ナカムラクリニック

阪神・JR元町駅から徒歩5分の内科クリニックです

2019年

小麦と皮膚疾患

2019.11.10

究極の二択「肌荒れ美人と美肌ブス、どちらを選ぶ?」をテーマに男性100人にインタビューしたところ、前者を選んだのは66人、後者は34人だったという。
理由として、前者は「肌荒れは治せても顔は治せないから」「肌荒れしてても美人ならそんなに気にならない気がする」
後者は「肌荒れした時点で美人とは言えない」「肌荒れ美人とキスしたことがあるが、ザラザラして痛かった」

『おぎやはぎのブステレビ』より。

「あっちゃんならどちらを選ぶ?」
うーん、難しいけど、後者かなぁ。美人もブスも、電気消して布団入っちゃえば同じだけど、肌触りは暗闇でもわかるからなぁ。
「ヘンタイ!」
え、なんで?

皮膚は健康状態を反映する鏡である。
望診などというといかにも東洋医学めいて聞こえるが、視診の重要性は西洋医学でも教えるところである。
たとえばチアノーゼを見れば循環不全を疑うし、黄疸を見ればビリルビンの代謝不全を疑う、というのは一般の内科医でも当たり前にやっていることだ。
しかし、残念ながら多くの皮膚科医は、対症療法の落とし穴にはまっている。
ニキビを見ればアクネ菌が悪さをしていると考え、外用薬でダラシンを、内服薬でミノマイシンを処方する。アトピー性皮膚炎にはステロイド外用薬、水虫には抗菌薬、といった感じで、対症療法のオンパレードである。
「皮膚に症状が出ているんだから、皮膚が悪いんだ」という固定概念から延々抜け出せない(そもそも抜け出す気もない)。

皮膚科臨床で見かけるほとんどの症状(肌荒れ、乾燥肌、ニキビ、アトピー性皮膚炎、口内炎、脱毛症、皮膚血管炎、黒色表皮腫、結節性紅斑、乾癬、白斑、ベーチェット病、皮膚筋炎、壊疽性膿皮症など)はすべて、小麦の除去によって軽快する。
皮膚科医が「治療」と称してやっていること(ステロイドや抗生剤の投与)は、症状を複雑化させるだけで、むしろ有害無益である。
何よりの治療は、そう、小麦を食べないことである。

「ちょっと待ってくれ、ベーチェット病とか難しい病気のことは知らないが、ニキビは青春の象徴、大人になるための通過儀礼みたいなものだろう。小麦どうのこうのは関係ないのでは?」
これは世間に最も広く流布している嘘のひとつである。
なるほど、西側諸国においてはティーンエイジャーのほとんど全員がニキビを経験している。それどころか、26歳以上の年齢でも50%が断続的にニキビに見舞われている。しかし、ニキビという現象がまったく見られない文化も存在する。
パプアニューギニアのキタヴァン島の住民、パラグアイのアチェ族、ブラジルのパラスバレー先住民、アフリカのバンツー族とズールー族、日本の沖縄の人々、カナダのイヌイット。これらの伝統的な食習慣を守っている人々では、ニキビはまったく存在しない。
なぜだろうか。遺伝的な特殊性(たとえばアクネ菌に対する免疫があるとか)のおかげでニキビが出ないのだろうか。
違う。遺伝ではなく、食事が原因であることを示すエビデンスがある。
たとえば沖縄の人々は、1980年代までは地元でとれた野菜、サツマイモ、大豆、豚、魚などを食べており、ニキビは事実上存在しなかった。しかし西洋食の導入によって、ニキビが若年者に特有の疫病のごとく広まった。
世界中の民族を観察して言えることは、ニキビと無縁の人々は、小麦、砂糖、乳製品をまったく(あるいはほとんど)摂取していない、ということである。
そう、ニキビははっきり、小麦に起因する”食原病”である。

