2018.6.27
医学とか薬学の研究には、動物実験が欠かせないんだけど、ネズミなんかはすごく安い。
特殊な遺伝形質を持ったネズミ、っていう具合に条件を付けるとケタがひとつ増えるぐらい高くなるけど、まぁネズミは大体安い。
犬猫も安い。
でも、サルって高いんだ。一頭50万とか。
複数匹買って対照実験しようにも、これだけ高いと、よほど潤沢な経費のおりる研究機関でないと、ちょっと手出しできない。
「それなら、サルを自分たちで育ててしまえばいいじゃないか」という発想が出てくる。
1950年、ハーロウらは、実験に用いる野生の輸入マカクザルが高価であったことから、人工繁殖を試みた。
伝染病予防のため、完全衛生管理下にて仔ザルの単独飼育を行った。金属製ケージに単独で置かれた仔ザルは生後5日以内に全例死亡したが、布で覆った針金の人形(「代理母」)を入れるだけで生存率が大幅に上昇した。
また、仔ザルのケージに哺乳瓶のついた針金製の人形と、布で覆われた哺乳瓶のない人形を入れておくと、仔ザルはミルクを飲むとき以外のほとんどの時間を、布で覆われた人形にしがみついて過ごした。
そもそも、人間は(少なくとも男は)みんなマザコンで、母親のことが大好きなものだ。
「いやそんなことはない。俺はオカンのことなんか嫌いやで」なんて、いきった中学生みたいなこと言うのはやめて、堂々と認めましょうよ笑
なぜ人間は自分の母親に対して特別な感情を抱くのか?
初めて見た自分以外の生物に対する刷り込みのようなものだろうか。あるいは、すでに胎内で何らかの愛着形成が始まっているのだろうか。
これは19世紀以前から学者たちが取り組んできた問題だったが、フロイトの提出した「Cupboard theory(空腹の理論)」が定説となって、一応解決した形になっていた。
つまり、「児の母親への愛着は、食物に対する欲求の二次的なものである」という理論で、平たく言うと「この人は僕にミルクを飲ませてくれる人だ。だから、僕はこの人が好きだ」という話。
でも、このマカクザルの実験によれば、どうやらフロイトの理論は誤りのようだとわかる。
つまり、研究者は「哺乳のみならず、身体的接触およびその安心感こそが新生仔の生存に必要である。母への愛着形成は、ミルクをくれる人だから、ではなく、主に身体的接触自体によるものだ」と考えた。
さらに観察を続けた。
一度布製の代理母に愛着形成すると、仔ザルは代理母を安全基地secure baseとみなし、次第に周囲を散策するようになるが、不安になると駆け戻って、代理母に慰めを求める。
これは、人間の幼児に見られる分離・個体化の行動パターンと同じだった。
この仔ザルを、代理母から無理に引き離すとどうなるか。
その反応も、人間の分離不安と酷似していた。
まず、激しく抗議する。やがてその抗議が無効であることを知ると、絶望状態に陥り、引きこもる。そこで代理母に再開させると、激しくしがみつく。
研究者は、仔ザルと人間のあまりの相似に驚くのだった。
母を求める強い気持ちに感心し、人間だけが何も特別なのではない、という認識を新たにするのだった。
さらに実験を続ける。
代理母に細工をし、時に仔ザルを音や空気で脅かすようにする。つまり、仔ザルが代理母に抱き着くと、不快なサイレンが大音響で鳴るようにしたり、代理母から強い空気圧が出るようにする。
いわば、仔ザルに「虐待」を加えた格好である。
しかし仔ザルの愛着行動は弱まらない。むしろ、代理母にいっそう強くしがみつく。
親からひどい虐待を受けた子供のニュースをときどき見て、僕らは心を痛める。
