院長ブログ

『かたち』と『はたらき』

2020.2.29

嘘がまかり通っているのは、内科や精神科ばかりではない。整形外科も同じようだ。
長らく市中病院で整形外科医をしておられた坂井学先生は、西洋医学の矛盾に気付いた。
膝や腰が痛い、と整形外科を受診する患者。MRIを撮れば、何の異常がないことも多い。
逆に、軟骨が磨滅してほとんどないのに、痛みもなしに普通に暮らしている人もいる。MRI所見では神経が圧迫されているはずなのに、普通にスポーツをしている人もいる。
一体、どういうことだろう?
この矛盾は、しかし坂井先生だけが気付いているのではない。
整形外科医なら、ほとんど全員がこの事実に気付いている。ただ、誰も深く追求しないだけである。

先生は、ある治療手技との出会いから、『かたち』よりも『はたらき』なのだ、と気付き、さらに、『エネルギーの流れ』の重要性を認識し、この知見を実臨床に生かすようになった。
具体的には、たとえば、「温める」ことである。
このあたりは、坂井先生の著書『「体を温める」とすべての痛みが消える―腰痛、ひざ痛、股関節痛、間欠性跛行が治った!』(坂井学 著)を参考にして頂きたい。

先生は、西洋医学の矛盾に次第に耐えがたくなり、あるときついに、安定した勤務医の身分を捨てて開業を決意した。
その思いについて、このように語っている。
「私はただ、詐欺を仕事にしたくありませんでした。
MRI所見と実際の症状が矛盾すること、つまり、『かたち』の異常と症状が全然相関しない患者がしょっちゅういることは、ほとんどの整形外科医が気付いています。
そう、整形外科の診断や治療は明らかに矛盾しているんです。ある一定の『かたち』の異常に対して、痛みは千差万別です。
診断がデタラメなのだから、その診断にもとづいて行われる治療も的外れになって当然です。
繰り返しますが、ほとんどの整形外科医がこの矛盾に気付いています。
気付いていてなお、彼らが堂々とガイドライン通りの整形外科診療を続けられるのは、一体どういうことでしょうか。
答えはひとつ、本音と建前の使い分け、です。
本当は分かっているんです。心の中で「軟骨のすり減りが痛みの原因ではないのにな」と思いながらも、「軟骨がすり減っているので、痛いのですよ」と患者に説明します。
「神経の圧迫が痛みの原因ではないのに」と思いながら、「手術して圧迫を取り除きましょうね」などと患者に言っています。
整形外科学会の公式見解が「症状は『かたち』の異常に起因する」と教えていますから、それに盾突くことなんて、よほどの勇気がないとできないんです。
これが詐欺でなくて何ですか?
私は、こんな茶番を一生の仕事にしたくなかった。それで思い立って、整形外科をやめました。30年前のことです。
振り返ってみて、この決断は正しかったと、その確信は深まっています。
症状の原因を、『かたち』から『はたらき』に求める研究は、次第に明確になっています」

ちょっと僕なりのアレンジが入っているので、先生の直接の声に興味がある人はご著書に当たってください。
坂井先生のこの独白を読んで、「科が違えども、同じような悩みを抱え、独立に至った医者がいるのだな」と共感を覚えたし、また同時に、自分の勤務医時代を思い出して、何だか胸がせつないような、苦しいような気持ちになった。
精神科に勤務していた頃、治るはずのない、毒みたいな薬を処方することが心苦しくて仕方なかった。
現場の同僚のなかには、「気付いている」人もいた。でも彼らは、僕のように悩んでいるようには見えなかった。平然と、こんなふうに言う。
「精神科的投薬で精神症状が寛解する人はいるだろう。しかしそれは治癒ではない。だって、薬をやめれば、症状が再燃することは明らかだから」
「それってさ、原因にアプローチしていないから、だよね。薬で症状を抑えているだけなわけで。そういうのって、そもそも治療なのかな」
「知らんよそんなん。『こういうときにはこういう薬を使え』って指導医から習ったんだから。それだけのことだよ」
あまり突っ込んでも角が立つので、これ以上は聞けない。
「そんな仕事、むなしくない?」と聞いたところで、「お前も同じ仕事してるじゃないか」と返されるのがオチだろう。

