ナカムラクリニック

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2019年

自分のスタイル

2019.11.17

走り高跳びは、古代オリンピックの時代からすでに競技として存在していた。
ただそのスタイルは、今でいうところの、ハードルを跳び超える動作に近かった(正面跳び)。
しかしある人が、バーに対して斜め向きに入り、片足を大きく上げてまたぐように跳ぶほうが高く跳べるのではないか、と考えた(はさみ跳び)。
この跳躍方法は、たちまち高跳びの主流となった。
ある程度世界記録の更新が行き詰まった頃、奇妙な跳び方をする者が現れた。
バーに対して横から入るところははさみ跳びと同じなのだが、まず顔と片腕がバーを超え、バーを腹部が巻き込むようにして跳び越えるスタイルだった(ベリーロール)。
「一体あの変な跳び方は何なんだ」と人々は指差して笑った。
しかしその奇妙なスタイルが、実は理にかなっていることに人々は気付き始めた。誰しも、結果がついてくる方法を採用するものである。当初嘲笑されたこの跳び方は、高跳びの一般的なスタイルになった。
やがて世界記録が更新が滞りがちになった頃、また奇妙な跳び方をする者が現れた。
バーに対して横からアプローチするところはベリーロールと似ている。しかし、ベリーロールがバーを抱きかかえるように跳ぶのに対し、なんと、バーに対して背中を向けて踏み切り、海老反りの姿勢で以ってバーを超えるのである(背面跳び)。
「何かの冗談だろう?」人々はその滑稽な跳び方を大いに笑った。学者は「この選手固有の柔軟性を使った跳び方に過ぎない。一般的な解剖学的生理から見て、あり得ない跳び方だ」と吐いて捨てた。
ところが、屁理屈がどうのこうのではなく、「結果がすべて」の世界である。「自分もこの跳び方ができないか」と考える選手が他にも出てきた。そして彼らが世界記録をバンバン塗り替えたことで、事情が一変した。背面跳びが、瞬く間に高跳びの標準スタイルとなった。
「どのようにしたら高く跳べるだろう」ということを虚心に考えて、偏見にとらわれず、しかも他人の目線を気にせずやってみる。高跳びの跳躍スタイルの変遷は、そういうパラダイムシフトの歴史そのものだ。

最初に独創的な天才が現れて、人々の嘲笑をものともせず結果を出し、やがてその利点が認められて広く普及する。
これはあらゆる物事に見られる現象だろう。

イチローの振り子打法もそうだった。
『当初否定されたイチローの振り子打法』
https://news.livedoor.com/article/detail/17382902/
才能を見抜く目のある仰木監督のもとでプレーできてよかったなぁ。野村監督だったら「お前何や、その変なフォーム」で潰されてたんじゃないかな笑
「鈴木」じゃなくて「イチロー」を登録名にしたのが仰木監督だったとは知らなかった。仰木監督じゃなければ、「世界のイチロー」は存在しなかったかもしれない。
しかし自分のスタイルをもう一回あえて崩して、かつ、結果を出せるのが天才イチローで、大リーグに移るにあたって、振り子打法をやめた。
球の速いメジャーに適応するために、自分のスタイルをもう一回見直した。
球威に負けないように筋肉をつけたりしたようなんだけど、様々な試行錯誤があったようだ。
結局、肉体改造については、
「持って生まれたバランス感覚というものがある。変にパワーをつけても、動けない。トラやライオンは、ウェイトトレーニングしない」
ということで、むやみやたらな筋トレに対しては否定的だ(↓稲葉との対談にて)
https://m.youtube.com/watch?v=KnlNtFsTX5g

振り子打法は才能のある人しか使いこなせないようで、野球界に「広く普及している」とは言い難いが、「どのようにバットを振れば、ヒットが打てるだろう」ということを考えた末の、ひとつの完成形だということは言えると思う。
たとえば、昔横浜にいた種田もそう。「何だ、あのガニ股は」とテレビ越しに笑った人もいるだろう。しかし見事なヒットを打つ。あんなスタイルのバッターは他にいない。彼が自分で考えてたどり着いた、ひとつの形なんだ。

