ナカムラクリニック

阪神・JR元町駅から徒歩5分の内科クリニックです

2018年11月

勉強会1

2018.11.12

日本オーソモレキュラー医学会の勉強会に参加してきた。
朝5時に起きて新幹線で東京に行き、勉強会終了後、トンボ帰りに神戸へ。
学会やら講演会の類は東京開催が多いから、やっぱ東京に住めたら便利だよなぁ^^

内容は盛りだくさんで、有意義だった。

鉄の代謝についての講演。
たとえば感染などによって炎症が起こると、IL-6などのサイトカインが増え、それに呼応して肝臓でヘプシジンが増加し、フェロポルチンが減少する。
ヘプシジンは人間が感染から身を守るための防御システムで、体が鉄を吸収させないように働く。フェロポルチンは鉄を細胞内から外へ汲み出すタンパクだが、それが減少するのは、血中の鉄濃度を下げるためだ。
このあたり、どういう意味かわかりますか。

そもそも鉄というのは、人間にとって毒なんだ。
活性酸素を生み出すフリーラジカル源でもあるし、細菌を爆発的に繁殖させる材料でもある。鉄によって腎臓癌が起こることがラットで示されているが、人間にとっても同じで、鉄は発癌物質にもなり得る。
感染症のあるときに体内に鉄がたくさんあれば、侵入してきた病原体にとって増殖に都合がいい環境を与えてしまう。
人間の体はよくできたもので、そういう炎症下では、鉄の血中濃度を極力低くしようとする。腸管からの鉄吸収は当然落ちるし、細胞(マクロファージも含め)は鉄を血中に出さずに自身の内にとどめようとする。
こうやって、人体がせっかく血中の鉄を少なくしようと頑張っているのに、人間は小知恵が働くから、「血中フェリチン濃度が低い!貧血だ!」と、鉄を増やそうとする。
女性の鉄欠乏貧血など、鉄剤を使わざるを得ない状況もあるけど、そういう場合でも慎重に行うべきで、安易にキレート鉄などを使ってはいけない。フェリチンだけが上がって症状はむしろ増悪する、ということも珍しくない。
ヘプシジンを上げないよう、かつ、フェリチンを上げるには、鉄剤を毎日服用するのではなく、隔日服用するのがいい。
ADHDの子供では血中フェリチン濃度が低く、しかもその重症度はフェリチン濃度と逆相関にある。

講演後、この主張の根拠となる論文を探してみた。多分、これだと思う。
https://jamanetwork.com/journals/jamapediatrics/fullarticle/485884
ただ、その後に出た論文で、これと反対のことを言っているのがあるんだな。
https://journals.sagepub.com/doi/abs/10.1177/1087054711430712
ADHD群とコントロール群で、血中フェリチン濃度に有意差はなかったし、フェリチン濃度とIQやADHDの重症度にも有意な相関は見られなかった。
今日の講演者先生の主張と真逆の内容、、、( ´Д`)
どっちが本当なんだろうね。
ただ後者の論文は、締めくくりに「本研究によって血中フェリチンとADHDには相関がないことが分かった。しかし著者らは、ADHD患者の脳内で鉄欠乏が存在する可能性を否定しているわけではない」と言っている。
血中フェリチンが保たれていても、脳内で鉄の利用障害があるせいでADHDが起こっているのかもね、ということだろう。
内容的に矛盾する論文が両立している状態なんだけど、それでも、僕ら医者は、目の前に困っている患者が来たら、何らかの治療をしてあげないといけない。
こういうときに頼りたいのは、やはり、方法の有効性を主張してくれる論文だろう。「この方法は効きません」という主張はあえて見まいとする。
臨床家の気持ち的には、前者の論文のほうが真実なんだと信じて治療に向かうしかないんだよなぁ。