独立した今なら、もう少し強気に問い質すこともできるだろう。でも、僕もいささか丸くなった。
そういう、「気付いていながら、ガイドライン通りの治療を淡々と続けている医者」も、それはそれで、世の中には必要なのかもな、と思うようになった。
「病気の真の原因とか、食事の改善とか、そういうややこしい話はいいから、手っ取り早くデパスをくれ、ロキソニンをくれ」という患者が確かにいて、そういう声をくみ取る医者も必要なんだ。
それに、すべての医者が医療の闇(ロックフェラーの意向、製薬利権など)に敢然と立ち向かう!となっても、何だか暑苦しいものな^^;
僕のようなスタイルの医療を必要としている人がいて、そういう人のために、そっと助けの手を差し伸べられる。それで充分かな、という気がしている。

真菌、コレステロール、癌21

2020.2.29

酔狂なことに、僕のブログを毎日フォローしてくれている人がいる。ありがたいことです^^
ちょっと前に東京で会った大学時代の同級生もその一人で、彼にこう言われた。
「あつしのブログはね、医学的なネタのときより、そうじゃないネタのときのほうがおもしろいよ」と。

わかる。ブログを書いている僕自身、お固い医学ネタよりも、都市伝説っぽい話とかゆるいネタを書いているときのほうが楽しいから^^
そもそも、なぜブログを書くのか。
クリニックの宣伝という意味合いはもちろんある。でも、それだけではない。
栄養や健康についての調べ物をしていると、「これはみんなが知るべきだ。公共の知識であるべきだ」というようなことに出くわすんだな。
そういうときには、”書いてて楽しい”という感情や”こういう話はみんなにウケるだろうな”という打算よりも、何か使命感のようなものに突き動かされて書いている。
HofferとSaulの”Orthomolecular Medicine For Everyone”を訳したのも、同じような思いからだった。

たとえば今、ブログで複数回にわたって参考文献にあげている本”Proof for the cancer-fungus connection”は、衝撃の一冊だった。
スタチンがなぜ、どのような機序で体に悪いのかを、スタチンの開発経緯にも言及しつつ、非常にクリアに説明している。
僕が知る限り、日本語文献(ネットや書籍も含め)でスタチンについてここまで深い知識を提供する情報ソースは、他にないと思う(あれば教えてください)。
『オーソモレキュラー医学入門』を訳したときのように、著者(James Yoseph氏)に連絡をとりたいとさえ思った。「ぜひ翻訳させてください。この本の内容は、すべての日本人が知るべきだと思います」と。
しかし、勤務医時代の僕ならともかく、翻訳のためにまとまった時間とエネルギーを割くことは、今の僕にはできない。
だから、せめて、つまみ食いの形であれ、僕のブログで”公共のものたるべき”知識を紹介しようと思った。

今のところ、本の3分の2くらいの内容は紹介した。できれば残り3分の1も紹介したい。
しかしただ単純に翻訳して紹介しても、一般の人はつまらないと感じる可能性が高いから、小ネタ的な話もからめつつ、わかりやすくなるように工夫したい。
結果、単純に翻訳するよりもはるかに大きな負担になっているという^^;
いっそ著者に連絡して翻訳しちゃえばよかったかなぁ。