「なぜ逃げなかったんだ。こんな人でなしの親になぜ頼ろうとするんだ。いっそ子供のほうから見限って捨ててしまえばよかったのに」などと思うんだけど、この仔ザルの実験が、その答えを示唆している。
子供は、親に愛情を求めるしかないんだ。
それがどんなにひどい親であったとしても。
さらに実験を続ける。
生まれた直後から半年間、仔ザルを完全に社会から隔離するとどうなるかを観察した。
仔ザルは指しゃぶり、貧乏ゆすりなど、常同行動を繰り返すようになり、社会に戻しても、遊びや性行動などの社会行動ができない。学習能力の発達が劣り、自傷行為も目立った。
また、そのような、いわば「ネグレクト」を受けて育った仔ザルがメスの場合、そのメスザルが妊娠、出産したとしても、自分の仔を拒絶し、育児ができなかった。
サルの購入資金を浮かせようという経済的動機をきっかけに始まった研究だったが、人間の子供がどのようにして母親に愛着形成していくか、あるいは愛着形成が不十分であった場合、後年どのような影響が見られるか、という人間の精神世界の理解に、マカクザルの研究は大きく寄与することになった。
しかし、、、
「サル相手とはいえ、ひどい実験をするものだね。研究者は胸が痛まないのか」と皆さん、思いませんでしたか。
もちろん、研究者も同じことを思っていました、
彼らも人間。母ザルから引き離されて泣き叫ぶ仔ザルを見て、大いに胸が痛んだ。
シャーレや試験管を使って細菌をいじくりまわす実験とはわけがちがうのだ。
こうした実験者側の心理的負担、それに加えて、近年の動物愛護についての社会的気運の高まりのため、現在では実験の実施自体が困難となった。
僕はかつて、精神科医をしていました。
精神科医は、人の話を聞くのが半分、薬を出すのが半分、といった仕事で、薬を出すのが苦手だった僕は病院にとって半人前の仕事しかしていない医者だったので、給料も半額にしたかったと思うんだけど笑、その分というか、患者の話は丁寧に聞いていました。
心の深いところまで話してくれた患者の中には、幼いころに親から受けた虐待を語ってくれる人も珍しくありませんでした。
親の虐待が、その子の人生に後々どれほど大きな影響を及ぼすか、患者の生の声を通じて、僕は知りました。
僕にできることは、その虐待がそのときの患者にどれほどつらかったことか、一緒に悔しがったり、一緒にもどかしく思ったりして、共有することだけでした。
体の傷は治っても、心の深いところで負った傷は、ずっとその人につきまとって、なかなか癒えることがないのかもしれません。
ただ、上記のサルの実験に関していうならば、実験にはさらに続きがあります。
親を含め社会から引き離されて、いわば「ネグレクト(養育放棄)」の状態で育ったサルは、常同行動や自傷行動が見られ、まともに社会生活できなくなる、と言いましたが、研究者は、こういうサルをどのようにして社会復帰させればよいか、という実験も行っています。
徐々に他のサルの存在に慣れさせていくことで、一年後には激しい自傷行動をしていたサルもある程度回復し、群れの中で生活できるようになった、とのことです。
人間で味わった失望は、やはり人間との交流で癒していくより他ないのだと思います。
精神科診療に携わってきた者として断言しますが、少なくとも精神科的投薬が真の救いを与えてくれることはあり得ません。
つらい人生で、こんな生きづらさを背負わせた親を恨みたくなる気持ちはわかる。
わかるだけに、気安く言いにくいんだけど、それでもあえて僕は言う。
人間に対する希望だけは失ってはいけない、と。
参考
Harlow, H.F. 1979. The human model: Primate perspectives. V.H. Winston & Sons, Washington D.C.
