ナカムラクリニック

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2019年11月7日

田代まさし

2019.11.7

田代まさしの逮捕をマスコミが報じている。9年ぶり5回目の逮捕、ということで、ニュースとして特に新味はなく、多くの人が「ああ、またか」という印象を持ったことだろう。
NHKの番組で自身の失敗談を語ったり、YouTubeで自分のチャンネルを持つなど、世間への露出も徐々に増えていただけに、今度こそはちゃんと復活した様子があったが、やはり覚醒剤の恐ろしさは甘くなかった。

勤務医時代、アルコール依存やギャンブル依存の治療に関心があって、ダルクの講演会を何度か聞きに行ったが、演者に田代まさしが来たことがある。
「今、目の前に覚醒剤と吸引器があれば、どうするか。間違いなく、やります。ノーという自信はない。僕はまだ立ち直っていません。立ち直る途中なんです」
露悪的に言っているのではなく、自分の弱さを認めるのが強さ、みたいな文脈でそう語ったのだけど、その口調に妙に確信があって、あのときすでにやっていたのかな。

田代まさしはかつて売れっ子タレントだった。日本が空前の好景気に沸いたバブル時代に、テレビのレギュラー番組を何本も抱えていて、CMの出演本数も数え切れない。
ゴールデンタイムの番組でスポットライトを浴びる人気者で、どこに行ってもファンからちやほやされる。口座に振り込まれる金は、桁を数えるのに難渋するほど。
そんな黄金時代を経験している彼だから、芸能界への未練はあるはずなんだ。もう一度立ち直って、志村けんとコントをやりたい。
それなりの実力はあるし、芸能界へのコネクションもある人だから、彼は一度の失敗では終わらなかった。芸能界は再び彼を迎え入れた。しかし目をつぶるのは、せいぜい2、3回まで。再犯を繰り返すにつれ、助けの手を差し伸べる人はいなくなった。

ある雑誌のインタビューで、こんなやりとりがある。
記者「なぜ、やめられないんですか?薬物依存は自己責任で、強い意志さえあれば立ち直れる、とはならないんですか?」
田代「意志だけでやめられるんだったら、みんなやめてるよ。クスリの快感はね、もうハンパじゃない。覚醒剤を打った瞬間にものすごい量のドーパミンが出て、これ以上ない幸せが一瞬にして全身にめぐっちゃう。
芸能界の華やかなステージに立っている瞬間よりも、何よりも、気持ちいい。俺は芸能界を捨ててまでクスリに走った。何不自由なくいい生活をして、幸せな家庭があって、、、俺、けっこういいところにいたんだよ?それでもクスリはやめられない。
あのさ、芸能界でポッと出て一回売れるのはけっこう簡単なんだよ。一発屋とかいっぱいいるじゃん?でも、ずっと人気を維持して活動を続けるのってすごい難しいのよ。今まで何年もやってきて、毎日おもしろいこと言わなきゃいけないってことになってきて、それでだんだん疲れてきたの。そのときに、元気になるのありますよ、って言われちゃって、、、」

ここには正直な告白があると思う。
これまで築き上げてきたもの、すべてがどうでもよくなるくらいの覚醒剤の強烈な快感。売れっ子でい続けることのしんどさ。
この人は、根は素人なんだと思う。素人が、テレビで何度かおもしろいことを言って、ウケた。ヒットを何本か打っただけで、実力に不相応な人気が出てしまった。期待には答えたい。でも、自分には笑いの素養があるわけじゃない。漫才もやらないし、落語で腕を磨いたわけでもない。
素人に毛の生えた程度の実力しかなかった。その実力相応のところに落ち着いて、細々とやっていけば、芸能界にそれなりの居場所はあっただろうに。クスリに逃げるんじゃなくて、もっと別の身の引き方があっただろうに。

松本人志がこんなことを言っていた。
「自分はクスリは絶対に使わない。そもそも笑いというものが、人をハイにする麻薬みたいなものでしょう?本物の麻薬使っておもしろいことを言おうとするって、芸人として根本的に間違っている。人を笑わせて、自分がハイになる。それが芸人のあり方でしょ」
プロだね。長く第一線を張っている人は、やっぱりわかってる。