たとえば、「スタチンの研究から、真菌とコレステロールと癌、これら三者の関係性が明らかになった」という知識。
これ、とてつもなく重要で、医療関係者は全員知っておくべきだと思うんだけど、化学の苦手な一般の人は「HMG-CoAリダクターゼの活性阻害」とかそういう言葉が出てくる時点で、「もう無理!」ってなるかもしれない^^;
でも、身内にスタチンを飲んでいる人がいるとか、あるいは自分が癌になったときとかには、僕がブログで紹介している知識がダイレクトに生きてくると思う。
ネット空間は、その気になれば誰もがアクセスできる公共の場所である。そこに、「僕が紹介しなかったら永久にそのまま埋もれてしまうかもしれない知識」を掘り起こし、記録しておく。
誰かの役に立つ可能性のある情報なのに、言葉の壁のせいでinaccessibleになっている情報を、accessibleにしておく。そういう行為には一応の意味があると感じている。

「カビ毒が体に悪いのは充分わかった。作用機序とかの話はもういい。カビ毒のせいで病気になったとして、結局どういう治療をすればいいんだ?」
恐らくここが、みなさんの一番知りたいところだと思う。しかし、もう少し辛抱して頂きたい。
別に、出し惜しみをしているというわけではない。ただ僕としては、著者(James Yoseph氏)の論理展開を尊重したいと思っているだけだ。
それに、仮にここで早急に結論だけを提示したとしても(たとえば「カビ毒にはウコンが効きます!」とか)、そんな結論には、ほとんど意味がない。
たとえば「人生とは、旅である」と誰かが言う。なるほど、一瞬名言のように聞こえる。でもこんな、結論だけ切り取ったような言葉は、実に空疎だ。
誰が、どのような人生経験を経て、この結論にたどり着いたのか。この言葉が絞り出されるに至った過程が少しでも見えないと、何も語っていないに等しいとさえ思う。
同様に、どの食材や栄養成分が体にいいのか、その結論だけ提示しても、何も届かないだろう。
そういうわけで、『真菌、コレステロール、癌』シリーズは、もうちっとだけ続くんじゃ(←亀仙人風)

真菌、コレステロール、癌20

2020.2.29

体内環境の悪化によって病原性を持ったCWDs(マイコプラズマ)は、警察官の警戒をすり抜けてあちこちで悪事を繰り返す犯人のようだ。
警察官(免疫系)は細胞壁に発現しているタンパク質を目印にして外敵を認識するものだから、細胞壁を持たないCWDsに対して、免疫系は成す術がない。
CWDsは、BBB(血液脳関門)さえ易々と通過し、脳神経系にもダメージを与える。
『脳神経障害、脊髄神経根障害、筋炎とマイコプラズマ』
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/116630

近年分析技術の進歩によって、ある種のマイコプラズマは人間の細胞内に自由に侵入できることが分かってきた。その例として、ヘリコバクター・ピロリ(いわゆるピロリ菌)が挙げられる。
マイコプラズマと癌を始めとする様々な慢性疾患との関係性は、ピロリ菌と胃潰瘍の関係性と相似形をなしている。
マイコプラズマを抗生剤により死滅させることが困難であるように、ピロリ菌の除菌も困難(厳密には不可能)である。これは、ピロリ菌(グラム陰性細菌というれっきとした細菌)も細胞壁を脱ぎ捨てて、CWD(細胞壁欠如)の形態をとるためである。

ピロリ菌について、世間に誤った”常識”が跋扈している。
検査で「ピロリ菌陽性(+)」になり、「胃癌になってしまうかもしれない!」などと不安になる人がいる。
何をいまさら言っている。ヘリコバクター・ピロリは常在菌であり、健康な人にも普通に見られるものである。”ピロリ菌感染”などという呼称は、ピロリ菌がまるで病原微生物であるような印象を与え、ミスリーディング極まりない。
ピロリ菌と胃癌の関係性を指摘してノーベル賞を受賞したマーシャルとウォーレンも、ピロリ菌が常在菌であることは当然知っていた。ただ、彼らが言いたかったのは、ピロリ菌の過剰繁殖による弊害である。
通常なら何ら問題のないピロリ菌が、過剰に増えることで、胃炎、胃潰瘍、胃癌のリスク因子となる。彼らが言っていたのはこれだけである。「胃腸からピロリ菌を一匹残らず殲滅しろ」などと彼らは一言も言っていない。

