2018.6.4
いろいろな科があるよね。内科とか外科とか精神科とか。
そのなかでも、本当に患者に貢献している、と言えるのは、救急と形成外科の二つだけじゃないかな、という気がしてる。
救急は西洋医学の圧倒的な得意分野で、というかむしろ、西洋医学のとりえはここしかないんじゃないかな。
もともとは戦場で生まれた医学。戦場だから、長期的な副作用とかはひとまず考えなくていい。まず、循環や呼吸を安定させ、死なせないようにするのが最優先。
点滴などで水分や栄養補給も同時に行って、体力を回復させる。
こうして回復した兵士を、可能なら再び前線に送り出す。
体を一種の機械と見る還元主義的な見方も、こういうピンチの状態では、それなりの説得力があると思う。
でも、内科となるとまるでダメなんだな。精神科はもっとダメ。
慢性疾患に対しては西洋医学は無益であるばかりか、はっきり有害だということが、データでも示されてる。
病院がストライキを起こせば、患者の死亡率が下がった、という統計がある。1970年代のものだけど、当然西洋医学の本質は現在も変わっていないから、今も意味のあるデータだと思う。(ただしこのストライキ中も救急だけは例外で、稼働していた。)
「まず害をなすなかれ」という医療の原則があるけど、まず害をなしている、というのが西洋医学の正体だろう。
形成外科の何がいいって、このヒポクラテスの戒めを比較的守っているところ。
つまり、形成外科というのは(特に美容整形は)、あってもなくても患者の命に関係ないような科で、そもそも病人を相手にしていない。そこがいい。
たとえば乳癌のオペ後に、形成外科が入って、そのまま乳房再建術に移行したりする。乳房のあるなしは、生存に直結しないから、やらなくてもいいようなものなんだけど、これは生存のためじゃなくて、患者の生活の質を上げるための処置なんだな。
目が一重であろうが二重であろうが、体の代謝には全く影響しないけど、目をちょっといじるだけで、人生が大きく変わる人がいる。
美容整形に何百万何千万とつぎ込むまで行くとやばいけど、ちょっと目をいじっただけで自分らしく堂々と生きられるようになるのなら、それってすばらしいことだと思う。
単に外見が変わるだけじゃない。
見た目は、れっきとした「資産」だって、みなさん知ってますか。
1.経済的資産(土地、建物)
2.個人的資産(学歴、資格、既往歴(←負債だけど))
3.社会的資産(人脈、SNS)
4.美的資産(見た目、服装、装飾)
つまり、ルックスは第4の資産と言われてる。
男の場合は、3とか4がいまいちでも、1とか2を高めて行けば、人生ある程度勝負できるというところがあるけど、女性で4の資産額が少ない、というのは、人生かなり生きにくくなる可能性がある。
見た目を資産、とする考え方って、これまで、差別につながるんじゃないかということで、何となく公の場で議論することさえはばかられるようなところがあったんだけど、この前東京で行われたオーソモレキュラー医学会の講演で、近畿大学の山田秀和先生がこの問題を真正面から議論してて、おもしろかった。
ちなみに、栄養療法は、4の資産力を高めてくれます。なぜって、栄養療法は、アンチエイジングのための栄養補給とほとんど同じで、美容や抗老化に有効だから。
そもそも美しい肌というのは、代謝の具合をそのまま反映しているので、健全さ(自分がいかに健康であるか、生殖の準備が整っているかなど)を示す鏡でもあります。
2018.6.3
「紀州のドン・ファン」の事件が話題になっているけど、紀州の生んだスーパーヒーローといえば、僕のなかでは、華岡青洲です。
全身麻酔下に癌の手術を行ったのは、彼が世界で最初。
ただし、医学の歴史には載っていない。アメリカの麻酔科の教科書を見ても、彼の名前は言及されていない。モートンが最初、とされている。
モートンがエーテル麻酔で頚部腫瘍に対して手術を行ったのが、1846年のこと。青洲の手術は1804年。
