ナカムラクリニック

阪神・JR元町駅から徒歩5分の内科クリニックです

2019年11月

精神病と慢性感染症

2019.11.30

急性の感染症については、医学部で一般に教えられていることもあって、診断とか対処は早い。急な発熱とか明らかに異常事態だから、見逃しようがないというのもあるけど。
しかし慢性的な感染症については、総じて見過ごされがちである。診断がつかないことはもちろん、鑑別にさえあがらない。
わかりやすい病原菌にはすぐ気付いても、菌が原因でありながら医者に完全に見過ごされている症状は、案外非常に多いんだ。

人間の体は、実は「バイキンまみれ」ということは、一般の人にも常識になってきた。
腸内にものすごい数(3万種類100兆~1000兆個とか、研究の進展につれてどんどん増えてきている)の細菌が住んでいるのはもちろん、皮膚の表面も細菌まみれ。
草食動物やら肉食動物やら、その他、様々な生物がサバンナの生態系を形作っているように、僕らの体内でも、善玉菌、悪玉菌、日和見菌(こんな区分けはあくまで便宜上だけど)が、ミクロな生態系を構成しているわけだ。

抗生剤を飲んだり消毒したり、ということをせずとも、宿主が急性の栄養失調を起こしたり、アレルギー反応を起こしたときには、腸内細菌の均衡も大きく崩れる。
たとえば日和見菌が一気に増殖して悪玉菌に加勢したりする。そういう背景には、たいていの場合、炎症がある。
炎症によって浮腫が生じ、酸素供給が低下すると、嫌気性菌(悪玉菌が多い)の独壇場。またたくまに増殖し、毒性物質の産生を開始する。

アレルギー反応を起こしている患者と急性栄養欠乏に陥っている患者、どちらが感染症にかかりやすいと思いますか。
Roger Williams氏によると、それは明らかに後者だという。
前者は、いわば免疫系の暴走だが、後者では免疫系の機能不全(あるいは機能低下)を招く。栄養(特にB6)がなくては、感染に対する抗体が産生できない。

以下、Roger Williams氏の著書”A Physician’s Handbook on Orthomolecular Medicine”を参考にした記述です。
「統合失調症患者は、感染症にかかりやすい要因を複数持っているものである。
私の臨床経験では、統合失調症患者から10~15種類の感染症が培養されるのはごく当たり前で、ある非常に重篤な統合失調症患者から29種類(細菌、真菌含め)もの感染症を培養、同定できたことがある。
その真菌のなかには、カンジダ・アルビカンス、アルテナリア、アスペルギルスなどの病原菌もあった。

こうした感染症は、精神症状の発生因子あるいは増悪因子であるかもしれない。
20歳のカタトニア(蝋人形様の無動、姿勢保持を特徴とする統合失調症の一亜型)患者がカンジダ・アルビカンスを舌下に投与したところ、カタトニアを症状を呈した。彼女にはカンジダ・アルビカンスが女性器に感染した既往があった。
また、鼻腔に黄色ブドウ球菌が感染した妄想型統合失調症患者が、黄色ブドウ球菌ワクチンを舌下に投与したところ、鼻がつまると同時に、妄想症状が悪化した。
29種類の感染症が出た患者に、その感染菌の自家ワクチンを舌下に投与したところ、全身状況がひどく悪化し、私のクリニックから出るために数時間休んでいかねばならないほどだった。

治療としては、症状を増悪させる食品、化学物質を避けることである。
原因物質への曝露により、むくみが生じる。むくみによって局所での酸素供給量が低下するため、感染症が増悪することになる。つまり、酸素供給をきちんと保つことが、重要なキーである。
もちろん、栄養の補給も重要である。
ピリドキシン(B6)やパントテン酸(B5)は免疫系の防御に必須である。これらの栄養素が欠乏している状態では、抗体を産生することができない。
この二つさえあればいいのかというと、もちろんそうではない。他にも、リボフラビン(B2)、亜鉛、マグネシウム、マンガン、ビタミンAなども必要である。
ビタミンCを高用量で投与することで、感染症が軽減することは、ここで私が改めて述べるまでもないだろう。」

