ナカムラクリニック

阪神・JR元町駅から徒歩5分の内科クリニックです

2018年8月

リンパ腫

2018.8.10

「水戸黄門の話ね、あれ、わかるよ。お約束の様式美、といったものだね。
人生の一時期、暴れん坊将軍を毎日2話ずつ見てた頃があるんだけど(←なんで笑)、この経験を通じて、様式美の何たるかを知ったと思う。
毎回見てると、話の流れのパターンが数種類しかないことに気付く。
で、今日の脚本家は誰々だな、みたいなことまで察しがつく。
パターンが読めるからつまらない、ではなく、パターンが読めるからこそ、何とも言えない愛着がわくんだ。
古くはドリフ、今なら吉本新喜劇もそうだろう。
志村の後ろに人が通っても気付かないのがおもしろいし、ここでタライが降ってくるって知っててもおもしろい。「志村、うしろー」ってね、今や伝説の定番フレーズだ。
新喜劇で、辻本がしげぞう役で出てたら、「許してやったらどうや」っていうギャグが出るだろう、そのギャグが出てくるとしたら、話の流れはこのパターンだろう、みたいなね。
俳句は、五七五というたった17文字のなかに、季語や切れを入れる制約まであるのに、表現形式としてほとんど無限の可能性を秘めている。同じように、劇の進行パターンが決まっているからといって、同じ劇は一つとしてない。むしろ、いつも同じ大枠のなかで、その回特有の違いを楽しむという、通な楽しみ方をする人もいるだろう」
友人からのフィードバック。
「新喜劇=時代劇」説とは、なかなか新鮮だ。
新喜劇の話を聞いて、ふと、小藪のことを思い出した。いつもは人を笑わせる話をする彼が、笑いと真逆の話をするものだから、印象に残った。
「僕のオカンは決して弱音を吐かない、さっぱりした人なんだけど、あるとき僕に電話があった。『一応言うとくけど、私入院することになった』と。僕はこのとき、『あ、これ、危ないな』と思った。一人で勝手に病院行って、さっさと治してしまうのがいつものオカンだ。僕にわざわざ電話をよこすなんて、おかしい。そこで僕は父に電話した。『オカン、死ぬんちゃう?』と聞いたら、オヤジ、『うん、死ぬで。悪性リンパ腫や』
それから闘病生活が一年ほど続いた。最後の頃には痛みがひどくて、モルヒネで何とか平穏を保っているような有様だった。
あるとき、意識朦朧としたオカンが何か言う。
「え、なんて?」
また何か言う。でもうまく聞き取れない。何度も聞き直して、ようやく、「ヘリコプター」と言っているらしいことがわかった。
その瞬間、僕はハッとした。子供の頃の記憶がよみがえった。
僕が小学生の頃、ある催し物で、「大阪上空を一周 ヘリコプター搭乗体験」というのをやっていた。乗ってみたいなと思ったけど、僕におもちゃとかクリスマスプレゼントとか買ってくれないオカンだったし、確か搭乗料が五千円とか、けっこう高かったから、僕のほうからは「乗りたい」なんてねだったりしなかったんだけど、「あんた、乗り」って、オカンのほうから勧めてくれた。僕は大はしゃぎで、空からの眺めを楽しんだ。「みんなが買ってもらって持ってるようなおもちゃはいらんねん。ヘリコプターなんか、普通に生きてても一生乗る機会ないで。あんたには、誰もが経験してないようなことを経験してほしい。」オカンは僕をそういうふうに育ててくれた。
生と死の境界線上にいるオカンの口から出た言葉が、「ヘリコプター」だった。
子供の僕にとってヘリコプターに乗れたことは、ワクワクする経験だったことは間違いないけど、同時に、オカンにとっても、我が子にそういう経験をさせることは、自分の誇りだったのだ。死の間際になって、自分が母から深い愛情を注がれていたことに、僕はようやく気付いた。
ふと、もうすぐ死にそうなオカンが「プリン食べたい」とつぶやいた。最後の親孝行の機会だ。僕はすぐ病院を飛び出して、バイクに乗って、百貨店に向かった。もう閉店の時間だったけど、サングラスとマスクを外せば、大阪だからみんな僕を知っているから、何とかお願いして、かろうじてプリンを買うことができた。病院へバイクを走らせながら、何とか生きていてくれ、と祈った。病室に着くと、生きていたが、プリンをスプーンですくって口元に運んでも、もう食べる元気もなく、そのまま息を引き取った。
オカンが好きだったモロゾフのプリン。好きだったことは知っていたが、僕が自分から買っていったことは一度もなかった。最後に買って行ったときには、食べてもらえなかった。だから僕は、後輩とかに言うんです。親孝行は親が生きてるうちにしとかなあかんぞ、と」