小麦グルテンに対して起こった腸管での免疫反応が、そのまま腸管に症状として出ればセリアック病だが、それ以外の場所に現れたとき、無数の異なる病名で呼ばれることになる。ニキビもそのひとつ、ということだ。

こうした事実を踏まえれば、上記の「究極の二択」に対する最善の答えが見えてくる。
「肌荒れ美人を選び、小麦を食わせない」これが一番賢いチョイスだろう。
肌が荒れているということは、肌が荒れているだけではない。肌荒れは内臓の状態、特に腸の炎症を反映しているから、まず、その美人さんの食生活を徹底的に改善指導する。お菓子とかパンとか遠慮なく食ってるはずだから、そういうのをやめさせる。
そうすれば数週間で、美肌の美人をゲット、ということになるはずだけど、、、
美人はわがままなものだから、僕の言うことなんて聞かないだろうなぁ´-`

参考:『小麦は食べるな』(ウィリアム・デイビス著)

小麦と免疫

2019.11.10

腸と脳の相関が言われている。
「腸にいいことは脳にもいい」というのは、自分の臨床経験を振り返っても、間違っていないと思う。
この命題が真ならば、その対偶「脳に悪いことは腸にもよくない」も真だというのが、論理学の教えるところである。
逆「脳にいいことは、腸にもいい」も裏「腸に悪いことは、脳にもよくない」も成り立ちそうだ。だとすると、前提と帰結は同値、「腸と脳は、同じことで笑い、同じことで泣く、ワンセットのニコイチ」と言ってしまってもよさそうだ。

「脳こそが高等動物の高等たるゆえんの器官である」とする先生は、腸を原始的な器官として脳より一段下に見ている節がある。
ところが、これとは逆に、腸を脳よりも上位の器官だと見る先生もいる。
生物は、発生的には、まず、腸からできる。その点、脳はずいぶん後進の臓器で、つまり生物にとってのプライオリティは低い、とも言える。確かに、脳のない人間(無脳小児)はあり得ても、消化管(胃、小腸、大腸)のない人間は考えられない。
さらに、腸には無数の神経細胞が分布していて、脳からの指令がなくても、独自に活動を行うことができる。脳死の人にも胃腸の蠕動運動が見られるように。

おもしろい考え方だ。
しかしここでは、腸、脳、どちらが上という話はしない。
ただ、どちらも小麦の害をモロに受ける器官である。キーワードは、炎症である。

そう、小麦を食べると、腸に炎症が起こる。腸管免疫系がグルテン(特にαグリアジン)の処理に難渋し、混乱をきたす。
この混乱が、急性症状として出現する人がいる。腹痛や下痢を生じる人もいれば、急性アレルギー反応(ショック状態)、ぜんそく、じんましん、運動誘発性アレルギーなど、症状の出方には多様性がある。

こういうふうに小麦を食べてすぐに症状に現れる人は、むしろ幸せかもしれない。というのは、原因と結果の関係が極めてクリアだから、本人も「小麦が悪いんだ」とすぐに気付くことができる。小麦を口にしないよう心がけ、健康が保たれることになる。急性小麦病は、むしろ福音というべきだろう。

逆に、「自分は何を食べても大丈夫」と胃腸がなまじタフな人は、慢性症状として、もっとわかりにくい形で症状が出る。原因と結果の関係が不明瞭なだけに、小麦を延々食べ続ける。症状がどんどん悪化して、にっちもさっちも行かないところまで追い込まれてもなお、小麦が犯人とはつゆ疑わない。
たとえば橋本病(慢性甲状腺炎)。たとえば関節リウマチ。
小麦への曝露によって免疫系が混乱し、自己抗体が出現しているという点では、これらは同じ疾患、要するに、慢性小麦病である。しかし一般の内科医はそんなこと知らないから、チラージンとかリウマトレックス、ステロイドを処方している。
これらの薬、いつまで飲み続けるのか?死ぬまで、です。

