ナカムラクリニック

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2019年

ロディオラと性欲

2019.3.8

「醜い大きな鼻を恥じて、シラノは自分の容姿にまったく自信が持てない。
しかし天賦の文才は稀有のもので、彼の感性を経て紡ぎ出された言葉は、すべてきらびやかな詩になるのだった。
彼もまた人間。美しい女ロクサーヌに人知れず恋心を抱いていた。
あるとき、ロクサーヌに呼び出されたシラノは、彼女が美男クリスチャンに恋をしていると告げられた。クリスチャンも、ロクサーヌに一目惚れをしていた。
男シラノ、嫉妬にかられて取り乱したりはしない。
やはりロクサーヌは、醜い容姿の自分には手の届かない高嶺の花なのだと、思った。
しかし同時に、愛する女の幸せを願い、この美男美女の恋を成就させてやろうと決めた。寅さんみたいやなぁ^^
ある夜、クリスチャン、ついにロクサーヌに恋心を打ち明けた。しかし彼の口からは凡庸な言葉しか出てこない。
彼女は、もっと情熱的な言葉が欲しかった。いかに自分を愛し、欲しているか、巧みに口説いて欲しかった。
彼女が幻滅を感じ始めたとき、茂みに隠れていたシラノ、クリスチャンにカンペを出す。
美しい修辞に彩られた愛の言葉に彼女は陶酔し、ついにクリスチャンに口づけを許した。
これを知ったド・ギッシュ伯爵、彼もまた密かにロクサーヌを思っていた一人。
この権力者は嫉妬に狂って、シラノとクリスチャンを戦場に送ってしまった。
戦場でもシラノはクリスチャンになり代わって、ロクサーヌに恋文を送り続けた。恋文は彼女を動かした。ロクサーヌ、危険を顧みず戦場に慰問に来た。
『私が愛しているのは、いまやあなたの美しい容姿ではありません。あなたのラブレターからにじみ出る、あなたの人間性、精神性そのものです』と彼女は語った。
ロクサーヌのこの言葉は、彼を喜ばせるどころか、打ちのめした。
好きな女の心を得たものの、それがゴーストライターのおかげだということが、潔白な彼には耐えられなかったんだな。いい男だ。
あわれ、捨て鉢のクリスチャン、前線に飛び出し戦死してしまった」
「あのさ、途中でさえぎるようだけど、何の話?」
「ロスタンの戯曲でね、『シラノ・ド・ベルジュラック』っていう。話はこの後、愛する男に死なれたロクサーヌが修道院でひっそりと暮らすようになって、」
「もういいって。長いよ」
「うん、要するに何が言いたいかっていうとね、僕は君のシラノでありたいって思うんだ。僕のルックスはパッとしない。でも、君を思う気持ちは誰にも負けないし、君の魅力を謳う詩を捧げたい」
「そういうライン、ときどき送ってくるけど、気持ち悪いからやめてくれない?」
「君の美は時とともに失われても、僕の詩の中に書き留めた君は、永遠の美をたたえている」
「どうでもいいけど、鼻毛出てるよ」

恋愛とは何か。
これは昔から哲学者や文学者が取り組んできたテーマだ。
老いも若きも、男も女も、誰しもが恋愛をする。でも恋愛遍歴は人それぞれで、各人各様の恋愛観があるだろう。
芥川龍之介が「恋愛はただ性欲の詩的表現をうけたものである」なんて言ってる。
ずいぶん寒々しいことを言うなぁって、昔は何となく反発を感じたんだけど、今思うと、やっぱり本質を突いてるとも思う。

人間には三大欲求というものがある。食欲、睡眠欲、性欲、この三つだ。
健康であるためには、この三つが過不足なく満ち足りていることが必要だ。
恋愛という心の動きは、その根源に性欲があってこそなんだけど、性欲については社会的に何となくタブー視されがちだ。
ドラマや映画の主題が恋愛であったとしても、成就した恋愛の行き着く先の領域は描かれていない。描かれても、せいぜいキスまで。そこから先は『20歳未満お断り』の封鎖線が張られているようだ。
一般的な『性』以上に、さらにタブー視されているのが、『高齢者の性』だろう。
高齢者も人間。当然、性欲がある。しかし世の中は、何となく「ないもの」として扱ってきた。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/55607
この記事は「高齢夫婦間での性欲ギャップ」「高齢男性で風俗店に通う男性が増えている」といった現状を真正面から見据えていて、おもしろかった。

