2019.9.22
電話で起こされた。
「施設職員から連絡で、利用者で息が止まっている人がいる、とのことです」
起き上がって時計を見ると、深夜3時。
死亡確認の依頼だからそれほど急ぐこともないのだが、すぐ身支度を始める。
看護師からカルテを受け取って、タクシーに乗り込んだ。
行き先の介護施設の名前を告げた。タクシーが動きだす。
座席に深く腰をかけ、大きなため息をついた。
眠気のモヤが、まぶたのあたりを覆っているようだ。
タクシーのなかではラジオの落語番組が流れていた。
演目はすぐにわかった。桂米朝の『天狗裁き』。昔同じ音源のCDを持っていて、何度も聞いたことがある。
でも、笑う気になれない。
頬を動かしてニヤリとする気にさえなれなかった。
眠気と、眠りを中断された不愉快と、笑わせようとする米朝と、誰かの死亡確認に向かう自分と。
深夜の都会を走るタクシーのなかで、自分という人間が、急にわからなくなる錯覚に陥った。「一体俺は、今どこにいて、どこに向かっているんだろう」
ものの数分で施設に到着した。
死亡確認にかかる時間は、それよりもっと短かった。
90代女性。いつものように眠りについた。深夜巡回していた職員が、呼吸が止まっていることに気付いた。
老衰。何の苦しみもなく、眠るように、あるいは眠りとともに、息を引き取った。
「3時27分。死亡を確認しました」厳かに宣言して、ご遺体に神妙に頭を下げた。
待たせていたタクシーに戻ると、まだ落語が続いていた。
話はいよいよ終盤、サゲに向けて、米朝が鞍馬の天狗を演じているところだった。
「女房が聞きたがり、隣家の男が聞きたがり、家主が聞きたがり、奉行さえ聞きたがったという、おぬしの夢の話。
そんなもの、この天狗にとっては、つまらぬ話よ。聞きとうもない。
聞きとうもないが、しかし、、、
そのほうがどうしてもしゃべりたい、というのなら、聞いてやらぬでもないぞ」
「いや、もう堪忍しとくなはれ!ワシ、ほんまに夢なんか見てやしまへん」
「天狗をあなどる気か!八つ裂きにしてくれる!」
「あー!助けてー!」
ふと、妻の呼ぶ声がする。「ねぇ、ちょっと、あんた。ねぇ、あんた、えらいうなされて。どんな夢みてたん?」
そう、人生は確かに、夢のようだ。
現実のなかで、夢のように現実感のない経験をすることもあれば、夢のなかで妙に現実感のある経験をすることもある。
現実と夢は、その境目に立って、対比を感じることでしか、違いを認識できないようだ。
しかし、夢か現実、その二択なのかな。
深夜眠気がくすぶる頭で、すでにこの世にいない米朝の落語を聞き、誰かの死亡を確認する、そういう自分が妙にシュールで、この経験自体、何かの夢なんじゃないかという気さえする。夢か現実か、ではなく、その中間にただよっていたような。
現実はそれほどソリッドでもなく、かつ、案外、夢もそんなにフワフワしてないような気がする。
『境界性人格障害患者では、夢と現実を混同しがちである』
https://www.frontiersin.org/articles/10.3389/fpsyg.2015.01393/full
なんていう論文もあるが、夢と現実の混同は誰しも起こし得るものに違いない。
個人的には、夢と現実の境目に立つような不思議な感覚は、嫌いじゃない。
ただ、悪夢だけはごめんこうむりたい。
この世界には、医療が人助けどころか、むしろ人殺しになっているという、悪夢のような現実がある。起きても覚めない嫌な夢も、『天狗裁き』のように笑えるのならいいんだけど、現実の悪夢は笑えない。
僕はそういう医療に自分なりに抵抗しているんだけど、きちんと戦えているだろうか。ときどき、夢のなかでもがいているような、息苦しい無力感にとらわれるときがある。
そういうときには、落語でも聞いて、せめて笑いに紛らわせないと、やってられないんだな。
2019.9.20
ユーチューブで、「天皇とかいう国営宗教は廃止すべき」という動画を見た。
ざっと要約すると、
「テレビや新聞などのマスメディアで『様』という敬称をつけて報道される天皇(あるいは皇室)という存在があることは、異常だ。
創価学会の池田大作をニュースで『池田様』と呼べば、誰でも異常だと感じるだろう。しかしメディアにすっかり洗脳されている我々は、天皇についてそれを異常に思うことはない。
創価学会にお布施をする人は同意のもとでやっているが、皇室には毎年200億円の予算が計上されている。
これは、天皇教とでもいうべき、国民全員参加型の国営宗教に他ならないのではないか。
そもそも、天皇はそんなにすごい人なのか?我々が伏して拝むべき偉大な存在なのか?
