2020.2.19
すべての真菌類のうち、約1%が酵母である。
酵母は出芽(非対称的な分裂)によって増殖(無性生殖)するが、これは血中に存在するマイコプラズマ(CWDs)も同様である。
一般には「細菌は形態を変化させることはない」とされている。
「感染性疾患は強固な細胞壁をもつ病原性細菌によって引き起こされる」
「この細胞壁は殺菌(パスチャライゼーション)や毒物(塩素や抗生剤)によって破壊できる」
これらは皆、パスツールを源流とする考え方である。
一方、CWDs(細胞壁欠如細菌)は体内の環境に応じて、形態を変化させる。
しかも、細菌のように細胞壁を身にまとうこともあれば、真菌のようなふるまいも見せる。
桿体細菌から球体細菌へと形状を変化させたり、さらには酵母のように出芽さえ行う。
細菌のようでもあり真菌のようでもあり酵母のようでもある。
こんな摩訶不思議な有機体が僕らの体内に存在し、病気の発生に関与している。
医者はCWDsの存在さえ知らない。
だから病気の発生プロセスを正しく解釈することができないし、まして正しく治療することなど、到底できようはずがない。
しかしそれは、疑いようもなく存在する。映像にもしっかり記録されている。
Earth’s Tiniest Living Organisms: Somatids (Identify: Friend or Foe?)
ネサンはマイコプラズマ(ソマチッド)のライフサイクルを映像に記録した。
マイコプラズマは、通常の健康な血液では、形を変えないが、酸性度が増すにつれて、段階的に16種類の異なる形態(芽胞、最近、マイコバクテリア、酵母、真菌など)をとる。
それは、細胞壁があってもなくても生存可能な細菌のようであり、しかも酵母のように出芽による無性生殖を行い、酵母のように芽胞を持ち、真菌のように強固な細胞壁(糸状菌糸様)を作ったりする。
この図を複雑だと思われるだろうか。
しかし、マイコプラズマのとり得るこれらの形態バリエーションをさえ把握すれば、現代医学の下す無数の診断名は必要なくなる。
パスツールの教えるように病原微生物が外部から体内に侵入する場合だけではなく、体内から生じる場合もあるのだと認識することが重要である。
健康な血液はアルカリ性である。酸性に傾くと、マイコプラズマは酵母や真菌の形態に変化することをネサンは確認した。
実際、一般の真菌も湿潤・酸性の環境下で最も成長するものである。
体内の酸性度と変性疾患の症状は相応している。つまり、体内の究極の酸化は、死である。
死後、我々の肉体は朽ちてゆく。これはCWDsの働きによるものである。
生命の循環は、真菌なくして回転しない。死にゆく細胞および死んだ細胞を破壊し、次なる生への糧を供給するのが真菌の仕事である。
一方、生命は、つまり生きている我々は、生まれついてのアルカリ性であるが、加齢に伴って次第に酸性にむしばまれてゆき、やがて究極の酸性(死)へと至る。酸化のスピードが速い人もいるし遅い人もいるが、終着点は同じである。
肉体はどのようにむしばまれていくのだろうか。
以前、死体の分解速度について触れたが、肉体は外部からだけでなく、内部からも崩壊してゆく。
古代エジプトではミイラが作られていた。ミイラ加工(mummificaton)はまさに、この腐敗プロセスに対する抵抗そのものである。
内臓を除去し、体を乾燥させ、塩や香辛料などで抗酸化をはかる。こうすることで、湿潤・酸性環境を好む真菌の生育を阻害しているのである。
それでも、CWDsは体内に存在している。ただミイラ加工によって乾燥・アルカリ性環境となったため、CWDsは有機物の分解作業に従事できないだけである。
パスツールが完全に間違っていた、というわけではない。彼の説のすべてが正しいわけではなかった、ということである。
体外の病原微生物によって感染性疾患が成立し得ることは、もちろん正しい。しかし同時に、我々の体内のCWDsが感染性疾患の原因の場合もある、という認識が大事なのだ。
いや、「原因の場合もある」どころの話ではない。
食事を含めたライフスタイルが我々の体を容易に酸性化させる現代において、病因がCWDsであることは例外的ケースというよりは、むしろ一般的である。
そう、我々は酸性化しながら、いわば、少しずつ”死んでいく”。死は、単独の現象というよりは、プロセスそのものである。
