院長ブログ

学習性無力感

2019.11.30

静電気の「バチッ」が怖くて、ドアノブをさわることに躊躇を感じるようになってしまった。
友人の医師と雑談しているときに、静電気に悩んでいることを話したところ、偶然にも彼も同じ症状に悩んだことがあった。しかし、履き物を変えることで悩みが一気に解消したという。
そこで、彼が勧める商品を購入してみた。確かに効いた。ドアノブにさわったときの「ビリッ」とか「バチッ」がなくなった。おかげで静電気に悩まされることがなくなった。

今僕は、何の話をしているのか。
ちょっとした心理学の話をしようと思っている。
ある不愉快な事柄があって、それを何とか改善できないかと考えていた。友人に相談したところ、解決案を示唆され、それを採用したところ、問題を解決することができた。
要するに、不快な刺激→回避への努力→解決、という一連の流れがあったわけだ。
何を当たり前の話をしている、と思いますか。
実はこれは、必ずしも当たり前の話ではない。
心理学では、回避や抵抗の手段のない不快な刺激が延々続くと、やがてすっかり諦めて、その状況から逃れようとする努力さえ行われなくなる現象が知られている。これを学習性無力感という。

学習性無力感の概念は1967年にセリグマンによって提出された。犬に電撃を与えるが、回避方法の習得によって電撃を回避できる群と、回避できない群を設定し、観察した。結果、回避できない群では回避行動をとらず電撃を受け続けた。所与の環境に対して「何をやってもムダだ」という認知が形成されると、学習に基づく無力感が生じる、ということだ。
象の足に重い鉄球をつけて飼育すると、成長しても鎖の範囲内でしか動かない大人しい象になる。その鉄球は、大きくなった象にとっては大した重さではない。しかし小象のときに形成された「何をやってもムダ」という学習の影響で、もうどこにも行こうとしない。
同様の現象は、魚、猫、猿にも確認されている。では、ヒトでも起こるのだろうか?
当然、起こる。というか、日常にありふれている。会社、学校、家庭など、およそ人が複数集まって構成される組織では、どこにでも起こり得る。

30代男性
職場のストレスを「仕方がないもの」と受け入れて休まず働き続けていたが、ついに体が悲鳴あげ、朝起きられなくなった(この状況に至ってなお、本人としては出勤する気満々だったりする)。会社から「休むのなら診断書をもらってこい」とのことで、しぶしぶ当院受診。
僕の問診に答えているうちに、患者本人が自分の異常性を自覚し始める。「なぜあんなひどい状況で、自分は頑張っていたんだろう」と、急に涙を流したりする。
もっと早くに休めばよかった。でも「もうここでやっていくしかない」という思い込みにとらわれて、回避行動という選択肢自体が発想から消えていた。学習性無力感そのものだ。

学習性無力感は家庭内でも生じる。
静電気の対処法を教えてくれた友人は精神科医で、2012年に起こった尼崎連続変死事件の精神鑑定を担当した医師団の一人である。
この事件は非常に込み入っている。2012年はあくまで発覚した時点であって、1987年に起こった女性の失踪を発端として、暴行、監禁などの虐待による死亡者が複数名いる。しかも主犯格の女性が留置所で自殺するなど、全貌の解明がなされていない事件でもある。
「そう、むちゃくちゃややこしい事件やねん。ちょっと一言では言われへん。ただ一つ、間違いなく言えるのは、この事件の核心には学習性無力感っていう人間心理があったこと」
ネットの記事を読んでみたけど、確かにややこしい。時系列が長いし、登場人物が多すぎる。
「これが推理小説とは違う、リアルなんだ」と思う。この事件には、タネも仕掛けもない。この事件の一連の殺人には、意表を突く巧妙なトリックも巧妙なアリバイ工作もない。現実の殺人事件というのは入り組んでいて、推理小説のようにスマートではないものなんだな。
しかしこの事件の核心にある人間心理は、小説よりももっと作り事めいて見える。この事件を引き起こしたのは、主犯格の女性が持つ強烈な性格、人々の些細な弱みにつけこんで威圧的に支配するパーソナリティだった。彼女は、人々に物理的な鎖をかけたわけではない。ただ、心に鎖をかけた。「監禁状態で絶対に逃げられない、逃げようとすればひどい罰を受ける」という経験を繰り返したことで、人々は皆、彼女から逃げられず、否応なく事件に関与することになった。学習性無力感に陥った人間はまるでロボットのように、主犯格女性の意のままに動いた。
夜にこの事件の記事を一人で読んでいて、僕は怖くなってきた。
何が怖いかといって、お化けが怖いんじゃない。人間の心こそ、一番不可解で、一番恐ろしい。


ただ「事件の関係性をサザエさんで説明すればわかりやすくなる」という記事をみて、ちょっとだけ「フフ」ってなりました。