ナカムラクリニック

阪神・JR元町駅から徒歩5分の内科クリニックです

2019年

糖質制限

2019.2.17

精製糖質が体にいいかどうか、ということはもはや議論にならない。しかし精製糖質を含むより広いカテゴリーの『糖質』全般についてはどうか。
ここはいまだ議論があるところである。
米やパンなど、主食を食べるべきかやめるべきか、という話になってくるわけで、これは非常に大きなテーマである。
「糖質制限のおかげで健康になった」という人が確かにいる一方で、批判の声もある。
たとえばこんな論文。https://link.springer.com/article/10.1007/s10522-018-9777-1
タイトルは『炭水化物制限食はマウスの肌の老化を促進する』。要約を訳す。
本研究は老化加速傾向マウス(SAMP8)を用いて炭水化物制限食の加齢および皮膚の老化に対する影響を調べ、長期間の炭水化物制限が老化プロセスにどのような影響を与えるのかを究明することが目的である。
3週齢のオスのSAMP8マウスを1週間事前の餌を与えた後、3つのグループに分けた。第1群にはコントロール群としての食事、第2群には高脂肪食、第3群には炭水化物制限食を与えた。
マウスが50週齢に達するまで、不断給餌(好き放題に食べれる)とした。実験期間終了前に、評価テストを用いてマウスの可視的老化を評価した。実験期間終了後、マウスの血清および皮膚の標本を作成し、分析にかけた。結果、評価テストにおいて可視的老化は炭水化物制限食群で有意に進行しており、生存率も低かった。
皮膚の組織学的検査によると、炭水化物制限食群では上皮および真皮が他の群より菲薄化していた。この現象のメカニズムとしては、血中インターロイキン6の増加、肌老化の増悪、皮膚自食(skin autophagy)の抑制、皮膚mTORの活性化があることが示された。つまり本研究は、炭水化物制限食が老化加速傾向マウスの皮膚の老化を促進することを証明するものである。

炭水化物制限食のマウスは平均寿命より20〜25%短命だった。さらに、炭水化物制限食のマウスでは背骨の曲がりや脱毛がひどく、通常食に比べ老化が30%進んでいた。
炭水化物制限食のマウスでは内臓脂肪が少なく体重も減り、ヘモグロビンA1cも上がらなかった。しかし人間で60歳に相当する月齢に達する頃から毛の色つやが悪くなって脱毛が進み、背骨が曲がり始めた。80歳にあたる月齢になると老化の進み具合はさらに差がつき、炭水化物制限食マウスはどんどん死んでいった。
上記研究者の考察。
「糖質摂取を減らすとタンパク質や脂質の割合が増える。摂取したタンパク質はアミノ酸に分解され、筋肉などに再合成されるが、実は一定の割合で、いわば『不良品のタンパク質』ができており、その蓄積が老化を促進している。若いうちは筋肉の代謝が盛んで不良品が出にくく、それを分解するオートファジー(自食)能力も高いが、加齢につれて不良品が増え、分解能も落ちる。
特にアミノ酸の摂取が多いとオートファジーが抑制され、不良品のタンパク質がたまりやすいことがわかっている。我々はこのメカニズムは人間にも当てはまるのではないかと考えている。
糖質制限の効用を全否定するわけではないが、高齢になると血糖値が高いことよりも低栄養のほうが問題になる。壮年期は肥満や糖尿病予防のために糖質制限に一定のメリットがあるだろうが、高齢者はむしろ炭水化物をたくさん摂ったほうがいいのではないか」
センテナリアン(百歳越えの老人)の研究、沖縄の長寿者の研究でも、炭水化物摂取量と長寿の相関が指摘されている。
僕の患者を診ていても、糖質制限を始めたことで体調の改善は自覚しつつも、同時に肌が荒れたり髪がパサつくようになったりした人は確かに多いように思う。
炭水化物制限によって、なぜ肌が荒れるのか。
上記の研究では、インターロイキン6の増加、オートファジーの抑制などで説明していたが、全く別の視点、「腸内細菌が絡んでいるのではないか」と示唆する論文は多い。
『ヒト腸内細菌における炭水化物活性酵素の豊富さと多様性』https://www.nature.com/articles/nrmicro3050
『腸内細菌が利用可能な炭水化物を制限した食事の腸および免疫系ホメオスタシスへの悪影響〜総説』https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5427073/
糖質制限をしたことがある人は、オナラが臭くなったり体臭がきつくなった経験があるだろう。
これは炭水化物を好む腸内細菌叢(いわゆる善玉菌)の減少に加えて、タンパク質摂取の増加に伴ってある種の菌叢(いわゆる悪玉菌)が増加したことによるものだ。
糖質の摂取を減らし、タンパク質の摂取を励行(普通に肉、魚、卵を食べるだけでなく、プロテインまで勧めて)することが、果たして患者に利益のあることなのか。
上記の論文は、近年流行の食事法に疑問を呈する内容になっている。