CWDsの知識がないままでは、我々の観察する生命現象(生と死、健康と病気、保存と腐敗など)の本質は、まったく見えてこない。
逆に、CWDsについて知ることで、病気の謎(自己免疫疾患、癌など)は、もはや謎ではなくなる。CWDsが関与しない生命現象は存在しない。
変性疾患とは、死の兆候である。細胞レベルでの腐敗であるが、確かに、死の兆候そのものである。
遅かれ早かれ万人に訪れる死ではあるが、その時期を早めることはない。
そのためには、マイコプラズマを敵ではなく味方につけることだ。具体的には、体液のpHバランスを意識するといい。
ソフトドリンクは人間の血液の1万倍酸性度が高い。
ソフトドリンクの販売が開始されて以後、貧血、白血病が激増したが、これは偶然ではない。
血液癌は例外なく、病原性を持ったCWDsが慢性的感染を起こしたことによるものである。
「水道水に含まれている塩素が動脈硬化を促進させる」という話を聞いたことがあるだろうか。この現象の背景にも、CWDsが関係している。
塩素添加された水に含まれる次亜塩素酸は、脂溶性の弱酸であり、胃腸に接触するとすぐに吸収されて血流に乗る(この点はアルコールやカフェインとまったく同じである)。
そうして、血中のLDLコレステロールやCWDsを酸化させる。酸化したコレステロールや酸化して死んだCWDsは心臓や動脈の血管にプラークとして沈着し、動脈硬化が進行する。
動脈硬化のプラークを一般的な顕微鏡で観察すると、酸化して死んだマイコプラズマ(およびその他のCWDsやピロリ菌やカンジダなど)がぎっしりつまっているわけだが、ある研究者はこれを見て「動脈硬化などの心血管系疾患は感染症なのではないか」という説を提唱した。
『動脈硬化は感染性病因があるのではないか』
https://www.ahajournals.org/doi/full/10.1161/01.CIR.94.5.872
半分当たり、である。確かに病原微生物による症状ではあるが、それは体の内側からわいたのである。
CWDsの概念がないと、医学はこんなふうに迷走することになる。
根本原理を抑えないと、いつまでも真実は見えない。
参考
“Proof for the cancer-fungus connection”(James Yoseph著)
2020.2.18
祈るということには、絶対的な力があると思っている。
たとえば医療に従事している人なら、”そういう症例”をいくつか経験してるものじゃないかな?肉体的な意味では、もうアウト、お亡くなり、のはずが、精神の力で奇跡が起きた、みたいな。
こういうのは、祈りの価値があると思う。患者本人であれ、患者家族であれ。人の人生がかかっているわけだからね。
でも、ほら、たとえば正月に神社に行って賽銭5円投げ入れて柏手打ってお祈りする。ああいう祈りを軽い気持ちでするのは、やめておいたほうがいい。
神様に、簡単に祈るな。
もし、本当に、ワラにもすがる思いで神様に何かを祈りたいのなら、神様に何を求めるのか、具体的に明らかにしないといけない。そうしないと、祈られる神様のほうで困ってしまう。
そして同時に、その願いと引き換えに自分が神様に何をするのか、ということも明らかにしないといけない。
そもそも祈るということは、神様との契約である。
契約なのに、一方が「願いを伝えるだけ」「せいぜい、賽銭箱に5円玉投げるだけ」となっては、人間の傲慢極まりない。
漫然と祈るな。
祈りと供え物は必ずワンセットである。文化人類学によれば、これは世界中の儀式・神事に共通する特徴である。供え物は、多くの場合、命である。それは人間(人柱)の場合もあれば、動物のこともある。神に何かを要求するのだから、当然の”対価”である。
日本の神道においても、かつては生け贄が捧げられていた。
明治以降、「残虐」「文明的ではない」ということで生け贄の儀式は廃止された。以後、どこの神社においても祈る行為は形骸化し、人間が神様に一方的にお願いするだけの、単なる”甘え”に成り下がってしまった。
現代の僕らは、この、甘えた祈りにすっかり慣れている。祈るということの意味も知らず、簡単に神社に行く。
神様に甘えるな。
特に日本は八百万の神の国である(森元総理の「日本は神の国」という発言は何も間違っていなかった!)。
適切に祈れば(きちんとした神社に行き、願いを明確にし、相応の犠牲を約束すれば)、願いは本当に叶う。叶ってしまう。
ラッキー、って思いますか?