本来、ピロリ菌の検出と除菌は極めて困難である。これは、ピロリ菌が環境の変化に対して、すばやく形態を変化させて、球形の真菌様毒素産生CWDに変化するためである。
ピロリ菌の除菌を狙って抗生剤を投与したところで(3種類の抗生剤を使って徹底的にやる)、除去率は75~90%である。せいぜい、減少しただけのこと。全滅させることなどできない。

体内環境の悪化によって変化したCWD型(細胞壁のない)ピロリ菌は、スタチンやその他のカビ毒のような毒素を産生するようになる。これが胃や十二指腸の細胞にアポトーシスを起こす。
このアポトーシスによって、組織の炎症が起こり、炎症後に瘢痕(scar)が形成され、これが潰瘍と呼ばれることになる。

CWD型毒素産生細菌は様々な慢性疾患において見出されているが、多発性硬化症(multiple sclerosis)もそうである(sclerosisというのはギリシア語でscar(傷)のこと。多発性硬化症患者の神経を顕微鏡で見ると、無数の傷が観察されることからこの名前がついた)。
多発性硬化症患者の脳脊髄液のなかには、無数のCWD型毒素産生細菌がいて、患者の神経系はこの毒素(グリオトキシン)によってダメージを受けるのである。

類似が見えるだろうか。
結局、CWD型毒素産生細菌である。
これが胃内で暴れれば、胃壁の細胞にアポトーシスを起こして潰瘍を形成し、脳神経系で暴れれば神経膠細胞(グリオサイト)にアポトーシスを起こす。
膠細胞にアポトーシスが起これば神経を保護的に包むミエリン(髄鞘)が消失し、結果、神経伝達速度が低下して、様々な症状が出現する。

これは仮説ではない。すでに実験的に確かめられた事実である。以下の論文を見よ。
『膠細胞毒性因子と多発性硬化症』
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/9562313
要約中にこのような一文がある。
「多発性硬化症患者から採取した脳脊髄液を加熱処理し、それを星状細胞(astrocyte)、乏突起細胞(oligodendrocyte)に3日間暴露すると、アポトーシスを起こした」
この意味がお分かりか。
「加熱によってカビ自体は死んでも、カビ毒は無毒化しない」というのは医学的知識というより、家庭の主婦でも知っているだろう。これと同じことである。
多発性硬化症患者から採取した脳脊髄液中のCWDsは加熱によって死滅したが、その毒素は不活化せず、神経系に毒性を発揮した、ということである。

以前のブログで、スタチン(カビ毒そのもの)が多発性硬化症や横紋筋融解症に関与していることを述べた。
これも結局は、作用部位の違いに過ぎない。スタチンが筋細胞にアポトーシスを起こせば、筋細胞に潰瘍ができる。それを、ことごとしく、横紋筋融解症という名前で呼んでいるだけのことである。要するに、”筋潰瘍”である。

病原性CWDsの毒性機序についてもう少し言葉をたすと、この毒素は細胞内に侵入し、さらに核内に侵入して、DNAの二重らせん構造を破壊する。
自然界においてCWDsが果たす役割は、「破壊と再生」である。生存に適さない有機物をいかにして破壊すべきか、CWDsは進化の過程で試行錯誤を繰り返してきた。そうした模索のなかで、細胞の核こそが生命の核心であり、そこに働きかけることが最も能率よく破壊できることに、CWDsは気付き、そういう方向に進化したのである。
そう、この”核心”の壊し方さえマスターすれば、あとはどの細胞でも同じことである。核を損傷させれば、細胞は勝手にアポトーシスを起こす。ジェンガの一番下を崩してやれば、塔はあっけなく崩壊するものである。
神経細胞のアポトーシスは多発性硬化症を引き起こし、胃粘膜のアポトーシスは胃潰瘍を引き起こし、筋細胞のアポトーシスは横紋筋融解症を引き起こす。すべては、場所の違いに過ぎない。
しかし一般の医者はこのことを知らない。根本を知らないから、これらを別個の症状として、個別に対応しようとする。こんな治療では、患者は永遠に救われないだろう。