こういう話を聞いても、リンパ腫というところに引っかかるのが医者の悲しい悪癖で笑、お母さん、生活習慣に偏りはなかったかな、とか考える。
電磁波がリンパ腫の原因であることはマウスを使った実験(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/8697452)や疫学的にも明らかで、たとえば高圧送電線の近くに住むことは健康へのリスクだよ。
外国だと人の立ち入りが禁止されるようなレベルの電磁波が検出される地域にも、普通に住宅街があるのがこの国土の狭い日本だからね。家賃が妙に安いアパート物件とか見付けても、飛びついて契約せずに、周囲に高圧送電線とかがないか確認しよう。安い家賃のために健康を失っては割に合わないよ。

プリンについては、僕はそんなに共感しないな。
僕の母は、もともとは甘いものはむしろ苦手なほうだったのに、 癌の転移に全身をむしばまれてからは、別人のように甘いお菓子をむさぼっていた。癌細胞は成長に糖質を要求する。母はその「体の声」に答えて、糖質をガンガン供給し、癌を肥え太らせていたわけだ。
「助けてあげたい。でもそのためには、この甘いもののドカ食いをやめさせないといけない」と思う一方で、「もう母は助からないだろう。最後くらいは好きなものを好きなだけ食べさせるのも、子としての情か」との思いもあって揺れたが、結局は現状維持が勝を占めた。僕はあえて甘いものをやめさせることをしなかった。

小藪の話には続きがある。
「モロゾフのプリンって、安物のプラスチックじゃなくて、ちょっとオシャレなガラス瓶に入ってるから、食べ終わった後も、洗って、めんつゆ入れる瓶として使ったりする。オカンがモロゾフ買ってくるたびに、捨てられないで、どんどんたまっていく。子供ながらに貧乏くさいなと思ってた。死後に残った大量のモロゾフの空き容器が、オカンの忘れ形見のようだった。」
僕の母の死後に残ったのは、大量のお菓子のストックだった。
今にして思うのは、当時僕がすべきことは、糖質摂取を放任することではなくて、ビタミンCの大量投与だった。
グルコースの分子式と、ビタミンCの分子式を見比べてみるといい。よく似ている。
似てはいるが、がん細胞に対するその作用は正反対で、糖質が癌細胞の増殖を促す一方、ビタミンCは癌細胞を破壊する。
死んだ人に、「こうしてあげるべきだった」の思いは、もはやどこにも行き場がない。同じ悲劇を繰り返さないよう、今日も僕は、患者にビタミンCをオススメしている。

方針

2018.8.9

院長ブログ、書くからには、大人の鑑賞に堪えるような文章を書きたいと思っている。
読んでくれた人が、ひとつ賢くなるような、ひとつ心が豊かになるような文章。
でもそれは簡単なことじゃない。
そもそもこのブログをやっている目的は、栄養療法のすばらしさを知ってもらうことなんだけど、どの栄養素がどういう病気に効くか、ということを書くだけなら難しくない。
それだけでいいのなら、ネタは無数にある。栄養療法の有効性を示すデータは膨大で、それを1日1論文という形で紹介するだけなら、そんな文章、いくらでも量産できるだろう。
でもそんなのは事実の羅列に過ぎない。
インターネットのあるこのご時世、検索すればすぐ拾えるような情報をここに得々と並べたところで、読者は「ふーん」で終わってしまう。
栄養療法に関する知識はあくまで素材で、この素材をどのように料理して、お客さんにサーブするか。そこが僕の腕の見せ所なんだけど、毎回、生みの苦しみを味わう。
factの寄せ集めは単なる辞書で、辞書はどう頑張ったって詩集にはならない。単なる事実の提示を超えて、いかに真実にまで高めるか。
そこがうまくいけば、「おもしろいブログだね」と言ってもらえるし、失敗すれば、誰も読んでくれなくなるだろう。

「ていうかね、そもそも誰も読んでへんよ、あんたのブログなんか。自意識過剰や。
だいたい、字ぃ多すぎるねん。もっと写真多くしたり、もっと文章を短くして、誰でも気軽に読めるようにしたら?」
姉の意見。
そう、僕は質にこだわりすぎで、確かに自意識過剰かもしれない。オーソモレキュラー栄養療法なんて舌を噛みそうな言葉、普通の人にはなじみのないものなんだから、読んでくれる人には、事実の紹介だけでも十分有益かもしれない。
でも、僕の姉は本とか全然読まない(読めない)人で、読書からではなく人間関係から人生を学んでいこう、っていうスタイルの人だから、まぁ、あくまで参考意見にとどめておこう笑
分かる人にだけ、分かればいい。
僕はそう思っている。
僕がどんな文章を書こうが、姉にはまったく影響を及ぼさないけど、ある程度知的な人には、僕の言葉は確実に届く。届いた結果が、賛同であることもあれば、反発であることもあるだろう。
いずれにせよ、僕はそういう、「分かる人」に向けて、ブログを書こう。
写真と短い文章だけの、いかにもIQ低そうなブログは僕の路線ではなさそうだ。