でも願いが叶うことが、必ずしも幸運とは限らない
そう、日本には本当に心願が叶う神社がいくつもある。
『某県にある某神社』などとぼかすのはよして、ずばりと名前を出そう。
たとえば、京都の天津神社である。
ある男が参拝し、宮司に願い事を語った。
「宝くじを当てたいんです。1億当たったら、お礼に5千万円は神社にお返しします。約束します」
その後宮司が、神妙に頭を下げる男の上で切麻(きりぬさ)を振り、お祓いをした。そこで宮司、神託を得た。
「今から神社から帰るその足で、こちらの方向に進み、見つけた最初の宝くじ売り場で1万円分宝くじを買いなさい」
宮司の言葉通りにしたところ、なんと、本当に1億円当たってしまった。ふらっと入った宝くじ屋で、一等1億円が当たる。確率的にあり得ないことが起こっている。
「神の御利益というのは、実在するのだな」男は驚嘆した。
しかしいざ、実際に現金を目の前にしてみると、欲望がふつふつと沸いてくるのが人間である。
「まさか、この半分、5千万をお返しするなんて」全額ごっそり頂きたいところだが、さすがに無視はできかねる。「まぁ500万も納めれば充分。神様もわかってくれるだろう」
彼は三年後に病死することになった。まだ若い、健康的な男だったのに。
繰り返すが、日本は八百万の神の国である。
しかし、なぜ「いい神様」ばかりだと思うのか。そこには、荒ぶる神(鬼神、邪神)もいれば、疱瘡神や疫病神もいる。
神は不義理を許さない。地の果てまでも追いかけて、罰(バチ)を与える。相応の償いを求める。ときには命さえ奪う。どこにも逃がさない。
三木大運和尚の話
「寺の老朽化がひどくて、本堂の建て直しが必要でした。ただ、どうしてもお金がありません。
そこで、私、普段はお祈りなんてしないのですが、心の中で仏様に強く祈りました。何とか助けてください、と。
そうするとその日の夜に、不思議な夢を見ました。どこの宝くじ売り場に行ってどのタイミングで何万円分買えと、ものすごく具体的な指示が聞こえました。
すると、ありがたいことに、本当に高額当選しました。めでたく寺を修繕することができました」
願い事とは、神との対話である。その対話には、それなりの決意とそれ相応の犠牲を覚悟して臨まないといけない。
「5円の賽銭投げてご縁があれば」だって?そんな甘えた気持ちで神社仏閣に行くくらいなら、いっそまったく行かないほうがいい。
天津神社は僕の家からはやや遠いが、実は僕の比較的近所にも、心願が叶う神社がある。
やはり、はっきり名前を出すと、六甲山神社(むこやまじんじゃ)である。
土地の”気”を感じる人に言わせると、パワースポットということで、全国から観光気分で来る人が多いが、すごさの意味を取り違えていると思う。
この神社もやばい。本当に、叶ってしまう。それゆえに、僕は行かない。
僕には何かを犠牲に捧げる気持ちの準備がないから、神様を拝まない。
そういう僕だけど、バックギャモンやポーカーをやると、つい気持ちが熱くなって「4出ろ!4出ろ!」だの「頼む!エース来てくれ!」みたいな状態になる。
こんなつまらない”願い事”を、まかり間違って神様が聞き入れてくれたとなれば、と思うと、僕はギャンブルが何か怖くて、だからもうあんまりやりたくないんよ。
自分の読みだけが勝負で確率の要素がほとんどない将棋が、やっぱり僕の性に一番合っていると思う。
参考
北野誠の茶屋町怪談(MBSラジオ)
2020.2.18
手札がすでにペアで、フロップが3枚出た時点でスリーカードができたから、まぁいけるだろうと思って、ちょっとずつ賭け金を釣り上げた。大きく張っては相手が警戒して降りてしまうから、様子をさぐりつつ。
コミュニティカード内でキングのペアができて、手元のカードと合わせてフルハウスに昇格した。
右隣のプレイヤーがキングのスリーカードができてて、確かにこれならオールインしてでも突っ張りたくなる気持ちはわかる。
しかし結果、2人のオールインを引き出し、それをしかも高い役で撃退して、僕の勝ち。