違う。そこらへんにいる普通のおじいちゃんだ。
我々は、天皇の行いや人間性に敬意を払っているわけではなく、単に天皇という称号にひれ伏しているだけだ。
スティーブ・ジョブズは偉大だ。彼がいなければ、マウス式のウィンドウズやタッチパネルのiPhoneも生まれなかった。しかしNHKで「ジョブズ様」と報道されるか。されるわけがない。特定の個人を『様』付けで呼称する異常さを、みんな認識しているからだ」
このあたりまでが前半。
割とよくある天皇批判で、特に新味はない。
どうでもいいことだけど、マウスの発明者はエンゲルバートで、タッチパネルの発明者は日本人。別にジョブズが作ったわけではない。ただ、ジョブズがいなければウィンドウズやiPhone が生まれなかったという指摘は、その通りだろうな。
後半の主張は、ちょっと新しいと思った。
「天皇制の本当の問題は、皇族という一部の人が不当な好待遇を受けている、ということではない。むしろ、その逆だ。
皇族の人にとって、人権はまるでないがしろにされている。
皇族に生まれれば、生まれてすぐに、マスコミから好奇の視線にさらされる。その行動や言動の一挙手一投足が報道され、プライバシーなんてあったものじゃない。
学校に入れば、高い確率でいじめられる。
普通の人のように、『夢』を語ることさえできない。『天皇になりたい』なんてこと、言えない。そもそも、皇族に主体性はいらない。国民の象徴なのだから、今後のあり方は政府の審議によって決められる。
たとえば、なりたい職業につくために頑張って努力する。そういう努力の場さえ、皇族には与えられていない。
伝統だから我慢しろ、っていうの?
伝統だから、国民の象徴だから、人権がなくても仕方ないじゃないか、って?
人権というのは、そういうものじゃないでしょう。生まれた瞬間から、万人に等しく与えられている。それが人権でしょ。
そのはずなのに、皇族という一部の人たちにだけは、人権が剥奪されている。
21世紀の現代にこんな野蛮が堂々と行われている状況が、一体看過されていいのか」
皇族の人権、という視点はおもしろいと思った。
一昔前の日本人なら、誰しも身分相応という美徳を持っていた。百姓の家に生まれたら自分も百姓で、百姓なりの生活をやっていく。大工に生まれたら大工だし、商人に生まれたら商人。みんな自分の分相応をわきまえていた。でも不幸かというと別にそうでもなくて、それなりに楽しく人生をやっていた。
それが、西洋の価値観が入ってきて、人権なんてものを与えられた。全員皆平等で、職業選択の自由なんてのも与えられた。
封建制の時代に生きていた人を、抑圧のもとで苦しむかわいそうな人だとすれば、西洋の価値観が浸透することは、「解放」ということになるだろう。
個々人に人権があって、世襲とかに縛られず、自分の好きなように生きていける、という価値観は、庶民だけのものではなくて、皇族にも等しく共有されるべきだ。
だから本来、皇族も「解放」されるべきなんだ。たとえば愛子様や悠仁様が、コンビニバイトしたりする自由も認められるべきなんだけど、そんなこと、絶対に許されない。
子供時代って、誰しも未熟なものだ。でも、未熟なりに世間に揉まれて、だんだん人間ができてくる。同級生とケンカしたり、誰かに恋したり失恋したり、勉強で優越感や劣等感を感じたり。心の中で嵐が吹き荒れるような少年時代、青年時代をくぐり抜けて、みんな大人になっていく。
そのはずなんだけど、皇族だけは、その様子を始終監視されている。マスコミが、SPが、その他多くの人々の好奇の視線が、皇族を見つめている。
もっとバカなことを言ったりやったりしたいだろうに、許されない。
未熟であるべき子供時代に、落ち着いた完成形を求められる。たまらんやろうな。
こんな気の毒なことってない。
この動画を作った人は、天皇という国営宗教は廃止すべき、と言っている。
個人的には、賛成しない。
動画前半の、「国民の税金でぜいたくな生活してる」とか「普通のおっさんのくせに、天皇っていう称号だけでチヤホヤされてる」とか、主張としては幼いな。