「で、結局どうすればいいの?
最近はやりの低炭水化物・高タンパク質を勧める食事法は間違いで、従来の日本人の食事、高炭水化物・低タンパク質がやっぱり正しいってこと?」
結論をあせらないでほしい。
僕は、自分の直接見聞きした症例、目にした文献、つまりファクトの断片を、こうやってブログで皆さんに供覧し、知識をシェアしているだけで、何か結論めいたことを皆さんに押し付けることは基本的に控えたい。
特に上記のような、いまだcontroversial なテーマについてはなおさらだ。
ただ、一般的な注意としては、マウスで観察された事象が人間にもそのまま当てはまるかどうかは疑問だし、人間の個人差というものも考慮すべきだと思う。
たとえば、病気の背景にグルテン不耐症が隠れている人は案外多いと思う。そういう人が、一念発起して糖質制限食を開始したとする。体調はきっと改善するだろう。
しかしこの人の場合、実は糖質全般を抜く必要はなかった。小麦(パン、麺類)を抜けば十分で、米は食べてて全然オッケーだった、という可能性がある。もっと言えば、近年の品種改良(遺伝子組み換えも含め)が進んだ小麦がダメなのであって、昔のヨーロッパ人が食べていたような黒パンなら食べても大丈夫、という可能性もある。
あるいは、プロテインが体にいいと勧められて利用を始めたものの、急激に体調を崩す人がいる。カゼインに対するアレルギーがあることを知らなかったわけだ。こういう人は、カゼインフリーのホエイプロテインでも全然飲めなかったりする。
そう、個人差というものがあるんだ。
万人に通じる絶対の食事法というのがあれば楽なんだけど、残念ながらそういうのはなさそうだ(少食とビタミンCはけっこういい線いってると思うけどね^^)。
いろんな情報を参考にしつつも、結局、各自が自分で自分なりのベストを模索していくしかないんだよね。

肝臓癌

2019.2.15

「肝臓癌の既往がある、とのことですが、いつ頃のことですか」
「10年ほど前にたまたま見つかって。手術して治りました。その後特に再発はありません」
「ご職業は?」
「今は無職です。以前はしがない肉体労働ですよ」
「もう少し詳しく。どういったところにお勤めでしたか」
「プラスチックのパイプなんかを作る工場で作業員をしていました」
「お酒は飲まれますか」
「それなりに。毎日の晩酌を。でもそんなにたくさん飲むわけではありません。量で言えば、ビールを2缶ぐらいかな」
「B型肝炎やC型肝炎だと言われたことは?」
「それはありません」

肝臓というのはデトックス器官で、体に入ったよからぬものを解毒してくれる非常にありがたい臓器だ。
そのデトックス器官自体に癌ができてしまう、というのは、これは余程のことだ。
アルコールの多飲によって脂肪肝になり、肝硬変に進展し、ついには肝臓癌を発症する、という流れも確かにあるけど、実はアルコールが直接的な原因になっている肝臓癌は、肝臓癌全体の1割くらいではないかと言われている。
肝臓癌のほとんど(9割方)は、肝炎ウィルスの慢性感染によるものであり、慢性感染者に飲酒習慣がある場合、肝臓癌の発症率が相乗的に上昇する、というのが疫学の示すところである。発癌のメカニズムの背景には、アルコールによる免疫抑制、酸化ストレス増加、肝細胞死増加、肝炎ウィルス遺伝子の突然変異の蓄積、鉄過剰などがあるようだ。

