院長ブログ

肝臓癌

2019.2.15

「肝臓癌の既往がある、とのことですが、いつ頃のことですか」
「10年ほど前にたまたま見つかって。手術して治りました。その後特に再発はありません」
「ご職業は?」
「今は無職です。以前はしがない肉体労働ですよ」
「もう少し詳しく。どういったところにお勤めでしたか」
「プラスチックのパイプなんかを作る工場で作業員をしていました」
「お酒は飲まれますか」
「それなりに。毎日の晩酌を。でもそんなにたくさん飲むわけではありません。量で言えば、ビールを2缶ぐらいかな」
「B型肝炎やC型肝炎だと言われたことは?」
「それはありません」

肝臓というのはデトックス器官で、体に入ったよからぬものを解毒してくれる非常にありがたい臓器だ。
そのデトックス器官自体に癌ができてしまう、というのは、これは余程のことだ。
アルコールの多飲によって脂肪肝になり、肝硬変に進展し、ついには肝臓癌を発症する、という流れも確かにあるけど、実はアルコールが直接的な原因になっている肝臓癌は、肝臓癌全体の1割くらいではないかと言われている。
肝臓癌のほとんど(9割方)は、肝炎ウィルスの慢性感染によるものであり、慢性感染者に飲酒習慣がある場合、肝臓癌の発症率が相乗的に上昇する、というのが疫学の示すところである。発癌のメカニズムの背景には、アルコールによる免疫抑制、酸化ストレス増加、肝細胞死増加、肝炎ウィルス遺伝子の突然変異の蓄積、鉄過剰などがあるようだ。

しかし、上記の患者は肝炎ウィルスのキャリアーではない。お酒も適量飲酒を守れている。こういう人が、なぜ肝臓癌になるのか。問診のなかに大きなヒントがあった。
プラスチックを作る工場の労働者。
「塩化ビニールは肝血管肉腫の原因になる可能性がある」これは、内科の授業よりは産業医学の授業で一般の学生も教わることである。
塩化ビニールへの曝露が原因で腫瘍を生じていながら、『肝血管肉腫』という限定的な診断ではなくて、アバウトに『肝臓癌』という診断を受けている人は、想像以上に多いのではないか。
「肝炎でもない、酒も大して飲まないのに、なんで肝臓癌になんてなったのかな」
こういう人には、職業曝露を疑って職歴を聞かないといけない。

『塩化ビニール取扱労働者における肝細胞肉腫と肝硬変の増加リスク〜職業曝露とアルコール摂取による相乗作用』という論文があった。
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC1247480/
ざっと訳してみよう。
肝細胞肉腫(HCC)と肝硬変(LC)は、塩化ビニールモノマー(VCM)が引き起こす疾患ではないかと言われているが、因果関係は充分には確立されていない。
我々の目的は、HCCとLCの病因において、VCM、アルコール摂取、ウィルス性肝炎感染およびこれらの相互作用の影響を評価することである。
HCCの13症例、LCの40症例を、慢性的な肝疾患や肝癌のない139人の対照群(1658人のVCM労働者をコホートとした症例対照研究として)とそれぞれ比較した。
オッズ比と95%信頼区間は一般的な方法とロジスティック回帰調整モデルによって評価した。相互作用の評価に際してはロスマン相乗指数(S)を用いた。ロジスティック回帰分析において交絡因子を一定に保ち、それぞれの追加増分(1000ppm×VCMの蓄積曝露年数)はHCCで71%のリスク増加(OR = 1.71; 95% CI, 1.28–2.44)、LCで37%のリスク増加(OR = 1.37; 95% CI, 1.13–1.69)だった。
VCM曝露(2500ppm×年数以上)およびアルコール摂取(1日あたり60g以上)の影響が加わると、オッズ比はHCCで409倍(95% CI, 19.6–8,553) 、LCで752倍(95% CI, 55.3–10,248) になった。両者とも、S指数は相乗的であることを示していた。VCM曝露(2500ppm×年数以上)とウィルス感染の影響が加わると、HCCは210倍(95% CI, 7.13–6,203) 、LCは 80.5倍(95% CI, 3.67–1,763)となった。両者とも、S指数は相加的であることを示していた。
結論として、VCM曝露はHCCおよびLCの独立したリスク因子であり、アルコール摂取とは相乗的に、ウィルス感染とは相加的に作用することで、これらの罹患リスクを増大させるということがわかった。

塩化ビニールを使った製品は僕らの身の回りにあふれていて、この便利な現代文明を支えている。そして塩化ビニールを作る工場の人たちは、その便利さと引き換えに、自分たちの健康を危険にさらしている。
彼らの健康を守るために上記の研究を生かすなら、たとえば、「塩化ビニール製造会社は、製造ラインなど最も曝露量が多い部署には、肝炎感染者を働かせない」とか「曝露量が多い部署に勤務する人は、酒を極力控える」などのルールがあってもいいと思う。
ちなみに、もし僕がそういう会社の産業医なら、社員全員にビタミンCの服用(たとえば1日3000mgとか)を義務付けるつもりだ。ビタミンCが肝細胞癌に著効するということは、たとえばこの研究でも示されている。https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC5871898/
社長の注意義務違反か産業医の怠慢か、自分が健康リスクのある物質を触っているんだという意識のない労働者がたくさんいて、このせいで多くの不幸が起こっていると思う。