モートンよりも42年も先に成し遂げられた偉業なのにね。
華岡青洲が麻酔を完成させるまでにどういう苦労があったかを知るには、有吉佐和子の小説『華岡青洲の妻』がおもしろいです。
華岡青洲の嫁と母が、青洲の助けになろうとして、互いに張り合う人間ドラマが描かれていて、嫁と姑の小競り合いの心理って、現代とまったく同じなんだな、と思う。
ところで、世界最初の麻酔導入による癌の手術が行われた後、青洲の編み出した麻酔技術が引き継がれ、洗練されていったかというと、全くそんなことはなかった。
この点はモートンと対照的で、モートンの麻酔術は、その後いろいろな人が改良を加え、ますます洗練されていった。
なぜこんな違いが生じたか。
情報公開の有無、というのがポイントだと思う。
青洲は麻酔術を、自らの一派の秘術とした。門外不出の秘伝、みたいなね。
逆にモートンは、開発した技術を論文にして広く世に問うた。
ここには技術というものに対する東洋、西洋の違いが端的に現れている。
日本は何でも、「道」にしちゃう。
「この技術には、絶妙の間と呼吸というものがあって、教えて教えられるものじゃありません。師匠の技を目で見て盗む。そういう職人技の世界です」という具合に、何でも秘術化してしまう。
一方、西洋は知識の先取権、というものを重視する。最初に発見し公表した人に、開発者の名誉が与えられる。だから、欧米人からすれば、自分の発見した技術を秘密にしちゃうなんてありえない。どころか、広く世に知らしめてなんぼ、という価値観なわけ。
こうして公にされた技術は、多くの医学者に検証され、次第に方法として改良されていく。
逆に、免許皆伝、一子相伝、といった風通しの悪い技術の伝播様式では、どうしても保守的になりがちだ。
文明開化以後、西洋の技術がいっせいに日本に流入して、それは麻酔の技術についても例外ではなくて、青洲の麻酔術はあっという間に淘汰されてしまった。
明治以後、僕らはすでに西洋の価値観に染まっていて、「先に登録した者勝ち」とか「情報は公開し、批判にさらされてこそ、質が上がっていく」いう考えに対して、わりと抵抗なく受け入れられると思う。
「秘すれば花」的な価値観にもいい面はあるのかもしれないけど、少なくとも技術的な情報に関しては、秘しててもあんまりメリットないような気がする。
何が言いたいかというと、情報公開の重要性、という話です。
ネットは本当に革命的で、ネットの情報は僕の人生を変えてくれた。
僕がオーソモレキュラーを知ったのもネットを通じてだった。
今でもPubmedとかしょっちゅう使うし、僕の主要な情報ソースであり続けている。
別に恩返し、というわけでもないのだけど、最近、僕もそろそろ、情報を発信する側にまわろうか、という気持ちになってきている。
栄養療法を実践していると、自分なりの知見、というものが蓄積されてくる。このビタミンは一般にはこういう効き方をするとされているけど、実際にはちょっと違うんじゃないかな、とか、定説とはちょっと違う考えが芽生えてきたりする。
こういう主観に基づく個人の体験談は、anecdotalとされて、医学的なエビデンスといしては軽視されがちなんだけど、無意味というわけでは決してない。
青洲の考案した技術は秘術化したことで、歴史の闇に消えてしまった。
僕だけの技術、と呼び得るものがあるならば、いっそ公開してシェアしたほうが、少しでも人のためになるような気がする。
2018.6.3
高血圧とか高コレステロール血症とか、いわゆる慢性疾患、あるいは、統合失調症とかアトピー性皮膚炎のような難治性疾患もそうだけど、こういう病気の治療にために病院に通うということは、いわば、その病院の先生と顧問契約を結ぶようなものだ。そこにずっと通い続けるわけだからね。
そもそも慢性疾患に対する投薬治療は、治ることを前提にしていない。
薬を一回飲んで、「数字が正常値に戻りましたね。じゃ、薬はもうやめましょう」とはならない。
飲み続ける必要がある。
いつまで?