人生の早い段階で急性小麦病を発症し、小麦はやめておこう、となった人と、人生の中終盤で慢性小麦病を発症し、しかも小麦が原因であることに気付かず薬を一生飲み続けることになった人。どちらが幸せか。
小麦を使ったおいしいものを食べれなくて食の楽しみを犠牲にしたとしても、健康の大切さ(あるいは病気の辛さ)を知る人は、前者を選ぶと思う。

健康面ばかりではない。美容的な意味でも、小麦は悪影響を与える。
たとえば、わかりやすい話、小麦を食べていると、ハゲます。
小麦由来の「けったいなタンパク質」が腸内に侵入すると、体はそれをあの手この手で封じ込めようとする。抗体を作って爆撃する、というのもその一つで、抗原の封じ込めを狙うが、多くの誤爆を生じる。
具体的にいうと、たとえばSLE(全身性エリテマトーデス)にかかると、腎臓や関節など、あちこちで自己免疫性の炎症が起こるが、毛包でも同様の炎症が起こっている。
炎症を起こした毛包では、毛を支える力が弱くなり、毛が抜けることになる。さらに、炎症の鎮火のためにカルシウムが流入して石灰化が起こり、頭皮はますます不毛地帯になっていく。
実際、自己免疫性疾患による脱毛部分には、腫瘍壊死因子、インターロイキン、インターフェロンなどの炎症性メディエーターが増加している。

「健康のために小麦をやめましょう」と言っても、健康な若者は聞こうとしない。健康のありがたみは、失って初めて気付くものだ。
こういう若者には、単刀直入に「小麦を食べたらハゲますよ」という。すると、彼らもドキッとする。健康よりも美容意識に訴えるほうがアピールするんだな。

『小麦は食べるな』にこんな症例が載っている。
ゴードンはパン屋の主人。冠動脈疾患のために来院したが、ぽっこり小麦腹の体形、高血圧、糖尿病予備軍レベルの血糖値、胃のむかつき、採血でsdLDL高値、そして抜け毛の症状があった。
すべての症状が、慢性的な小麦の悪影響を示唆していた。
抜け毛を気にするゴードンは皮膚科を受診していたが、医者にも原因はわからなかった。どんどん薄くなる頭部を悲しむあまり、抑うつ状態に陥り、抗うつ薬を服用するまでになった。
「抜け毛も含め、あなたの症状はすべて小麦が原因だ」と指摘されたが、パン屋の彼である。職業的な誇りもあって、小麦が悪いとは受け入れがたい。
しかし最終的には医者の辛抱強い説得に応じ、小麦抜き生活をすることを約束した。
効果はすぐに現れた。3週間以内に、ハゲていた部分から新たな毛が生えてきたことにゴードンは気付いた。続く2ヶ月、髪は抜けることなくどんどん成長し、かつてのフサフサの髪を取り戻すに至った。
さらに、好ましい変化はこれだけではなかった。体重は5.5kg減り、腹回りは5cmスリムになった。ときどき感じていた腹部の痛みが消え、糖尿病予備軍だった血糖値は正常値に戻った。sdLDLを再検査すると、67%低下していた。

本気で小麦をやめようとするのは結構大変で、やめようとして初めて、自分がいかに小麦依存症であるかに気付くだろう。しかし薄毛に悩む人は、トライする価値があると思う。
エビデンス不明の高額な育毛剤による「足し算」ではなく、まず、小麦をやめるという「引き算」のほうが、手っ取り早くて効果も着実だよ。

参考:『小麦は食べるな』(ウィリアム・デイビス著)

小麦と麻薬

2019.11.8

前回のドラッグの話の続きというわけでもないが、最も身近な麻薬は小麦である。
これは比喩でも何でもなく、文字通り本当のことだ。もちろん、法律的な意味ではない。『小麦取締法』という法律はないし、「小麦の所持および使用」の容疑で逮捕されることもない。
しかし小麦が人間の体に及ぼす生理的作用を見れば、モルヒネの薬理作用そのものである。