スーパーフードとその活用、という講演。
僕は最近、患者にアダプトゲンなどのハーブ由来のサプリを使うことが多くなっている。もちろんビタミンやミネラルも使うんだけど、ハーブのほうが食品に近いぶん、さらに使いやすいから。
「オーソモレキュラー栄養療法」という言葉に具体的な定義は多分、ないはず。
ビタミンCやナイアシンを使わずアシュワガンダやロディオラを使っているからといって、天国のホッファー先生、「お前は破門や!」とか言わないと思うんだけどな笑
モリンガとかスピルリナって、僕も一時期、スムージーに入れて飲んでたことがある。けっこう値段が張るからやめちゃったけど、飲んでるときの体調は確かによかった。
有効性のエビデンスレベルはそんなに高くないけど、なかなかバカにできないと思う。
レイシ、チャーガ、クコあたりは、実質的には漢方そのもので、それをスーパーフードという名前で装いを新たに売り出している印象だ。
広く知られていない食材をフィーチャーして健康産業が一儲けしようとしている底意が見え透いているけれど、これは悪いことじゃない。
基本的に病人相手ではなく健康な人が相手の商売で、「何々病に効く!」みたいなフレーズは薬事法に触れるから使えないんだけど、摂取した人の健康を高めてくれるのならすばらしいことだ。
製薬会社は病人相手にもっとえげつない商売してるからね。

ここで昼食休憩。
以下、午後の部に続く。

質問と回答

2018.11.8

ミオンパシー整体サロン『uroom』にお邪魔して、栄養療法について話をさせて頂いた。
スタッフの皆さんは熱心に聞いてくれて、いくつか質問を頂いた。
その場では答えに窮する質問もあって、「うーん、わかりません。また調べておきます」なんて紛らすしかなかった。
鋭い質問は、自分の不明な点をあぶり出してくれる。それに答えようとする努力が、自分を成長させてくれる。僕にとっては最高の宿題を頂いた格好だ。

「クライエントのなかに、毎晩かなりのお酒を飲まれる方がいます。もう少し酒量を控えられれば体調がもっと良くなりますよ、と助言するのですが、一向にお酒を減らそうとはされません。
ナイアシンがアルコール依存症に著効するとのことでしたが、ナイアシンアミドでも同様の効果が得られますか。当サロンにはナイアシンの取り扱いはなく、ナイアシンアミドのみ扱っていますので、その辺りを伺いたく思います」

アルコール依存症患者にはナイアシン、と決めてかかってる僕には、これは不意を突かれる質問だった。
ナイアシンとナイアシンアミドの違いとして最も大きいのは、ホットフラッシュの有無だ。ナイアシンによる紅潮を不快に思う人には、ナイアシンアミドを使う。
ときどきマニアックな人がいて「ホットフラッシュのあの体が火照る感覚が好きだ」という向きにとっては、ナイアシンアミドでは飽き足らない。「フラッシュしないと気持ち悪いです。フラッシュすると体の内側にこもった熱が発散される感じで、何だか気持ちいいんです。もっと強くフラッシュする方法はありませんか」という人さえいる。
こういう人には、胃が空っぽの状態でお湯で服用することを勧める。逆にフラッシュを出にくくするには、食直後に服用するといい。
他の違いとしては、コレステロール降下作用の有無だ。ナイアシンにはHDLを上げ、LDL、中性脂肪を下げる作用があって、これはスタチン製剤よりも遥かに有効だ。ナイアシンアミドにはこのような作用はない。
ナイアシンとナイアシンアミドの違いとして認識していたのはせいぜいこの二つの違いだったから、ナイアシンアミドにアルコールへの渇望を抑える作用があるのかどうかと聞かれれば、にわかには答えられない。
飲酒欲求の軽減にホットフラッシュが何らかの形で関係しているとすれば、ナイアシンアミドはアルコール依存症に効果がないかもしれない。
調べてみたところ、以下のような文献を見つけた。
https://www.tandfonline.com/doi/abs/10.3109/13590849009003140?journalCode=ijne19
内容をざっと説明すると、、、
依存症の解決法というのはとっくの昔から分かっている。1948年イタリアのオテネロという先生が『Minerve Medicine』誌に寄稿したのが最初の報告だ。でもイタリアのマイナー医学誌だから、広く知られることはなかった。
その後、あちこちで独自に「再発見」されることになるんだけど、ホッファーの仕事もそうした再発見の一つということになる。
さて、第一発見者の名誉を与えられるべきオテネロ先生のやり方は、ナイアシンアミド(1000mg)とチアミン(25mg)を1日2回静脈注射するというものだった。ナイアシンではなく、ナイアシンアミド。ここがポイントだね。
静脈投与であり、チアミンと併用してるんだけど、経口投与でも効かないということはないだろう。ナイアシンアミドでオッケーという裏がとれた形だ。
ちなみにオテネロ先生は特にアルコール依存症を治そう、というのではなくて、モルヒネにハマってしまった人も含め依存症そのものを治そうとしていて、その過程で発見されたやり方だから、他の依存症、たとえば糖質依存とかタバコ依存にも効くんじゃないかな、って僕は踏んでるんだけどね。