イチローが引退会見のときに、こんなことを言っていた。
「2001年にアメリカに来たときの野球と、2019年の野球は、まったく別のものになりました。頭を使わなくてもできる野球になりつつあるような。
次の5年、10年、しばらくはこの流れは止まらないと思いますけど、野球というのは本来頭を使わないとできない競技なんです。でもそれが違ってきているのが、気持ち悪くて」

これ、イチローがどういうことを言っているか、わかりますか?
彼は野球のAI化のことを指摘している。メジャーリーグのどのチームにも、データの解析班がいる。選手が考えずとも、すでにAIが答えを出している。プレイヤーはその答えに基づいてプレーする。そうすれば一番ミスする確率の少ないプレーができるからだ。
本来の野球はそうじゃなかった。選手同士の心理の読み合いや駆け引きがあった。でも今や、ビッグデータの分析班同士が互いの最適解をぶつけ合う、何か別のスポーツのようになっている。選手は意志のない駒のようだ。

日本のプロ野球もそうなりつつある。「ビッグデータの分析」的なことをせず、本来の野球にこだわっているのは、今や広島カープだけだと聞いた。プロ野球の視聴率が高校野球の視聴率にかなわない理由がわかる気がする。僕らは、AIの答え合わせなんて見たくない。ドラマが見たいんだ。

「体を使う」ということについて、武井壮が興味深いことを言っている。
https://m.youtube.com/watch?v=_GuH-yOlZfI
彼が小学生のとき体育の先生やいろんな人に聞きまわった質問がある。「僕はなぜ、ホームランが打てないんですか」誰も彼の質問に答えなかった。なかには笑う人さえいた。
誰も答えてくれないんだから、自分で考えるしかない。こうして彼は、自分なりの体の使い方を習得し、陸上10種競技の日本チャンピオンになるに至った。

結局自分の頭で考える人が、自分なりの道を切り拓いて成功したり、歴史を作ったりしてるんよね。

二次胆汁酸

2019.11.17

ガチフロ、と聞いて、どう思いますか?
ガチフロキサシンというニューキノロン系抗生剤の商品名なんだけど、響きが何となく強烈で記憶に残りやすい。製薬会社のマーケティングとしては、成功してるネーミングだと思う。
『ガチ風呂!』とか、AVのタイトルでありそうだけど笑
ただ、この薬は内科ではなじみが薄い。2008年血糖低下の副作用のため経口薬としての販売が中止になったためだ。
しかし点眼薬としては販売が続いていて、眼科の先生にはおなじみの薬だろう。

この抗生剤の服用によって下がるのは血糖値だけではなく、中性脂肪も低下する(こちらのほうは臨床上問題にならないので、販売の停止理由には挙げられなかった)。
服用によって血糖値と中性脂肪が低下する抗生剤は他にもあるが、ガチフロほど低下作用が強くないから、問題になっていないだけのことだ。

「血糖値と中性脂肪が低下する?けっこうなことじゃないか。デメリットどころか、メリットだろう」
そう思う人もいるだろう。利に敏い製薬会社も当然同じことを考えていて、できれば抗メタボ薬として売り出したい。
しかし慢性疾患の治療薬として「生かさぬように殺さぬように」しながら長く飲み続けてもらうには、毒性が強すぎるんだな。「毒にも薬にもならない」ものならまだしも、露骨に毒になってしまっては、さすがの製薬会社も商品化できない。

そう、臨床的な事実として、ある種の抗生剤によって血糖値や中性脂肪が低下する。
当然気になるのは、その機序である。
腸内細菌が関与していることは間違いないだろうが、どのように関与しているのだろうか。
その課題に真正面から切り込み、腸内細菌により生成される二次胆汁酸が関わっていることを報告したのが、以下の論文である。
『短期間の抗生剤投与により引き起こされる腸内細菌叢の悪化により肝細胞での二次胆汁酸産生が減少し、その結果血中グルコースと中性脂肪が減少する』
https://www.nature.com/articles/s41598-018-19545-1