摂取するとハイになり、人によっては妄想や幻覚を生じる。やめようにも強い依存性があって、我慢すると様々な禁断症状が出る。
覚醒剤の話をしているのではない。スーパーに普通に売っている小麦製品のことを言っている。
小麦をやめるのは本当に難しい。僕自身もそうだったし、患者を見ていればわかる。なんだかんだと理由をつけて、あの手この手で小麦を食べようとする。
意志が弱いとか、小麦製品がないと生活が不便だとか、長年の習慣を捨てることにためらいがある、という話ではない。本人にはまったく自覚がないのだろうけど、すっかり依存症に陥っているのだ。

小麦由来のグルテンは、胃酸とペプシン(胃液に含まれる酵素)によってポリペプチドに分解される。このペプチドには、BBB(血液脳関門)を通過する性質がある。
BBBとは何か。一言でいうと、「関所」のことだ。脳は繊細な器官で、血流に乗って何でもかんでも侵入してきては困るから、BBBという関所を置くことで、要、不要を分別している。
小麦ペプチドは、このBBBをフリーパスで脳に入り込み、脳内のモルヒネ受容体に結合する。これはアヘンが結びつく受容体と同じものだ。小麦によって多幸感や幻覚、妄想を生じる核心はここにある。

研究者はこの小麦ペプチドを、外因性モルヒネ様化合物、略して”エクソルフィン”(exorphin)と名付けた。外因性とは、内因性(たとえばランナーズハイのときに自前で分泌されたり)ではない、ということだ。
小麦によって統合失調症が悪化することが知られているが、この背景にはBBBを通過してモルヒネ受容体に結合するエクソルフィンの作用があるのではないか?
だとすれば、モルヒネ受容体を遮断することで、このペプチドの悪影響を軽減できるのではないか?研究者はこの仮説を検証した。

ナロキソンという薬がある。
内科医には比較的なじみのない薬だが、この薬を知らない麻酔科医や救急医はいない。
麻酔から覚醒させるときや、救急に運ばれてきたドラッグ使用者に投与する。すると、手術中眠っていた患者が目を覚まし、ドラッグの興奮状態が収まる。ヘロイン、モルヒネ、オキシコドン(アヘンに含まれる鎮痛剤)などの作用を、一瞬にして無効化する。これがナロキソンの働きだ。
動物実験ではナロキソンの投与によって、エクソルフィンとモルヒネ受容体の結合が遮断されることが示された。そう、ドラッグ常用者のヘロイン作用をキャンセルするまさにその同じ薬剤が、小麦由来のエクソルフィンの作用をも阻害するわけだ。

この作用はWHOも確認している。激しい幻聴症状に悩む統合失調症患者32人にナロキソンを投与したところ、症状の改善が確認された。
ところが、次の必然的ステップ、「小麦を含む食事をしている統合失調症患者と、小麦除去食の統合失調症患者にナロキソンを投与する比較研究」は、行われていない。
なぜか。なぜこんな重要な研究が行われないのだろう。
「薬ではなく、食事を改めて病気を治しましょう」という結論が出そうな研究は、基本的に行われない。医薬品の使用を支持しない結論は、製薬会社にとって極めて不都合だから。WHOがどういう組織か、こういうところに実体が透けて見えるようだ。
「WHOの背後にはロックフェラーがいる」なんてことを言うと、都市伝説だ陰謀論者だとバカにされる。でも、PubMedにWHOとロックフェラーの関係性を検証する論文が普通にあがってるんだけどね。
『ロックフェラー財団とWHO(世界保健機構)の背後関係 パート1:1940-1960年代』
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/24412372

小麦を控えるように患者に指導すると、調子が悪くなる人がいる。「気分が曇りがちになって、食欲が落ちた」という。エクソルフィンがモルヒネ受容体に作用して多幸感や食欲増進をもたらすところ、小麦を食べなくなったことでその恩恵がなくなるわけだから、この症状は想定内のことだ。
だから患者は、この禁断症状に耐えないといけない。でも安心してください。ずっとその状態が続くわけではありません。数日間で必ず回復します。