ただ、動画後半、皇族の人権というテーマは、とても重いと思う。
明治以降、天皇が東京に移って以降、庶民の天皇のイメージは大きく変わった。
政治が天皇の権威を利用して、現人神として変に奉ってしまった、という歴史的な事情もあるだろう。
もう一つ、東京と京都、土地柄の違いもあるんじゃないかな。
平成天皇が新幹線で京都駅に到着したとき、周囲の人だかりのなかから、「天皇さん、お帰り!」という声があがったという。
こんなエピソードは、東京では考えられない。
東京の人は、まず、陛下相手に呼びかけないし、ましてや「天皇さん」なんて、そんな呼びかけはあり得ない。頭の固い人は、「不敬だ!」なんて言いそうだ。
現在の皇居はもともと江戸城で、いわば要塞だった。一方、かつて天皇の住んでいた京都御所は、壁も低くて、庶民との距離感は近い。
敬して遠ざけるような冷たさがある東京と違って、さすが千年天皇のお膝元だった古都だけに、天皇、庶民、双方に近しさがあるようだ。
天皇が東京に移らずにずっと京都にいたなら、皇族を『様』付けで呼ぶような今の妙な習慣は生まれず、もっと庶民に親しみのある存在だったんじゃないかな。
https://m.youtube.com/watch?v=I7N4Asu5jzQ&ebc=ANyPxKqfY8C3Fj_0XrdxnjYRbqe1FchMfTT68WUCQYN5bBEuO0cqbKVJlGDg-Bsuz0bECTewZHI4BcTmIhkCGgMan1cHQQ8M0Q
2019.9.20
何らかの体調不良があって、その原因がビタミンやミネラルの不足であった場合、サプリメントがよく効く。
たとえば、飽食の時代とされる現代日本にも”隠れ脚気”や”隠れ壊血病”の人がいるもので、前者にビタミンB1を、後者にビタミンCを投与すれば、劇的に改善する。
患者は快癒を喜び、医者に大いに感謝する。
「ちゃんと食事をしているつもりだったが、意外に栄養不良があるものなんだな」と患者は認識を改める。
ここまではいい。
しかし、さらなる健康を求めて、サプリ信者になる人がいる。
風邪のときに薬を飲んで症状が治まって(実際には風邪は薬で治らないが)、「これはすばらしい薬だ」と感動して、それ以後毎日風邪薬を飲み続ける、なんて人はいない。
しかしサプリでは、そういうことがしばしば起こり得る。
ビタミンやミネラルの欠乏症状に対しては、サプリメントを使えばいい。ここに異議を唱える人はいないと思う。
しかし短期的に著効するサプリを、長期的に服用しても、何ら問題はないのだろうか。
長期的に飲み続けても、やはり体にいいのか。それとも、何らかのデメリットがあるのか。
実はこの点については、議論がある。
僕はホッファーの本を読んで栄養療法に目覚めた。
ホッファーの本に、このような記述がある。
「患者が言う。『先生のおかげで病気が治りました。しかし先生、私はいつまでサプリを飲み続けないといけませんか』
このような質問に対して、私はいつもこのように答えることにしている。『あなたが快適でいたい限り、ずっとです』と」
ホッファーは、ポーリングとともに栄養療法を創始した立役者の一人だ。
対症療法一辺倒の既存の医学界にとって、栄養療法の出現は脅威だった。製薬会社にとっては特許のとれないビタミンは、一円の得にもならない。それどころか、ビタミンなんぞで患者の病気が治ってしまっては、薬が売れなくなってしまう。
そこで製薬業界は栄養療法を潰すために、ありとあらゆることをやった。ネガディブキャンペーンもやれば、御用学者にビタミンの有害性を喧伝する捏造論文を書かせたりした。ロビー活動をして政治家に働きかけ、サプリを『薬』として扱うよう(つまり、一般の人が簡単に買えないよう)法律を改正しようとさえした。
ホッファーは、そういう弾圧と実際に戦ってきた人なんだ。サプリの効用(大量長期服用も含め)を全面的に擁護するのは当然だろう。
その心情は理解できる。
しかし、様々な研究が行われ、新しい知見が蓄積して進歩していくのが科学の世界だ。ときには従来の常識が覆るパラダイムシフトが起こることもある。栄養療法もその例外ではない。