しかし、上記の患者は肝炎ウィルスのキャリアーではない。お酒も適量飲酒を守れている。こういう人が、なぜ肝臓癌になるのか。問診のなかに大きなヒントがあった。
プラスチックを作る工場の労働者。
「塩化ビニールは肝血管肉腫の原因になる可能性がある」これは、内科の授業よりは産業医学の授業で一般の学生も教わることである。
塩化ビニールへの曝露が原因で腫瘍を生じていながら、『肝血管肉腫』という限定的な診断ではなくて、アバウトに『肝臓癌』という診断を受けている人は、想像以上に多いのではないか。
「肝炎でもない、酒も大して飲まないのに、なんで肝臓癌になんてなったのかな」
こういう人には、職業曝露を疑って職歴を聞かないといけない。

『塩化ビニール取扱労働者における肝細胞肉腫と肝硬変の増加リスク〜職業曝露とアルコール摂取による相乗作用』という論文があった。
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1247480/
ざっと訳してみよう。
肝細胞肉腫(HCC)と肝硬変(LC)は、塩化ビニールモノマー(VCM)が引き起こす疾患ではないかと言われているが、因果関係は充分には確立されていない。
我々の目的は、HCCとLCの病因において、VCM、アルコール摂取、ウィルス性肝炎感染およびこれらの相互作用の影響を評価することである。
HCCの13症例、LCの40症例を、慢性的な肝疾患や肝癌のない139人の対照群(1658人のVCM労働者をコホートとした症例対照研究として)とそれぞれ比較した。
オッズ比と95%信頼区間は一般的な方法とロジスティック回帰調整モデルによって評価した。相互作用の評価に際してはロスマン相乗指数(S)を用いた。ロジスティック回帰分析において交絡因子を一定に保ち、それぞれの追加増分(1000ppm×VCMの蓄積曝露年数)はHCCで71%のリスク増加(OR = 1.71; 95% CI, 1.28–2.44)、LCで37%のリスク増加(OR = 1.37; 95% CI, 1.13–1.69)だった。
VCM曝露(2500ppm×年数以上)およびアルコール摂取(1日あたり60g以上)の影響が加わると、オッズ比はHCCで409倍(95% CI, 19.6–8,553) 、LCで752倍(95% CI, 55.3–10,248) になった。両者とも、S指数は相乗的であることを示していた。VCM曝露(2500ppm×年数以上)とウィルス感染の影響が加わると、HCCは210倍(95% CI, 7.13–6,203) 、LCは 80.5倍(95% CI, 3.67–1,763)となった。両者とも、S指数は相加的であることを示していた。
結論として、VCM曝露はHCCおよびLCの独立したリスク因子であり、アルコール摂取とは相乗的に、ウィルス感染とは相加的に作用することで、これらの罹患リスクを増大させるということがわかった。

塩化ビニールを使った製品は僕らの身の回りにあふれていて、この便利な現代文明を支えている。そして塩化ビニールを作る工場の人たちは、その便利さと引き換えに、自分たちの健康を危険にさらしている。
彼らの健康を守るために上記の研究を生かすなら、たとえば、「塩化ビニール製造会社は、製造ラインなど最も曝露量が多い部署には、肝炎感染者を働かせない」とか「曝露量が多い部署に勤務する人は、酒を極力控える」などのルールがあってもいいと思う。
ちなみに、もし僕がそういう会社の産業医なら、社員全員にビタミンCの服用(たとえば1日3000mgとか)を義務付けるつもりだ。ビタミンCが肝細胞癌に著効するということは、たとえばこの研究でも示されている。https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5871898/
社長の注意義務違反か産業医の怠慢か、自分が健康リスクのある物質を触っているんだという意識のない労働者がたくさんいて、このせいで多くの不幸が起こっていると思う。

歯周病

2019.2.14

3年ほど前、食事をすると右の奥歯が痛んだことがある。
じっとしていれば痛まないし、水を飲んでしみるということもない。虫歯ではない。
ただ、食事のとき、咀嚼をすると、痛む。
生きるためには食べないといけない。でも食事が、痛みのせいで不快で仕方ない。
噛むと痛い、という状況は、なかなかの生き地獄だった。