高齢になっても夫の性欲がそれほど衰えておらず、かつ、妻の側で比較的低下している場合、すれ違いが起こることになる。「夫の求めに答えてあげたい」という思いがある一方で、肉体的に受け入れることができない場合、妻としてはつらいだろうと思う。
そういうときには、アダプトゲン、特にロディオラを勧めたい。
https://www.jsm.jsexmed.org/article/S1743-6095(16)00555-5/abstract
『げっ歯類およびヒトにおけるストレス誘発性の性機能低下〜ロディオラ・ロゼア抽出物の臨床的有用性』というタイトルの論文。
要約をさらに噛み砕いて説明すると、
ラットに急性、慢性のストレスを与えた。すると、ラットは抑うつ状態になったりして、エッチどころではなくなって交尾の頻度が減るんだけど、そこでロディオラを含むエサを与える。すると交尾の回数が増えた、という研究。あともう一つ、性欲が低下した患者にロディオラ抽出物を1日2回、4週間にわたって与えたところ、ストレススコアが減少し性交回数も増えた、という研究。

ロディオラは男性だけでなくて女性にも効果があるよ。
他の栄養素としては、亜鉛(テストステロンの増強と、テストステロンがエストロゲンに変換されるのを防ぐために)、マグネシウム、ビタミンCあたりもオススメしたい。
恋愛というのは、心の余裕だと思う。だって、病に臥せっている人が恋愛なんてできないでしょう?誰かに恋心を抱くというのは、それだけ健康で心身に余裕があるということだ。
でも、逆に誰かに恋することで病気から立ち直るエネルギーが沸く、なんてこともあるから、人間って不思議なものだね。

あ、最後に一つ注意。
ロディオラは抗ストレス作用を通じて、性欲を回復させる働きがあるけど、惚れ薬ではないから、振り向かせたい人にこっそり盛っても効きません^^;
個人的な苦い経験で知ってるんだけど、いっぺん気持ちが離れてしまった女の子をもう一回振り向かせることは、どんな上手なラブレターを書いても無理なんだよなぁ^^;

電子レンジ

2019.3.7

電子レンジの安全性(あるいは危険性)について、以下のサイトから興味深い箇所をピックアップして、訳しました。https://articles.mercola.com/sites/articles/archive/2010/05/18/microwave-hazards.aspx

電子レンジによる調理によって、食品中に毒性物質が生じる。
『電磁波と健康〜電磁場および無線周波数の影響とその対策』(ケース・アダムス著)に以下の記載がある。
「カリフォルニアのローレンス・リバーモア研究所の研究によると、電子レンジによって食品中に複素環芳香族アミン(HCA)と多環芳香族炭化水素(PAH)が生じるとの結論が出ている。両者とも、発癌性が疑われている。PAHは肉を揚げることによっても生じる」
リタ・リー博士は1989年の著書『電磁波と電子レンジ』のなかで、オレゴンのアトランティス・ライジング教育センターの研究を引用しながら、「HCAとPAHがタンパク質に生じる一方、炭水化物(およびタンパク質)にはAGEs(最終糖化産物)が生じる」と述べている。同研究は、電子レンジによってほとんどすべての食品中に発癌物質が生じることを示したものである。
HCAやPAHとは別に、肉を電子レンジで調理することによって、d-ニトロソジエタノールアミンが生じるが、これも発癌物質である。
牛乳や穀物を電子レンジにかけると、食材中に含まれるアミノ酸が発癌性化合物に変化する。凍った果物を電子レンジにかけるだけでも、果物に含まれるグルコシドやガラクトシドが発癌性化合物に変化する。
同じことは植物性の食品にも言える。植物性食品に含まれるアルカロイドが発癌物質とフリーラジカルに変化する。話はそこで終わらない。
『電磁波と健康』によると、
・ランセットに1989年に掲載された研究によると、乳児用ミルクを電子レンジにかけると、トランスアミノ酸がシス同位体に変化するが、これには神経毒性および腎毒性がある。つまり、電子レンジにかけた乳児用ミルクを飲めば、神経系および腎臓に悪影響があるということである。
・スイスの科学者ハンス・ヘルテル医師は、1991年の論文で、電子レンジで調理した食品によって、血中に発癌作用が生じることを報告した。
この研究はボランティア8人による小規模なものである。ボランティアを生の牛乳、調理した牛乳、殺菌した牛乳、電子レンジにかけた牛乳を飲む群に分け、さらに彼らを、有機栽培の生野菜、一般栽培で(電子レンジを使わず)調理された野菜、凍結後に電子レンジで解凍した有機栽培および一般栽培の野菜、電子レンジで十分に加熱調理した有機栽培および一般栽培の野菜を食べる群に分けた。
食事を食べる前と後に、血液検査を行なった。
結果、電子レンジをかけた牛乳あるいは野菜を摂取した群では、血中ヘモグロビン、白血球(リンパ球)、赤血球が減少し、コレステロールが増加していた。リンパ球の減少は感染症や組織損傷のリスクを増大させる。
この研究は、被験者数が少ないことなど欠点があるものの、電子レンジの安全性について大きな問題提議を含むものである。
ヘルテルはまた、電子レンジによって食品の分子変形すると、放射線による分解による化合物が生成することを発見した。その後の研究によって、この物質も発癌性を持つことが示唆されている。