正しい診断名は、真菌中毒症(mycotoxicosis)である(もちろんこの「真菌」のなかには、内部(CWDs)由来の真菌やスタチンや抗生剤由来の真菌毒も含む)。
根本を把握すれば、対処法はおのずと見えてくる。抗真菌薬よりは、カビ毒の毒性を無毒化するアプローチを試みるべきである。
これについてはまた稿を改めて書こう。

参考
“Proof for the cancer-fungus connection”(James Yoseph著)

手塚風マンガ

2020.2.28

シド・フィールドの”Screenplay: The Foundations of Screenwriting” を読むと、物語にはパターンがあるのだということがよくわかる。
いや、もちろん、起承転結とか序破急という日本語があるくらいだから、ストーリー展開そのものに対するメタ認知は日本にも大昔からあった。
しかし、さすが、ハリウッドで無数の映画脚本を手掛けた人である。ストーリーを作る上で必要な方法論が、こんなにもきっちり確立されていることが、まず驚きだったし、それを惜しげもなく紹介していることにも驚いた。
そう、感動は、「作れる」のである。しかも、量産可能である。

当然反論はあり得るだろう。
「シェイクスピアでもドストエフスキーでもいい。優れた作家が、人生の意味を問い、悩み抜きながら見出した”答え”を、文学作品として結実させる。
そういう具合に、作品は本来、個人の人生観が極めて色濃く反映されたものだ。そして、その個性ゆえに感動を呼ぶのであって、起承転結などという小手先の類型化によって『感動を量産』できようはずがない」などと。
僕もそう思いたい。でも、現実はそうではない。ハリウッドには、感動を生み出すためのノウハウが、ちゃんとある。まるで工場のように。
もっと言えば、人間がストーリーを作る必要さえない。ストーリー展開は、パターンの組み合わせである。人工知能を使って、人間が「おもしろさ」「感動」などを感じるメカニズムを要素に分解し、解析し、その傾向から新たに物語を生み出すことも可能である。
実際、人工知能におもしろい短編小説を創作させるプロジェクトがあって、その作品が星新一賞の一次選考を通過した、というニュースがあった。
『人工知能創作小説、一部が「星新一賞」1次審査通過』
https://www.nikkei.com/article/DGXLASDG21H3S_R20C16A3CR8000/

創作過程のすべてをAIだけに任せることはまだ難しいようだが、AIの生み出すアイデアを作品に生かすことは現時点でも充分可能だろう。
そして、驚いたのが昨日のニュース。
『AIで作った漫画に“手塚治虫らしさ”は宿るのか? 前代未聞のプロジェクト、ピンチ救った「転移学習」』
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/2002/27/news064.html
なんと、AIに”手塚風”のマンガを描かせることに成功し、連載が始まったという。
もちろん、記事を見ればわかるように、AIが独力ですべてを生み出したわけではない。というか、「AIが作った手塚マンガ」という表現はやや過剰で、AIはあくまでサポート役にとどまっていると思う。
それでも、キャラクター造形やストーリー展開というかなりコアの部分で、AIの力が発揮された作品には違いない。

ゴッホやピカソの作風をAIに学習させて、いかにも”ゴッホ風”、”ピカソ風”の絵を描くことはすでに可能だという。
また、AIを使って前衛的な絵画を延々作成するサービスさえある。
https://gigazine.net/news/20200217-art42-infinite-stream-ai-art/