「牛乳はもちろん、チーズ、ヨーグルトも含め乳製品は体によくないから避けるべき、というのが先生の主張でしたね。
しかし、その主張の直後、舌の根も乾かぬうちに、プロテインを勧めていらっしゃる。これは矛盾ではないでしょうか。プロテインというのは牛乳の成分を煮詰めた、いわば牛乳の親玉みたいなものでしょう。牛乳の悪影響を列挙したあとに、プロテインの効用を羅列されても、混乱してしまいます。一体どちらを信じればいいのでしょうか」

これは実は内心、僕も思っていたことで、疑問に思われるのはもっともだと思う。
とはいえ、「いやぁ、鋭い!僕も同じことを思っていました!さすがですね!ワッハッハ」と質問者氏とハイタッチして笑いに紛らせる、なんてことはできない笑
牛乳の悪影響については以前院長ブログのどこかに書いたのでここでは繰り返さない。
プロテインの効用については、たとえば以下のような論文がある。
https://go.galegroup.com/ps/i.do?p=AONE&sw=w&u=googlescholar&v=2.1&it=r&id=GALE%7CA118891849&sid=classroomWidget&asid=ae259d73
要約部分をざっと訳すと、、
「牛乳由来のホエイプロテインには多くの効用がある。
ホエイにはラクトフェリン、ベータ-ラクトグロブリン、アルファ-ラクトアルブミン、グリコマクロペプチド、免疫グロブリンが含まれており、免疫を上げる効果がある。さらに、ホエイは抗酸化、降圧、抗腫瘍、抗高脂血症、抗ウィルス、抗菌、キレート作用がある。
ホエイがこうした効果を発揮する機序としては、細胞内でシステインがグルタチオンに変換されることが背景にあると考えられている。
癌、HIV、B型肝炎肝炎、心血管疾患、骨粗鬆症に対して、多くの臨床治験でもその有用性は実証済みである。
また、運動パフォーマンスを高める効果も示されている。」

牛乳の悪影響を列挙したあとに、こうしたプロテインの効用を挙げたものだから、質問者氏の混乱も当然のことだろう。
一応その場でお答えしたのは、「牛乳に含まれているタンパクとして、大まかにはカゼインプロテインとホエイプロテインがありますが、ホエイプロテインとして売られている製品はカゼインフリーだと思います。
牛乳アレルギーはカゼインに対するアレルギーであることが多いように、牛乳の悪影響の多くはカゼインに由来するものではないでしょうか。
プロテインに関しては、過剰摂取で腎臓や骨に負荷をかけるという面はあると思いますが、適量摂取であれば問題ないと考えます」
という具合にお答えしたんだけど、手探りで答えているような雰囲気がありありと出ていて、何とも煮え切らない感じになった。
このやりとりを見て、他のスタッフの人から「カゼインフリーと堂々とうたっている製品でも、私は飲めません。乳糖不耐症のせいかもしれません」との声があがった。
難しいね。合う合わないの個人差もあるだろうし。ある食品がいいか悪いかを一般論として語るのは、本来無理なことなのかもしれない。
それに、ここには僕みたいな論文バカが陥りがちな落とし穴があると思う。
実は論文というのは、互いに矛盾する成果を主張しているものも決して少なくない。
タバコの害を説く論文は山ほどあるだろうが、タバコの効用を主張する論文だって存在する。糖質の効用と害、脂質の重要性と悪影響など、矛盾する内容の論文は数え切れない。
どちらが正しく、どちらが間違っているのか。なかなか二分法では割り切れない。どちらの論文にもそれ相応の真実が含まれているのだろう。
大事なのは、論文はあくまでそのときその状況でのfactを提示したものに過ぎないのであって、決してtruthではないし、ある場合には一抹の誤謬さえ含まれている可能性がある、ということを認識しておくことだろう。

「トランス脂肪酸の悪影響について言及されていましたが、本当でしょうか。牛肉や羊肉にもトランス脂肪酸が含まれているという話を聞いたことがあります。牛や羊などの反芻動物は、腸内細菌の働きによって不飽和脂肪酸からトランス脂肪酸が形成されるとのことです。その点、いかがでしょうか」