統合失調症患者に高濃度ビタミンC点滴をすると症状が改善することがしばしばある。
ビタミンCの抗酸化作用によって、脳神経系の炎症が静まったためだ、といった説明がされることが多い。もちろん、これは間違いではないだろう。
しかし別の機序として、上記のように、そもそも統合失調症の背景には細菌感染症があるのだとすると、ビタミンCの抗菌作用、免疫賦活作用が統合失調症の症状を軽減したのだと考えることができる。

数学がおもしろいのは、別解の存在だと思う。ある一つの解法で解けたから「それで終わり」じゃない。別の解き方でもっとエレガントに解けたりする。そういうところに奥深さを感じて、数学がますます好きになる。
栄養療法にも同じような魅力を感じる。
現象の説明が複数あって、しかもそれらの説明が矛盾せずに両立し得るのが不思議だ。栄養も体もまだまだ謎だらけで、栄養療法は全然未完成だということなんだな。でもそれ故に、とてもおもしろいと思う。

学習性無力感

2019.11.30

静電気の「バチッ」が怖くて、ドアノブをさわることに躊躇を感じるようになってしまった。
友人の医師と雑談しているときに、静電気に悩んでいることを話したところ、偶然にも彼も同じ症状に悩んだことがあった。しかし、履き物を変えることで悩みが一気に解消したという。
そこで、彼が勧める商品を購入してみた。確かに効いた。ドアノブにさわったときの「ビリッ」とか「バチッ」がなくなった。おかげで静電気に悩まされることがなくなった。

今僕は、何の話をしているのか。
ちょっとした心理学の話をしようと思っている。
ある不愉快な事柄があって、それを何とか改善できないかと考えていた。友人に相談したところ、解決案を示唆され、それを採用したところ、問題を解決することができた。
要するに、不快な刺激→回避への努力→解決、という一連の流れがあったわけだ。
何を当たり前の話をしている、と思いますか。
実はこれは、必ずしも当たり前の話ではない。
心理学では、回避や抵抗の手段のない不快な刺激が延々続くと、やがてすっかり諦めて、その状況から逃れようとする努力さえ行われなくなる現象が知られている。これを学習性無力感という。

学習性無力感の概念は1967年にセリグマンによって提出された。犬に電撃を与えるが、回避方法の習得によって電撃を回避できる群と、回避できない群を設定し、観察した。結果、回避できない群では回避行動をとらず電撃を受け続けた。所与の環境に対して「何をやってもムダだ」という認知が形成されると、学習に基づく無力感が生じる、ということだ。
象の足に重い鉄球をつけて飼育すると、成長しても鎖の範囲内でしか動かない大人しい象になる。その鉄球は、大きくなった象にとっては大した重さではない。しかし小象のときに形成された「何をやってもムダ」という学習の影響で、もうどこにも行こうとしない。
同様の現象は、魚、猫、猿にも確認されている。では、ヒトでも起こるのだろうか?
当然、起こる。というか、日常にありふれている。会社、学校、家庭など、およそ人が複数集まって構成される組織では、どこにでも起こり得る。

30代男性
職場のストレスを「仕方がないもの」と受け入れて休まず働き続けていたが、ついに体が悲鳴あげ、朝起きられなくなった(この状況に至ってなお、本人としては出勤する気満々だったりする)。会社から「休むのなら診断書をもらってこい」とのことで、しぶしぶ当院受診。
僕の問診に答えているうちに、患者本人が自分の異常性を自覚し始める。「なぜあんなひどい状況で、自分は頑張っていたんだろう」と、急に涙を流したりする。
もっと早くに休めばよかった。でも「もうここでやっていくしかない」という思い込みにとらわれて、回避行動という選択肢自体が発想から消えていた。学習性無力感そのものだ。