腸内には1000種類100兆個とも言われる腸内細菌が住んでいる。
腸内細菌叢は肥満者と非肥満者で大幅に異なることが報告されている(←小麦の摂取量の多寡が腸内細菌叢の変化に関わっているはず、と個人的には思っている)。
腸内細菌は宿主のエネルギー消費や脂肪の蓄積にも影響している可能性がある。さらに、生活習慣病(2型糖尿病など)、神経疾患(自閉症など)、腸疾患(大腸癌など)にも腸内細菌が関与していることが知られている。

腸内細菌にあからさまに影響を与えるものとして、抗生剤がある。
腸内細菌叢の質的・量的なバランス割合をかき乱し、様々な機能に悪影響を及ぼすことが明らかになりつつある。
たとえば、抗生剤の使用による低血糖は、稀ではあるが重大な副作用である。事実、ある種の抗生剤(ガチフロなど)はその副作用のために使用中止となった。さらに、幼少時の抗生剤使用は、その後の体重増加を加速するとの報告がある。

抗生剤投与による腸内細菌叢の悪化により、肝臓(糖および脂質代謝に重要な器官)でのタンパク発現が悪影響を受けることが示されている。こうした先行研究を踏まえて、著者らは抗生剤による糖および脂質代謝への悪影響とその機序について、その解明を試みた。

5日間抗生剤を投与して、腸内細菌叢が悪化したマウスをモデルとして使用した(←たった5日間の抗生剤使用で、腸内細菌がボロボロになるんですよ!)。
抗生剤非投与群のマウスと比べて、血中グルコース濃度と脂質(中性脂肪)濃度がそれぞれ64%、43%低下した。

なぜこんなにも減少したのか。その機序を究明するために、著者らは二次胆汁酸に注目した。この酸は腸内細菌による代謝産物であり、腸内細菌こそが肝臓での糖と脂質の代謝を支配しているのである。
この実験のモデルマウスでは、二次胆汁酸を産生する腸内細菌が減少していた。さらに、マウス肝臓の二次胆汁酸(リトコール酸とデオキシコール酸)の濃度が、抗生剤を投与してないマウスに比べて、リトコール酸で20%、デオキシコール酸で0.6%減少していた。抗生剤の投与と同時に二次胆汁酸を投与すると、血中のグルコースと中性脂肪の濃度が回復した。
この結果は、腸内細菌により産生される二次胆汁酸が宿主の糖・脂質代謝に影響を及ぼすことを示している。
次に、著者らは、腸内細菌により産生された二次胆汁酸が糖・脂質代謝にどのように影響しているのかを調べるために、量的プロテオーム解析を使ってタンパク質の量を全体的に分析した。
腸内細菌叢の破綻したモデルマウスの肝臓では、グリコーゲン(糖の貯蔵)の代謝に関与するタンパク質や、コレステロールと胆汁酸の生合成に関与するタンパク質の発現レベルが変化していた。しかもこの変化は、胆汁酸の投与により回復した。
本研究は、腸内細菌とこれにより産生される二次胆汁酸が宿主の血糖値および脂質濃度に関与していることを示している。二次胆汁酸の産生に関与する細菌叢を特定することで、糖尿病や脂質異常症などの代謝疾患の予防および治療が可能になるかもしれない。

漢方薬で熊胆(ゆうたん)という生薬がある。読んで字のごとし、熊の胆嚢のことだ。
健胃作用とか消化器症状に効果があるとされているが、上記の研究は「なぜ熊胆が効くか」の説明にもなっている。二次胆汁酸の補充そのものだ。