「ブログね、毎日読んでるよ。でも、ときどき、患者の個人情報に近いような内容があるね。あれはさすがにまずいんじゃないの」
友人のありがたい意見。
そう、誤解を招くといけないので、ここではっきり言っておこう。
僕のブログに出てくる症例的なものは、すべてフィクションです。
もとになった患者は実際にいるかもしれない。
でも、当然、事実の細部は変えているし、個人の特定につながるような情報は出していない。
というか、仮に事実そのものを忠実に描写したとしても、そんなもの、警察の調書みたいに無味乾燥なものになるだろう。
ある事実のかけらに詩を感じたら、そこから想像を膨らませて、真実に近づけていく、というのが僕のやり方だから、僕の描写に合致する患者はこの世に存在しません。

医者と患者の会話に限らず、会話というものはすべて、ごちゃごちゃしてとりとめのないものだ。
文法的に間違った表現は当然あるし、自分の思いを適切に表現する言葉が見つからなくて、とりあえずこの表現で、というような言葉もたくさんある。
話の順番が違っていたり、本当に言いたいことが言えてなかったり、ということもある。
そんな具合に言葉というものは、実に、不完全なものだけど、そんな不完全な言葉で紡ぎだされた会話のなかに、ときには詩が含まれているもので、僕はそういう詩をこそ、僕の言葉でつかまえて表現したいと思う。

って、あんまりえらそうなこと言って、自分でハードル上げてもたら、それこそ文章書けなくなるなぁ笑
できるだけ毎日更新したいとは思ってるんだけど、夜に書こうって思ってたら友人が飲みに誘ってくれたりして書けなくなることもざらにあるし、単純にさぼることもある笑
もっと考察を深めたいところ、僕の力が至らず、単なる「事実の提示」に終始している文章もあるだろう。
あまり期待しないでね笑

8

2018.8.8

昔『トリビアの泉』で、「昭和33年3月3日に生まれた人は、平成3年3月3日に33歳の誕生日を迎えた」というのを見て、「へー」と思った。
昭和と平成をまたいでいるのがすごいね。昭和天皇の崩御がずれていれば成り立たないトリビアなわけだから。
このトリビアに対抗して、というわけでもないけど、僕にも同じようなネタがある。
僕は、1980年8月8日に生まれて、1988年8月8日に8歳の誕生日を迎えた。
8の連発。
そういうこともあって、8というのは、僕にとってはお気に入りの数字だ。
横に寝かせれば無限大。漢数字にすれば「八」で末広がりで縁起がいい。
化学的に見ても、オクテット則により原子の最外殻電子が最も安定するのは8個。オクターブというように、ドレミファソラシドの8個で音のワンセット。
タコは英語でoctopus、これはギリシャ語で「八本足」の意。Octoberは10月だけど、これは9月から12月までは数字が二つずれたからで、本来は8番目の月って意味だよ。
元号で言えば、昭和55年8月8日生まれ、ということで、5588という並び。これはこれできれいだ。5対8というのはほぼ黄金比だし。
中国人はゲン担ぎで8という数字を異様にありがたがる。八の発音が「発」に近くて、これには「発展」とか「富む」というプラスの意味合いがあるらしい。中国では8のゾロ目のナンバープレートとか電話番号が、高額で取引されている。
僕もこの生年月日なら、中国で生まれたほうが人生開けたかもしれんなぁ笑

そう、今日、僕は38歳になった。
姉とごうちゃんが誕生日を祝ってくれた。
しかし、ごうちゃん、ええ顔してるなぁ笑

普段糖質はあまり食べないんだけど、誕生日にサプライズでケーキをプレゼントされれば、どうするか。そういうときは、もちろん遠慮なく食べます。
「このケーキには大量の精製した砂糖、トランス脂肪酸、乳化剤が含まれてて」みたいな小賢しい知識は一時的にブロックする。説教くさい医者の仮面は脱ぎ捨てる。
僕の誕生日を祝おうとしてケーキを買ってきてくれた、その思いに応えて、ケーキを満喫する。そのときだけは、いわば、お祭りモードに切り替えるわけ。
でもその翌日には、ジムでいつもより長く運動したり、っていうことはするんだけど。
チートデイはあってもいい。「申し訳ないけど糖質は一切食べないから」と誕生日ケーキまで拒否するような生き方って、ちょっと寒い。そこまでして完璧主義に走る必要はなくて、8割主義くらいで充分だと思う。8が好きだから、というわけでもないけど笑
しかしさすが、ごうちゃんも姉も僕のことをよく分かってて、出てきた「ケーキ」は、写真のように、ロウソクを立てたスイカでした笑