これについては僕の不勉強で、正直まったく知らなかった。調べてみると、確かに、質問者氏の指摘と同様の記述が見つかった。
天然由来のトランス脂肪酸と化学的に合成されたトランス脂肪酸を区別する方法は存在しないという。
ただ、論文にあたってみると、トランス脂肪酸の有害性を説く論文は皆、「化学的に合成されたトランス脂肪酸は」という枕詞がつく。天然に微量に含まれているトランス脂肪酸については特に心配する必要はないよ、というニュアンスが言外に含まれているという理解でいいと思います。

生まれ変わり

2018.11.2

チベットでは、人間が生まれ変わるのは当然のことだと考えられている。
チベット仏教の最高指導者「ダライ・ラマ」が死去したときには、その魂は再びこの世に戻ってくるとされているから、死去から四十九日以内に生まれた人のなかから後継ぎを探す。
ダライ・ラマの地位は世襲じゃないし、選挙で選ぶのでもない。新たに今生に生まれ変わってきた者が、最高指導者に指名される。
すごい話だ。
チベット人のみんなが生まれ変わりを信じているからこそ、成り立つやり方だと思う。
1935年生まれのダライ・ラマ14世もそういうふうにして選ばれたわけだけど、次のダライ・ラマはどうなるのだろうか。
中国による侵略や文化破壊が進んでいることに加えて、経済的にも社会的にも大きく変化しつつある21世紀にも、この方法は維持されるだろうか。

前世の記憶があると主張する人がいる。仏教圏が多いけど、世界中に報告例がある。
マスコミを呼んで一儲けしようとしている詐話師か、単に注目を浴びたいだけのお調子者だろう、と思いきや、話の整合性や客観性のウラが取れる主張もあって、一概に全部がデタラメとは言えないようだ。
文化人類学的な観点から真面目に研究している人もいる。
https://res.mdpi.com/religions/religions-08-00162/article_deploy/religions-08-00162.pdf?filename=&attachment=1

「まぁちゃん、生まれる前は、どこにいたの?」
ちょうど言葉を話し始める3歳ぐらいのときに、お母さんが子供に話を向けてみる。するとたとえば、こういう答えが返ってくる。
「えっとね、まぁちゃんね、お空のうえにいたの」
「お空のうえ、どんなだった?」
「神さまがいて、そのおひざのうえで遊んでた。友達もいっぱいいて、楽しかった」
「そこからどうやって、ママのところに来たの?」
「すべり台があってね、それに乗って、ママのところに来たよ」
「なんでママのところに来たの?」
「えっとね、他にもママがいたんだけど、ママが一番いいなって思ったから」
「そういうのは、どうやって見れるのかな?」
「えっとね、テレビみたいな感じ」
「まぁちゃんは生まれつきぜんそくでコンコンつらいけど、そうなるって知ってて生まれてきたの?」
「うん。治ったらうれしいから」
「まぁちゃん、そもそもね、なんでこの世に生まれてきたのかな?」
「みんなを幸せにするためだよ」

で、子供が10歳ぐらいになったときに、「小さいときにこういうこと言ってたよね」って聞いても、本人はまったくそのことを覚えていないという。こういうのが一つのパターン。
胎内記憶や誕生記憶の研究をしている池川明先生という産婦人科医がいて、ご自身の経験や研究を踏まえて本もたくさん出版している。
一冊だけ読んだことがあるけど、斬新な考え方でおもしろかった。(上記の母子の会話は、本の雰囲気を真似て僕がテキトーに書きました笑)
子供は親を選べない、っていうのが常識のところ、子供は親を選んでくる、っていうんだから、なかなか新しいじゃないか。
障害や病気を持って生まれてくることも、流産や中絶されることも、子供は了解済みで自分の母を選ぶという。
「ぼくがお母さんのおなかに入るとき、すぐ横に列があった。そこに並ぶ子供たちはとても勇気があるんだ。ぼくにはその勇気はなかった。その子たちは障害があっても生まれてくることを選んだ子たちなんだ」
彼らは、自ら障害というハードルを背負う。その克服を目指すことで成長しようという高い志を持った子供たちなのだ。そして自分の姿によって周りの人たちに、命の意味、社会とはどうあるべきか、本当の優しさとは何か、を伝えるために生まれてくる。
著者の主張は、だいたいそんなところ。