「ある種のサプリメントの長期的服用は、むしろ健康にマイナスではないか」という研究がいくつかある。
こういう研究に対して、どこから研究資金が出ているのか、とひとまず疑う姿勢は重要だが、「製薬会社のネガディブキャンペーンに違いない」と決めつけるのも、公平な態度ではないと思う。
僕の臨床経験でも、「その体調不良はおそらくサプリメントの大量服用によるものではないか」と思われる症例を見たことがある。
この患者は知的レベルの高い人で、漫然とサプリを飲んでいるわけではなかった。「このサプリはこの論文で有効性が示されているから」と、自分できちんと考え納得した上で飲んでいるような人だった。
ただ、飲んでるサプリの種類と量がものすごく多かった。
飲んでいるサプリの一覧を見た。確かに、どのサプリも悪くない。一つ一つを見れば、各々の症状にきっと効くはずだ、と思う。しかしこれを全部飲むとなると、ちょっと、、、
どう助言したものかと、言葉に詰まってしまった。一つ一つは、全部合っている。でも全体としては、間違っている。
還元主義の罠だ。局所の事実の総和が、全体の真実とは限らない。
https://www.consumerreports.org/cro/2014/05/do-vitamin-supplements-work/index.htm
ここにあげられている例として、以下のようなものがある。
・50歳以上の男性において、ビタミンE、セレンの長期服用は前立腺癌の発症リスクを増加させる。
・マルチビタミンのサプリを長期に服用しても、癌や心血管系疾患の予防効果はなかった。また、加齢に伴う精神機能の低下を予防する作用もなかった。
・オメガ3系脂肪酸のサプリを長期に摂取しても、心血管系疾患(心筋梗塞、脳卒中など)の抑制にはならなかった。
「効果がない」だけならまだしも、逆に癌のリスクが上がるとか、本当ならショックだな。
僕のほうにも「抗酸化物質だから、体に悪いはずがない」という思い込みがあるから、ビタミンEにしてもセレンにしても、遠慮なく飲み続けていいよと患者に勧めてしまいそうだ。
こういう研究を見てしまうと、長期的な健康の維持にはやっぱり食品が無難だなと思う。
もっというと、短期的にすぐ改善させたい場合でも、食品で改善させるのが本来あるべき形なんだろうな。
食養生という言葉があるように、B1欠乏ならぬかとか胚芽を食べればいいし、C不足なら柑橘類を食べればいい。
食事の一工夫で改善するところ、サプリの服用を勧めるというのは、一見近道のようでいて遠回りなのかもしれない。
2019.9.14
かつてアメリカにドクター・セイビー(本名Alfredo Bowman 1933~2016)という人がいた。
「ドクター」という呼称ではあるが、正式な医学教育を受けたわけではない。
ハーブの効用などを独自に研究して自らの治療哲学を打ち立て、多くの患者を病気から救った。
たとえば癌や膠原病、エイズなど、現代医学では治癒が困難とされる難病さえ治したという。
地元の人に細々と健康アドバイスをしていた彼だが、実際に治癒した患者やその家族から口コミで評判が広まった。
1980年代にはニューヨークで「知る人ぞ知る」といった存在になった。
彼の治療哲学を簡単にまとめると、以下のようになる。
・すべての病気は、粘液(mucus)より生じる。
たとえば粘液が蓄積したのが肺であれば肺炎に、膵臓に蓄積すれば糖尿病になる、といった具合。
・体内をアルカリに保つことができれば粘液は生じず、従って病気にならない。
つまり、病気は体が酸性に傾くことによって生じるのであって、アルカリ環境下では存在し得ない。
この二点がドクター・セイビーの基本テーマである。
現代の病気の多くは、食のゆがみから生じる。
動物性食品や人工的に精製した植物、加工食品などが体を酸性にし、粘液の蓄積を促し、体を病気にする。
病気の治療や予防のための食事として、ドクター・セイビーは次のような食事指針を示している。