老い

2018.8.8

『ヘビメタのフェスに行きたい、と老人ホームを抜け出した2人を保護』(http://news.livedoor.com/article/detail/15124653/)
特に何ということのない短いニュースだけど、いい話だ、と思った。
高齢者のリハビリ施設なんかに行くと、古い歌謡曲とか演歌をBGMに流していたりするんだけど、僕はこれに違和感があった。
じいちゃんばあちゃんのみんながこんな曲を好きなわけじゃないだろうに、と。
だいたい、クイーンのフレディー・マーキュリーが仮に生きていれば、今年で72歳。世界的なロックスターも、今や老人ホームにいてもおかしくない年齢なんだ。
若い頃にロックが好きだった年寄もいるはずなのに、『ご老人はこんな曲が好きでしょ』と昭和歌謡を流してる。これは若い人の偏見だと思うんだけど、先生、どう思いますか。

「まぁ君の言っていることはわかるんだけど、意外にそうでもないんだよ。
人間は年を取るにつれ、『古きよきもの』に何とも言えない安心感や親しみを感じるという傾向があるのも、また事実なんだ。
昼から夕方にかけての時間帯に、『水戸黄門』や『遠山の金さん』のような時代劇をテレビでやっているだろう。
若い人には、あの手の番組の魅力は理解できない。『毎回同じような話じゃないか』って思うんだ。
トラブルがあって、そこに黄門様が出てきて、印籠を見せる。悪者がハハァ、と平伏する。これにて万事、一件落着。
どの話も細部は異なるが、話の大筋は似通っている。こんなの見て何が楽しんだ、と、若い人は思う。
でも、年を取ればこういう番組の良さがわかってくる。
もうね、変化球はいらないんだよ。どんでん返しとか、裏の裏を読み合うとか、そういう予想外の展開はいらない。
起承転結。序破急。バカでもわかるようなストーリー展開で、十分楽しいんだ。
若い頃にロックを聞いて育った世代も、今やおじいちゃんになってるというのは確かにその通りなんだけど、ロックっていうのはそもそも、自分の満たされない不満や愛を激しいビートに乗せて叫ぶ、という音楽だろう。
70代80代にもなれば、『そういうのは要らない。もっと丸い、静かな曲がいい』という人たちが必ず出てくる。好みの音楽というのも、変わってくるものなんだ」

なるほど、そういうものか。
だとすると、僕もいつか、そういうふうになるのかな。
『水戸黄門』の安直なストーリー展開に安堵を感じ、舟木一夫の『高校三年生』を聞いて楽しくなる、という。
そういう自分はちょっと想像つかないんだけど笑
ポーリングやホッファーなど、栄養療法を確立してきた偉大な先人たちがどのような晩年を迎えたのかを見てみると、彼ら、全然老け込んでない。
90歳を超えてなお、仕事をこなし、最新論文に目を通し、知識の研鑚に余念がなかった。死ぬ直前までそういう具合だった。
彼らの栄養療法を攻撃した医師たちは皆、早死にしていったが、栄養療法を提唱した医師たちは、自らの説の正しさを実証するように、健康的で生産的な晩年を迎えた。
隠居して、番茶飲みながら『水戸黄門』の再放送を見るホッファーの姿は想像できない。文化が違うせいもあるけど笑
国語の授業で習ったサミュエル・ウルマンの詩は、やっぱり深いことを言っていると思う。

「人は信念と共に若く、疑惑と共に老ゆる。
人は自信と共に若く、恐怖と共に老ゆる。
希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる。」

