院長ブログ

タバコ2

2019.9.27

嫌煙の風潮がますます強まり、喫煙者は肩身が狭い受難の時代である。
「世間の圧力に負けてなるものか。なに、タバコ税の分だけ、国の税収に貢献していいるぐらいなんだ。堂々と胸張って吸うぞ」と強がる愛煙家も、
「勝手にタバコを吸って健康を害しているくせに、非喫煙者と同じように健康保険を利用できるのって、どうなの?あと、受動喫煙で好きでもない煙のにおい嗅がされてる人の気持ち、わかる?」などと攻撃されれば、なかなか反論しにくい。

生きにくさはひしひしと感じている。本音としては、「いっそ、禁煙しようか。タバコ代も積もり積もればバカにならないし、健康のことを思えば、やめれるものならやめたい」と思っている喫煙者もいるに違いない。
というか、思い立って禁煙を試みた人もいるだろう。それも一度二度ではなく、何度も。ところがそのたびに、抑えがたい喫煙欲求に屈服してきた。
「俺はなんて意思が弱いんだろう」挫折のたびに、自己嫌悪を感じる。

「自分を責めないでください。タバコをやめられないのは、あなたの意思が弱いからではありません」
著書”The Natural Cure For Cigarette Smoking” のなかでAnthony Shkreli氏は、説いている。
「タバコがやめられないのは、ある種の欠乏症によるものです」

世の中には2種類の飢えがある。
空腹による飢えのことは、誰しも知っている。しかしもうひとつ、あまり知られていないタイプの飢えがある。
この飢えは20世紀になって、Curt RichterやLeslie Harrisといった科学者が発見した『特殊飢餓(special hunger)』と呼ばれる飢えである。
食事を充分に摂取しているつもりでも、その食事にある種の要素が欠乏していれば、それを渇望する特殊飢餓を発症する。

ミネラル欠乏に陥った人(特に若年女性)が、粘土、ガラス、爪、洗濯のり、土など、異物を衝動的に食べる現象が古くから知られていて、pica(異食症)と呼ばれている。
アフリカのある原住民はこの性質をよく知っていて、妊娠を控えた女性が食べるための石(食用の石)が市場で販売されている。このpicaも特殊飢餓の一例だ。

「喫煙者も同じではないか。煙という、”食品ならぬもの”への欲求が抑えられないというのは、ある種の欠乏による特殊飢餓ではないか」と著者は指摘する。
「あなたはタバコに依存しているのではない。あなたは、飢えているのだ」
そうであるならば、食事の改善など何らかの方法でその欠乏を満たすことができれば、タバコへの欲求も自然と消失するはずだ。

Richterはラットの食事から1種類だけ栄養成分を抜いて、様々なタイプの特殊飢餓を作り実験を行った。
たとえば、食事からチアミン(ビタミンB1)を抜くと、脚気のラットができる。このラットの前に、13本の食事ボトルを並べる。そのうち12本はビタミンB1を含まないが、ただ1本だけはB1を含んでいる。
そうすると、ラットは見事にこのB1入りのボトルを選び、他のボトルは一顧だにしない。
「このB1入りのボトルへの執着はすさまじく、ケージのボトルを交換しようとすると、ラットがボトルに噛み付いて何としても離そうとしないほどだった」とRichterは記録している。
たまたま選んだのではない。欠乏を補ってくれるものを、本能がしっかり察しているのだ。

Richterは他にも、副腎を除去したラットを使った研究を行った。副腎を除去したラットに通常のエサを与えていると、普通は1週間ほどで死亡する。これは、副腎が塩(えん)の代謝に関わっているためだ。
このラットを、塩の溶液が自由に飲める環境においてやると、この溶液を選び生存する。
副甲状腺を除去したラットは、血中カルシウム濃度を保てなくなり、死亡する。しかしカルシウム溶液を置いておくと、やはりこの溶液を選んで生存する。
体内のアンバランスを是正するのに何が必要であるかを、適切に察しているということだ。

さらに研究は続く。
ラットにビタミンB群を抜いたエサを長期間与えた。ポイントは、その他の栄養素(炭水化物、タンパク質、脂質、ビタミンB以外のビタミン、ミネラル)はしっかり与えていることである。
Richterはこのラットのケージ内に健康なラットの糞を入れてみた。通常の食事をしているラットでは、糞など見向きもしないところ、これらのB群欠乏ラットは、なんと、エサそっちのけでこの糞を食べ始めた。
自分の生存に必要なものは本能が告げ知らせる。それが生存に必要であるならば、ウンコだろうが何だろうが構わずむさぼり食う。それが生物というものだ。

タバコへの衝動を抑えられない人は、タバコのなかに含まれる何かによって、自身の特殊飢餓を満たそうとしているのではないか。
だとすれば、その「何か」とは何だろう。
著者は、「古代インドの神話のなかに、そのヒントがある」という。