1.以下の表に記載された食物をのみ食べること。
2.毎日1ガロン(3.8リットル)の水を飲むこと。
3.薬を飲む人は服用1時間前に「ドクター・セイビーのサプリメント」を飲むこと。
4.動物性食品は摂らないこと。
5.アルコールは禁止。
6.小麦の摂取は避け、表に記載された「自然に育った穀物」のみを食べること。
7.電子レンジは食品を「殺す」ため、使用を避けること。
8.缶詰および種無し果物を避けること。

一般的な医者がこの食事指針を見れば、特に2.と3.に対して、相当な拒否反応を示すはずだ。
西洋医学を実践する医者からだけでなく、栄養療法を実践する医者からさえ、批判の声が出てきそうだ。
「水を1日4リットル近くも飲めだって?あきらかに飲みすぎだ」「東洋医学的に言っても、過剰な水の摂取は水毒となって体を冷やす」
「動物性食品がダメってさ、ただのビーガンじゃないの」「肉や魚などが含む動物性タンパク質やビタミンの効用を軽視している」
3.に対しても、「自社製のサプリを売り込もうってのか。なかなかの商売人だね」
いろいろな批判があるだろう。
実際、ドクター・セイビーの理論の正しさを科学的に検証した研究は存在しない。
しかし理屈はともかく、彼の食事指針を守ることで、エイズ、鎌状赤血球貧血、白血病、SLEなどの多くの難病患者が病気から回復し、健康を取り戻してきたことも事実だ。
「表に記載の食品のみを食べ、かつ、私の配合したサプリメントを摂取することだ。これによって、体内をアルカリに保って粘液を減らし、結果、病気を治すことができる」
実際に治療実績のある人の言葉だけに、傾聴する意味はあると思う。
そう、ドクター・セイビーは多くの患者を救ってきた。
しかし妙な話だけど、「結果を出している医療だけに、その存在が許せない」という一部勢力がいる。
1987年ニューヨーク州医学委員会は、彼を「医師免許なしに医療行為を行った」として訴えた。
これに対して立ち上がったのは、彼によって救われた患者たちである。
「ドクター・セイビーは医療を実践しているのではない。我々に精神的助言を与え、食事法を示唆しているだけだ」
結果、検察は彼を有罪にすることができず、無罪放免となった。しかし何としても彼を陥れたい一部勢力は、あきらめない。
今度はニューヨーク弁護士会が彼を「消費者に対する詐欺罪」で訴えた。
原告の訴えが通り、サプリの販売に際して、治療効果を記載することが禁止された。
こうした裁判が起これば、「インチキ療法を実践するニセ医者が訴えられた」と新聞が大々的に取り上げる。
一部勢力に牛耳られたマスコミは、彼が無罪放免になったことは報道しない。
ドクター・セイビーにとっては大きなイメージダウンになったが、それでも、「本物」であるだけに、患者の好意的な口コミは止めようがない。
評判が評判を呼び、ついには、リサ・ロペス、スティーブン・セガール、ジョン・トラボルタ、エディー・マーフィー、マイケル・ジャクソンなど、多くの著名人が彼のもとを訪れて助言を求めるまでになった。
「こんな危ない男を、もはや放ってはおけない」一部勢力の危機感はピークに達した。
2016年彼はマネーロンダリングの罪で逮捕され、刑務所で拘留中に死亡した。
多くの人が彼の死に疑問を持った。
「彼の実践する医療が広まることを、不都合に感じる人たちがいる。そういう一部勢力にはめられ、殺されたに違いない」
しかしただの憶測だ。何も証拠はない。
彼の死から三年が経った。彼を慕う声はいまだに絶えない。
「ドクター・セイビーの功績を、広く世界に、そして後世に、知らしめるべきだ」という有志が集まって、彼のドキュメンタリー映画を作ろうという動きが進んでいた。
グラミー賞にノミネートされたこともあるラッパー、ニプシー・ハッスル(Nipsey Hussle)もその一人だ。
彼はドクター・セイビーの健康法の実践者であり、ドクター・セイビーの死は他殺だと確信していた。
彼の曲にこんなライムがある。”They killed Dr.Sebi. He was teaching health.”