ネットで自分の症状を調べると、どうも「根尖性歯周炎」のようだとわかった。
歯周病のように歯茎に炎症が起こっているのではなく、歯の根っこで炎症が起こっているのが特徴で、原因は細菌感染だという。
虫歯が原因のことが多いというが、僕の場合は虫歯ではない。ただ、どういう経路でか、歯の根っこに菌が侵入し、咀嚼時の痛みを引き起こしているのだった。
治療は根管治療というかなり大がかりな処置を行う。歯髄の内部の感染巣にアプローチするために、歯髄を除去して細い針を通し、消毒液で洗浄する。
歯髄を除去するということは、血管も神経も丸ごと除去するということだ。神経がなくなるわけだから、痛みは感じなくなる。しかし同時に血管もなくなって、その部位に酸素も栄養分も供給できなくなる。血管という、いわば道路がなくなるから、細菌と戦う白血球を前線に送り込むことができない格好だ。
それに、痛みというのは確かに不快だけど、生体が「ここに注目!」と発している警戒信号であって、神経を除去するということは、そういうシグナルを受信できなくなることを意味する。
やばい治療だな、というのが直感。
で、調べてみると確かに、根管治療の成功率は低い、というデータがあった。http://www.yoshikawa-dc.com/drblog/膿が溜まっている歯を根管治療し3ヶ月のct画像%E3%80%80no2
根管治療の成功率は3割〜5割だという。成功率がこんな低い治療なんて、バクチみたいなものでしょ。
何とか他の治療法がないものだろうか。
調べているうちによさそうに思ったのが、エッセンシャルオイルの塗布。
根尖性歯周炎に効く、という記述はなかったが、歯周病に効くという情報は多かった。
効くとされるエッセンシャルオイルを一通り(クローブ、ペパーミント、ティーツリー、オレガノ、タイム、シナモン、バジル)購入した。
100均で買った小さなスプレーボトルに全種類、適量入れて、患部に噴霧。
本当に効いた。
不快な痛みが、見事になくなった。
複数のエッセンシャルオイルを混ぜて使ったから、具体的にどれが効いたのかわからない(痛みから早く解放されたくて、ひとつずつ試してみる余裕なんてなかったから)。
でも、とにかく効いた。もう噛んでも痛くない。
当たり前に食事ができるというのは、何という喜びだろうと思った。

これは本当の話だ。
でも、あくまで僕の個人的経験に過ぎない。サンプル数、1。それだけ。
ネット上にある、他の人のこういう「本当の話」をいくつ集めても、それは科学ではない。
「エッセンシャルオイルは歯周病にすごくいいよ。だって、俺の歯の痛みが治ったんだもの」と自分の経験談として強調しても、科学的事実として認めてもらえない。
皆に認めてもらうためには、RCT(無作為比較試験)によるエビデンスがないといけない。「俺が証拠だ」ではダメなんだ。
いわゆる民間療法には、エビデンスの裏付けがないものが多くある。そのなかには、本当に効果があるのにまだどの学者も研究していないものもあれば、RCTで否定されプラセボ以上の効果がないと実証されたものもある。
幸い、エッセンシャルオイルの歯周病菌に対する有効性は、多くの研究で示されている。RCTもあれば、試験管内で歯周病菌に対してどのエッセンシャルオイルがどの濃度で効くのか、という研究もある。
たとえばこんな研究。https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4054083/
タイトルは『5種類のエッセンシャルオイルの口腔内微生物に対する抗菌作用』。
要約を訳す。
目的
この研究は、口腔内病原菌に対して、5種類のエッセンシャルオイルの最少発育阻止濃度(MIC)、最少殺菌濃度(MBC)、最少殺カビ濃度(MFC)を見つけ出すことである。
方法
5種類のエッセンシャルオイル(ティーツリーオイル、ラベンダーオイル、タイムオイル、ペパーミントオイル、オイゲノールオイル)によるMIC、MBC、MFCを検出することにより、4種類の一般的な口腔内病原菌に対する抗微生物活性を液体希釈法により調べた。
この研究に使った系統は、黄色ブドウ球菌ATCC25923、エンテロコッカス・フェカリスATCC29212、大腸菌ATCC25922、カンジダ・アルビカンスATCC90028である。
5種類のエッセンシャルオイルのうち、オイゲノールオイル、ペパーミントオイル、ティーツリーオイルは有意に発育抑制効果を示した。(平均MICはそれぞれ、0.62 ± 0.45, 9.00 ± 15.34, 17.12 ± 31.25 )
平均 MBC/MFC は、ティーツリーオイルで、17.12 ± 31.25、ラベンダーオイルで151.00 ± 241.82, タイムオイルで22.00 ± 12.00, ペパーミントオイルで9.75 ± 14.88 オイゲノールオイルで0.62 ± 0.45.だった。エンテロコッカス・フェカリスはどのエッセンシャルオイルにも感受性が比較的低かった。
結論
ペパーミント、ティーツリー、タイムは口腔内病原菌に対する効果的な根管抗菌溶液として使用することができる。