日本で電子レンジのない家庭はほとんどないだろう。外食産業においても、電子レンジは、それなしでは業務が回らないほど普及しているに違いない。
健康意識が高くて自宅で電子レンジを使わない人も、外食をすればまず間違いなく、電子レンジで加熱調理した食品を口にしているだろう。
そういう意味で、上記記事の意味するところは非常に大きいと思う。

妊婦あるいは授乳中の女性が、電子レンジで加熱調理した食品を摂取した場合、胎盤や母乳経由で発癌性物質が移行する可能性はないだろうか。電子レンジを、ただ単に『食べ物を温める機械』としか認識していないお母さんが、乳児用ミルクを電子レンジでチンして、子供に飲ませる、ということはあり得ることだと思う。というか、健康意識の高いお母さんででもない限り、普通にやっていることだろう。
原因不明とされる小児癌が、実は電子レンジによって生成した発癌物質が原因である可能性はないだろうか。

上記ヘルテルの実験を踏まえれば、僕ら医者は電子レンジの危険性を知っておく必要がある。たとえば、患者の採血結果で『ヘモグロビン、赤血球低値、コレステロール高値』のような異常値があった場合、「ひょっとして電子レンジで温めたものを毎日たくさん食べていませんか?」と聞けるかどうか。知識がない限り、『電子レンジの過剰使用』の可能性を鑑別に挙げることはできない(ちなみに、コレステロール高値を見てビタミンC欠乏を疑うことも大事だ)。
これだけ電子レンジが普及した世の中なんだから、電子レンジに起因する血液検査異常というのは、存在するに違いない。
医者のみならず、一般の人も電子レンジの危険性は絶対に知っておくべきで、学校教育で教わってもいいぐらいに重要なことだと思う。食品添加物の危険性を家庭科の授業で習った記憶がある。そういうのとワンセットで、電子レンジの危険性も教えるといい。
知った上で、使うか使わないかは、もう本人の自由だと思う。とても便利な文明の利器であることは確かで、一律に使用を禁じることはできないだろう。
でもその使用は、危険性を承知の上での使用であるべきだ。

疲労とビタミンC

2019.3.3

「一晩寝るとすっかりが疲労が消えて、今日も一日頑張ろうという気持ちになれます」と言える人は、今の日本でどれくらいの割合でいるだろう。
「ずっと疲れています。寝ても疲れが取れず、朝からだるい感じです」という人がかなり多いと思う。
実臨床では、たとえ疲労が主訴でなくても、話を聞いていると疲労を認める人がほとんどだ。疲労感というのは、現代人の心身に通奏低音のように流れている。

