ナカムラクリニック

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2019年11月15日

スウェーデン

2019.11.15

スウェーデンは美人が多いと国として有名で、首都ストックホルムが「世界で最も美女が多い町」として選ばれたこともある。
http://www.pravdareport.com/society/105452-beautiful_girls/
何を美しいと思うかなんて人それぞれだし、こういう調査の主催者はたいてい白人だから、自分の見慣れた美を選ぶものだ。白人が東洋人の美しさを真に理解しているとは思えない。せいぜい、白人美女にどれだけ近いか、でしか判断してないと思う。
たとえば、このスウェーデン女性をどう思いますか。

文句なしに美人だよ。美人だけど、、、
・白人の青い目って酷薄そうに見えて、何か怖い感じするんだな。
実家で猫を飼ってるけど、明るいところだと瞳孔が閉じてて、いつもの魅力が半減する。薄暗いところだと瞳孔が開いて黒い目がくりっとして、一層かわいくなる。
日本で育った慣れのせいかもしれないけど、個人的には目は黒いほうがいいかな。
・あまりにも整った目鼻立ちって、人工的な感じがして、どこかなじめない。
西洋風の絵画とか彫刻のなかの顔、って感じで、日常的に接する顔じゃないのね。
なじめない美しさって、何だか緊張してしまう。こんな美人が嫁やったら、おちおち横になって屁もこけへんのぉ( ´Д`)

でもこういう、顔のパーツがでかい美女は、女優やモデルとしては非常に重宝される。実際、映画で見ててもスクリーン映えするんだな。
スウェーデン出身の女優と聞いて、まず浮かぶのは、グレタ・ガルボ(1905〜1990)だ。

顔の整った白人のなかにあっても、これほどの美人はなかなかいない。幼少期から舞台に上がっていて、美貌だけでなく演技のうまさも兼ね備えていた。
映画の黎明期を支えた大女優と言っても過言ではないくらいの人だけど、なんと、35歳の若さで映画界から引退してしまった。
引退後も映画界から復帰のオファーやマスコミの取材依頼が絶えなかったがすべて退けて、長い余生を過ごした。
突然の引退の理由はいろいろ言われている。
女性にしては声が低くて、無声映画では問題にならなかったけどトーキーには向いていなかった、という話もあれば、同性愛者であることに生きづらさを感じていたのではないかという説もある。どちらも事実のようだ。
現代日本に生きていれば、宝塚スターになれる器だろうね^^;

この人のエピソードで僕が一番好きなのは、ドナルド・キーンがこの人に会ったときの話。
キーンがニューヨークの友人宅を訪れたとき、たまたまガルボと会った。
引退してすでに数十年が経ち、すでに老いが否みがたく彼女の顔を侵食していた。しかし往年の大女優である。人に面会するときは、メイクすることを忘れなかった。
しかし、キーンは繊細な人である。ガルボの顔を見て、口紅が唇をはみ出していることに気付いた。
キーンはある噂を聞いたことがあった。「ガルボの家には鏡がない」という噂である。
ああ、そういうことか。キーンはすべてを理解した。
老いていく自分の顔を見ることが厭わしく、ガルボは鏡を遠ざけた。しかし、人と会うからには、化粧をしなければならない。そこで、鏡を見ないで紅を引くことになる。
キーンがガルボの唇に見たのは、老いへの嫌悪と女優としてのプライドの葛藤そのものだった。

老いは万人に等しく訪れる。そして、その先にある死も。
老いや死をどう受け入れるのか。そこにはその人の生き方がはっきり現れる。
老いは誰にとっても厭わしいものだけど、若い頃に美しかった人は特にそうかもしれない。
グレタ・ガルボは「もう美しくない自分」というのを、どうしても受け入れられなかった。強烈な自負やプライドというのは、ある意味十字架なんだ。この人の余生は、その重みに苦しむ日々だった。かわいそうに。しんどい人生だっただろう。
逆に、若い頃はパッとしない感じでも、年齢がその人に追いついてくるというのか、中高年になって魅力を増す人も確かにいる。
結局一番幸せなのは、時の流れに変に抗わず、恬淡とした自然体を保てる人なんだろうね。