学習性無力感は家庭内でも生じる。
静電気の対処法を教えてくれた友人は精神科医で、2012年に起こった尼崎連続変死事件の精神鑑定を担当した医師団の一人である。
この事件は非常に込み入っている。2012年はあくまで発覚した時点であって、1987年に起こった女性の失踪を発端として、暴行、監禁などの虐待による死亡者が複数名いる。しかも主犯格の女性が留置所で自殺するなど、全貌の解明がなされていない事件でもある。
「そう、むちゃくちゃややこしい事件やねん。ちょっと一言では言われへん。ただ一つ、間違いなく言えるのは、この事件の核心には学習性無力感っていう人間心理があったこと」
ネットの記事を読んでみたけど、確かにややこしい。時系列が長いし、登場人物が多すぎる。
「これが推理小説とは違う、リアルなんだ」と思う。この事件には、タネも仕掛けもない。この事件の一連の殺人には、意表を突く巧妙なトリックも巧妙なアリバイ工作もない。現実の殺人事件というのは入り組んでいて、推理小説のようにスマートではないものなんだな。
しかしこの事件の核心にある人間心理は、小説よりももっと作り事めいて見える。この事件を引き起こしたのは、主犯格の女性が持つ強烈な性格、人々の些細な弱みにつけこんで威圧的に支配するパーソナリティだった。彼女は、人々に物理的な鎖をかけたわけではない。ただ、心に鎖をかけた。「監禁状態で絶対に逃げられない、逃げようとすればひどい罰を受ける」という経験を繰り返したことで、人々は皆、彼女から逃げられず、否応なく事件に関与することになった。学習性無力感に陥った人間はまるでロボットのように、主犯格女性の意のままに動いた。
夜にこの事件の記事を一人で読んでいて、僕は怖くなってきた。
何が怖いかといって、お化けが怖いんじゃない。人間の心こそ、一番不可解で、一番恐ろしい。


ただ「事件の関係性をサザエさんで説明すればわかりやすくなる」という記事をみて、ちょっとだけ「フフ」ってなりました。

すばらしい新世界

2019.11.29

森毅先生が「天才は育てるもんやなくて、育つもん」って何かのエッセーに書いてた。なるほど、特別科学学級なんかなくても、勝手に育っていくのが本物の天才かもしれない。
ただ、教育はやっぱり重要だと思うのね。教育を通じて人々を愚民化させることも、原理的には十分に可能だろうし。

ところで、どうでもいいような話だけど、今の季節、静電気がもうたまらない。
ドアノブをさわったときにバチッとくる、あの痛み。別に、激痛というわけではない。軽く不愉快を感じる程度なんだけど、1日に何度もバチッときて、しかもそれが毎日続くと、「学習」という現象が起こる。
ドアノブに触れる→バチッ→不愉快
パブロフの提唱した条件反射が、自身の脳回路に形成されたこと自覚する。
ドアノブをさわる直前に身構えるようになり、やがて、ドアノブをさわることに恐怖を感じるようになった。そしてついに、自分のクリニックのドアを、ドアノブにさわることなく、肩で押して開けるようになった。
それでも肩にバチッとくるときがあるのだから、本当にもう、イヤになる。

オルダス・ハクスレーの小説『すばらしい新世界』。
2049年、世界は10人の統制官がすべての国民を支配する完全な管理社会になっている。人間は受精卵の段階から培養・選別され、階級ごとに知能や体格が決められる。
人間養育施設の一室に集められた生後8ヶ月の赤ん坊たち。室内には美しいバラをいけた花瓶がいくつか置かれ、床には本やおもちゃが散らばっている。赤ん坊たちが元気にハイハイしながら、部屋の中を自由に動き回る。
おもちゃにふれると、ナースがすかさずレバーを押す。けたたましい警報音が鳴り響き、赤ん坊は恐怖に身を縮める。本にふれると床に電流が流れ、赤ん坊は痛みに泣き叫ぶ。美しいバラに近付くと、不快なサイレンが響き渡る。
こうした作業を200回ほど繰り返すことで、赤ん坊のなかに恐怖と痛みの記憶が刷り込まれる。彼らはもう二度と、本と花に近付かなくなる。
施設を見学する学生が、管制官のひとりに質問する。「本に対する恐怖を教え込むのはわかります。下級カーストに教養を与えることは体制にとってリスクです。彼らを無知蒙昧に保つことで管理が容易になります。しかし、花に対する嫌悪を植え付けるのはなぜですか」
管制官が答える。「ふむ、いい質問だ。そう、花に対して個人がどのような感慨を抱こうが、当局の体制維持にとっては関係ない。しかしね、自然を愛好するような精神は、社会の生産性にとって無価値なんだ。花を見てのんびりして、ろくに働いてくれない、となっては困るんだな」