ポーカーでこんなに気持ちのいい勝ち方って、なかなかない。
でも、何か複雑なんだよね。
バックギャモンもそうだけど、サイコロ投げたりカードめくったり、ああいう運否天賦の要素が大きいゲームって、変な話、「本当に僕が勝ったのかな」という気がする。
もちろん、ゲームをしているとき、僕はプレイヤーであり、状況判断をしながら最適な(と思われる)プレーを選択している。判断の主体は、確かに僕だ。
そのはずなんだけど、たとえ勝ったとしても、「僕が勝った」というよりは、「結局はツキやんか」という虚しさが拭えないんだな。
それに比べて、将棋で勝ったときの、あの純然たる喜び。確率の要素が大きいほど、勝ちの喜びが曇っていくように感じる。
リアルのお金が動いていないから、というのが理由ではないよ。
賭け金の有無にかかわらず、ゲームをする限り、「勝ちたい」と思ってプレーしている。
サイコロを振るときの「ここで5出ろ!5出ろ!」とか、カードが配られるときの「エース来い!頼む!」とか、内心熱くなっている。
この熱こそがギャンブルの核心で、この熱を感じないようではギャンブルは何もおもしろくないだろう。
負ければ当然不愉快だが、しかし勝ったとして、その勝ちが、胸の内の強い熱、強い期待によって招き寄せられたものだと思うと、僕は、何か、怖いんだ。
僕の言っている意味がわかりますか?
わからない人にはわからないと思うし、そういう人の「わからなさ」もわかる。
「完全に確率の話だろう?ネット対局のバックギャモンもポーカーも、結局、乱数発生のプログラムを使っている。熱とか期待とか、そういうのは人間の勝手な意味づけであり、幻想にすぎない。
熱を込めようが期待しようが、『サイコロをふって1の目が出る確率は6分の1』こういう確率法則は揺るがない。それを君は、怖いだなんて、言っている意味がわからないな」
そう、僕自身、こんな感情は不合理だとわかっている。
わかっていても、やっぱり、怖い。
それは結局のところ、僕が、『祈り』とか『思い』(あるいは『呪い』などのネガティブなものも含めて)みたいな、精神的な力を信じているせいかもしれない。
「ポーカーに勝ったとして、それが、僕の『思い』が通じて勝ったかと思うと、何だかたまらない。こんな、たかがポーカーごときで」
心のどこかにこういう思いがあるのだと思う。勝ちを単純に喜べないのは、そのせいかもしれない。
人間の思念が確率的現象に及ぼす影響については、すでに多くの研究がある。
もともとはテレパシーの研究から派生して、精神的遠隔操作(たとえば「サイコロで願った目を出し続けることが可能であるか」)の可能性が研究されるようになった。
デューク大学のライン(Joseph Rhine)は、サイコロの転がし方の影響を完全に排した状態にして、54人の学生にサイコロを多数回ふらせる実験を行った。
その結果、ラインは「サイコロの出目には精神的な影響が加わる」と結論した。
こういう研究は、ひとつだけでは説得力がない。そこで、複数の研究を検証したメタ分析を紹介しよう。
『意識がサイコロの出目に及ぼす影響について~メタ分析』
http://deanradin.com/evidence/Radin1991DiceMA.pdf
「この論文は、意識(特に精神的な意図)がサイコロの出目に影響を及ぼすか否かを検証した実験のメタ分析である。1935年~1987年に出版された73本の報告を対象としたが、この研究では特に、合計52人の研究者による148の論文(被験者の総計は2569人、サイコロをふった総回数は2百万回以上)を分析した。」
その結果、わかったことは、
ある種の思念(たとえば「6出ろ!」とか)を持った試行は、出目に対して有意に影響している。「偶然」を平均0とする正規分布を考えれば、なんと、2.6σも離れている。統計学を勉強したことのある人なら、これがいかに飛びぬけた値であるかがわかるだろう。