エッセンシャルオイルは確かに効くということだ。副作用のなさ、値段などを考えると、下手な抗生物質を使うよりもはるかに有効だと言える。
歯医者にかかって神経や血管を抜かれる前に、まずはエッセンシャルオイルを試してみよう。
ただし、メーカーや品質にはこだわったほうがいいし、本来飲用のものではないから、効果を焦ってたくさん使いすぎないことも大事だよ。
あと、甘いものは食べないこと。食事の改善は歯周病の治療に際しても大前提だ。

将棋

2019.2.13

将棋好きが高じて、近所の将棋道場にちょくちょく行くようになった。
久しぶりに顔を合わせた50代半ばのおじさんと対局。アマチュアで3段の棋力だ。
局後の感想戦。
「いやぁ、先生もなかなかじっくりした将棋を指すようになったね。
終盤は難解だった。先生のこの、☗1八角。遠見の角。これにはしびれた。プロの一手だ」
負けると超不機嫌になることで有名な人なんだけど、勝ってご機嫌。おじさん、こういうときは、相手の手をほめる余裕がある^^;

道場で相手を前にして指す将棋は、ネット対局で指す将棋と全然違う。
ネット対局ばかりしていたときには、序盤で僕のほうから無理に仕掛けて、居玉のまま殴り合うような将棋が多かった。
序盤でいきなり飛車を切って角を成って、相手の虚をつくような奇襲。相手も級位者だったら、それで一応それなりの「将棋」になった。
でも、道場で生身の人間を目の前にすると、「こんな手を指して恥ずかしい」という意識が生じる。
カッコをつけて「上手はこういうふうに指すんでしょ」というような手を指す。深い理解の伴った指し手じゃないから、咎められると、対応に困ったりする。
以前のように、無防備に仕掛けていた頃のほうが、素人なりの迫力があって、かえって強かったところがある。
空手は、習い始めの頃が一番弱い、という。なまじっか慣れない『型』を使おうとして、自分のなじみのスタイルを失う。
テキトーに殴ったり蹴ったりの無手勝流のほうが意外に強い、というのはありそうなことだ。
僕の将棋もそれと同じで、道場に行きだしてから、僕は少し弱くなった。
急戦を仕掛けていたところで、玉の囲いに一手かけたりする。でも、向こうはもっと固める。
「定石を覚えて二目弱くなり」というのは囲碁の言葉だけど、将棋にも当てはまりそうだ。

「先生さ、あんまり薬使わないクリニックなんだって?それはいいことだと思うよ。
俺、40代の頃、血圧が高いって会社の検診で言われて、血圧を下げる薬を飲み始めたことがあるんだよ。
飲んでても特に体には副作用も何もなかったんだけどね、ただ、将棋がものすごく弱くなった。
手が読めないんだよ。
ざっと20手ぐらい先まで難なく読めてたところ、10手ぐらいしか読めなくなった。
頭の中に候補手の樹形図がある。そのひとつひとつの局面を、頭の中の将棋盤に描くんだけど、将棋盤がぼんやり曇って、読めなくなった。
そのことに気付いて『なんて恐ろしい薬だ』って思ってね、飲むのをすぐにやめたよ」
降圧薬は脳血流を低下させる。将棋で極限まで頭を使うおじさんには、薬の危険性が身を以てよくわかったということだ。
やめて正解だと思う。