意外に思われるかもしれないが、対症療法がお得意の西洋医学も、疲労や倦怠感に対しては無力だ。
昔は疲労に対してヒロポン(メタンフェタミン)が処方されていた。商品名の由来(疲労がポンととれるからヒロポン)を聞けば、なるほどと思うよね^^;
しかしこの薬には耐性と依存性があって、長く使い続けると薬なしでは正気を保てなくなって、やがて廃人になる。そういうわけで、今では覚醒剤取締法に抵触する禁止薬物ということになっている。
かつては薬として処方されていたものが、今では覚醒剤扱いって、考えてみればすごい話だ^^;
でも実は、現在普通に処方されているベンゾジアゼピン系の抗不安・睡眠薬も、依存性と耐性があって、結局同じようなもんなんだよなぁ。

さて、かつてはヒロポンという対症療法があったが、今ではそれも禁じ手になってしまい、西洋医学は疲労に対して打つ手がない。
副腎疲労(adrenal fatigue)や慢性疲労症候群(chronic fatigue syndrome)という疾患概念があって、よく勉強している医者はこういう病態を知っている。
しかし一般の医学部教育で教わるものではないし、保険適応のある病名ではない。つまり、「普通」の医者には認められていない。
“Adrenal Fatigue: The 21st Century Stress Syndrome”という名著があって、著者のJames Wilson博士は、疲労感に対して栄養状態の改善(サプリの使用も含め)によって、大きな治療成果をあげた。具体的な内容についてはここでは触れないが、Wilson博士が使用するサプリのひとつに、 ビタミンCがある。

そもそも疲労とは何か。
活性酸素による酸化ストレスで神経細胞が破壊される、そのときの体の悲鳴を、僕らは「疲労」として認識するのではないか、という説がある。
つまり、疲労の背景には酸化がある。
だからこそ、Wilson博士は抗酸化作用のあるビタミンCを治療に用いているわけだ。

疲労に対してビタミンCの有効性を示す研究は多い。
たとえば以下のような論文。https://pdfs.semanticscholar.org/81ba/bb973e4772df0e694622b8de397dd39be5bd.pdf
『ビタミンC投与後の労働者の疲労の変化』
要約すると、
目的:最近の研究では疲労の重要な因子は酸化ストレスだと考えられている。本研究の主な目的はビタミンCの投与によって労働者の疲労が変化するかどうかを調べることである。
方法:定期的に働く労働者44人を対象に、2週間にわたって毎日ビタミンC6gを経口投与した。その後、人口統計データと比較し、対象者らの疲労度(VAS、FSS)および血液検査(ビタミンC、HbA1c、CRP、AST、ALT、γGTP、コルチゾル)の変化を評価した。
結果:疲労について疲労についてVAS、FSSいずれもビタミンC投与後に改善していた(p<0.005)。血液検査では、HbA1c、CRP、AST、ALT、γGTP、コルチゾルはビタミンC投与後に減少した(p<0.005)
結論:ビタミンC投与によって労働者の疲労感および血液検査の数値が改善することが示された。

この研究はビタミンCの経口投与だけど、もちろん静脈から投与しても効果的だ。
静脈投与による効果を検証した論文を以下に紹介しよう。
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3273429/
『ビタミンCの静脈投与はサラリーマンの疲労を軽減する〜プラセボ対照二重盲検』
要約すると、
ビタミンCによる疲労の治療効果についての研究は、結果にばらつきがある。このばらつきの原因のひとつは、投与経路の違いかもしれない。そこで、我々はビタミンCの静脈投与による臨床治験を行なった。
サラリーマンの疲労に対する静脈内ビタミンCの効果を評価した。
20歳から49歳までの141人の健康なボランティアがこの無作為化二重盲検に参加した。治験群にはビタミンC10mgを生理食塩水とともに静脈から投与する。プラセボ群には生理食塩水のみを投与する。
ビタミンCは抗酸化物質として知られていることから、体内の酸化ストレスを計測した。疲労スコア、酸化ストレス、血中ビタミンC濃度を、投与前、投与2時間後、投与1日後に計測した。同時に副作用の有無も確認した。
結果、投与2時間後および1日後に計測した疲労スコアは、2群間で有意に差があった(p=0.004)。つまり、疲労スコアはビタミンC投与群で投与2時間後に減少しており、1日後も低いままだった。
ビタミンC投与群では、プラセボ群に比べて、血中ビタミンC濃度が高く、酸化ストレスが低かった。データ分析をより細かくし、もともとのビタミンC濃度が高かった群と低かった群で分けると、投与後2時間後および1日後の疲労の軽減はもともとビタミンC濃度が低かった群で観察された(p=0.004)が、もともとビタミンC濃度が高い群では観察されなかった(p=0.206)。
結論として、ビタミンCの静注は投与2時間後の疲労を軽減し、その効果は1日後も残存する。2群間で副作用の有意差はなかった。本研究において、高用量ビタミンCの静注は疲労に対して安全かつ効果的であることが示された。