死ぬまで、です。
これは病院にとって(そして製薬会社にとって)非常にありがたいことで、こういう「契約」は病院にとっての固定資産になる。こういう患者を一人でも多く確保することが病院経営の安定化に貢献している。
症状は抑えるが、治らない。こういう治療を対症療法といいます。
一方、栄養療法は、症状の真因にアプローチするので、根本的に治します。
根本的な原因が除去され、健康になった患者さんは、その後どうなるか。
病院に来ることはありません。感謝の言葉を残して、去っていきます。
自分の人生を歩み始め、もう病院に来ることはありません。
医者としてはやりがいのあることだけど、病院経営的にはどうか。
まったくもうかりません。
勤務医をしていた頃は、この点、ある意味気楽だった。自分の思うような医療を実践できないというもどかしさはあったが、月々の給料はしっかり保証されていた。
でも、開業してからは、経営的なことも考えていかないといけない。テナント料の支払い、看護師の給料、その他もろもろの経費。けっこうな額になります。
一方、収入のほうはどうかというと、経費をまかなうだけの額には遠く及びません。
開業して以後、僕は医療の抱えるこの矛盾に直面しました。
いわば、僕には「固定資産」がない。経営的にはきついことだけど仕方ない。まさに、そういう医療、患者を根っこから治す医療がやりたいからこそ、開業したんだ。
人間の体って精妙にできているので、出ている症状には必ず理由があります。
血圧が高いのはなぜか。
高い圧で血液を駆出する必要があるからこそ、心臓は頑張って血圧を上げているわけ。
その原因は複数ありえるけど、たとえば動脈硬化が進んでて末梢の虚血があるから、それでしっかり末梢に血液を届けるために血圧が上がっているのかもしれない。
だとすれば、治療は単に数字だけ見て降圧薬投与するんじゃなくて、動脈硬化の治療を優先すべき、というのがオーソモレキュラーの発想で、そこでビタミンEやリシン、セレンなどのサプリメントの使用という選択肢が出てくる。
動脈硬化が解消すれば血圧は自然と下がる。心臓が無理して高い圧で末梢に駆出する必要がそもそもなくなったから。
「血圧が高いぞ、それ、降圧薬だ」という考えと、そもそも血圧が高い必要性自体を解消してしまおうという考え、どちらが根本にアプローチしていると思いますか。
対症療法は、体の生理に反した状態を薬で無理やり作っているわけで、こういう治療法は後々になって、思わぬところで落とし穴にハマります。
たとえば、無理に血圧下げていて、脳の血流も慢性的な不足状態になっているので、認知症になりやすくなる、とかね。
そういうのって、統計的なデータとしてしっかり出ています。
姑息的(その場しのぎの)治療は、借金の先送りのようなもので、結局長い目で見れば、大きな代償を払わされることになります。
短期的であれ長期的であれ、服用によって起こり得る副作用に関しては、医師は投薬前に事前に説明する義務があるんだけど、断言するけど、こんな説明責任、まともに果たしている医者はいません。
添付文書にある副作用の一覧を見てしまったら、患者はその薬を飲もうなんて思わなくなるのは明らかなので。そうすれば客が逃げてしまう。医者も商売。バカ正直ではつとまらない。だから、一般的なクリニックの先生は、副作用の説明は、するとしてもさらっと流す程度で、詳しいことは言いません。
矛盾のなかで生きていくのはつらいことだけど、少なくとも勤務医時代に感じていた強烈なストレスからは解放されました。
経済的なきつさと、自分のやりたい医療をできないつらさ、比較すれば、前者はまだしかわいいもので、後者は地獄の苦しみなんだ。もう二度と味わいたくない。
「まず、害をなすなかれ」って医聖ヒポクラテスの言葉がある。
プラスにならなくとも、少なくともマイナスは与えるなよ、という戒めの言葉なんだけど、今の自分は、この言葉を実践できているという自負があるから、自分の仕事に誇りが持てる。
だから、経済的な苦しさにも関わらず、断言できる。
開業して正解だった、と。
2018.6.3
ホッファーはナイアシンの大量投与療法によって、6000人以上の統合失調症患者を社会復帰させた。著した論文の数は500以上。
2009年に91歳で亡くなる直前まで、臨床現場で診療にたずさわっていた。
十代で統合失調症を発症した少年が、親に連れられてホッファーの診療所を訪れた。ナイアシンによる治療を受けた。他のどんな薬を飲んでも治らなかった少年は、見事に回復し、退院していった。