要するに「念ずることで、サイコロの目は影響を受ける」ということが、科学的に証明された形になったわけだ。
そこらへんの三流大学の教授が売名のために書いた論文ではない。ノーベル賞を68人、フィールズ賞を15人出してる天下のプリンストン大学の研究者が、これまでに出た論文を詳細にメタ解析した結果、こういう結論が出たんだ。
それ相応の重みを持って受け止めるべきだろう。
とまぁ、上記のように「公平であるべき確率的現象に精神の力が何らかの影響を及ぼす」ということには、科学的なエビデンスがある。
かといって、「科学的エビデンスがあるから、何かを強く念じることが怖い」というわけではもちろんない。
そもそも恐れという感情は、本能的で、デタラメで、不合理で、無根拠なものだ。
しかし、何かを強く念ずることの、一体何が恐ろしいのだろう。
うまく表現できるかな、自信はないけど、次もう一回だけ、この手の話が続きます。
2020.2.17
ときどき飲みに行くバーのママさんが、いわゆる”見える人”で、話が何かとおもしろい。
もちろん、だれかれ構わず”そういう話”をするわけじゃない。ちゃんと相手を見て、状況を見て、話すときもあれば、話さないときもある。
僕はそういう話が好きなので、いろいろ聞き出したいのだけど、無理にほじくり出そうとすれば引っ込めてしまうのが人間心理だから、あくまでさりげなく。
ママさんのほうもやり手で、そういう話を聞きたい僕の心理を知っている。
僕にボトルキープさせて、しっかり固定客にしておいて、何度か通ううちにぽつぽつと聞かせてくれる。なかなかの商売人やねぇ。
宝塚音楽学校を卒業後、大阪府警に就職。
「えー!元タカラジェンヌ!?」
いや、私の頃はそんな言葉なかったし、今みたいな何十倍とか、そんなアホみたいな倍率じゃなかった。普通に誰でも入れたで。
「でも、もったいなくないですか?せっかく宝塚出身やのに、普通に就職とか」
いや、そんなもん、普通普通。劇団に残って舞台に立ち続ける人のほうが珍しい。ほとんどの人が卒業して就職とか、すぐ結婚とか。そういうのが当たり前の時代やったよ。
婦警として勤務していたが、ある殺人事件を捜査する刑事と話していて、彼女の頭の中に、ふと、ある映像が見えた。
言葉を選びつつ、その刑事に、ある可能性を示唆した。その刑事、彼女の助言に従ってある筋を当たってみたところ、大当たり。見事に犯人逮捕につながった。
そういう助言を他の刑事数人にもしたところ、彼らもそこからひらめきを得て、大きな成果を上げた。
うわさは広まるものである。署内で彼女の”霊視能力”は、ひそかに評判になった。そう、あくまで「ひそかに」である。性質が性質だけに、おおっぴらに彼女のことが語られることはない。
「大阪府警には超能力捜査官がいて、それに頼って仕事をしている」などといううわさが立っては、警察のメンツが立たない。
あくまで彼女は、交番勤務の婦警である。
ただ、ときどき、上層部から”呼び出し”がかかる。一般には公開されない写真や現場の遺留品が彼女に見せられ、「何か見えないか」と聞かれる。
事前の説明はあえて聞かない。予断は持たないほうがうまくいくことが多い。頭に浮かぶもの、見えるものを、素直に語る。
「あの、しょうむないこと聞いていいいですか?そういうのって、手当、つくんですか?」
つかへんよ、そんなん。完全にボランティアやんか。まぁボランティアっていっても、勤務中やけどね。
多くの難事件の解決を裏で支えた彼女だったが、四十代で退職した。
「なんで仕事やめたんですか?」の問いには、いつも言葉をぼかす。
「なんかしんどくなってん」ということもあれば「地元の母が病気で看病せなあかんかったし」ということもある。どれも本当のような、どれもウソのような。
ただ、神戸に開業したバーには、今でも多くの警察関係者が訪れる。地元の生田警察勤務の人も多いし、わざわざ大阪から来る人もいる。
僕が飲みに行っても、隣り合うのはほとんどが警察官だ(もちろんみんなオフで、私服着てるけど)。