芸術という、独創性が最も必要とされる領域においてさえ、AIが力を発揮し始めた。
これはある意味、「芸術家は、死ななくなった」ということだと思う。自分の死後にも、”自分風”の作品ができるわけだから。
これは将棋の分野にも言えて、多分、「プロ棋士は、死ななくなった」ということも言えると思う。
たとえば羽生善治がこれまで指した棋譜データは、”羽生風”を導き出すのに十分量あるだろうから、「この局面なら羽生はどう指すか」をAIが模倣することは充分可能だろう。
おかしな話だね。羽生先生はまだ存命中なのに^^;
”ただ強い将棋ソフト”を模索する段階はとっくに終わって、AIはさらなる高みに向かっているようだ。

もっと言うと、「人は、死ななくなった」とさえ言えると思う。
たとえば、明石家さんまがこれまで出演したテレビやラジオをデータとしてAIで解析して、”さんま風”を把握することも可能かもしれない。
”さんま風”のボケ、ツッコミが、本人の死後にも生き続けるとしたら、どうなるだろう?
笑えるかな?おもしろいかな?
さんま本人が存命のうちは、「おまえ、機械のくせに俺のマネすんなや!気持ち悪い」とかいじって、笑いになりそうだけど^^

本当に、とてつもない時代に突入しつつあると思う。
ものすごく幸せな時代になりそうな気もするし、ものすごく不幸な時代になりそうな気もする。
個人的には、できれば希望を持って未来に進んでいきたいと思っているけれど。

告知

2020.2.28

『安心』に連載を持たせてもらっている。
毎月締め切りが近づくにつれ、何を書こうかとネタに悩み始め、なかなかテーマが決まらないまま悶々と時間だけが過ぎ、締め切り前日には編集者氏から催促のメールが来る。『安心』のせいで『不安』になっているという^^;
でも、全国誌に連載をもたせてもらえるなんて、こんなにやりがいのあることはない。
若年者はネットから情報を仕入れるものだから、僕の情報発信を目にする可能性がある。しかし中高年者に対してアピールするには、やはり紙媒体がいまだ強い。普段ネットをいじらない人にも、僕の健康情報が届けば、と思う。

新型コロナウイルスがいまだ収束の気配が見えないなか、『安心』4月号臨時増刊号が出版された。
家庭で自分でできる「新型ウイルス対策」が盛りだくさんで、僕が読んでも非常に参考になった。
この増刊号に僕の記事も掲載されている。こんな具合に。

第3章、僕以外の執筆者を見てください。
全員教授っていうね( ゚Д゚)何か気が引けるわー^^;
藤田紘一郎先生は腸内細菌研究の第一人者として著書も多く、みなさんご存知だろう。僕も何冊か先生の本を読んで勉強させてもらった。
そういう先生と、執筆者として同じ並びに名前を連ねることができるだけでも、光栄に思います。

さらに、NHK文化センターから、受講者募集のご案内が届いた。

池上彰や秋元康も来たりするんだなぁ。
個人的には、相撲が好きなのでやくみつるのトークのほうが聞いてみたい^^
この「ご案内」のなかに、なんと!

僕の講演へのご案内もあります^^まだ残席がありますので、興味のある方はどうぞ!

さらに、けっこう先(今年10月24日)のことだけど、浅井ゲルマニウム研究所の中村宜司さんから「比較統合医療学会でアサイゲルマニウムをテーマにしたシンポジウムが行われます。よかったら、一般演題で症例報告をされませんか?」とのオファーを頂いた。
これもまた、名誉なことである。「ぜひ、やらせてもらいます」と引き受けた。