2018.6.26
ある程度親しくなった友人には、「自分がいつ大人になったと思う?」という質問をすることにしている。
大人、といっても、「初めて酒を飲んだとき」とか「初めて女を知ったとき」みたいな、即物的な意味での大人じゃなくて、もっと抽象的というか、もっと精神的な意味での大人ね。
各人各様の答えがあって、他のどんな質問よりもその人の人間性をあぶり出してくれるようで、おもしろい。
かれこれ、もう十年ほどこの質問を続けている。
だから僕の雑記ノートには、これまでの友人たちの「大人の瞬間」がたくさん記録されている。
印象に残った答えを紹介しよう。
「親元を離れてこうやって県外で生活してると、お母さんが何かと心配して電話をくれる。寒くなってきたけど元気にしてる?とか、今テスト勉強で大変だろうけど、大丈夫か、とかね。
私、小さい頃から体はそんなに丈夫じゃなかったから、親としては特に心配なのね。
お母さんが電話をくれたとき、たまに、本当に体調が悪いことがある。
でもそういうときに、私、本当のことは言わない。元気だよ、大丈夫だよって答える。
ほら、小さい子供って、親の気を引こうとして、大して痛くもないケガで大げさに泣いたりするでしょ。いつの間にかそういうことがなくなっていくのが、成長っていうことなのかもね。
そう、私が大人になったのは、親に心配をかけまいとして、初めてウソをついたとき」
なるほど、と思った。
親は、甘えさせてくれる存在ではあるけど、遠い県外に暮らすお母さんに本当のことを言ったところで、いたずらに心配させてしまうだけ。
甘えられる人に、あえて甘えない。
確かに大人だ。
「年の離れた兄貴に子供がいてさ、5歳の男の子なんだけど、すごくかわいいんだよ。
だから俺、この年齢でオジサンなんだぜ笑。俺も早くこんな子供が欲しいなって思う。
俺によくなついてくれて、一緒にレストランに食事に行ったりもする。俺は病気なんてしたことないくらいに健康だから、何を注文して何を食べてもいいんだけど、この甥っ子の食べるものには、俺、すごく気を使う。
変な農薬を使った野菜じゃないだろうか、とか、こんなの食ってアレルギー起こさないだろうか、とかさ、自分は普段ろくに食べ物に気を使わないくせに、この子が口に入れるものだと思うと、異常に神経質になってね。
で、この子がそれを食べて、にっこり笑顔浮かべて、「おいしい」って言うと、何ていうかな、俺、もう満腹な気持ちになるんだよ。
俺はもう食べなくてもいいや、ぐらいな気持ちに。いや、もちろん食べるんだけどね笑。
そう、俺が大人になったのは、誰かの「おいしい」が、自分の「おいしい」以上にうれしい、そういう気持ちがこの世に存在することを知ったとき」
これ、今のところ僕のなかでは、ベストアンサーだな。
でも、こういう感情は彼に限らず、世間のお父さんお母さん誰しもが持っているものじゃないかな。
うちで働いている看護師が、こんなことを言っていた。
「健康な子供に育ってほしい、病気になって苦しむことができるだけないように、と思って、私、子供にはワクチンを積極的に打たせていました。
定期接種だけじゃなくて、任意接種もすすんで受けさせていました。
『ワクチンは病気を未然に防いでくれるありがたいもの。国が認めている医療なんだから、いいものに違いない』って、思い込んでいたんです。
3歳のときに日本脳炎のワクチンを打ちました。
そしたら、ワクチンを打ったその日に全身に発疹が出て、しかもその日以後、牛乳とか牡蠣とか、いろんなものにアレルギーを起こすようになってしまって。。。
病院に連れて行きましたが、医者はワクチンが原因だと認めませんでした。
因果関係がどうのこうの、ってレベルの話じゃありません。1たす1は2、ぐらいに明らかな話なのに、病院は非を認めませんでした。
私が変わったのはその一件があってからのことです。
それまでは私、もっと無邪気に国のことを信用していました。
ワクチンとか薬とか、医療行為が原因で病気になる、っていう話は、看護師をしているわけですから、何となく話には聞いたことはありました。
でもそんなのはごく一部の例外であって、普通の人はそんなひどいことにはならないだろう、って、根拠もなく思っていました。
まさか、よかれと思って打ったワクチンで、他ならぬ我が子を傷つけてしまうなんて。
国の言うことを素直に聞いているだけでは、自分の子供を守れないのだと知りました。
以後、ネットでいろいろ情報を調べるようになって、今の医療がいかに矛盾に満ちたものか、ということを知りました。
ここのクリニックで働くようになったのも、そういう自分なりの苦い経験があって、院長の治療方針に共鳴したからです。
いつ大人になったかって?
私が大人だなんてとんでもない!