数十年の月日が流れた。
少年は長じて医者になり、出世して、APA(アメリカ精神医学会)の幹部になった。
APAは3万5千人以上の会員数を擁する世界最大の精神医学会で、様々な医学雑誌を刊行し、精神科の診断基準(DSM)の作成にもたずさわるなど、世界中の精神科医の司令塔、といった存在である。組織としての資金力も豊富で(なにしろ製薬会社から流れ込む資金が莫大なので)、政治的な影響力も強い。
当然、APAとしては、栄養療法の存在など断じて許容できない。
テレビなどのマスコミを通じて栄養療法の情報が出ないよう徹底して圧力をかける。テレビ業界にとって一大スポンサーだから、そういうことが可能なんだ。政治家にもパイプが太く、精神科学会にとって有利な政策が通るよう、ロビー活動も積極的に行う。
患者にとって真に有益な治療が表に出ず、副作用の多い製薬会社の薬が臨床現場で延々使われている背景には、こうした経済的、政治的な思惑がある。
医療というのは、そもそも患者のほうを向いていない、ということは、知っておくべきだろう。
統合失調症になり、ホッファーの治療を受け、人生を救われたかつての少年は、ホッファーと敵対する組織のトップとして、一体どんな気持ちで働いていたのだろう、と思う。
自分を救ってくれた恩人に銃を向ける格好なわけで、この医師は心の中に矛盾を感じなかっただろうか。
ナイアシンがいかにすばらしい効果があるか、当然この先生は知っている。そして、自分の団体が売り出している薬がどれほど副作用の多いものかも知っている。すべてこの医師が自分の体で経験してきたことだから。
巨大な組織に所属し、莫大な資金力、圧倒的な政治力を運用する側になれば、人間としての良心なんて、どこかに吹っ飛んでしまうのかもしれない。
ナイアシンが統合失調症どれほど著効するか、知っている医者は当然いる。APAの幹部さえ、知っている。でも、決してスタンダードな治療にならない。
要するに、政治なんだよね。
こういうの、ホンマにイヤやわ。
2018.6.2
最近はThomas Levyという人の本にはまってる。全然知らない人だったんだけど、4月末に東京で行われたオーソモレキュラー学会に講演者として来てて、その講演聞いて、すごい人だなと思って、著書を読み始めた。
“Curing the Incurable”という本のなかから、印象的な記述があったので、ざっと紹介します。原著は英語だから、僕の翻訳ではちょっとテキトーなところもあるかもしれないけど、許してね´Д`
2000年7月2日の日曜日のゴールデンタイムに、メリル・ストリープ主演のテレビドラマ『まず害をなすなかれ』が放送された。
実話に基づいた話をドラマ化したもので、ストリープ演じる母親とその幼い子供の話。
その子、てんかんの発作がひどくて、苦しんでいた。それでいろいろな薬を投与されていたんだけど、ちっとも効かない。というか、その投与されている薬の中にはひどい副作用のあるものがあって、むしろその副作用の影響で死にそうになっていた。症状は悪くなるばかりで、主治医はこう告げた。「最後の手段として、脳の手術が必要です。しかしその手術に成功しても、長期的な改善は見込めません」
母は医師の言葉を聞いて、子供のそういう運命を素直に受け入れるのではなく、あらがおうと思った。医学図書館に通いつめ、文献の研究に没頭した。
そしてついに、彼女の息子と同じ病気、同じ症状の症例が完治したという症例文献を見つけた。それは『ケトジェニック・ダイエット』という食事療法を用いた治療だった。複数の抗てんかん薬が奏功しなかった症例でも大多数がこの治療法により症状が消えた、ということだった。
主治医はこんな治療法があることを彼女にまったく教えてくれなかった。『ケトジェニック・ダイエット』が最新の治療法だから、主治医がそのことを知らなかった、のではない。その症例文献は、なんと、75年前に出版されたものだった。
母親が主治医にその文献を見せ、その食事療法を我が子に試してみたい、と伝えたところ、彼は嘲笑した。
「そんな文献報告に何の意味もありませんね。だいたいこれ、”anecdotal”じゃないですか。こんなものは科学じゃありません。僕ら医者は科学者であって、占い・まじないの類を臨床実践するわけにはいきません。」
“anecdotal”というのは対照実験のようなエビデンスに基づいているものではなく、文献報告者の主観の要素が強く、エビデンスレベルとしては低い、とされる。