悪くない考え方だと思うけど、ちょっと危ういな。
この本を物語として読む分にはいい。いい話だと思う。
でも事実として受け取るのは、かなり危険だと思う。
先天性の病気や障害には、れっきとした原因がある、というのが医者としてあるべき考え方でしょ。
たとえば脳性麻痺で生まれて、ろくに身動きもできない子供に向かって「君は障害を背負う覚悟で生まれてきたんだね、えらいね」なんて不用意に言おうものなら、患者や家族の神経を逆なですることになるかもしれない。
妊娠中絶を考えている人は、著者の主張を自分に都合よく解釈するだろう。「そうか、中絶児は自分が中絶されることを承知で生まれてきているのか」と、何度堕ろしても良心の呵責を一切感じないようになるかもしれない。

『水からの伝言』という本のことを思い出した。「ありがとう」という言葉をかけた水はきれいな結晶を結び、「バカ野郎」とか汚い言葉をかけた水は腐敗した、っていう話。言葉の大切さを説くいい本だと思うんだけど、あくまで物語として読むべきで、本の内容を額面通りの事実として受け取っては危険だという点で、池川先生の本と同じにおいを感じる。

生きていれば、納得できない理不尽とか不条理に出くわすことはしょっちゅうで、そういうとき、僕らは考え込んでしまう。
子供が障害を持って生まれてきた。なぜだ。なぜ俺の子が。
考え込むに決まっている。しかしこの「なぜだ」は具体的な原因を求めているわけじゃない。「母胎経由で取り込まれた有害物質のせいです」という答えでは腑に落ちない。
この場合彼は、むしろ池川先生の本のなかに問いへの答えを見出すだろう。
理屈じゃなくて納得をくれる教えというのは、サイエンスじゃない。宗教に近いと思う。読者はその点を踏まえた上で読まないといけない。
池川先生の本を批判してるんじゃないよ。ただ、読解力のない人には誤解されるだろうなっていう、そこだけね。妙に科学の装いをしているところがあるから、そこがかえってミスリーディングだと思う。

「なんのために生まれてきたのかな」と親が子供に問う。
子供、答えていわく「人を幸せにするためだよ」
これ、すばらしい問答だと思う。
大学で教わってきた医学では人を幸せにできないことに気づいて、散々悩んだ僕には、この言葉がすごくしみる。
池川先生の創作であってもいい。いい話って、どういう形であっても、いいものなんだ。
人を幸せにしたとき、自分も幸せを感じるというのは、人間の不思議な性質だね。
幸せの連鎖反応で、笑顔がどんどん増えれば、この世もずいぶん住みやすくなると思う。
今の自分の仕事が、この世にある笑顔を増やすことに貢献してますように☆彡(-人-;) 

訳者あとがき

2018.11.1

ホッファー晩年(2005年)のインタビュー。
インタビュワーとこんな会話があった。

「1957年に先生はこう言われていました。40年後、1997年頃にはオーソモレキュラー療法は広く受け入れられているだろう、と。
今の状況をどのようにご覧になっていますか」
「ふむ、私が間違っていたね。(Well, I was wrong.)」

ナイアシン、アスコルビン酸をはじめとするビタミンが各種疾患にいかに有効であるか、それを実感しているホッファーである。
こんなにすばらしい治療法が広がらないはずがない。
半分毒みたいな薬を製薬会社がどれだけ宣伝したところで、最終的に選ばれるのは、本物に決まっている。
患者はバカじゃない。自分の体で以って、それがいいものか悪いものか、当然わかるし、患者の口に鍵をかけることはできない。
評判が評判を呼んで、オーソモレキュラー療法はまたたくまに広がり、40年後にはきっと一般的な治療になっているだろう。

ホッファーはそんなふうに考えていたんだと思う。
ところが、現実はどうなったか。上記のように、自分の読みがはずれたことをホッファーは素直に認めている。
そう、医療は変わらなかった。統合失調症には相変わらず抗精神病薬が第一選択で(というか実質他の選択肢はない)、誰もビタミンを使ったりしない。
そもそも医学部教育が変わっていない。ビタミンは欠乏症を防ぐだけの単なる栄養素であって、「疾患治療のためのビタミン」という概念はまったく教えられていない。
血圧が高いなら降圧薬で下げろ、コレステロールが高いならスタチンで下げろ、とクスリ一色。こんな教育を受けて医者になるものだから、ビタミンを使おうという発想自体がない。
つまり、医療は何も変わっていない。