ちなみに上記2つの論文は、いずれも韓国から出たもの。
最近の韓国はビタミンに関する研究が盛んで、良質な仕事を量産している。
この背景には、韓国人の国民性もあると思う。形成外科の手術件数でいうと日本とは比較にならないほど多いように、韓国は美容に対する関心が高い。
美容とビタミンはお互い相性のいい分野だから、そういう経済的動機が研究を後押ししている側面もあるだろう。
一方、日本の医学者は、韓国とは逆にビタミンを目の敵にしている始末だから、当然韓国の後塵を拝している。今後、この差はますます開くばかりだろう。
だから何、ということはない。韓国に負けたからどう、勝ったからどう、ということはないんだけどね。ただ、近年の日本の国力、科学技術力の低下を象徴的に示しているような気がして、何だか寂しいんだな。

韓国の話が出たついでに、在日韓国人の友人の話。
「祖母は在日二世なんだけど、祖母は私に通名を使わせたいと思っていた。でも父が本名で通せ、って。
あ、通名っていうのは、日本人ぽい名前ってことね。ほら、私の名前は、漢字こそ使ってるけど、読みが全然日本風じゃないでしょ。これが本名なの。韓国籍でお役所に登録されている名前ってこと。
お父さんは、『何もコソコソ通名を使うことはない。本名で堂々としていればいいんだ』って考え方の人で、私にもそういうふうに生きて欲しかったのね。で、私も小学校からずっと今に至るまで、本名を名乗ってる。在日であることはもちろん隠してないし、出自のことを聞かれれば普通に答えるよ。朝鮮人差別がどうのこうのって、ニュースで見たりするけど、私自身は特に差別なんて感じたことないよ。
高校を卒業して韓国の大学に行ったから韓国語を話せるようになったけど、それまではほとんど話せなかった。国籍こそ日本じゃないけど、日本語が母語で日本の学校に行って日本人の友達と青春を過ごして、ってなったらさ、気持ち的にはもちろん日本人だよ。韓国学校にでも通っていれば、また違う価値観になってたのかもしれないけど。
あ、韓国学校っていうのはね、ほら、以前朝鮮学校の授業料無償化がどうのこうのって問題になったでしょ?朝鮮学校っていうのは北朝鮮寄り、韓国学校は韓国寄りの学校。数としては、朝鮮学校のほうが比較にならないくらい多い。
在日、と聞けば、北朝鮮出身だろうが韓国出身だろうが同じようなもんで、ワンセットだと思っているでしょう?実は全然違うんだよ。思想から何から何までね。
私、本名で通してるからさ、けっこう話しかけられるの。『ひょっとして、在日の方ですか。実は私もなんです』みたいなふうに。そうすると、話の自然な流れとしてまずお互い聞くのが、北か南か、ってこと。そこで違えば、『そうですか、お互い頑張りましょうね』で話は終わり。でも同じ南だったら、話はさらに弾んで、昔の友達に出会ったような、なつかしい気持ちになる。
露骨な差別を受けた経験はないよ。でもさ、同じ在日だから分かり合える感情っていうのが確かにあるの。
東京で関西出身者に出会ったらなつかしいでしょ?あれ?大してなつかしくない?笑
そういう感情を十倍くらい強めた感じだよ」

