院長ブログ

生まれ変わり

2018.11.2

チベットでは、人間が生まれ変わるのは当然のことだと考えられている。
チベット仏教の最高指導者「ダライ・ラマ」が死去したときには、その魂は再びこの世に戻ってくるとされているから、死去から四十九日以内に生まれた人のなかから後継ぎを探す。
ダライ・ラマの地位は世襲じゃないし、選挙で選ぶのでもない。新たに今生に生まれ変わってきた者が、最高指導者に指名される。
すごい話だ。
チベット人のみんなが生まれ変わりを信じているからこそ、成り立つやり方だと思う。
1935年生まれのダライ・ラマ14世もそういうふうにして選ばれたわけだけど、次のダライ・ラマはどうなるのだろうか。
中国による侵略や文化破壊が進んでいることに加えて、経済的にも社会的にも大きく変化しつつある21世紀にも、この方法は維持されるだろうか。

前世の記憶があると主張する人がいる。仏教圏が多いけど、世界中に報告例がある。
マスコミを呼んで一儲けしようとしている詐話師か、単に注目を浴びたいだけのお調子者だろう、と思いきや、話の整合性や客観性のウラが取れる主張もあって、一概に全部がデタラメとは言えないようだ。
文化人類学的な観点から真面目に研究している人もいる。
https://res.mdpi.com/religions/religions-08-00162/article_deploy/religions-08-00162.pdf?filename=&attachment=1

「まぁちゃん、生まれる前は、どこにいたの?」
ちょうど言葉を話し始める3歳ぐらいのときに、お母さんが子供に話を向けてみる。するとたとえば、こういう答えが返ってくる。
「えっとね、まぁちゃんね、お空のうえにいたの」
「お空のうえ、どんなだった?」
「神さまがいて、そのおひざのうえで遊んでた。友達もいっぱいいて、楽しかった」
「そこからどうやって、ママのところに来たの?」
「すべり台があってね、それに乗って、ママのところに来たよ」
「なんでママのところに来たの?」
「えっとね、他にもママがいたんだけど、ママが一番いいなって思ったから」
「そういうのは、どうやって見れるのかな?」
「えっとね、テレビみたいな感じ」
「まぁちゃんは生まれつきぜんそくでコンコンつらいけど、そうなるって知ってて生まれてきたの?」
「うん。治ったらうれしいから」
「まぁちゃん、そもそもね、なんでこの世に生まれてきたのかな?」
「みんなを幸せにするためだよ」

で、子供が10歳ぐらいになったときに、「小さいときにこういうこと言ってたよね」って聞いても、本人はまったくそのことを覚えていないという。こういうのが一つのパターン。
胎内記憶や誕生記憶の研究をしている池川明先生という産婦人科医がいて、ご自身の経験や研究を踏まえて本もたくさん出版している。
一冊だけ読んだことがあるけど、斬新な考え方でおもしろかった。(上記の母子の会話は、本の雰囲気を真似て僕がテキトーに書きました笑)
子供は親を選べない、っていうのが常識のところ、子供は親を選んでくる、っていうんだから、なかなか新しいじゃないか。
障害や病気を持って生まれてくることも、流産や中絶されることも、子供は了解済みで自分の母を選ぶという。
「ぼくがお母さんのおなかに入るとき、すぐ横に列があった。そこに並ぶ子供たちはとても勇気があるんだ。ぼくにはその勇気はなかった。その子たちは障害があっても生まれてくることを選んだ子たちなんだ」
彼らは、自ら障害というハードルを背負う。その克服を目指すことで成長しようという高い志を持った子供たちなのだ。そして自分の姿によって周りの人たちに、命の意味、社会とはどうあるべきか、本当の優しさとは何か、を伝えるために生まれてくる。
著者の主張は、だいたいそんなところ。

悪くない考え方だと思うけど、ちょっと危ういな。
この本を物語として読む分にはいい。いい話だと思う。
でも事実として受け取るのは、かなり危険だと思う。
先天性の病気や障害には、れっきとした原因がある、というのが医者としてあるべき考え方でしょ。
たとえば脳性麻痺で生まれて、ろくに身動きもできない子供に向かって「君は障害を背負う覚悟で生まれてきたんだね、えらいね」なんて不用意に言おうものなら、患者や家族の神経を逆なですることになるかもしれない。
妊娠中絶を考えている人は、著者の主張を自分に都合よく解釈するだろう。「そうか、中絶児は自分が中絶されることを承知で生まれてきているのか」と、何度堕ろしても良心の呵責を一切感じないようになるかもしれない。

『水からの伝言』という本のことを思い出した。「ありがとう」という言葉をかけた水はきれいな結晶を結び、「バカ野郎」とか汚い言葉をかけた水は腐敗した、っていう話。言葉の大切さを説くいい本だと思うんだけど、あくまで物語として読むべきで、本の内容を額面通りの事実として受け取っては危険だという点で、池川先生の本と同じにおいを感じる。

生きていれば、納得できない理不尽とか不条理に出くわすことはしょっちゅうで、そういうとき、僕らは考え込んでしまう。
子供が障害を持って生まれてきた。なぜだ。なぜ俺の子が。
考え込むに決まっている。しかしこの「なぜだ」は具体的な原因を求めているわけじゃない。「母胎経由で取り込まれた有害物質のせいです」という答えでは腑に落ちない。
この場合彼は、むしろ池川先生の本のなかに問いへの答えを見出すだろう。
理屈じゃなくて納得をくれる教えというのは、サイエンスじゃない。宗教に近いと思う。読者はその点を踏まえた上で読まないといけない。
池川先生の本を批判してるんじゃないよ。ただ、読解力のない人には誤解されるだろうなっていう、そこだけね。妙に科学の装いをしているところがあるから、そこがかえってミスリーディングだと思う。

「なんのために生まれてきたのかな」と親が子供に問う。
子供、答えていわく「人を幸せにするためだよ」
これ、すばらしい問答だと思う。
大学で教わってきた医学では人を幸せにできないことに気づいて、散々悩んだ僕には、この言葉がすごくしみる。
池川先生の創作であってもいい。いい話って、どういう形であっても、いいものなんだ。
人を幸せにしたとき、自分も幸せを感じるというのは、人間の不思議な性質だね。
幸せの連鎖反応で、笑顔がどんどん増えれば、この世もずいぶん住みやすくなると思う。
今の自分の仕事が、この世にある笑顔を増やすことに貢献してますように☆彡(-人-;)