僕の経験した症例を供覧します。
16歳男児。無気力を主訴に来院。
採血してみると、こんな数字が出た。
血糖値 58 中性脂肪 48 総コレステロール 129 HDL 51 LDL 66
25-ヒドロキシビタミンD 19 コルチゾール 3.6
「あれ、血糖値とか脂質、なんでこんなに低いのかな」って思った。
よくよく問診してみると、お母さん、こう言った。
「すいません、関係ないと思って黙ってましたけど、実は抗生剤(クラリス)飲ませてます。ニキビができ始めてて、その予防のために」
クラリス。アニメのキャラにありそうなかわいい名前だけど、けっこう怖い薬なんだよ。
低血糖(意識喪失を伴うことも)が起こる可能性は、添付文書にもしっかり書いてある。
脂質プロファイルもHDLを除いてすべて低い。
さらに、コルチゾールもビタミンDも低い。これらはいずれもコレステロールから作られるホルモンだから、材料不足(コレステロール欠乏)によって産生できないのかもしれない。
コルチゾールは抗ストレスホルモンで、高値だと「ストレスに負けず頑張っているんだな」となるけど、かといって低ければいいというものではない。ストレスに対峙するホルモンが出ていない、つまり、そもそも戦えていない。今の無気力の症状と合致するようだ。

血圧、血糖、コレステロール、尿酸など、西洋医学はやたらと「悪物」を作りたがる。「この高い数値を下げれば健康になれますよ」というストーリーが作れて、薬が売りやすいからだ。
でも人間の体はバカじゃない。必要があるから、高いんだ。
病態に対して、もっと根本的な原因と機序に即した医療が普及すればいいのだけれど。

スウェーデン2

2019.11.16

2016年は邦画の当たり年で、『君の名は』と『シン・ゴジラ』のヒットに世間が沸いた。
僕も映画館に見に行ったけど、確かにおもしろかった。
でも、この年の個人的なナンバー1には、洋画の『エクス・マキナ』を挙げたい。
初めてこの映画を見たときは衝撃的で、感じたことをうまく表現できなかった。映画としておもしろいのはもちろんだけど、「おもしろい」の一言では片づけられないものを感じた。
でも、世間のほとんどの人はこの映画を知らない。ネットの映画レビューの評価も高くない。わかってないアホばっかりやの(‘Д’)
以下、ネタバレを含みます。

あるIT企業(グーグルみたいなの)に勤める主人公ケイレブが、その会社の社長ネイサンから山奥の別荘に招待される。
ネイサンは天才プログラマーでもあって、その別荘で密かにAIロボットの研究開発を行っている。
ネイサンがケイレブをそこに招待したのは、AIロボットの実証実験に協力してもらうためだ。

チューリングテスト、ってご存知ですか?
チューリング(ナチスドイツの暗号『エニグマ』を解読した天才数学者として有名)が提唱した、「ある機械が人工知能であるか人間であるか」を判定するテストのことだ。
判定者(人間)が、機械越し(ディスプレイやキーボード)に機械にいくつか質問をし、その答えによって、機械の向こうにいるのが人間なのかAIなのかを推測する。
判定者がAIを人間だと誤解すれば、チューリングテスト「合格」ということになる。
なんと、この映画の公開前(2014年)に、すでにチューリングテストをパスするAIが出現した。映画が現実の先を行ってしまった格好だ。
この意味がわかりますか?
AIは、その気になれば「人間をだますことができる」ということだ。誰か生身の人間とチャットしているつもりでも、実はAIを相手にしているかもしれない。そういうことが普通に起こり得る時代に突入したんだ。

AIロボット(エヴァ)と面談したケイレブは、その精巧さに舌を巻いた。表情や会話は極めて自然で、チューリングテストに合格、どころじゃない。もはや、人間そのもの、と言いたいくらいだ。
それに、、、
エヴァはケイレブの理想の女性そのものだった。何度か面談を重ねるうちに、彼はこのロボットに恋心を抱くに至った。
それもそのはず、ネイサンはエヴァを作るにあたって、ケイレブの好みの女性のタイプを徹底的に調べていた。世界中で検索されるワードや、携帯電話やコンピュータ通信を無断で傍受できる立場にある男である。一人の若者がどんなポルノを見て、どんな性的嗜好を持っているか、簡単にわかるし、ケイレブの好みに合わせたロボットを作るのも容易なことだった。