静電気のようなごく微弱な電気で、僕のような成人にも、ドアノブに対する条件反射が形成されるんだから、赤ん坊に本や花への嫌悪を植え付けることは簡単にできるだろう。結局人間の価値観とか好き嫌いというのは、条件反射の積み重ねのことなんだな。
逆に、本への選好を植え付けることも可能だろう。本を読むことが好きになった子は、周りに言われずとも、勝手に学び続ける。そうして磨かれる知性は、しかし、上級カーストにとって厄介極まる代物に違いない。
『すばらしい新世界』というタイトルは、もちろん皮肉である。作者がこの本の中で描いているのは、人間が人間性を奪われたディストピアだ。
とにかく、考えない人間を作ること。仕事をさせて富を収奪し、余暇は3S(セックス、スポーツ、スクリーン(映画))に耽らせて、余計なことは考えさせない。病気になれば病院に行って、黙って医者の言うことを聞いていればいい。妙なことは考えるな。人心を惑わす情報を発信しているウェブサイトはしっかり取り締まれ。
あれ?
フィクションのはずの『すばらしい新世界』が、最近着々と実現しつつあるような、、、

特別科学学級

2019.11.29

“世界最年少”9歳で大学卒業! 天才児の野望…将来は「人工臓器の開発を目指す」
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/191125/dom1911250001-n1.html

日本には飛び級がないから、こんな少年は現れようがない。
この少年のようにIQが高いとか、写真記憶ができるとか、天賦の才を持っている人は日本にもいるはずなんだよね。
なぜ、日本にはこういう天才を拾い上げるシステムがないのか?

実はかつて大日本帝国下の日本には、天才だけが入学を許されるエリート育成機関が存在した。その名は、特別科学学級。
すでに敗戦の雰囲気が漂う1944年、「科学に関し高度の天分を有する学徒に対し特別なる科学教育を施し我国科学技術の飛躍的向上を図らん」として、東京、広島、金沢、京都に設置された。
全国の児童を対象に知能検査を行い、高IQの児童を選別し、次に学力テストを行って、成績の優秀な者だけが入学を許された。1945年1月から授業が開始された。
授業内容がふるっている。
当時「敵性語」だった英語の授業が、英語で行われていた。今となっては珍しくも何ともないが、70年以上前にはあり得ない斬新なスタイルだった。
理科系科目(数学、物理、化学)の力の入れようがすさまじく、今で言う中学1年時で関数・対数、中学3年時には微分方程式までマスターさせる。それも当時帝国大学の一流の教授陣が直々に子供たちの指導にあたった。物理の授業では湯川秀樹が教壇に立つこともあった。
理系のスーパーエリートを育てることに主眼があったが、文系科目もおろそかにしない。漢籍、歴史、国語の授業もあった。当時禁書とされた津田左右吉の『古事記及び日本書紀の新研究』を教材に使うなど、軍国主義イデオロギーにとらわれない教育が行われていた。
敗戦後、日本はGHQの支配下に置かれた。GHQの目的は、日本を骨抜きにすることである。政治、経済、教育など、あらゆるシステムに介入し、二度とアメリカに楯突かないようにする改革が行われた。そんななかで、日本の未来のエリートを生み出すことが目的の特別科学学級の存在が許されるわけもない。1947年3月に廃止となった。
特別科学学級の存続期間はわずか2年2ヶ月である。しかしこの学校の卒業生が、結果的に敗戦後の高度経済成長を牽引する人材として、理工系をはじめ各界で活躍することになった。