そうした医者の嘲笑に対しても、母親は必死に抵抗した。
「もうあの子には他に方法がないんです。どうか試させてください。どうしても食事療法をやらせない、ということであれば、退院します」
主治医はどこまでも頭の固い男だった。
「僕らは医者で、医者には患者の命を守る責任がある。手術予定をキャンセルして、そのわけのわからない食事療法を試すために、バルティモアにあるジョン・ホプキンス大学に転院する、となれば、こちらとしても法的な手段をとりますよ。適切な治療を受けさせないのは、ネグレクトだ。黙って見過ごすわけにはいかない」
なんだかんだと言葉の応酬、テレビドラマ的な話の紆余曲折があったものの、結局母親は我が子にケトジェニック・ダイエットを行い、子供はすぐさま回復した。もはやてんかん発作が起こることはなくなり、これまで飲んでいた薬もすべてやめることができた。
こうして物語は終了した。
テレビドラマである。
しかし、ゴールデンタイムに全米で放送されたのだ。こういうテレビの影響は非常に大きい。
放送日の翌日、コロラドにある某病院の医局で、医師たちは皆、怒りをあらわにしていた。
あのテレビドラマ『まず害をなすなかれ』のせいで、医師の権威が損なわれてしまったことに、彼ら、不機嫌を隠せないのだった。
ふと、これまで沈黙していた一人の若い医師が、勇気を出してこう言った。
「我々も『ケトジェニック・ダイエット』を臨床現場に取り入れてはどうでしょうか」
他の全員が一様に彼をにらみつけ、場の空気はたちまちに、拒絶一色に覆われた。その空気には、誰も勝てない。その「拒絶」に反対する意見には敵意むき出しとなり、さらなる拒絶しか受け入れない空気なのだった。
「食事で治る?バカバカしい。我々の臨床現場での真剣な努力を踏みにじるものだ」
「アネクドータルな報告がいかに低レベルな報告が多いか、しろうとは知らないんだよ」「裁判、本当にすればよかったのにな」などなど、実際の医師たちの言葉も、テレビドラマの中に出てきた主治医の言葉と同じような範疇に属するものだった。
医者というものがどういう人種であるかを示す上で、おもしろい描写だと思ったので、ざっと紹介しました。
もちろんね、医者の中にも良心派はいるんだよ。「ケトジェニック・ダイエット、よさそうじゃないか」と、素直に開かれた心で受け入れる人も、少数ながら確かにいる。
でも、そういう先生も、組織や集団の論理のなかに飲み込まれると、まったく歯が立たない。そういう先生にも嫁子供がいて生活があるから、集団を敵にまわすリスクを背負ってまでケトジェニックダイエットを実践しようなんて思わない。「ま、ガイドライン通りの治療でいいか」というところに落ち着いてしまう。
結果、医療は変わらず、本当に患者を救う方法は、闇に埋もれたままとなる。
ケトジェニックダイエットが、75年間も図書室の片隅で眠っていたように。
みなさんは、医者のことを勉強ができて頭のいい人だと思っているかもしれない。それは違います。自分の知らない治療法などの新しい知識に対して、医者は柔軟であるべきで、必要があればそれを自分の手技のなかに取り入れるべきなんだけど、そういう医者はまずいません。自分の意に染まない論理には、徹底して拒絶的になります。医者は頑固で、石頭なんです。最も融通が利かない人々、それが医者という種族です。
ポーリング博士は、「医学は科学ではない」と言いました。デタラメな批判にさらされて袋叩きにあったポーリング博士は、理屈の通じない石頭のバカを相手にして、ほとほとうんざりしていたんだと思う。
自分の身を守る方法は一つです。
このドラマのお母さんが図書館でケトジェニックダイエットの記述を見つけたように、自分できちんと調べることです。
今はインターネットという強力なツールもあります。
どうか医療の食い物にされないでください。
金を失うだけならまだいい。このドラマに出てきたてんかんの子供は、下手をすれば病院の言われるがままに手術して、人生を失うところでした。
情報で武装して、我が身、我が家族を守りましょう。
僕の母は、大腸癌になって、主治医の言われるままに手術して、言われるままに抗癌剤やって、別に治ることもなく、亡くなりました。
テレビドラマの話じゃありません。現実の話です。
知識があれば母を助けることができたのに、という思いが僕の中にずっとくすぶっていて、僕が常に勉強を続けているのはそういう無念の思いがモチベーションになっているところがあるのかもしれません。
不必要な不幸がひとつでも減りますように。