栄養療法は、肉体的な若さはもちろん、心の若さを保つのにも有効だ。
僕も、ヘビメタのフェス見たさに施設を抜け出す、それぐらいの気力のある老人でありたいなぁ。

2018.8.7

「医学部の学生が女子ばかりになったら、眼科医と皮膚科医ばかりになっちゃうって、確かに西川先生の言う通りかもね。私も眼科医だし。
マイナー外科って、女医からしたら何かと都合いいんだよ。内科的なことも外科的なことも両方できるし、勤務医としてどこかの病院に一時的に腰掛けるには好都合なのね。
特別手先が器用っていうことはないけど、黙って作業するのって好きなの。
ほら、前にも言ったかもしれないけど、私、スキューバダイビングが好きなんだけど、あれも、水の中、会話のない世界で黙々としてるところがいいの。
だから、内科か外科か、どっちかひとつだけを選ぶとなったら、学生のときから断然外科だと思ってた。
ただ、メジャーな外科はちょっとね。。。いろいろ大変そうだし。だから漠然と、マイナー外科かなって。
でも、眼科に入局して分かった。私、手術、向いてないんだ、って笑
手術に必要なのって、手先の器用さというか、決断力だと思うの。こういうのって、きっと男の先生のほうがある。
性格的に女医には難しいんじゃないかなって思うのね。
自分のメス裁き、そのひとつひとつに責任の重みが伴っている。そういうことを思ったら、私、切れなくなっちゃったの。
目って、手術の失敗、絶対許されないの。
『うーん、この血管、切ってもいいかな、どうかな~』ってのがあって、それがたとえば大事な神経だったら、どうなる?
下手すれば失明だからね。
かといってビクつきすぎてノロノロとやってたんじゃ、オペにならない。
でも眼科のいいところは、あるいは大学病院のいいところは、ってことだけど、住み分けができるってことよね。
白内障の手術ならこの人、網膜剥離ならこの人、って具合に、それぞれの病気を得意分野にしている先生がいて、専門分化が進んでいるわけ。
内科的なことで、特に加齢黄斑変性なら私のところへ、みたいに、私にもきちんとした居場所がある。
こういうのが眼科の本当にいいところだと思う。」

目というのは、耳や舌のような他の五感を知覚する器官とはかなり違う印象がある。
「目は脳の出先機関」、あるいはもっとはっきり、「目は脳そのもの」、という科学者もいる。
発生のプロセスから考えても、脳の一部が分化して目という器官を形成した、と言って間違いではない。
目とは、つまり、外部に露出した脳なんだ。
「目は口ほどにものをいう」が、事実はこの言葉以上かもしれない。口は嘘をつけるが、目は嘘をつけないからだ。(https://books.google.co.jp/books?hl=ja&lr=lang_ja|lang_en&id=moFIAwAAQBAJ&oi=fnd&pg=PA129&dq=lies+pupil&ots=wmR7iM5Ksm&sig=CPMIP_jxFtvxBwZl6yO1GUtncw8#v=onepage&q=lies%20pupil&f=false)
「ねぇ、あなた、私のこと好き?」と問われて、男、どう答えたものか、視線を右上に漂わせつつ、言葉を探す。
彼女はじっと男の目をのぞき込む。男の目は、いつもよりまばたきが多く、また、瞳孔が開いているようだ。
「もちろん、好きだよ」とかろうじて返答があったとしても、彼女、この答えを信じることはできない。
目は言葉の内容以上のことを語るのだ。
相手の真意が伝わるのに、1秒目が合うだけでいい。
それだけで充分。こういう人間の繊細さは、AIがどれだけ進歩してもなかなかAIには模倣できないと思う。
もっとも、視線の意味を読み違えることも人間はけっこうあって、異性からの好意の視線だと思ったら、「汚ねぇな、目クソついてるぞ」って思われてる視線だったりする笑

「目の手術ってグロいですよね。きつくないですか。
目は人間の精神性の象徴、というところがあるので、そこに注射したりメスを入れたり、というのはすごいなと思います」
別の眼科医の先生、答えて曰く、
「そうかな。僕に言わせれば、他の外科のほうがよほどエグいと思うけど。肝臓とか心臓とか。
目なんてきれいなものだよ。というか、すべての器官のなかで一番きれいなんじゃないかな。ほとんど血が出ないしね」
なるほど、出血という意味では確かにそうかもしれない。
「でも」と食い下がる。「目って、人間の器官の中でもかなり特殊だと思います。好きな人と目が合ってドキッとするとか。
ことわざにも、『目は口ほどにものをいう』とあるように、人間の感情を最も雄弁に伝える器官のようにも思います。
そこにメスを入れるということが、相当すごいと思うのですが」
先生、きょとんとしている。
「うーん、よくわからないな、君の言ってること。
目が感情を伝える?そうかな。感情を伝えるのは表情筋でしょ」
アスペルガー的な雰囲気のある先生。でも手術の腕前は全国有数で、遠く県外からこの先生の手術を受けに来る患者も珍しくない。
やはり、手術に何より必要なのは、正確無比な決断力で、女医さんの責任感とか僕の妙な感傷は、かえって邪魔なのかもしれない。