しかし考えてみれば、恐ろしいことだ。
中枢神経系に明らかな作用(多幸感、幻覚、妄想)を与え、その摂取をやめれば禁断症状さえ引き起こす食材なんて、アルコール依存症を除けば、小麦しかない。
そう、まず、この小麦の恐ろしさを自覚すること。回復はそこから始まることを肝に銘じよう。

統合失調症患者が小麦をやめることで症状が改善することについては、以前のブログで述べた。では、正常な人(統合失調症でない人)が小麦をやめるとどのようなメリットがあるのか。
ナロキソンの投与によって、プラセボ群と比較して、食事摂取量が昼食で33%減少、夕食で23%減少した。つまり、小麦によって多幸感が得られて過剰に食べてしまうところ、ナロキソンがその報酬系を遮断し食事摂取量が減る、ということだ。

さすが、製薬会社は利益に敏感である。ナロキソンに似た成分の薬ナルトレキソンを抗肥満薬(Contrave)として販売している。
ナロキソンは、要するに、中脳辺縁系の報酬回路をブロックする。なるほど、その作用によって、食べる意欲がなくなって、痩せるかもしれない。しかし、生きる喜びを感じる部分までブロックしてしまうのだから、タダで済むわけがない。
実際、長期投与の副作用として、不安や抑うつを発症することは必至である。じゃあ、こんな薬、使えないということになるんだけど、そこはさすが、製薬会社である。上記の薬Contraveには、先回りして抗うつ薬成分(ブプロピオン)が含まれている。
何かギャグマンガみたいな話だな。はなから「小麦食べるの、やめとけよ」っていう。でもなぜかその核心には誰も触れない。
臨床現場にはこんな茶番みたいな薬が山のようにあってバンバン処方されている。笑っているのは製薬会社だけ。
食事の改善という、たったそれだけのことで、世の中からどれほど多くの疾患がなくなることか。

参考:『小麦は食べるな』(ウィリアム・デイビス著)

田代まさし

2019.11.7

田代まさしの逮捕をマスコミが報じている。9年ぶり5回目の逮捕、ということで、ニュースとして特に新味はなく、多くの人が「ああ、またか」という印象を持ったことだろう。
NHKの番組で自身の失敗談を語ったり、YouTubeで自分のチャンネルを持つなど、世間への露出も徐々に増えていただけに、今度こそはちゃんと復活した様子があったが、やはり覚醒剤の恐ろしさは甘くなかった。

勤務医時代、アルコール依存やギャンブル依存の治療に関心があって、ダルクの講演会を何度か聞きに行ったが、演者に田代まさしが来たことがある。
「今、目の前に覚醒剤と吸引器があれば、どうするか。間違いなく、やります。ノーという自信はない。僕はまだ立ち直っていません。立ち直る途中なんです」
露悪的に言っているのではなく、自分の弱さを認めるのが強さ、みたいな文脈でそう語ったのだけど、その口調に妙に確信があって、あのときすでにやっていたのかな。

田代まさしはかつて売れっ子タレントだった。日本が空前の好景気に沸いたバブル時代に、テレビのレギュラー番組を何本も抱えていて、CMの出演本数も数え切れない。
ゴールデンタイムの番組でスポットライトを浴びる人気者で、どこに行ってもファンからちやほやされる。口座に振り込まれる金は、桁を数えるのに難渋するほど。
そんな黄金時代を経験している彼だから、芸能界への未練はあるはずなんだ。もう一度立ち直って、志村けんとコントをやりたい。
それなりの実力はあるし、芸能界へのコネクションもある人だから、彼は一度の失敗では終わらなかった。芸能界は再び彼を迎え入れた。しかし目をつぶるのは、せいぜい2、3回まで。再犯を繰り返すにつれ、助けの手を差し伸べる人はいなくなった。