しかし、思うのは、最近ちょっとずつ人前に出て話す機会が増えてきた、ということである。
「まだまだ勉強中。知識を吸収する身分」だと思っているから、人前に出て講釈を垂れるのは、「俺なんかが演者で、ほんまにええの?」の思いをぬぐえない^^;
しかし、僕が表に出ることで、栄養の重要性(および栄養療法の有効性)を少しでも多くの人に知って頂けるなら、と思って仕事を受けているが、そもそも僕は見知らぬ人の前で話すが得意ではない^^;
それは、ひとつには、僕が言葉を選び過ぎるからだと思う。書き言葉ならまだいい。時間はたっぷりあるから、ゆっくり推敲すればいい。
しかし講演は、話し言葉である。さらさらと立て板に水のように、言葉を紡ぎ出さなければならない。
そもそも、僕は全然未完成なんだ。未完成だから、絶対の自信を持って何かを断言するなんて、本来できないはずなんだ。
しかし、正確さを期して脚注的なコメントばかり付け加えながらしゃべっては、実に自信なさげな、おもしろみのない、説得力のない講演になることはわかりきっている。

そう、わかっている。講演に来る人は、もっと自信のある演者を求めていて、そういう講演を求めている。
僕は、それに応じようと思う。つまり、多少「役者」しようと思っています^^;
講演に来てくれたお客さんを、ちゃんと満足させる。有益な情報を持って帰ってもらう。
なるほど、その情報には、一応のエビデンスがある。ホッファーやポーリングなど、様々な天才の知識が積み重なって築き上げられたのがオーソモレキュラー栄養療法であり、これによって無数の人々の健康に貢献してきた。その事実には、圧倒的な説得力がある。
しかし同時に、オーソモレキュラー栄養療法はいまだ完成された学問体系ではない、というのもまた、事実だと思う。
根底からひっくり返るようなことはさすがにないだろうが、新たな知見の蓄積が、ある種の矛盾を暴かないとも限らない。
そのあたりの点に一応配慮して、断定的な表現は普段は避けている僕だけど、それは、ある意味事前の「逃げ」を打ったスタイルだとも思う。

人に話すとは、何かを伝えるとは、どういうことか。
講演する必要に迫られていることもあって、そういうことを最近考える。
そのうえで参考になるのが、たとえばこの動画。上岡龍太郎という人は、やっぱり天才だったんだなと再認識する。
「話者が断定してやる」ことの効用について、説いている。
ざっとまとめると、
「世の中には断定的に話せることなんて、そう多くはない。しかし、かといって不安そうにしゃべっては、おもしろくない。
たとえば女性を口説くとき。『お茶を飲みに行きませんか』こんな誘い方では、女性は困る。『この人は自分で判断することを放棄して、こちらに責任を求めている』と。
そうではなくて、『お茶を飲みに行きましょう』『食事に行きましょう』ズバリと誘うことだ。そうすれば、女性としては『半ば無理に誘われたんだ』と言い訳が立つ。精神的にはむしろ楽なんだ。
断定的な物言いを避ける傾向は、戦後民主主義教育によって強まった。「何々してみたいと思います」「何々やってみたいと思います」こんな遠回しな、奇妙な婉曲表現は戦前には存在しなかった。
戦後は「思います」「思います」と、「思う人」ばかりになった。民主主義は多数決である。民意にはからなくてはいけない。そこで「何々したいと私は思いますが、みなさん、ご異議ございませんか」
そういう計算が、この「思います」に含まれている。「自分は断定なんてしていません。判断主体は私ではないし、責任も私にはありません」
なるほど、柔らかくて当たりはいい表現である。しかし、見ている人を惹きつける魅力はない。
多少傲慢でもいいから、断定してやることだ。そうすることで、聞き手は言葉の切れ味にある種の快さを感じる。
現代は何事もそうで、誰もが断定を避ける。そのせいで、皆、基準を失ってしまった。
世の中には「絶対」も「永久」もあり得ない。だから、何事も断定なんてできない。それでも、断定することだ。それこそが、聞き手に安心感を与える。」

有吉やマツコが人気の理由がわかる。
彼らは、ちゃんと「断定」してくれるものね。

『上岡龍太郎 生放送 EXテレビ』
https://www.youtube.com/watch?v=LlYHJ-O4rEI