バーを訪れる警察関係者がママさんに求めていることは、主に二つ。
ひとつはもちろん、捜査に関する助言。もうひとつは、なんと、除霊。
あのね、警察の仕事ってすごいやんか。殺人事件の現場とか、ひどい殺され方をした人のすぐそばにいって、何かと調べたり、仕事せなあかん。
さすが刑事でね、刑事さん自身は別にそういう現場に行っても、特にどうということはないねん。守護霊が強いんよ。そういう仕事してるだけあって。
でも、刑事さんの家族はそうじゃない。現場で刑事さんに憑いたよからぬ霊が、家に帰ってから、その奥さんとか子供に憑いたりする。
奥さんや子供さんは別に強い守護霊がついてるわけでもないから、ひとたまりもない。それで、家族が妙な霊障に悩まされるようになった、いうて、刑事さん、うちに相談に来るわけ。
「除霊もできるんですか。遠隔で?」
いや、遠隔とかはできひん。お宅にお邪魔する。私もそんなに修行したわけじゃないから、簡単な除霊だけ。ほんまにヤバいのは無理。そういうのは知り合いのお坊さんにお願いする。
「除霊ってなんぼくらいかかります?」
もちろん無料。無理にお金の包み渡されるけど、断る。そんなんいらんから、その代わりまた飲みに来て、っていう。
彼女の前に、過去二人、そういう、ちょっと普通では考えられない力を持つ人と会ったことがある。
いわゆる”本物”かどうか、ひとつの目安になるのは「その力で金もうけをしているかどうか」だと個人的には思っている。
本物は、ネットで「除霊します。一回5万から承ります」なんて営業活動していない。むしろ隠して、本当に困っている人が目の前に現れたときにだけ、その力を使う。しかも無料で。「金をもらったら、見えなくなってしまう」っていう人が多いと思う。
自分が「優れている」、「人にはない能力を持っている」なんて決しておごらない。その力は、神様からの借り物だと思っている。本物は、おしなべて謙虚だ。
あんた、ボトルキープ、そろそろ空やで。次の、いれとく?
ママさん、すかさず僕に催促する。こういう妙に商売上手なところは守銭奴みたいで、すごくニセモノっぽいねんけどなぁ。
2020.2.17
CWDs(細胞壁欠如細菌)は通常の明視野顕微鏡(死んだ細胞標本しか見えない)では観察できない。
実はCWDsは、尿中にも当たり前に存在しているが、極めて小さいため、尿の検査機器を使っても検出されない。
体液が過剰な酸性に傾くと、CWDsが増加し”尿路感染症”を引き起こす。つまり、この状態で尿検査をすれば「尿中の白血球増多(+)、細菌(-)」となる(健常者の尿には白血球も細菌も含まれていない)。
このように、酸性環境で増殖したCWDsは全身の臓器や組織に侵入し(検査をしても陰性(-)のままだが)、様々な症状を引き起こす。
CWDsのことを知らない医者は陰性の検査結果を見て、患者に「何も悪いところはない。問題なし」と伝えることになる。
体内環境の酸性化の度合いに応じて、CWDsは16種類の異なる形態をとる。これはネサン、エンダーライン両者が何度も確認している。
この形態変化のなかには、変性疾患や癌の際に見出される様々な形態のマイコプラズマも含まれている。体液が酸性化すればするほど、CWDsはより多くの毒素を産生する。
あえて簡単に言い切ってしまえば、「酸性とは、死である」。
たとえば空気がなければ、体はすぐに酸性になる。真菌は湿潤な酸性環境で最も繁殖力が高いことはよく知られているが、これはマイコプラズマやその他のCWDsも同様である。
彼らの自然界における役割は、死体や死につつある酸性組織を分解し、土に返してやることである。そう、真菌類がいなければ、この世は死骸であふれかえっていることだろう。分解者たる彼らの仕事は、「死と生の循環の促進」、つまり、死体および死につつある有機体を適切に破壊し、次なる生への糧を生み出すことである。
繰り返し言うようだが、何より恐れるべきは、医者の無知である。
みなさんも経験があるのではないですか?