「炎上を怖がっちゃいけない。電源を抜いたら消えてしまう世界です」――筒井康隆85歳が語る「表現の自由」
https://news.yahoo.co.jp/feature/1508
知能検査でIQ187を叩き出した大阪の天才少年筒井康隆は、特別科学学級への入学を許されそこで学んだものの、理系の道には進まず、作家となった。
同様に伊丹十三も特別科学学級出身ではあるが、映画監督になった。
理系のスーパーエリート養成機関の出身者が、作家や映画監督という、どちらかというと文系畑で才能を開花させているのがおもしろい。
しかし考えてみれば、小説も映画も、芸術や感性の世界のようでいて、実はバリバリのロジックな世界だと言えなくもないな。作家は言葉というデジタルな記号で物語を展開し、映画監督はセリフと絵の順列組合せで物語を展開する。
ジミー大西とか絵を描かせたらすごい人でも、作家や映画監督はできないと思う^^;
やっぱりそういう意味で、小説も映画もロジックなんよね。

日本もいい加減、アメリカ様の顔色を伺うのをやめて、かつての特別科学学級を復活させたらどうだろう。これまでどれほど多くの天才が、民主的な教育に埋もれ潰されてきたことか。
天賦の才というのは、歴然と存在する。凡才を100万人育てても、1人の天才の輝きにはかなわない。理系学問(あるいは文系や映画もそうかもしれない)を切り開くのは、そういうズバ抜けた才能なんだ。
灘を出て医者になって小金持ちになって悠々自適、みたいな人生も、それはそれでいいのかもしれない。でも教育次第ではそういう人も、医者どころかノーベル賞級の偉大な科学者になれたかもしれない。将来を嘱望された天才少年も、適切な導きがなければ飛躍しない。
医者という仕事は、開花しなかったそういう才能の掃き溜めのようだ。単なる学校秀才のレベルにこじんまり収まって、医者に落ち着いている。それで、日々やっていることは製薬会社のパシリ。もったいない話だね。もっとすばらしい未来があり得たのに。
天才のための英才教育機関っていうのは、絶対あったほうがおもしろいと思うんだよなぁ。

降圧薬

2019.11.28

一般の人が「こうあつやく」と聞くと、頭の中で何となく、「高圧薬」という漢字変換が行われて、むしろ血圧が上がりそうな薬をイメージするようだ。正しくは「降圧薬」ね。
もっとも、このイメージはそれほど間違っているわけではなくて、2年以上降圧薬を服用している人では薬の血圧降下作用がほとんどなくなっているという研究もある。
人間の体は、バカではない。必要があるから、血圧を上げているんだ。そういう背景を無視して薬で無理やり血圧を下げても、薬の作用に負けずに2年がかりできちんと血圧を上げる、ということだ。人間の適応能力はすばらしいな。
ちなみに血圧を上げる薬は、高圧薬ではなく昇圧薬で、イノバンとかボスミンとか、救急でよく使われます。

一口に血圧を下げるといっても、様々な機序があって、各製薬会社から様々な薬が販売されている。これは裏を返せば、血圧を上げることが生存にいかに大切であるかを示している。仮に昇圧メカニズムのひとつが破綻しても、複数の機序を用意していれば、生存の可能性が高まることは想像に難くない。

現在、降圧薬の売れ筋はARB(アンギオテンシン2受容体拮抗薬)だが、かつてはカルシウムチャネル拮抗薬が主流だった。今でももちろん処方されているが、単剤よりはARBとの合剤(たとえばミカムロ)として、処方されていることが多い印象だ。
しかしカルシウムチャネル拮抗薬には、うさんくさい話がつきまとっている。