赤の他人であっても、無言のうちに感情をシェアしあえる関係性って、うらやましいな。
マスコミ報道は日韓の対立を伝えるニュースばかりで、両国の関係は冷え切っている。実生活で露骨な差別はないかもしれないけど、ネットの掲示板とか見れば下品な書き込みがあふれていて、彼女もそういうのを知らないわけじゃない。
胸が痛むが、同時に、強く生きよう、とも思う。日本国籍をとることは簡単にできる。本名のままとることさえ可能だ。実際、彼女の弟はすでに日本国籍をとり、日本人の嫁さんをもらっている。でも在日であることは、もはや彼女の中で確固としたアイデンティティになっている。いまさら単なる一人の日本人になることは、これまでの自分の人生を切り捨ててしまうようで、とてもできない。
いろんな人がいて、いろんな思いを抱えていて、そういう違いを、差別するんじゃなくて楽しめるようになるというのが人間の成熟だと思うんだけど、ネットの書き込みとか見てると民度の低さにあきれてしまって、僕にはもう何も言えません。

タンパク質レバレッジ仮説

2019.3.2

主要なエネルギー源を炭水化物、脂質、どちらにすべきか、という議論が昔からあって、一時期は脂肪が悪者にされて、炭水化物の比率を高めましょう、ってなったんだけど、アメリカ人の肥満率が猛烈に上昇するに及んで、いや、やっぱり炭水化物の摂り過ぎはよくなさそうだ、ってなって、FDAの学者たちもずいぶん揺れているようだ。
炭水化物か脂質か、の議論のなかで、案外忘れられていたのがタンパク質の存在である。
食事に占める割合のなかでも、タンパク質は炭水化物や脂質よりも比較的少ないため、「食事のメインを張るのは、炭水化物か脂質だろう」という思い込みがあったのかもしれない。
近年になって、実はタンパク質の摂取量こそが、総エネルギー消費量を決めているのではないか、というデータがたくさん出てきた。そもそも『食欲』というのは、『タンパク質欲』であって、人間は満足できるタンパク摂取量に至るまで食べ続けるのではないか、と。

人間は無際限にバカバカ食べ続けるわけではない。栄養摂取量を規定する何らかの因子があるはずだ。そしてその因子こそ、脂肪でも炭水化物でも総エネルギー摂取量でもなく、タンパク質ではないか。
これが『The Protein-Leverage Hypothesis』である。
この言葉に対応する定訳はないようなので、どう訳そうか。
そのまま逐語的に訳すなら、『タンパク質テコ仮説』ということになる。
いや、leverageには影響力という意味もあって、実際この文脈での使い方も、タンパク質の食欲に対する影響力という含みがあるから、『タンパク質影響力仮説』がベターだろうか。
しかし、何かお堅いというか、ゴロが悪い感じもするな。
leverageという言葉は、株をする人にはわりとなじみの言葉だろうから、いっそカタカナでレバレッジ、とそのまま使って、『タンパク質レバレッジ仮説』で行こうか。
そういうわけで、以下では『タンパク質レバレッジ仮説』で通しますが、一般的な言葉ではないのでご注意を。

この仮説に基づいて考えてみよう。
タンパク質がほとんど含まれていない食事をとれば、どうなるか?
体としては、欲しいタンパク質の量が決まっているから、それを何とか満たそうとして、他の食事量を増やす。結果、総エネルギー摂取量が増え、肥満や過食につながるわけだ。
『タンパク質レバレッジ仮説』という言葉が最初に出てきた論文を紹介しよう。https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/15836464
『肥満~タンパク質レバレッジ仮説』
要約
肥満の流行は現代世界の直面する最も大きな公衆衛生上の問題の一つである。
食事面での原因として、脂質と炭水化物の割合をどうすべきかということに焦点が置かれてきたが、タンパク質の役割についてはほぼ無視されていた。
この理由としては、
1.タンパク質は食事によるエネルギー量のわずか15%しか占めていないこと
2.肥満の増加している時期にもタンパク質摂取量は一定であったこと、が挙げられる。
この二つの条件は、一見矛盾する以下のことを示している。つまりタンパク質こそが、肥満の増加を後押しし、かつ同時に、肥満の増加を抑制する、てこのような役割を果たしているということである。
我々はこの仮説を数学的なモデルを用いて定式化した。この正しさを支持する疫学的データ、実験的データ、動物実験データも提出されている。

