2019.11.29
森毅先生が「天才は育てるもんやなくて、育つもん」って何かのエッセーに書いてた。なるほど、特別科学学級なんかなくても、勝手に育っていくのが本物の天才かもしれない。
ただ、教育はやっぱり重要だと思うのね。教育を通じて人々を愚民化させることも、原理的には十分に可能だろうし。
ところで、どうでもいいような話だけど、今の季節、静電気がもうたまらない。
ドアノブをさわったときにバチッとくる、あの痛み。別に、激痛というわけではない。軽く不愉快を感じる程度なんだけど、1日に何度もバチッときて、しかもそれが毎日続くと、「学習」という現象が起こる。
ドアノブに触れる→バチッ→不愉快
パブロフの提唱した条件反射が、自身の脳回路に形成されたこと自覚する。
ドアノブをさわる直前に身構えるようになり、やがて、ドアノブをさわることに恐怖を感じるようになった。そしてついに、自分のクリニックのドアを、ドアノブにさわることなく、肩で押して開けるようになった。
それでも肩にバチッとくるときがあるのだから、本当にもう、イヤになる。
オルダス・ハクスレーの小説『すばらしい新世界』。
2049年、世界は10人の統制官がすべての国民を支配する完全な管理社会になっている。人間は受精卵の段階から培養・選別され、階級ごとに知能や体格が決められる。
人間養育施設の一室に集められた生後8ヶ月の赤ん坊たち。室内には美しいバラをいけた花瓶がいくつか置かれ、床には本やおもちゃが散らばっている。赤ん坊たちが元気にハイハイしながら、部屋の中を自由に動き回る。
おもちゃにふれると、ナースがすかさずレバーを押す。けたたましい警報音が鳴り響き、赤ん坊は恐怖に身を縮める。本にふれると床に電流が流れ、赤ん坊は痛みに泣き叫ぶ。美しいバラに近付くと、不快なサイレンが響き渡る。
こうした作業を200回ほど繰り返すことで、赤ん坊のなかに恐怖と痛みの記憶が刷り込まれる。彼らはもう二度と、本と花に近付かなくなる。
施設を見学する学生が、管制官のひとりに質問する。「本に対する恐怖を教え込むのはわかります。下級カーストに教養を与えることは体制にとってリスクです。彼らを無知蒙昧に保つことで管理が容易になります。しかし、花に対する嫌悪を植え付けるのはなぜですか」
管制官が答える。「ふむ、いい質問だ。そう、花に対して個人がどのような感慨を抱こうが、当局の体制維持にとっては関係ない。しかしね、自然を愛好するような精神は、社会の生産性にとって無価値なんだ。花を見てのんびりして、ろくに働いてくれない、となっては困るんだな」
静電気のようなごく微弱な電気で、僕のような成人にも、ドアノブに対する条件反射が形成されるんだから、赤ん坊に本や花への嫌悪を植え付けることは簡単にできるだろう。結局人間の価値観とか好き嫌いというのは、条件反射の積み重ねのことなんだな。
逆に、本への選好を植え付けることも可能だろう。本を読むことが好きになった子は、周りに言われずとも、勝手に学び続ける。そうして磨かれる知性は、しかし、上級カーストにとって厄介極まる代物に違いない。
『すばらしい新世界』というタイトルは、もちろん皮肉である。作者がこの本の中で描いているのは、人間が人間性を奪われたディストピアだ。
とにかく、考えない人間を作ること。仕事をさせて富を収奪し、余暇は3S(セックス、スポーツ、スクリーン(映画))に耽らせて、余計なことは考えさせない。病気になれば病院に行って、黙って医者の言うことを聞いていればいい。妙なことは考えるな。人心を惑わす情報を発信しているウェブサイトはしっかり取り締まれ。
あれ?
フィクションのはずの『すばらしい新世界』が、最近着々と実現しつつあるような、、、
2019.11.29
“世界最年少”9歳で大学卒業! 天才児の野望…将来は「人工臓器の開発を目指す」
https://www.zakzak.co.jp/soc/news/191125/dom1911250001-n1.html
日本には飛び級がないから、こんな少年は現れようがない。
この少年のようにIQが高いとか、写真記憶ができるとか、天賦の才を持っている人は日本にもいるはずなんだよね。
なぜ、日本にはこういう天才を拾い上げるシステムがないのか?