ところで皆さん、奨励会ってご存知ですか。
奨励会とは、将棋のプロ棋士の養成機関のことだ。
プロ棋士は皆、この機関を経てプロになるんだけど、奨励会は入るのも超難関だし、そこで勝ち星を重ねてプロになるのはもっと難しい。
プロを目指す腕自慢の子供が全国から集まってきて、年に一回行われる奨励会試験を受ける。https://www.shogi.or.jp/news/2018/07/30_8.html
まず、一次試験で受験者同士で対局を6局行い、4勝すれば通過、3敗すると失格となる。次の二次試験では、現役の奨励会員を相手に3局指し、1勝でもできれば合格。
受験者は毎年だいたい30~40人、合格するのはおよそ3,4人と、入ることさえ非常に難しい。
入ってからも大変で、むしろ入会してから本当に熾烈な戦いが始まる。
奨励会ではまず6級から始まり、月に2回の対局を行い、規定の成績をおさめれば昇級していく。最初の難関は初段になることで、満21歳までに初段になれなければ退会となる。
何とか初段になったとして、次の難関は三段から四段への壁だ。
三段から四段になるには、「三段リーグ「という同じ三段同士でのリーグ戦を戦い、上位2人に入る必要がある。三段リーグの参加人数は約30人。半年かけて18回の対局を行う。
ここを勝ち抜ければ四段、すなわち、晴れてプロ棋士の仲間入りとなる。しかしここでも年齢制限があって、満26歳までに四段になれなければ、強制的に退会となる。
奨励会に入会した人がプロ棋士になる割合は、おおよそ1~2割。
プロ棋士になれるのは、毎年たったの4人。ちなみに東大の入学者数は、毎年3000人以上。プロ棋士になるのは、東大生になるよりはるかに難しい。

28歳男性。元奨励会員と話す機会があった。
「14歳で奨励会に入会しました。それなりに順調に昇級して、18歳で初段になり、22歳で三段になりました。
藤井聡太さんが14歳で中学生棋士になったことを思うと、それほど早いペースではありません。
22歳で三段リーグを戦うことになり、年2回のリーグ戦ですから、26歳の年齢制限までにプロになる機会が8回あったわけです。
しかし三段リーグの壁は厳しかった。残念ながら上位2人に入ることはできず、奨励会を去ることになりました。
でも将棋をやめたわけではありません。小学生に将棋を教える講師をしていますし、アマチュアの大会に参加しています」
昨年のアマチュア将棋名人戦でベスト16まで勝ち進んだ。ベスト16で敗れたものの、その対局の勝者がトーナメントを制し、アマチュア名人を獲得している。
その人は再編入試験でプロを目指すと公言している。再びプロを目指す気持ちはないですか。
「そこは何とも言えないです。ただ現時点では、プロになれるかなれないか、という気持ちでやっているわけではありません。
今は純粋に好きだから、将棋が楽しいから、やっているという感じです。
でもこういうことが言えるのも、将棋とある程度距離を置いた今だからこそ、かもしれません。
奨励会時代は、もう必死でした。
奨励会員というのは、勝利がすべてなんです。『負けたけど、いい将棋だったな』なんてのんきな気持ちではダメなんです。
その点、逆にプロ棋士のほうがむしろ穏やかだと思います。プロに求められるものは、勝利だけではありません。
プロは、ファンの存在を意識しないといけない。たとえばNHK杯はテレビ放送もされるから、途中で負けを悟っても、ファンのために最後まで指すということがあります。
それに、プロ棋士の棋譜はファンも見るし、後世に残ります。
何が何でも勝ちにこだわった将棋、相手のミスを誘発してでも勝ちに行く醜い棋譜よりは、きれいな棋譜を残したい。プロはそういう意識でやっています。
でも奨励会員は違う。とにかく勝つことが至上命題なんです。
その点、今はそれほど追いつめられた必死さはありません。もちろん勝ちたいと思って指していますが、純粋に将棋が楽しいんです。
年齢制限で瀬戸際に追い込まれた最後の三段リーグ。
私は、初戦から5連敗しました。5敗してしまったら、もうこの時点でプロになれる可能性はほぼ消えているんです。
でも自分の中で、何か吹っ切れたんですね。その後、急に勝てるようになって。5連敗後に行った13回の対局では、9勝4敗と好成績をおさめることができました。
そのうちの1敗は、藤井聡太さんに敗れたものです。
藤井さんが見事にプロになったその三段リーグで、私のプロになる夢が消え、年齢制限で退会することになりました。
さぞ無念だろう、悔しいだろう、っていろんな人が言ってくれるのですが、それほどでもありません。
自分の持てるものすべてを出し切った、やり切った、という思いがありますから。
小学生の頃からずっと毎日、将棋漬けの生活を送ってきました。将棋には本当に多くのことを教わりました。
将棋への恩返しがしたい。そういう思いで、今、子供に将棋指導をしています」