ある雑誌のインタビューで、こんなやりとりがある。
記者「なぜ、やめられないんですか?薬物依存は自己責任で、強い意志さえあれば立ち直れる、とはならないんですか?」
田代「意志だけでやめられるんだったら、みんなやめてるよ。クスリの快感はね、もうハンパじゃない。覚醒剤を打った瞬間にものすごい量のドーパミンが出て、これ以上ない幸せが一瞬にして全身にめぐっちゃう。
芸能界の華やかなステージに立っている瞬間よりも、何よりも、気持ちいい。俺は芸能界を捨ててまでクスリに走った。何不自由なくいい生活をして、幸せな家庭があって、、、俺、けっこういいところにいたんだよ?それでもクスリはやめられない。
あのさ、芸能界でポッと出て一回売れるのはけっこう簡単なんだよ。一発屋とかいっぱいいるじゃん?でも、ずっと人気を維持して活動を続けるのってすごい難しいのよ。今まで何年もやってきて、毎日おもしろいこと言わなきゃいけないってことになってきて、それでだんだん疲れてきたの。そのときに、元気になるのありますよ、って言われちゃって、、、」

ここには正直な告白があると思う。
これまで築き上げてきたもの、すべてがどうでもよくなるくらいの覚醒剤の強烈な快感。売れっ子でい続けることのしんどさ。
この人は、根は素人なんだと思う。素人が、テレビで何度かおもしろいことを言って、ウケた。ヒットを何本か打っただけで、実力に不相応な人気が出てしまった。期待には答えたい。でも、自分には笑いの素養があるわけじゃない。漫才もやらないし、落語で腕を磨いたわけでもない。
素人に毛の生えた程度の実力しかなかった。その実力相応のところに落ち着いて、細々とやっていけば、芸能界にそれなりの居場所はあっただろうに。クスリに逃げるんじゃなくて、もっと別の身の引き方があっただろうに。

松本人志がこんなことを言っていた。
「自分はクスリは絶対に使わない。そもそも笑いというものが、人をハイにする麻薬みたいなものでしょう?本物の麻薬使っておもしろいことを言おうとするって、芸人として根本的に間違っている。人を笑わせて、自分がハイになる。それが芸人のあり方でしょ」
プロだね。長く第一線を張っている人は、やっぱりわかってる。

そもそも、クスリになんて手を出さないこと。まず、ここが初手。
しかしいったん使ってしまうとその後は、日頃のストレスだとか心の弱さ、みたいな話は吹っ飛んでしまう。覚醒剤の強烈な依存性という、純粋に生理的な問題と向き合うことになる。
覚醒剤の作用の凄まじさは、経験者に聞くのが一番わかりやすい。
“歌のお兄さん”杉田あきひろ「梅干しを見ると、つばがわくでしょう。あれと同じ。普通の人が白い粉を見ても何とも思わないけど、僕ら経験者が見ると、脳からよだれが出る。鳥肌が立って、性的快感の百倍強烈なあの快感が、欲しくてたまらなくなる。よく逮捕された人が、二度と手を出しません、と言うでしょう。あれは嘘。一度覚醒剤を使えば、脳の構造が変化している。目の前に差し出されたら、使わないわけがない」
某暴力団関係者「覚醒剤をセックス目的で乱用する人は多い。男の場合、長時間行為に没頭できるようになり、女は感度が格段に上がる。
耳かき一杯程度のシャブで2、3時間はセックスできる。快感が普段の何千倍にもなって、自分の場合は性器を触られるだけで、全身の毛穴から精液が放出されるような気持ちよさだった。もう死んでもいいと何度も思った」