実はかつて大日本帝国下の日本には、天才だけが入学を許されるエリート育成機関が存在した。その名は、特別科学学級。
すでに敗戦の雰囲気が漂う1944年、「科学に関し高度の天分を有する学徒に対し特別なる科学教育を施し我国科学技術の飛躍的向上を図らん」として、東京、広島、金沢、京都に設置された。
全国の児童を対象に知能検査を行い、高IQの児童を選別し、次に学力テストを行って、成績の優秀な者だけが入学を許された。1945年1月から授業が開始された。
授業内容がふるっている。
当時「敵性語」だった英語の授業が、英語で行われていた。今となっては珍しくも何ともないが、70年以上前にはあり得ない斬新なスタイルだった。
理科系科目(数学、物理、化学)の力の入れようがすさまじく、今で言う中学1年時で関数・対数、中学3年時には微分方程式までマスターさせる。それも当時帝国大学の一流の教授陣が直々に子供たちの指導にあたった。物理の授業では湯川秀樹が教壇に立つこともあった。
理系のスーパーエリートを育てることに主眼があったが、文系科目もおろそかにしない。漢籍、歴史、国語の授業もあった。当時禁書とされた津田左右吉の『古事記及び日本書紀の新研究』を教材に使うなど、軍国主義イデオロギーにとらわれない教育が行われていた。
敗戦後、日本はGHQの支配下に置かれた。GHQの目的は、日本を骨抜きにすることである。政治、経済、教育など、あらゆるシステムに介入し、二度とアメリカに楯突かないようにする改革が行われた。そんななかで、日本の未来のエリートを生み出すことが目的の特別科学学級の存在が許されるわけもない。1947年3月に廃止となった。
特別科学学級の存続期間はわずか2年2ヶ月である。しかしこの学校の卒業生が、結果的に敗戦後の高度経済成長を牽引する人材として、理工系をはじめ各界で活躍することになった。
「炎上を怖がっちゃいけない。電源を抜いたら消えてしまう世界です」――筒井康隆85歳が語る「表現の自由」
https://news.yahoo.co.jp/feature/1508
知能検査でIQ187を叩き出した大阪の天才少年筒井康隆は、特別科学学級への入学を許されそこで学んだものの、理系の道には進まず、作家となった。
同様に伊丹十三も特別科学学級出身ではあるが、映画監督になった。
理系のスーパーエリート養成機関の出身者が、作家や映画監督という、どちらかというと文系畑で才能を開花させているのがおもしろい。
しかし考えてみれば、小説も映画も、芸術や感性の世界のようでいて、実はバリバリのロジックな世界だと言えなくもないな。作家は言葉というデジタルな記号で物語を展開し、映画監督はセリフと絵の順列組合せで物語を展開する。
ジミー大西とか絵を描かせたらすごい人でも、作家や映画監督はできないと思う^^;
やっぱりそういう意味で、小説も映画もロジックなんよね。
日本もいい加減、アメリカ様の顔色を伺うのをやめて、かつての特別科学学級を復活させたらどうだろう。これまでどれほど多くの天才が、民主的な教育に埋もれ潰されてきたことか。
天賦の才というのは、歴然と存在する。凡才を100万人育てても、1人の天才の輝きにはかなわない。理系学問(あるいは文系や映画もそうかもしれない)を切り開くのは、そういうズバ抜けた才能なんだ。
灘を出て医者になって小金持ちになって悠々自適、みたいな人生も、それはそれでいいのかもしれない。でも教育次第ではそういう人も、医者どころかノーベル賞級の偉大な科学者になれたかもしれない。将来を嘱望された天才少年も、適切な導きがなければ飛躍しない。
医者という仕事は、開花しなかったそういう才能の掃き溜めのようだ。単なる学校秀才のレベルにこじんまり収まって、医者に落ち着いている。それで、日々やっていることは製薬会社のパシリ。もったいない話だね。もっとすばらしい未来があり得たのに。
天才のための英才教育機関っていうのは、絶対あったほうがおもしろいと思うんだよなぁ。