一度大きな失敗をしてしまったんです。もう二度と同じ失敗をしちゃいけない、この子を守るんだという思いで、今も勉強中の私です。
この子がもっと大きくなって、やがて成人したとき、ようやくそのときになって初めて、私も大人になったな、と言えるかもしれません」
子供の「おいしい」が自分の「おいしい」以上に喜ばしいのと同様に、子供の傷は自分の傷以上に痛い。
親になるということは、そういう気持ちを我が子に持つということであり、その気持ちを持っている限り、十分にいいお母さんやと思うよ。
2018.6.25
「以前、そちらから、『スタチンが原因で認知症になることがあるから主治医に相談するように』と言われたので、その旨、主治医に話してみました。
すると、『そんなことは聞いたことがない。ご希望なら中止してもいいけど、コレステロール、また上がるよ。いいの?』と言われ、返答に詰まってしまいました。
『コレステロールを下げるビタミンがあるとも言っていました』と言うと、鼻で笑って『そんなものはない』とのことでした。
どうしたらいいでしょうか。
二人の先生が真逆のことを言っているものですから、私、悩んでいます」
どこかで聞いた昔話。
「自分こそがこの子の母親」と主張する二人の女性が、互いに譲り合わず、判断がお奉行様に委ねられることになった。
「子を間にして、左右から腕を引っ張りあえ。子を引き寄せた方を母親とする」
二人の母親に腕を引っ張られた子供はその痛みに泣き声をあげる。不憫に思った一方の母親が、ふと力をゆるめた。その瞬間、子供はもう一方の母親の胸元に倒れた。
「子の痛みに思いをいたさず、自分の思いだけを振り回す者は不憫の情を知らない。子の腕の痛みを思い、手を放した女こそ、真の母親である」とした大岡裁き。
だから何、ということはない。
何となく、状況的に、僕と向こうの主治医先生で、この患者を挟んで、綱引きをしている格好だなって思っただけ。
ただ、この昔話を比喩として使うならば、こういう状況になれば、僕は、まず間違いなく腕を放します。
患者への愛情が強い弱い、の話じゃありません。
お奉行様(厚労省)は向こう持ち、というのがハナから見えているからです。
ガイドラインという錦の御旗は向こう側にある。
負けることの見え透いた争いは不毛だ。
だから、僕は突っ張りません。
患者には、こう伝えます。
「すでに説明したように、スタチンは認知症の誘因になり得ますし、ナイアシンにはコレステロール降下作用があって、しかもスタチンのような副作用はありません。
そのことを示すエビデンスは無数にあるのですが、どのデータを信用するかは、ある意味各人の自由です。
僕の説明に説得力を感じない、信じられない、ということであれば、どうか、主治医先生を信用して治療に取り組んで下さい。というか、先生の言われることが内科学会の認める正論であり、スタンダードです。
僕の考えはむしろ異端ですから」
そう、向こうの先生が正室で、所詮僕は日陰の女なんだ。
こういう位置関係にはもう慣れている。
極力しないように心がけていることは、子供の前で嫡妻の悪口を言わないこと。
少なくとも患者の前で、他の医者の批判はしない、というのが医者同士の暗黙のマナーだ。
「スタチンみたいな毒飲まされて、かわいそうにね」というのが本音だとしても、そういう言葉は僕の口からは絶対に出ない。
僕が言うのは「ナイアシンにはスタチンと同じようにコレステロール降下作用があり、かつ、副作用がほとんどありません」という客観的・科学的事実だけだ。
どちらをとるかはあくまで患者に選ばせる。
ときに、こういう僕の態度に患者は焦れて、僕に、もっと明確に態度表明して欲しい、という。
「いえ、どちらがいい悪いの話ではありません。向こうの先生の処方で、きっちり血圧もコレステロールも下がります。ただ、同じことは、栄養療法を使っても可能だという、それだけのことです。
西洋医学であれ東洋医学であれアーユルヴェーダであれホメオパシーであれ何であれ、それぞれの医学にはそれぞれの哲学なり方法論があって、あっている間違っている、の話ではありません。
僕は栄養療法を実践していて、そのメリット・デメリットについて説明することができます。何か情報が必要ならば何でも質問して下さい。