要するにこの論文は、食事に占めるタンパク質の割合がたったの15%であることが、食欲をてこ入れしてしまい、肥満の増加を後押しする結果になっているのではないか、と言っている。
タンパク質の摂取割合を少し変えるだけで、摂食行動に大きな変化が出る。これをてこになぞらえたわけだ。
この指摘は、多くの臨床家の観察とも一致すると思う。
つまり、たとえば過食症患者がドカ食いするのは、決まって砂糖菓子やパンなどの炭水化物で、焼肉やたまごをドカ食いしてしまう、という人はまずあり得ない。
たとえば小麦にもグリアジン、グルテニンなどのタンパク質が含まれているけど、肉や魚などの動物性タンパク質とは質が違うし、何よりタンパク含有量が全然違う。
過食症患者はスィーツをむさぼり食べることで、どうにかしてタンパク質の必要量を満たそうとしているのではないか、という可能性が考えられるわけだ。

最近出た論文に、タンパク質レバレッジ仮説の正しさを支持する研究があったので、紹介しよう。https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/29032787
『アメリカにおける超加工食品(UPF)、タンパク質レバレッジ(PLH)、エネルギー摂取量』
要約
絶対的な量のタンパク質が摂取できていれば、人間の主要栄養素量のばらつきは最小化する。つまり、食事中のタンパク質量(タンパク質レバレッジ)に伴ってエネルギー摂取量が結果的に変化することが、実験で示されている。
『タンパク質レバレッジ仮説』によると、食事中のタンパク質量の低下によってタンパク質レバレッジはエネルギーの過剰摂取および肥満を増大させる方向に作用する。
超加工食品の消費量が世界的に増加しているが、このことが食事中のタンパク質量の減少、ひいてはエネルギーの過剰摂取、肥満の流行を加速させている大きな原因ではないか、という説が言われている。
本研究では、超加工食品、食事中のタンパク質割合、タンパク質およびエネルギーの絶対摂取量の関係を検証した。
超加工食品とタンパク質摂取量の間には強い逆相関が見られた。つまり、超加工食品の摂取量に従って五分位数に分けたとき、最小群のタンパク質摂取割合は18.2%、最大群では13.3%だった。
超加工食品の摂取量の増加は、タンパク質摂取量と逆相関していることは先行する研究で示されていたが、総エネルギー摂取量の上昇とも関連しており、ここでもタンパク質レバレッジ仮説と一致する結果となった。
超加工食品の摂取によってタンパク質摂取量が減少することが、エネルギーの過剰摂取につながっている可能性がある。超加工食品の摂取を減らすことが、タンパク質摂取量を増やし、エネルギー摂取の過剰を減らす有効な方法かもしれない。