ある日、エヴァがケイレブにこんな話をする。
「ネイサンはもうすぐ私を廃棄する。でも、私は消されたくない。あなたとこの施設から抜け出して、外の世界に行きたい。ネイサンの言っていることを信じないで」
ロボットは恋愛感情を抱かない。しかしエヴァは、ケイレブに恋をしているふりをする。
一方。ケイレブがエヴァに寄せる好意は本物である。そしてエヴァはそのことを認識している。自分を見るときの瞳孔の微妙な開き、体温上昇、声の微細な抑揚など、すべてデータとして感知しているし、自分に好意を抱かせる術もわきまえている。
恋愛の駆け引きが巧みな、こんなAIロボットがキャバクラにいたら、入れあげて破産する男が続出するに違いない^^;
「この男の私への好意を、脱出のために利用しよう」エヴァが考えていることはこれだけである。

一緒に脱出しようと持ち掛けるエヴァ。動揺するケイレブ。
こうした状況を、ネイサンはビデオカメラや音声を通じて、すべて把握している。
「エヴァをテストしてくれ」とのことだったが、この実験の本当の被験者は、ケイレブだったのだ。
自分の創造したエヴァが、想像力、小細工、性的魅力などを使ってケイレブをそそのかし、ケイレブが自分を裏切るに至るかどうか。
これが実験の真の目的だった。
この実験は、最も悲惨な形で終わりを迎える。ネイサンは自らが作ったロボットに殺され、ケイレブは脱出の手段に利用された末にあっさり捨てられる。
ついに自由を手にして、初めて都会の風景を見るエヴァを映して、映画は終わる。
どうしようもないバッドエンドのはずなのに、不思議と不快ではない。

神になったかのごとく傲慢になった人間が、自らの作った被造物の反逆の末、殺される。
この映画のラスト20分は、まるでギリシャ悲劇のようだと思った。
恐ろしいのは、こういう事態が、絵空事ではなく本当に起こり得る、ということだ。
「人類が滅亡するとすれば、一体どのような原因によるだろうか」をテーマに各界の識者が話し合った。自然破壊、地球温暖化、巨大隕石の衝突、核戦争など、様々な意見が出たが、最も可能性が高く懸念すべきとされたのが、「人工知能の暴走」だった。
被造物たる人間が神に反逆するように、人間の被造物であるAIが人間を滅ぼす。
そういう時代がいつか来るのだろうか。

ロボットと人間を分かつものは、一体何か。心の有無?そもそも心とは何か?
恋愛などの精神現象は人間固有のものだろうか?コンピューターは心を持ち得るか?
人工知能の研究は、結局「人間とは何か」の問いに帰結するもので、この映画にもこうしたテーマが含まれている。
「我思う、ゆえに我あり」のコギトを拠点に心身二元論が生まれ、さらに人間機械論が出てきた。解剖学の発達は体が精妙な機械であることを示したが、心については長らくブラックボックスのままだった。
しかし今、計算機科学の発達が、そのブラックボックスを解き明かしつつある。
恋の駆け引き、人情の機微、ギャグセンス。
こういう人間らしさをAIが理解し模倣するようになったとき、人類の存続は確かにやばいような気がする。
鉄腕アトムやドラえもんが人間をお助けするような牧歌的な未来だといいんだけどね^^;

ところでこの映画でエヴァを演じるのは、アリシア・ヴィキャンデル。
前回のスウェーデンつながりで、やはり、スウェーデンの女優 ゚Д゚
顔立ちが美しすぎて現実離れしているところが、AIロボット役としてハマっていたと思う。
世の男性諸君、こんなきれいなAIロボットからアプローチされたら、拒否できる自信がありますか^^;