将棋人生のなかで、最高の対局、この一局、というのがありますか、と聞いたところ、彼、言葉につまった。
奨励会で自分の持てるものすべてを出し切った、とは言うものの、今も将棋の研究は続けている。
アマチュアの大会に出場し、好成績をおさめている。「ただのアマチュア」というには、あまりにも強すぎる。
実際、奨励会時代に、後にプロになった人からも多くの勝ち星をあげている(増田康宏、都成竜馬、佐々木大地、大橋貴洸、西田拓也、本田奎など)。
実力的には、プロになって何らおかしくなかった。「自分の最高の対局はこの一局だった」という、過去形で自分を語る心境ではない。
「最高の対局は、未だ指されていない次なる将棋」という意識で、今も熱い闘志を胸に秘めているのではないか。

「最高の将棋、かどうかわかりませんが、三段リーグの最後の在籍時、初戦から5連敗した後、かえって力みが取れて、純粋に将棋を楽しもうという気持ちになり、かえって勝てるようになりました。
これは、そういう心境で指した一局です。自分なりの持ち味が出せた将棋かなと思います」
先手:S・M 三段 後手:A・T 三段
1 2六歩 2 3四歩 3 2五歩 4 3三角 5 7六歩 6 4二銀 7 4八銀 8 3二金 9 4六歩 10 7二銀 11 3六歩 12 6四歩 13 3三角成 14 同 銀 15 7八銀 16 6三銀 17 3七桂 18 4二玉 19 6八玉 20 5二金 21 1六歩 22 7四歩 23 4七銀 24 8四歩 25 5六銀 26 7三桂 27 7七銀 28 5四銀 29 7八金 30 6五歩 31 4八金 32 6四角打 33 4七金 34 4四歩 35 7九玉 36 3一玉 37 1七香 38 6二飛 39 2六飛 40 4三銀 41 6八銀 42 5四歩 43 8八角打 44 4二金右 45 4五歩 46 8五歩 47 3五歩 48 8二飛 49 7七角 50 8一飛 51 9六歩 52 9四歩 53 4四歩 54 同銀左 55 3四歩 56 3五銀 57 2九飛 58 4四歩打 59 4五歩打 60 7五歩 61 同歩 62 3四銀 63 4四歩 64 7六歩打 65 8八角 66 5五歩 67 同銀 68 7五角 69 3六歩打 70 8六歩 71 同歩 72 8七歩打 73 同金 74 8六角 75 同金 76 同飛 77 6四角打 78 8七飛成 79 7八歩打 80 5八金打 81 2八飛 82 4六歩打 83 5六金 84 6九金 85 同玉 86 8八龍 87 3五歩 88 3六角打 89 5九玉 90 4七歩成 91 4六金打 92 8九龍 93 7九銀打 94 同龍 95 同銀 96 4八銀打 97 同飛 98 同と 99 同玉 100 1八飛打 101 3八飛打 102 同飛成 103 同玉 104 1八飛打 105 投了