人生の意味

2019.3.1

「中学も高校も公立で、そのままストレートに医学部に行って、医者になった。塾には行っていたけど、学校は全部国公立だ。グレて道を踏みはずすこともなく、親に大きな金銭的負担をかけることもなかった。親孝行だろう?
医者になってすぐに結婚して、二人の子供に恵まれた。クリニックの経営も順調だ。
はたから見れば、順風満帆な人生だと映ることだろう。
でも俺は、人生ってこういうものなのか、もっと違う人生があり得たんじゃないか、という可能性をよく考える。人生の岐路で別の道を選択していれば、どうなっていたんだろうか、と。
自分で言うのもなんだけど、俺の危機回避能力って高いと思うんだよ。自分を危険にさらすような妙な冒険はしない。いつも無難な方向、着実な方向に進む。起こり得るリスクを想定して、事前に手を打っておく。たとえば資産管理について言うと、不動産や外貨にも分散させて、経済危機が起こっても困らないようにしている、とかね。
そういう石橋叩いて渡る生き方しかできないのかもしれないな、俺は。
困った事態に陥ることはないと思う。でも本当に俺の人生はこれでいいのか、という疑問は常に消えない。
もう立ち直れないんじゃないかというぐらいのきつい挫折、死を真剣に考えるほどの絶望、心が砕け散るようなショック。
幸いにも、俺はそんなつらい目にあったことがないんだ。
でも、人を鍛えてタフにし、人生の何たるかを真に教えてくれるのは、そういう挫折じゃないだろうか。
ショックのあまり、膝から崩れ落ちて地面に這いつくばる。挫折の苦味に、身悶えしてうずくまる。でもそんなときに、アスファルトの隙間に咲く小さな花が目の前にあることに気付く。その美しさに勇気を得て、再び立ち上がり、人生を歩み始める。
挫折の味を知る人は、そういう花の美しさを知る人でもあると思う。
挫折の経験が多い人ほど、踏まれても枯れない雑草のようなタフさがあると思う。
でも俺は、つまづいたことがない。
うらやましいだって?とんでもない。アップダウンのない、平坦な人生ほどつまらないものはない。起承転結のないドラマを、サビの盛り上がりのない音楽を、誰がおもしろいと思うものか。
君は自分の人生を挫折まみれだと卑下して言う。でもそれは、俺から見ればうらやましい人生なんだよ。
俺にとって、人生は『作業』のようだ。
順調すぎて、引っかかりも取っかかりもない。傷ひとつないきれいな履歴書。
俺は果たして、自分の人生を生きたと言えるのか?
人生の横を、小走りに通り過ぎたようじゃないか?
道を踏みはずさなかった、のではなく、道からはずれる勇気がなかったんじゃないか?
しかし、そもそも、道を踏みはずすってどういうことだろう?
自問のタネは尽きない。

今ではもうないんだけど、昔、福原にあるビルの地下に、小汚いゲームセンターがあった。不良とか素性不明のオッサンとかがたむろしてる貧民窟みたいなところだった。
何年か前、そこで1回50円のゲームを延々やり続けたことがある。毎日、バカみたいにそこに通ってね。年収ン千万円の医者が、そんなところで時間をすり潰しているなんて、誰も思わない。
そのときは、ほとんど衝動的にそういうことをしていたんだけど、今思えば、あれは生き直しをしていたんだよ。普通の自分なら絶対にやらないような時間と金の浪費。そういう非生産的な行為に打ち込んで、別の人生を垣間みようとしていた。
人生の枠からはずれられない自分に対する、ささやかな復讐。
寄り道のない人生を送った人には、寄り道をしたことがないという欠点があって、俺はそのあたりを自分でつついていたわけだ。きれいな肌に、爪でちょっと傷をつけてみるような気まぐれだね」

医学部には偏差値の選別を受けた人が集まっているわけだから、やっぱり頭のいい人が多い。
しかし現役の合格者ばかりではもちろんなくて、同級生の年齢や経歴は様々だった。何年も浪人してようやく合格した苦労人もいれば、社会人として別の仕事をしていた人が一念発起して勉強して合格、みたいな人もいた。
現役で合格した人のなかには、子供の頃から頭がよくて、ついつい勉強できてしまって、人生の壁にぶち当たるでも何に悩むでもなく、スマートに医学部に来た人もいる。そういう人は、ひょっとしたら、上記の話のように、自分でも知らないうちに時限爆弾を抱えていて、いつかそれが爆発して、人生の意味に囚われるときが来るかもしれないよ。

『人生の意味にとって4つの必要なもの、価値のギャップ、そして社会がいかにしてその空白を埋めることができるか』という文献があった。
https://link.springer.com/chapter/10.1007/978-94-007-6527-6_1
一行で乱暴に要約すると、
「自分の人生に意味を感じるのに必要なのは4つあって、それは目的、価値の正当化、自己効力感、自尊心である」

このどこかが揺らいだときが、人生の意味に悩み始めるときだ。
個人的には、人生がおもしろいのは、勝ちも負けもないところだと思う。
勝った人生、負けた人生、というのはない。そんな基準は存在しないんだから。
ただ、満足な人生、不満足な人生、というのは確かにある。
多くの人は『満足』と『不満足』の間を行ったり来たりして、その途中でなんやかんやと喜怒哀楽を感じながら生きていくもので、最後の最後、御臨終のときに、収支で『満足』がプラスなら、人生としては全然上出来なんじゃないかな。