ところがホッファー、上記の発言に続けて、こう語った。
「1957年から50年が経って、ようやく状況が変わり始めていると思う」
テレビ、ラジオ、新聞しかなかった時代には、これらのメディアがほとんど唯一の情報源で、莫大な宣伝費によって製薬会社が大きな影響力を持つことができた。
しかし、情報のあり方に革命的な変化が起こった。ネットの時代が到来し、誰しもが情報を発信できるようになったのだ。
薬害の悲惨さを語る人々やビタミンのすばらしさを語る人々の声が、ネットを通じて世界中に拡散されるようになった。一般人が専門的な論文に簡単にアクセスできるようになった。知の扉が、みんなに広く開放されたんだ。
相変わらず投薬一辺倒の医者を尻目に、一般大衆が真実を知るようになり、今や医者よりも患者のほうが自分の病気に精通しているという「知識の逆転現象」も珍しくない。
医者は「精神疾患がビタミンで治る?そんなバカなこと、聞いたこともない」と患者の話を嘲笑するが、患者はオンライン上の論文データベースを検索し、ビタミンの有効性を裏付ける研究がすでに何十年も前に行われていることを知っている。
一体どちらが学者なんだ、知識に謙虚なのはどちらなんだ、という話で、大学で学んだことだけで実臨床をやろうとする医者は、患者から置いてけぼりを食らうだろう。
こういう流れは、恐らく今後も止まることはないし、ますます加速していくと思う。

かくいう僕自身も、インターネットのおかげでオーソモレキュラー療法の存在を知った。
“Orthomolecular Medicine For Everyone”を読み、大きな感銘を受けた。オーソモレキュラー療法のエッセンスが簡潔にまとまった傑作だと思った。
アメリカでの出版は2008年と、十年近く経過しているが、内容はまったく古びていない。そして驚いたことに、こんなにすばらしい名著なのに、邦訳がない。
「もっと多くの人に読まれる価値のある本だと思います。私の翻訳を通じて、この本を日本人に紹介することをお許しいただけないでしょうか」
ホッファーはすでに故人となっていたが、共著者のソール先生に熱意を込めたメールを送った。
ソール先生から国際オーソモレキュラー医学会会長の柳澤厚生先生を紹介され、その助力のもと、僕がこの本の翻訳を担当を任せてもらうことになった。
ホッファーやソールといった栄養学の大御所の声を汲み取って、その声を日本語に衣替えし、日本人のみんなに届けるという仕事である。
こんなにやりがいのある仕事が他にあるだろうか。今後長く続く人生のなかで、こんなに熱い仕事、こんなに誇らしい仕事、何を投げうってでも成し遂げたいと思う仕事が、他にあるだろうか。
自分の持てるすべてを注いでこの仕事を完成させるんだ、と奮い立った。
当時僕は勤務医で、毎日の仕事に忙殺されていたんだけど、休日はもちろん、診察の合間や昼休みにも翻訳作業に没頭した。
そうして編集者も驚くほどのハイペースで翻訳を完成させ、原稿を出版社に委ねた。
でも、そこから先が全然進まない。
待てども待てども出版されない。
電話して、出版に向けての進捗を電話すると、
「忙しくて、申し訳ありません」と丁寧に謝られるんだけど、謝罪なんていいよ。とにかく、話を早く進めてよ。
せっつく電話を頻繁にかけるのもな、という遠慮がたって、あまり積極的な催促もできずにいた。
翻訳を完了して一年が過ぎたある日、僕は思い立って、編集者にこう伝えた。
「一年経ちました。さすがに、もういいかなと思います。出版の件、もうけっこうです。翻訳を通じて、僕自身勉強になりましたし、もういいです」
あせったのか、さすがに動いてくれて、来年1月には出版できるのではないかと思います、という言質を得た。単なる口約束だからどうなるかわからんけど。
「あ、それからですね、中村さん、訳者あとがき、を書きませんか」
はよ言うといてくれよ、って思ったけど、そういう話があったのが先週のこと。今、どんな訳者あとがきを書こうか考え中。
みなさんに早く翻訳本を届けられる日が来ればいいんだけど、どうなることやら´Д`