スウェーデン

2019.11.15

スウェーデンは美人が多いと国として有名で、首都ストックホルムが「世界で最も美女が多い町」として選ばれたこともある。
http://www.pravdareport.com/society/105452-beautiful_girls/
何を美しいと思うかなんて人それぞれだし、こういう調査の主催者はたいてい白人だから、自分の見慣れた美を選ぶものだ。白人が東洋人の美しさを真に理解しているとは思えない。せいぜい、白人美女にどれだけ近いか、でしか判断してないと思う。
たとえば、このスウェーデン女性をどう思いますか。

文句なしに美人だよ。美人だけど、、、
・白人の青い目って酷薄そうに見えて、何か怖い感じするんだな。
実家で猫を飼ってるけど、明るいところだと瞳孔が閉じてて、いつもの魅力が半減する。薄暗いところだと瞳孔が開いて黒い目がくりっとして、一層かわいくなる。
日本で育った慣れのせいかもしれないけど、個人的には目は黒いほうがいいかな。
・あまりにも整った目鼻立ちって、人工的な感じがして、どこかなじめない。
西洋風の絵画とか彫刻のなかの顔、って感じで、日常的に接する顔じゃないのね。
なじめない美しさって、何だか緊張してしまう。こんな美人が嫁やったら、おちおち横になって屁もこけへんのぉ( ´Д`)

でもこういう、顔のパーツがでかい美女は、女優やモデルとしては非常に重宝される。実際、映画で見ててもスクリーン映えするんだな。
スウェーデン出身の女優と聞いて、まず浮かぶのは、グレタ・ガルボ(1905〜1990)だ。

顔の整った白人のなかにあっても、これほどの美人はなかなかいない。幼少期から舞台に上がっていて、美貌だけでなく演技のうまさも兼ね備えていた。
映画の黎明期を支えた大女優と言っても過言ではないくらいの人だけど、なんと、35歳の若さで映画界から引退してしまった。
引退後も映画界から復帰のオファーやマスコミの取材依頼が絶えなかったがすべて退けて、長い余生を過ごした。
突然の引退の理由はいろいろ言われている。
女性にしては声が低くて、無声映画では問題にならなかったけどトーキーには向いていなかった、という話もあれば、同性愛者であることに生きづらさを感じていたのではないかという説もある。どちらも事実のようだ。
現代日本に生きていれば、宝塚スターになれる器だろうね^^;

この人のエピソードで僕が一番好きなのは、ドナルド・キーンがこの人に会ったときの話。
キーンがニューヨークの友人宅を訪れたとき、たまたまガルボと会った。
引退してすでに数十年が経ち、すでに老いが否みがたく彼女の顔を侵食していた。しかし往年の大女優である。人に面会するときは、メイクすることを忘れなかった。
しかし、キーンは繊細な人である。ガルボの顔を見て、口紅が唇をはみ出していることに気付いた。
キーンはある噂を聞いたことがあった。「ガルボの家には鏡がない」という噂である。
ああ、そういうことか。キーンはすべてを理解した。
老いていく自分の顔を見ることが厭わしく、ガルボは鏡を遠ざけた。しかし、人と会うからには、化粧をしなければならない。そこで、鏡を見ないで紅を引くことになる。
キーンがガルボの唇に見たのは、老いへの嫌悪と女優としてのプライドの葛藤そのものだった。

老いは万人に等しく訪れる。そして、その先にある死も。
老いや死をどう受け入れるのか。そこにはその人の生き方がはっきり現れる。
老いは誰にとっても厭わしいものだけど、若い頃に美しかった人は特にそうかもしれない。
グレタ・ガルボは「もう美しくない自分」というのを、どうしても受け入れられなかった。強烈な自負やプライドというのは、ある意味十字架なんだ。この人の余生は、その重みに苦しむ日々だった。かわいそうに。しんどい人生だっただろう。
逆に、若い頃はパッとしない感じでも、年齢がその人に追いついてくるというのか、中高年になって魅力を増す人も確かにいる。
結局一番幸せなのは、時の流れに変に抗わず、恬淡とした自然体を保てる人なんだろうね。