ただ、他の畑の医学と比べて、どちらが優れている劣っている、みたいなことは言えません」
僕のところに一度は来てくれたものの、結局西洋医学に帰っていく人ももちろんいます。「たかがサプリじゃ、やっぱりアカンわ」と。
ただ、僕は、患者に本物の笑顔をもたらしてくれるのはこれだ、と思って、今実践している医学にたどり着きました。
今日、ある患者が帰ったあと、看護師が、興奮した口調で僕に言いました。
「あの人、来院したときはヨボヨボの小刻み歩行だったのが、グルタチオン点滴で、本当に見違えて、帰るときはシャキッと歩いて、本当に別人みたいでしたね。あんな劇的な回復、あるんですね」
西洋医学では治療不能ということになっているパーキンソン病やレビー小体型認知症が、栄養療法で見事に改善する。別の医学畑から見れば「奇跡」としか言いようのない現象が、ここでは当たり前の日常風景だ。
「そうやろ、すごいやろ」と僕もニンマリ。
みんなにわかってもらおうなんて思っていません。
治療方針に共鳴してくれて、わかる人だけわかってくれて、本当の笑顔を取り戻してくれたら、僕はもう、十分なんです。
2018.6.23
きのうは夏至だった。
一番長い日だ。
でも、一番暑い時期はもうちょっと先で、7月とか8月だ。
このズレがおもしろいと思う。
これは夏至に限らず毎日のことだけど、太陽高度の最も高い正午が最も気温が高いわけではなく、気温が一番上がるのは大体午後2時頃だったりする。
1日の変化の具合と1年の変化の具合が相似形になっていて、フラクタルなものを感じる。
精神世界にも同じような現象がありそう。
たとえば、大事な身内を亡くしたとする。意外にその時点では涙とか出なくて、それほど悲しくなかったりする。
でも、2日とか3日とかしばらく時間が経ってから、本当に悲しくなったりする。
感情のピークは、身内の死という最もショッキングなその瞬間ではなく、ちょっとタイムラグを置いてから来るみたいだ。
僕は趣味で数学をよくするんだけど、ハノイの塔っていう問題を考えていて、この問題を一般化してグラフを使って考えるとシェルピンスキーの三角形というフラクタル図形が現れると知って、驚いた。
パスカルの三角形を偶奇で色分けしてもシェルピンスキーの三角形が現れて、数学のあちこちにこのフラクタルが出てくる。
人間の血管の分岐とか、腸の内壁とかも三次元のフラクタルで、数学だけじゃなくて、世界のあちこちに見られる構造なんだな。
目に見える世界だけじゃなくて、人間の内面世界にもフラクタル的なものがあるかもしれない。
2018.6.23
以前勤めていた精神科病院には、入院患者におやつタイムがあった。
午後3時前になると、患者たちがぞろぞろラウンジに集まってきて、職員からお菓子が配られるのをじっと待っている。
クッキーとかどら焼きとか、それぞれの患者の好みのお菓子が配られて、患者たちは甘さの喜びを楽しむ。
病院内に売店があって、いろんなお菓子やジュースが売ってるんだけど、長期入院している患者のなかには、買い物をするだけの精神機能さえ損なわれている人がいるから、そういう人には職員が代わりにお菓子を買ってきていた。
ほとんど寝たきりの人さえも、自分用のお菓子が用意されていた。
短期入院で自由に売店に行ける人は、自由にお菓子を買っていた。
この病院で働き始めた当初、僕はこのおやつタイムに愕然とした。
こんなことしてたら、治る病気も治らないじゃないか。
上司にさりげなく提言してみた。
「何も病院のほうからわざわざ、糖質摂取のための時間を作ってあげること、ないと思うんですけど」
「いや、長く入院してる患者にはね、他に何の楽しみもなくて、食事とお菓子が唯一の楽しみっていう人もいるんだよ。そういう人から楽しみを奪うのは酷だと思うよ」
むしろ逆で、長く入院する一因がお菓子じゃないかと思ったけど、根本的に考え方が違う上司をあえて説得するのも徒労だと思った。
それはもう、何十年と続いている習慣なんだから、新人がいくら理を説いたところで変わらないだろう。
それ以後、僕は何も感じないように努めた。
さりとて、理はあるんだ。
たとえば統合失調症。
妄想が出て大変だ!