『降圧薬治療にまつわる心筋梗塞のリスク』
https://jamanetwork.com/journals/jama/article-abstract/389492
この論文によると、カルシウムチャネル拮抗薬服用者では、心筋梗塞の発症率が増加したという。心筋梗塞の再発予防に降圧薬を処方されるのはよくあることだけど、カルシウムチャネル拮抗薬ではむしろ逆効果だということだ。

『駆出率の低下した心不全患者におけるカルシウムチャネル拮抗薬』
https://www.uptodate.com/contents/calcium-channel-blockers-in-heart-failure-with-reduced-ejection-fraction
駆出率の低下した心不全患者がカルシウムチャネル拮抗薬を服用しても、心機能、予後、どちらの意味でもメリットがないから、飲んではいけない、という論文。

こんな具合に、カルシウムチャネル拮抗薬の薬としての有効性を疑問視する論文は多い。一方、「いや、そんなことはない。よく効く優秀な薬だ」と擁護する論文もある。
どちらが正しいのだろうか。
そもそも、薬の有効性という極めて科学的な話なのに、なぜ意見が割れるのか。

これは単純な話で、カルシウムチャネル拮抗薬を支持する医者や研究者には、製薬会社からきっちりお金がいってたんだ。
「仮にも真理を追求する学者が、お金で事実を曲げるわけがない」と思いますか?
このあたりを検証した論文がある。

『カルシウムチャネル拮抗薬をめぐる利益相反』
https://www.nejm.org/doi/full/10.1056/NEJM199801083380206
【背景】
医者と製薬業者の間の金銭的関係は、問題視されるものである。利益相反を生む可能性があるからだ。医学教育や医学研究に対する製薬会社の金銭的サポートが、医師や研究者の意見・行動にどの程度影響を与えるかは、知られていない。カルシウムチャネル拮抗薬の安全性に関する最近の議論は、利益相反の影響を検証する機会となった。
【方法】
1995年3月から1996年9月までに出版された医学文献のなかで、カルシウムチャネル拮抗薬の安全性の議論を検証する記事を検索した。記事をレビューし、カルシウムチャネル拮抗薬の使用に対して、支持的、中立的、批判的、に分類した。
それらの記事の著者らに、カルシウムチャネル拮抗薬の製造業者や競合他社製品(βブロッカー、アンギオテンシン返還酵素阻害薬、利尿薬、ニトロ系薬)の製造業者と金銭のやりとりがあったかどうかを尋ねた。製薬会社とそうした金銭のやりとりがあるとき、カルシウムチャネル拮抗薬の安全性に関する著者らの立場がどのような影響を受けるかを、我々は検証した。
【結果】
カルシウムチャネル拮抗薬を支持する著者は、中立的な著者や批判的な著者よりも、カルシウムチャネル拮抗薬の製造業者と金銭のやりとりがある可能性が有意に高かった。(支持:96%、中立:60%、批判:37%)
支持的な著者は、中立な著者や批判的な著者よりも、製品に関わらずどのような製薬業者とも金銭のやり取りをしている可能性が有意に高かった。(支持:100%、中立:67%、批判:43%)
【結論】
我々の結果は、著者がカルシウムチャネル拮抗薬の安全性についてどのような立場をとるかと、製薬業者との金銭のやりとりとの間に強い相関があることを示している。
医師は、利益相反を防ぐ有効な方法を考える必要がある。製薬会社の商品を検証する記事を書く医師や研究者は、製薬会社との関係性を完全にオープンにすべきだと我々は考えている。

医者と製薬会社の癒着なんて、医者なら誰でも知っている。
薬の宣伝のために講演したり論文を書いたりする人はさすがに少ないが、製薬会社から弁当やボールペンをもらったことのない医者はいない。ただ、統計的有意差という、申し開きも弁明もできない明瞭な形で癒着ぶりが明らかになったという点に、上記論文の意味がある。
こんなのは当然カルシウムチャネル拮抗薬に限ったことじゃなく、あらゆる薬のマーケティングで行われていることで、最終的に割を食うのは、薬を口にする患者に他ならない。
21世紀も延々こんな茶番が続くのかな。