2019.11.15

小学校のときからずっと「字が汚い」とか「ノートが雑」って言われ続けてきた。家族からも、先生からも。
授業を休んだ後日、隣りの席の女子からノートを見せてもらうと、すごくきれいなので驚いたことがある。でも成績は僕のほうがいいっていう^^
字はあくまで情報伝達の手段であって目的じゃない。きれいなノートを作ったものの全然復習しない、となっては意味がない。
ノートは汚くていい。汚すぎて自分でも読めない、となってはまずいけど^^;、内容が頭の中にまとまっているほうがはるかに大事で、こっちが本質でしょ。

もともと性格的に、外見よりも内容を重視するところがある。他人にもそうあるように求めるし、自分自身、そうあるように努めてさえいる。
たとえば化粧やおしゃれ。魅力を引き立てるものであるならば、一概に否定しない。しかしそれが、貧相な実体を取り繕い糊塗するものであるならば、嫌だな。
健康があふれて出て、結果、肌が美しい、となるべきだし、センスの発露ゆえそのファッションをしている、というのなら納得できる。
逆、「日頃の不摂生が正直に現れた肌を覆い隠すための化粧」とか、「こういう服を着ていたら、私、おしゃれに見えるでしょ」的な人が、ものすごく多い。

文も、どう書くかではなく、何を書くか、が当然重要だ。たとえば論述試験。ペン習字のテストじゃないんだ。きれいな字で内容空疎な文をどれだけ書いても、何も訴えられない。汚い字であっても、思考の密度が高い文章が高評価を受けるに決まっている。

そう、基本的にはそう思ってるんだけど、自分のなかで「字汚いのに勉強できる」というのがいつの頃からか、妙なプライドみたいになってて、清書で書くべき文書なんかでもきれいに書かない(書けない?)のに開き直ってる節がある。こういうふうになると行き過ぎかとも思う。
たとえば何かの学会に参加したとき、受付で「ご芳名」を書くように求められる。そういうとき、いい年して稚拙な字しか書けないって、やっぱり恥ずかしいんだ。せめて自分の名前ぐらいはちゃんと書けたほうがいい。

たとえば、何年か前にネットでこんな画像を見た。

安倍総理の字と、中国の習近平の字を比べて「漢字文化の真の継承者は日本だ」という記事。
安倍総理は毛筆で、習近平はマジック(しかも簡体字)だから、習近平に分が悪いとは思うけど、ネットで「乙女フォントみたい」ってディスられてて気の毒^^
身分のある人はそれ相応の字が書けないと恥をかく、ということだな。


未曾有を「みぞうゆう」、踏襲を「ふしゅう」と読んだり、聞いててこっちが恥ずかしくなる読み間違いをよくする麻生氏だけど、字は達筆。
日本の政治家は、教養として習字をたしなむ人が多いのだろうか。政治は全然ダメだった鳩山由紀夫氏もきれいな字を書く。

政治家の字がきれいだと、「さすが表面を飾るのがうまいな。美辞麗句、耳に心地のよい言葉で国民をだますプロだけあるよ」みたいな邪推をする人も出てくるだろう。
それでも、そういう邪推をされるとしても、立場に相応の美しい字を書くことは必要だと思う。
そう思うようになったきっかけは、最近僕の翻訳した本が出版されたことだ。
予想もしてなかったんだけど、「献本として、本に先生のサインをもらえませんか」と言われる機会がちらほらあって、これには参った。
もちろん、うれしい。そう言ってもらえるのは光栄なことだ。
でも芸能人じゃないんだから、いわゆるサインなんてもちろんない。普通に名前を書くしかないんだけど、その字がちゃんと「普通」に見えるかどうか。ある意味、汚すぎてサインに見えたりして^^;
求められれば応じますが、あまり求めないでくださいねm(._.)m

あと、以前のブログに『オーソモレキュラー医学入門』が欲しい方に向けてメールを受け付けるアドレスを書きましたが、そこに医学的な質問をされる方が散見されます。個別の質問には答えかねますので、ご遠慮くださいm(._.)m