→よし、クエチアピンの投与だ!
→ドーパミン受容体がブロックされて、見事、妄想消失だ!
→でも患者は不愉快だ。ドーパミン受容体を刺激されないと、生きてる喜びが得られない!
→よし、お菓子のドカ食いだ、これでいっぱいドーパミンを出すぞ!
→医者は、あれれ?また妄想が再燃してきたぞ。困ったな。クエチアピン増量だ!
(以下、ループ)
精神科で行われているいわゆる「治療」って、こんな具合です。
精神病が治らないんじゃない。
根本的な原因にアプローチしてないから、治らないんだ。
うつもアルコール依存症も同様で、糖質の影響をもろに受ける。
アルコール依存症の治療に力を入れている病院だったから、毎週依存症者の勉強会なんかを開いていたけど、そういう場でさえ、本当の原因が語られることはなかった。
彼らにアルコールと糖質の共通点を説き、ナイアシンの有効性を伝えたなら、どれほど救われることか。
治らない治療を延々続けている彼らを横目に見ながら、僕は沈黙を守った。
のみならず、効きもしないとわかっていながら、上司と同じスタイルの処方をすることもあった。
僕の処方は病院から注目されていた。
妙な処方をしないよう院内薬局から目を付けられていたし、他の医者たちも僕のカルテを面白半分にチェックしていることを僕は知っていた。
そういうのは極力気にしないようにして、患者に悪影響を与えない処方を心がけていたんだけど、時々そういう好奇の視線に耐えられなくなって、「これぞ精神科的処方の王道」というような、一般的な処方をすることもあった。
そういうときは、自分に言い訳をしている。
「この患者はもう精神科的には末期で、年齢的にも若くない。薬で抑えるより他ないんだ」と。
自己欺瞞だとわかっている。
本当はそんなことはない。栄養療法始めるのに遅いなんてことはない。この患者だって、救おうと思えば救えるはずなんだ。この患者にも嫁がいて、子供がいて、仕事があって、まだまだ人生を楽しむ余地がある。お前が守ってやらないでどうする。
心の声と、自己保身の念が頭の中に同居して、僕は引き裂かれるようだった。
あるとき、どうしても助けてあげたい患者がいた。
こっそりナイアシンの瓶を手渡した。
ホットフラッシュが起こり得ることや、服用方法について簡単に説明した。
数日後、どういう経過でか、ナイアシンを患者に手渡したことが上司の耳に入り、叱責された。それも相当な長時間、感情的に。
渡したのがただのアメだったなら、上司はここまで感情的にならなかっただろう。
ナイアシンという、毒とも薬とも知れぬ、得体の知れないものだったから、余計に僕の行為が許せなかったのだろう。
ほらね、出過ぎたことをするからだよ。救ってあげようなんてさ、ヒーローにでもなったつもりか。やめとけやめとけ。普通の薬投与してりゃいいんだよ。フツーにね。リスパダール、ジプレキサ、セロクエル。いっぱいあるじゃないか。何でもいいから処方してやれよ。それだけでいいんだ。それだけで万事うまくいく。変に頭使わないで、ガイドライン通りの処方をしていればいい。副作用?患者の真の健康?知らねえよ、そんなの。そんなもんは無視しろ。それより気にすべきは、組織内でのお前の立場だろう。一人だけ浮いて、バカみたいじゃないか。もっと保身を考えろ。そして今回のことを教訓に、いいか、よく覚えておけ。良心を持ったお前がバカだったんだと。
この話には続きがある。
患者はナイアシンを取り上げられたが、ナイアシンを服用した数日間、その効果を実感していた。退院後、自らナイアシンを購入し、服用を開始した。
その後、病気の再発は起きていない。
プライドとかズタズタになっても、一人の患者の人生を救えただけで、やっぱり自分は間違っていない、また立ち上がろう、って思えるんだよね。