO・A(アドレナリン、セロトニンに作用)とMAO・B(ドーパミンに作用)の2通りあることが分かった。
イプロニアジドはA、B両方を阻害する(しかし肝炎の副作用が強いため、現在は用いられていない)。
パーキンソン病の治療薬に使われるセレギリンはBだけを阻害し、南米の原住民が儀式のときに使うアワヤスカはAだけを阻害する。

身近なところでは、タバコはAもBも両方阻害する。つまり、シナプスでドーパミンもセロトニンもアドレナリンもみんな濃度が高まるからこそ、気持ちを前向きにしてくれるわけ。
ちなみに、タバコにはアセトアルデヒドが添加物として入っているけど、これはニコチンとアセトアルデヒドの相乗作用で、タバコへの依存性を高めるために入れられている。
Lシステインには血中アセトアルデヒドの濃度を下げる働きがあるから、タバコをやめたい人はシステインかNACのサプリを飲むと禁煙しやすくなるよ。

意外なところでは、ウコンに含まれてるクルクミンもA、B、両方阻害する作用がある。
インド人にうつ病がいない、っていうのは、彼ら、カレーをよく食べるからだ。カレーにはターメリック(ウコン)が含まれていて、そのおかげでセロトニンがたっぷり分泌されるんだな。
カレーって、食べた後、スッキリするでしょ?
あれは、辛いものを食べて、額から汗なんて流しつつ食べる爽快感もあるんだけど、シナプスの神経伝達物質の濃度が高まる快感っていう、れっきとした生理的メカニズムもあるのですよ。
うつ病の治療として、毎日お昼にインド人のやってる本格カレー屋でカレーを食べる、っていう選択肢があってもいいんじゃないか、って個人的には思ってる。大手企業が売ってるルーを使ったカレーは粗悪な油脂がかえって有害だと思うけど、ちゃんとしたカレーって、下手な抗うつ薬より副作用ないし、薬よりもよほど薬だよ。

MAO阻害薬を飲んでる人はチラミンを含む食事を食べてはいけない。
チラミンというのは、チーズ、ワイン、豆腐とかに含まれてるんだけど、体内で代謝されてドーパミンになる。
MAO阻害薬によって、ただでさえMAOが高まりやすい状態のところで、食事性にドーパミンが大量供給されたとしたらどうなるか。
急激に血圧が上がったりして、危険な状態になる。MAO阻害薬とSSRIの併用でセロトニン症候群が起こるのは、内科医には知られた事実だ。

ところで、チーズって、けっこうハマっちゃうよね。
ピザとか癖になってやめられないって人、多いけど、それは上述のようにチーズを食べれば手っ取り早くドーパミンを刺激できるから、っていうのが一つと、もう一つは、チーズにはカゼインっていうタンパク質が含まれてて、それが分解されるとカソモルフィンっていうアヘン様物質になるからだ。カソモルフィンはモルヒネとかヘロインと同じく、オピオイド受容体に作用する。麻薬並みの快感、なわけで、そりゃ確かになかなかやめれへんわなぁ。

ところで冒頭にあげた結核病棟の話、Robert Whitakerの”Anatomy of an epidemic”っていう本で読んだんだけど、三年ほど前に初めて読んだとき、イプロニアジドがシナプスの神経伝達物質の濃度に影響する機序以外にも、機序があるんじゃないかって思った。つまり、イプロニアジドはイソニアジド(抗結核薬)の誘導体なわけだから、腸内細菌叢に何らかの作用をするんじゃないかって、思った。カレーを食べてうつ病が改善するのも、セロトニンよりは腸内細菌叢の変化のほうが説得力あるような気は今もしてる。
そこで、腸内細菌叢の権威、辨野義己先生にメールを送った。あんまり返事は期待してなかったんだけど、意外にもちゃんと返事をくれた。概ね僕の予想を肯定するようなお返事でした。
結局、食事内容およびそれに付随する腸内細菌叢がものすごく大事で、脳内神経伝達物質がどうのこうの、っていうのは相当些末な、枝葉の話なんだ。
健康への答えなんて、もうとっくの昔から分かっている。
「食べ物に気を使いましょう」
漢方風に言えば、医食同源。これが結論なんだ。
でも、西洋医学は妙な理屈をこねくり回して、おかしな方向にひた走っているようだ。
真理はもっとシンプルやし、病気は本来、もっと簡単に治るものなんよ。

七夕

2018.7.7

病院って、季節の行事にはけっこう乗っかるもので、七夕の頃となると、患者に短冊渡して願い事を書いてもらい、それを笹に飾ったりする。
僕はああいう短冊を見るのって好きで、一通り目を通す。
人が目につくところに飾ることは患者も承知してるわけだから、人に知られたくないようなストレートな欲求が書かれるようなことってまずないんだけど、「早く退院して酒が飲みてぇなぁ」なんて書いてあるのを見て、クスッとする。

ポリクリ中の医学生として、心臓血管外科にいたときの話。
「学生くん、この短冊を見てみろよ」とオーベンが言う。
笹に飾られた一枚の短冊を見る。
「心ぞうがよくなりたい」
拙いが、本人なりに精いっぱいの丁寧さで書いたことが伝わってくる文字だった。
「これ、俺の患者だよ。来週オペがある。
心房中隔欠損症。
6歳まで様子を見たが、症状としては増悪傾向でね、手術をしようということになった。
俺は七夕という習慣についてはよく知らないんだが、この子としては、笹に願い事を書いて、神様的な何かに祈っているわけだろう。手術が成功して、心臓がよくなりますように、ってね。
手術が成功するか失敗するか、それはメッサーの俺の腕にかかっているわけだから、いわばこの子は俺に祈っている。
でも俺は神様じゃない。
君らと同じ不完全な人間だよ。
オペ中の指先の狂い一つで、手術が、そしてこの子の人生が、台無しになってしまうかもしれない。
緊張感はもちろんある。
不必要に緊張してはダメだが、変に慣れて過信に陥ってもいけない。適度な緊張を自分の胸の内の維持したまま、手技を進めていく感じだ。
方法としては確立されているんだ。
人工心肺に循環を回し、動脈を遮断する。
その間にすばやく心臓を修復する。
動脈の遮断を解除し、心拍を再開する。

同じような症例はすでにいくつもこなしているから、技術的な意味で言えば、当然慣れている。
でも、妙なことを言うようだが、心拍を再開し人工心肺を離脱したときのあの感じ、一度止めた心臓が、再びまた鼓動を刻み始めるあの感じは、いつも不思議なんだ。
いったん心臓が止まって、いわば一度死んだ人が、再び蘇生するわけだからね。
生命への畏敬というのかな、慣れてしまってはいけない感情というのがあるような気もしている。」

先天性疾患の多くは、胎内での有害物質の曝露とか栄養不良が原因で、手術の前に栄養療法を行うことで救われる例が相当数あると個人的には思っているんだけど、外科の先生の、こういう「人間」が垣間見えるような話は好きだ。

催奇形性が言われている薬、食品添加物、農薬は確かにあって、本来市場に流通しちゃいけないレベルのものが、いろいろな事情で普通に使われていたりする。
サリドマイドとか、誰が何と言おうと明らかな奇形が生じればさすがにストップがかかるけど(それでもサリドマイドの催奇形性の報告から販売中止まで、1年ほどかかった)、ちょっとした心奇形とかIQ低下とか、見た目に分かりにくい影響しか出ないなら、全く規制されていないことも多い。
最終的に、文明のツケをもろにかぶるのが、子供世代なんよね。