何か調子悪いなぁ→ 病院に行く→ 検査→ 陰性 → 医者「何も問題ありません。気のせいです」
そうは言われても、間違いなく症状があるのだから、患者としては「何とかしてくれ」と言う。ここで患者を問答無用で追い払う医者は、やぶ医者どころか、むしろ相当マシな医者である。
「仕方がないなぁ」と出さなくてもいいような薬を出す医者こそ、”医猟”従事者というべきである。
患者の気休めに出すこの薬が、体内をますます酸性化させて、いよいよれっきとした病名のつく病気になるだろう。
血液癌の大半はこの類である。「白血球が異常に高い」「病理検査で異形白血球が見られる」ただこれだけで、白血病や悪性リンパ腫の病名がついて、抗癌剤の投与が始まる。
抗癌剤は体をますます酸性化させる。CWDs(および真菌類)にとって、酸性化した有機物は「次世代のために分解すべき肥料」である。CWDsが増殖して活性が高まり、酸性化組織の破壊に精を出す。
この状態を見て医者は「癌細胞が抗癌剤に対して耐性を生じている。もはや今の医療にできることはありません」と患者を緩和ケアに放り込む。
何たる茶番だろう。でも本当のことなんだ。
本当に、こんなふうにして、
死 な な く て も い い 命 が ど れ ほ ど 奪 わ れ て き た こ と か 。
おいらの母ちゃんも含めてね。
こんなデタラメはどこから始まったのだろう?
ロックフェラーのせいだ、と言われれば、それは確かにそうだろう。
しかしここでそれを騒ぎ立てても仕方ないので、もう少し別の角度から。
学術的な系譜をたどると、このデタラメの元凶はパスツールにたどり着く。
ルイ・パスツール(1822~1895)は「感染症は体外の病原菌が体内に侵入することによって引き起こされる」と考えた。
この説が支持を得た結果、「病気は、体内に存在する形態移行型CWDsによって引き起こされる」という説は一蹴されることになった。
パスツール説が主流になる前には、実はこの「病因体内起源説」もそれなりに善戦していた。
たとえば、血液でも尿でもどの体内組織でもいいが、標本を採取して検査をすると、マイコプラズマが相当な確率(検体の約20%)で見られる。検査部門では、これは空気中からのコンタミ(混入)ということになっている。絶対にコンタミのないように、ものすごく慎重に標本を採取しても、必ず出てきてしまう。「コンタミというか、そもそも体内にあるのでは?」という見方は、現場の技師にとってはむしろ自然だった。
しかし今や、パスツール説が絶対的地位を占め、それ以外の考え方が入り込む余地はない。
そもそもマイコプラズマはすべての生命体の内部に存在するのだが、検査技師はそんなことはまったく教わっていないものだから、標本中のマイコプラズマを殺すために抗生剤を投与したりする。マイコプラズマは酸性環境下でCWDsがとり得る形態で、それはコンタミどころか、患者の病気の原因そのものである可能性さえあるのだけれど。
そう、CWDsは置かれる環境次第で様々に形態を変えるが、ある種の状況ではCWDsは強固な細胞壁を備えた真菌様(fugal-like form)になる。一般的な真菌と同じように、この固い細胞内には、芽胞(spore)を宿している。
さらにまた、一般的な真菌のように、CWDsは有性生殖(芽胞形成)することもあれば無性生殖(出芽)することもあって、複数の生活環(life cycle)を行き来している。
「もはや真菌そのものではないか」と思われるかもしれないが、決して真菌ではない。あくまで状況次第で、「真菌のようにふるまう」という、それだけのことだ。
僕らは、認識の大転換を行わなければいけない。
「菌は外から」というパスツール以来の価値観にすっかり染まっている僕らには、「菌は内から」という考え方はにわかに受け入れがたい。
しかし根本を誤っては、正しい成果に結びつくはずがない。
「悪いものは外から来る」ここが現代医学の前提で、「だから消毒しよう」となったり「だから抗癌剤で叩きましょう」となったりする。
結果、プラス面もあっただろう(菌体の侵入による直接感染は、当然起こり得るものだから)。しかし、マイナス面もあったに違いないんだ。
これまで原因不明とされている医学的症状のなかには、「菌は内から」と考えることでクリアに説明できることがたくさんある。
いずれにせよ、複数の見方ができることは、決してムダなことではないよ。
CWDsの話は次回も続きます。
(注)
このブログでいう「マイコプラズマ」は、マイコプラズマ肺炎を起こす細菌のマイコプラズマでは(必ずしも)ありません。
下記参考文献では大文字で始まるMycoplasmaとなっていて、原著者は、肺炎の起炎菌のマイコプラズマの意味というよりは、Myco(真菌)+plasma(もやもや)、つまりCWDsの意味で使っています。
参考
“Proof for the cancer-fungus connection”(James Yoseph著)