「脳からよだれが出る」「全身の毛穴から精液が出る」「もう死んでもいい」
経験者がそれぞれの表現で、覚醒剤の快感を語っている。
こんな経験者の声を聞けば、「危ないな。使うのはやめておこう」じゃなくて、「いっぺん試してみたいな」と思ってしまうじゃないか(;゚Д゚)
しかしその快楽はあくまで一瞬の火花であり、それと引き換えに「人生」を差し出すことになる。
恐ろしいことだ。一度好奇心でやってみるには、代償があまりに大きすぎる。
松本人志は薬物に頼らずとも、「笑い」でハイになっている。人間はこうあるべきだと思う。つまり、外からの薬物摂取でハイになるのではなく、何かに熱く生きることで自前の脳内ホルモンを分泌してハイになる。この「何か」を見つけることだな。
ただし、僕の場合はバックギャモン以外で^^;

バックギャモン2

2019.11.7

「いやぁ、あっちゃん。前回の院長ブログはひどいよ。大嘘書いてるじゃないの。
バックギャモンに一時期ハマってたけど今は封印してる?将棋で我慢?
ウソもたいがいにしなよ!今、現に、バックギャモンにドハマりしてるじゃないか!それで全然ブログの更新もしなくなっちゃったじゃないか!
もうね、完全なバックギャモン廃人だよ。あのさ、依存症の人の治療とかも、あっちゃんするわけでしょ?
全然説得力ないよね。だって、医者本人がバックギャモン中毒なんだから。これって、ギャンブル依存症そのものでしょ。
頼むよ、あっちゃんのブログ、楽しみにしてる人もいるんだよ。あっちゃんにしか書けない記事とか情報発信があるんだからさ、ちゃんと立ち直ってよ。
もうさ、テーマは健康のことじゃなくても、何でもいい。とにかく、ブログを書きなよ」

言ってくれる人がいるというのは幸せなことである。
そう、ふとしたきっかけで、またバックギャモン熱に火がついた。以来、隙間時間を見つけては、延々サイコロを振っている(オンライン対局だから、正確には『サイコロをクリックしている』のだが)。
つくづく思うのは、このゲームの中毒性である。
 本 当 に 、 こ の ゲ ー ム は ヤ バ い 。
おもしろすぎるのである。
診療に影響は出ていない。仕事はしっかりやっている。課金してるわけではないから、金銭的に損失があるわけでもない。
『バックギャモン廃人』とはおもしろい表現だが、決して廃人ではない。基本的には、いつもと変わらない自分のつもりである。
ただ、診療以外の時間、つまり生活の余白すべてを、バックギャモンに捧げている。当然ブログにまわすエネルギーと時間はない。

しかし、親身な友人の言葉で僕も反省した。確かに、度が過ぎていると思う。
今日できっぱり、バックギャモンをやめよう。
友よ、大丈夫。心配ない。やめようと思えば、いつでもやめられるんだ(←依存症者の常套句´Д`)。
僕は仮にも精神科医で、心のプロである。悪習の断ち切り方、つまり、半ば習慣化した常同的な行動のやめ方はわかっている。

こういうときは、メタ認知が重要である。
ハマっている自分をきちんと意識する。なぜバックギャモンがこんなにおもしろいのか分析し、要素に分解する。対象から目を背けたり、ハマっている自分を見まいとするのではなく、むしろしっかり見つめて、原因に切り込むことだ。

日本史を習った人は、「賀茂川の水、双六の賽、山法師」という白河院の三不如意を覚えているかもしれない。
そう、強権をふるった白河法皇にさえ、サイコロの目はどうにもならなかった(歴史上の人物もバックギャモン中毒だったかと思うと、他人の気がしない^^;)
しかし、賽運のなすがままかというと決してそうではなく、高度な戦略によって勝ちを呼び込めるのがバックギャモンの魅力だ。
ビルダーをどう配置するか。どのタイミングでバックマンを逃がすのか。堅実に行くのが吉か。欲張るのがベターか。
「ここで4が出ればっ、、相手のブロットにヒットして、、大逆転っ・・!!」ざわざわざわ、と、カイジみたいに熱くなる ゚Д゚
作戦が当たって大勝ちすることもあれば(『ギャモン勝ち』という)、逆に、相手の策略にはめられて負けることもある。
負ければ腹立たしいことこの上ないが、勝ったときの興奮がたまらない。この興奮を求めて、「もう1ゲーム」「もう1ゲーム」と止まらなくなる。