ドキュメンタリー映画の作成にも積極的に協力していて、映画でナレーターを担当する予定だった。
一部勢力にとってよほど目障りだったのか、2019年4月銃殺された。
見せしめとしての効果は十分だった。映画化の動きは頓挫した。
しかし、、ほんまに殺してまうんやから怖いなぁ( ゚Д゚)
さて、個人的には、陰謀論に興味はない。
「こういう説もあるよ」ということで紹介したまでだ。
ただ、医療者として、ドクター・セイビーが実践してきた医療には興味がある。
僕の患者にも有効な治療法があるのなら、ぜひ取り入れたい。
「Dr.Sebi’s cell food」で検索すると、彼の意志を継ぐ人が運営するサプリ販売サイトが出てくる。
まず思ったのは、値段がけっこう高い、ということ。普及を願うなら、もうちょっと安くしたほうがいいんじゃないの?^^;
しかし、ものは試しで、サプリをいくつか買ってみた。
実際に自分で飲んでみたんだけど、、、
もともとが健康なせいか、たいして効果は感じなかった。
ただ、ドクター・セイビーが誠実だなと思うのは、サプリに配合しているハーブを、企業機密にせずに、ぜんぶオープンにしているところ。
どのハーブがどういう症状に有効か、著書で解説してて、その本も買ったけど、なかなか勉強になる。
一番賢いのは、自分の症状によさそうなハーブを、Dr.Sebi’s cell foodのサイトから買うのではなく(やたらに高額)、iHerbとかの別のサイトで買うことじゃないかな。
2019.9.13
須磨学、といえば40歳以上の世代にとっては、女子校で、かつ、勉強にそんなに力を入れてない学校、というイメージだろう。少なくとも僕はそうだった。
20年前は定員割れの「誰でも入れる学校」だった。
生徒は無気力で、ただ「親に高校に行けと言われてるから、通っている」といった様子だった。
卒業生は出身校を名乗ることを恥じた。「勉強のできない子が行くところだな」と神戸に住む人ならすぐわかったし、生徒自身、その通りだと思っていた。母校に誇りなんて、持ちようがなかった。
「ここは勉強を頑張ろうと思っている子が来る学校じゃない。そういう子は、もっと優秀な学校に行く」と思っていたのは生徒ばかりではなく、教師の側も同じだった。生徒の無気力が教師にも伝染し、そういう無気力が長年続いた結果、センター試験の問題さえ解けない教師もいた。
「このままではいけない」と立ち上がった人がいた。須磨学園の理事長である。
共学化し、中高一貫校にするなど、次々と教育改革に取り組んだ。教育の質を高めるため、教師の意識改革も行なった。
徐々に、かつ、着実に、その成果が出始めた。
改革から20年が経った今年度、東大に4人、京大に24人、医学科に56人を送り込んだ。
昔のことを思うと信じられないほどの進学実績で、教育改革は大成功したと言えるだろう。
その須磨学園が行っている取り組みのひとつに、制携帯(制スマホ)がある。
制服が学校から支給されるように、スマホを学校から支給するという、全国でも珍しい取り組みだ。
林修先生が何かの番組で言っていた。
「いつの時代にも、できる生徒、できない生徒がいたものだが、ネット以前と以後で、あるいはスマホ以前と以後で、中高生の学力はどのように変化したか。
上位層はますます伸びている。逆に、下位層は相変わらず下位のまま」
それはそうだろうなと思う。