LED

2019.2.12

理系の学問は新しい技術の開発や普及によって、非常にわかりやすい形で社会に影響を与える。
もちろん、文系学問が世の中にインパクトがない、というわけではないけどね。
それどころか、優れた哲学者の思想とか文学作品は、人々の精神を深めたり内面世界を変えるから、理系技術の革新がもたらす表面的な変化より、もっと本質的な影響を与える、とも言える。
それでも、理系学問が社会を変えるスピード感には、華々しい魅力があると思う。
たとえば、20年前の信号の色は、今よりも暗くて見にくかった。ウィンドウズ95が主流だった時代のPCと今の一般的なPCを比べると、今のほうが画面が圧倒的にきれいになっている。
この変化は、青色発光ダイオード(青色LED)の出現によるものだ。
光の三原色(赤、緑、青)の発光素子がすべてそろえば、テレビやPCの画面はフルカラーで表示することが可能になり、そうなれば飛躍的に色彩豊かなディスプレイが実現するだろう、と言われていた。
しかし、1980年代までに実用化されていたのは赤色の光源のみだった。世界中の研究者が開発競争にしのぎを削るなか、青色LEDの開発に成功したのは、日本の研究者だった。
低電力で駆動し、かつ長寿命に使えるこのLEDは、またたくまに世界を変えた。
あらゆる電化製品の電光表示がLEDに取って代わられた。僕らはテレビやPCをより美しい画面で楽しむことができるようになった。

しかし、革新的な新技術にしばしばあることだが、メリットとともにデメリットもあるものである。
発光ダイオードのデメリット、それは目への悪影響だ。
これはスマホを長時間使う人なら、何となく気付いていることだろう。「スマホの画面を長く見つめていると、やたら目が疲れるな」と。
ちゃんと研究もあって、以下のように論文にまとまっている。https://www.nature.com/articles/srep05223
要約を訳す。
『発光ダイオード由来の青色光によって引き起こされる視細胞へのダメージ』
我々の目はビデオディスプレイ端末(VDT)の発光ダイオード(LED)の光にますます曝露されるようになっているが、この光には多くの青色光が含まれている。VDTは、テレビ、PC、スマートフォンに使われている。
本研究の目的は、青色LEDが視細胞の損傷を引き起こすメカニズムを解明することにある。ネズミの錐体細胞を青色、白色、緑色のLEDにそれぞれ曝露させた(0.38 mW/cm2)。
青色LEDは活性酸素種(ROS)の産生を増大させ、たんぱく質の発現レベルを変化させ、単波長のオプシン(S-opsin)の凝集を引き起こし、その結果、細胞に深刻なダメージが生じた。
青色LEDは主要な網膜細胞にダメージを与え、そしてそのダメージは光感受細胞(視細胞)に特異的に見られた。抗酸化物質のNアセチルシステイン(NAC)は、青色LEDにより惹起される細胞損傷を防ぐ働きがあった。
総じて、LEDにより引き起こされる細胞のダメージは、エネルギー依存性ではなく波長依存性であった。青色LEDが他のLEDよりも網膜の視細胞により重度なダメージを与える背景には、このような性質が背景にあるのかもしれない。

サルを使った実験で、一方には発光ダイオードの光を見つめさせ、もう一方には蛍光灯の光を見つめさせたところ、発光ダイオード群では失明するサルが多かった、という研究もある。
要はLED、特に青色LEDは、網膜で活性酸素を生じさせ、それで視細胞がアポトーシスを起こす、ということだ。だからこそ抗酸化力のあるビタミン、たとえばNACが、酸化によるダメージの軽減に著効するということだろう。
新たに登場した技術の有害な側面が、こういう具合に後の研究によって明らかになることがある。しかし有害性が明らかになったとて、よほどのことがない限り、その技術が社会から撤去されることはない。
そう、一度ハイビジョンの美しい画像に慣れてしまった僕らは、30年前のディスプレーに戻ることはできない。目に悪いとわかっていても、もはやスマホは生活必需品で、手放すことなんてできない。
だとすれば、その有害性を知った上で、対策を立てることだ。
上記の研究のすばらしい点は、視細胞に悪影響を与える機序を解明したばかりでなく、どのように網膜の酸化を防げばいいか、その対策(NACの摂取)をも提示しているところだ。
論文で言及はないけど、抗酸化力のあるビタミンということなら、ビタミンA、C、Eを摂ることもムダではないだろう。
なんだかんだで、現代人のビタミン需要量はますます増大している、と言えそうだ。