ドストエフスキーの『賭博者』は、明らかに作者の経験が反映された作品である。
あの世界的文豪も、「カイジ的ざわざわ」の魔力に憑りつかれていた。
この本によると、ギャンブルは賭博場だけにあるのではなく、そもそも人生自体がギャンブル的なんだ。
ちょっとしたフラストレーションがあって、ドキドキがあって、その結果に一喜一憂する感覚的報酬。
この構造は、ギャンブルの骨格であると同時に、人生の構造そのものでもある。
たとえば恋愛。愛の告白、うまくいくだろうか。
たとえば仕事。上司へのプレゼン、うまくいくだろうか。
報酬の喜びを目指して、ドキドキを抱えながら未知へ飛び込む。ギャンブルに興じる心は、人生を切り開く意欲と根っこは同じなんだ。
子供の頃を思い出すといい。遊びでさえ、ギャンブルだ。
かくれんぼ、鬼ごっこ、缶けり、泥警、、、
どの遊びにも、「うまいこといくかな」のドキドキがあって、成功したり失敗したりする。

構造をもっとクリアにまとめると、こういうことだ。
問題(ルール)→試行(思考も含む)→結果の開示(報酬あるいは損失)
「ドキドキして、たまにうまくいく」
この射幸心の快感こそが、ギャンブルの骨子である(ギャンブル的報酬)。
それとは別に、バックギャモンのネット対局で言えば、勝つたびにコインが貯まっていく快感もあるし(コレクション的報酬)、勝つときの効果音や光の点滅(体感的報酬)もある。

RPG形式のオンラインゲームも、敵との勝ったり負けたりがあり(ギャンブル)、アイテムが増えていき(コレクション)、仲間のプレイヤーと連帯したり(体感)、という感じで、結局報酬のパターンはすべてこの三つに集約されるのではないか。
ゲーム制作者は人間のこういう依存性をよく知っていて、ハマる工夫を随所に散りばめているはずだ。

だとすれば、逆に、僕らが習慣化したい行動を意図的にギャンブル化することで、新しい習い事の三日坊主を脱却できるのではないか。
たとえばジム通い。体を鍛えるということは、基本的には苦痛だから、なかなか続かない。しかし、ボディビルの大会に参加したり(勝つか負けるかわからないギャンブル)、毎日太くなる腕を観察したり(コレクション)、純粋に体を動かす喜びを味わったり(体感)して、つまり、しっかり報酬を意識することで、継続する可能性が上がると思う。

そういう意味では、このブログを書くこと自体、ギャンブルに似たところがある。
僕の書いていることが読者に伝わるかどうかわからない。わかってくれる人もいれば、反発する人もいるだろう(ギャンブル)。
毎日書き続ければ、過去の文章という形で残っていく。「文を書くということは、恥をかくということだ」と確か開高健のエッセーにあって、僕もこの点にまったく同意で、僕は恥ずかしくて昔書いた自分の文章が読めないのだけど^^;、ともかく、たまっていく(コレクション)。
思考を文章に落とし込んで、そして、ブログとして公共の視線にさらす。頭の内側を見られるようで、こんなに恥ずかしいことってない。でも、文章を紡ぎ出す最中はけっこう本気になっている。書き終えた後には、それなりの高揚感があったりする(体感)。

「ブログを書くことがギャンブル的?けっこうなことじゃないか。それならバックギャモンやめて、ブログ書きなよ」
うむ、しかし植木等がこうも言っている。
わかっちゃいるけどやめられない、と(←あかんやん)。