ネット上にはよくできたサイトがたくさんあって、知識や情報が見事に整理されている。YouTubeにわかりやすい動画がアップされてて存分に自学自習できるし、わからないことがあれば掲示板に書き込んで質問すればいい。
できる生徒は、ネットという武器を上手に使いこなして、ますます伸びるだろう。
20年前のトップレベルの受験生と今のトップレベルの受験生、両者の学力を比べれば、前者は後者にかなわない。
それは前者が後者よりバカだ、ということではない。ネットの登場によって知識の整理が進んだことや、学習の方法や能率が洗練されたことによるものだ。
一方、できない生徒は、ネットがあろうがなかろうが大して関係ない。というか、ゲームにハマったり、よからぬサイトでよからぬことをしたり、ネットがもたらす負の側面をモロに受けてしまうのが、下位層の生徒なんじゃないかと思う。
だから、須磨学園が生徒に制スマホを支給することは、かなりの冒険に違いない。
スマホを勉強にうまく使えば、これほど心強い味方はない。しかし情報の泥沼に足を取られてしまう生徒にとっては、有害無益ということにもなりかねない。
制スマホの支給は、生徒の性善説を信じての判断ということだろう。
子供の頃、わからないことがあれば父に質問していた。父が答えに窮するような質問だと、「辞書ひき」とか「辞典調べり」って言われたものだ。
辞書や辞典を調べてもわからないことも多々あって、わからないことをずっと胸にしまっておく、なんていうことがあったものだ。しかし今や、そういうことはなくなった。
その場で検索すればいい。すぐに答えが出てくる。
知識のあり方が、根底から変わったと思う。
「映画でたまたま耳にした音楽が、すごくよかった。でも、曲名がわからない」
昔なら、それまで、だった。その曲名は、もう一生わからない。でも今は違う。その映画のタイトルで検索すれば、使われていた音楽もすぐわかるし、曲の動画もあるかもしれない。
「寿司屋の大将がウンチクをたれている。本当かな」
昔なら、大将の言うがままだった。でも今は違う。検索すれば、大将の言ってることが間違いだとわかる。いちいち指摘するのも野暮だから黙って聞いてるけどね。
「将棋のある局面の最善手。複雑で、どれだけ考えてもわからない」
昔なら、プロの答えこそが真理だった。でも今は違う。名人さえソフトの前に膝を屈した。局面の最善手を知るには、スマホのアプリでチェックすればいい。
スマホが、父も寿司屋の大将もプロ棋士も全部まとめて、ハリボテにしてしまったようだ。
こういう流れは今後もますます進むだろう。もはや知の権威は、人ではなくAIが握る時代なんだ。
何だかさびしくもあるな。
そう、スマホのおかげで情報伝達の能率は飛躍的に進歩した。でも僕ら、それで大満足かっていうと、そうじゃない。こういう状況は、何だかさびしいんだ。
「どれだけAIが進歩しても、ひとつ絶対になくならない仕事がある。それは、人に謝る仕事だ」という記事をどこかで読んだことがある。
これはすごくわかる気がする。AIに謝られたって、僕らの気持ちは晴れない。
人間の表情を精巧に真似たロボットが、人間心理を徹底的にプログラムされて最上級の謝罪の言葉を述べたとしても、僕らは「謝罪しているのがAIである」という理由だけで、絶対に納得できないだろう。「まぁええからとりあえず生身の人間呼んでこい。話はそれからだ」となるはずだ。
そう、人間って妙なもので、正確なネット情報が得られる環境にありながら、たとえデタラメであっても寿司屋の大将のウンチクに魅力を感じたりするんよねぇ。