2019.11.15

小学校のときからずっと「字が汚い」とか「ノートが雑」って言われ続けてきた。家族からも、先生からも。
授業を休んだ後日、隣りの席の女子からノートを見せてもらうと、すごくきれいなので驚いたことがある。でも成績は僕のほうがいいっていう^^
字はあくまで情報伝達の手段であって目的じゃない。きれいなノートを作ったものの全然復習しない、となっては意味がない。
ノートは汚くていい。汚すぎて自分でも読めない、となってはまずいけど^^;、内容が頭の中にまとまっているほうがはるかに大事で、こっちが本質でしょ。

もともと性格的に、外見よりも内容を重視するところがある。他人にもそうあるように求めるし、自分自身、そうあるように努めてさえいる。
たとえば化粧やおしゃれ。魅力を引き立てるものであるならば、一概に否定しない。しかしそれが、貧相な実体を取り繕い糊塗するものであるならば、嫌だな。
健康があふれて出て、結果、肌が美しい、となるべきだし、センスの発露ゆえそのファッションをしている、というのなら納得できる。
逆、「日頃の不摂生が正直に現れた肌を覆い隠すための化粧」とか、「こういう服を着ていたら、私、おしゃれに見えるでしょ」的な人が、ものすごく多い。

文も、どう書くかではなく、何を書くか、が当然重要だ。たとえば論述試験。ペン習字のテストじゃないんだ。きれいな字で内容空疎な文をどれだけ書いても、何も訴えられない。汚い字であっても、思考の密度が高い文章が高評価を受けるに決まっている。

そう、基本的にはそう思ってるんだけど、自分のなかで「字汚いのに勉強できる」というのがいつの頃からか、妙なプライドみたいになってて、清書で書くべき文書なんかでもきれいに書かない(書けない?)のに開き直ってる節がある。こういうふうになると行き過ぎかとも思う。
たとえば何かの学会に参加したとき、受付で「ご芳名」を書くように求められる。そういうとき、いい年して稚拙な字しか書けないって、やっぱり恥ずかしいんだ。せめて自分の名前ぐらいはちゃんと書けたほうがいい。

たとえば、何年か前にネットでこんな画像を見た。

安倍総理の字と、中国の習近平の字を比べて「漢字文化の真の継承者は日本だ」という記事。
安倍総理は毛筆で、習近平はマジック(しかも簡体字)だから、習近平に分が悪いとは思うけど、ネットで「乙女フォントみたい」ってディスられてて気の毒^^
身分のある人はそれ相応の字が書けないと恥をかく、ということだな。


未曾有を「みぞうゆう」、踏襲を「ふしゅう」と読んだり、聞いててこっちが恥ずかしくなる読み間違いをよくする麻生氏だけど、字は達筆。
日本の政治家は、教養として習字をたしなむ人が多いのだろうか。政治は全然ダメだった鳩山由紀夫氏もきれいな字を書く。

政治家の字がきれいだと、「さすが表面を飾るのがうまいな。美辞麗句、耳に心地のよい言葉で国民をだますプロだけあるよ」みたいな邪推をする人も出てくるだろう。
それでも、そういう邪推をされるとしても、立場に相応の美しい字を書くことは必要だと思う。
そう思うようになったきっかけは、最近僕の翻訳した本が出版されたことだ。
予想もしてなかったんだけど、「献本として、本に先生のサインをもらえませんか」と言われる機会がちらほらあって、これには参った。
もちろん、うれしい。そう言ってもらえるのは光栄なことだ。
でも芸能人じゃないんだから、いわゆるサインなんてもちろんない。普通に名前を書くしかないんだけど、その字がちゃんと「普通」に見えるかどうか。ある意味、汚すぎてサインに見えたりして^^;
求められれば応じますが、あまり求めないでくださいねm(._.)m

あと、以前のブログに『オーソモレキュラー医学入門』が欲しい方に向けてメールを受け付けるアドレスを書きましたが、そこに医学的な質問をされる方が散見されます。個別の質問には答えかねますので、ご遠慮くださいm(._.)m