そもそも、クスリになんて手を出さないこと。まず、ここが初手。
しかしいったん使ってしまうとその後は、日頃のストレスだとか心の弱さ、みたいな話は吹っ飛んでしまう。覚醒剤の強烈な依存性という、純粋に生理的な問題と向き合うことになる。
覚醒剤の作用の凄まじさは、経験者に聞くのが一番わかりやすい。
“歌のお兄さん”杉田あきひろ「梅干しを見ると、つばがわくでしょう。あれと同じ。普通の人が白い粉を見ても何とも思わないけど、僕ら経験者が見ると、脳からよだれが出る。鳥肌が立って、性的快感の百倍強烈なあの快感が、欲しくてたまらなくなる。よく逮捕された人が、二度と手を出しません、と言うでしょう。あれは嘘。一度覚醒剤を使えば、脳の構造が変化している。目の前に差し出されたら、使わないわけがない」
某暴力団関係者「覚醒剤をセックス目的で乱用する人は多い。男の場合、長時間行為に没頭できるようになり、女は感度が格段に上がる。
耳かき一杯程度のシャブで2、3時間はセックスできる。快感が普段の何千倍にもなって、自分の場合は性器を触られるだけで、全身の毛穴から精液が放出されるような気持ちよさだった。もう死んでもいいと何度も思った」

「脳からよだれが出る」「全身の毛穴から精液が出る」「もう死んでもいい」
経験者がそれぞれの表現で、覚醒剤の快感を語っている。
こんな経験者の声を聞けば、「危ないな。使うのはやめておこう」じゃなくて、「いっぺん試してみたいな」と思ってしまうじゃないか(;゚Д゚)
しかしその快楽はあくまで一瞬の火花であり、それと引き換えに「人生」を差し出すことになる。
恐ろしいことだ。一度好奇心でやってみるには、代償があまりに大きすぎる。
松本人志は薬物に頼らずとも、「笑い」でハイになっている。人間はこうあるべきだと思う。つまり、外からの薬物摂取でハイになるのではなく、何かに熱く生きることで自前の脳内ホルモンを分泌してハイになる。この「何か」を見つけることだな。
ただし、僕の場合はバックギャモン以外で^^;

バックギャモン2

2019.11.7

「いやぁ、あっちゃん。前回の院長ブログはひどいよ。大嘘書いてるじゃないの。
バックギャモンに一時期ハマってたけど今は封印してる?将棋で我慢?
ウソもたいがいにしなよ!今、現に、バックギャモンにドハマりしてるじゃないか!それで全然ブログの更新もしなくなっちゃったじゃないか!
もうね、完全なバックギャモン廃人だよ。あのさ、依存症の人の治療とかも、あっちゃんするわけでしょ?
全然説得力ないよね。だって、医者本人がバックギャモン中毒なんだから。これって、ギャンブル依存症そのものでしょ。
頼むよ、あっちゃんのブログ、楽しみにしてる人もいるんだよ。あっちゃんにしか書けない記事とか情報発信があるんだからさ、ちゃんと立ち直ってよ。
もうさ、テーマは健康のことじゃなくても、何でもいい。とにかく、ブログを書きなよ」

言ってくれる人がいるというのは幸せなことである。
そう、ふとしたきっかけで、またバックギャモン熱に火がついた。以来、隙間時間を見つけては、延々サイコロを振っている(オンライン対局だから、正確には『サイコロをクリックしている』のだが)。
つくづく思うのは、このゲームの中毒性である。
 本 当 に 、 こ の ゲ ー ム は ヤ バ い 。
おもしろすぎるのである。
診療に影響は出ていない。仕事はしっかりやっている。課金してるわけではないから、金銭的に損失があるわけでもない。
『バックギャモン廃人』とはおもしろい表現だが、決して廃人ではない。基本的には、いつもと変わらない自分のつもりである。
ただ、診療以外の時間、つまり生活の余白すべてを、バックギャモンに捧げている。当然ブログにまわすエネルギーと時間はない。

しかし、親身な友人の言葉で僕も反省した。確かに、度が過ぎていると思う。
今日できっぱり、バックギャモンをやめよう。
友よ、大丈夫。心配ない。やめようと思えば、いつでもやめられるんだ(←依存症者の常套句´Д`)。
僕は仮にも精神科医で、心のプロである。悪習の断ち切り方、つまり、半ば習慣化した常同的な行動のやめ方はわかっている。

こういうときは、メタ認知が重要である。
ハマっている自分をきちんと意識する。なぜバックギャモンがこんなにおもしろいのか分析し、要素に分解する。対象から目を背けたり、ハマっている自分を見まいとするのではなく、むしろしっかり見つめて、原因に切り込むことだ。

日本史を習った人は、「賀茂川の水、双六の賽、山法師」という白河院の三不如意を覚えているかもしれない。
そう、強権をふるった白河法皇にさえ、サイコロの目はどうにもならなかった(歴史上の人物もバックギャモン中毒だったかと思うと、他人の気がしない^^;)
しかし、賽運のなすがままかというと決してそうではなく、高度な戦略によって勝ちを呼び込めるのがバックギャモンの魅力だ。
ビルダーをどう配置するか。どのタイミングでバックマンを逃がすのか。堅実に行くのが吉か。欲張るのがベターか。
「ここで4が出ればっ、、相手のブロットにヒットして、、大逆転っ・・!!」ざわざわざわ、と、カイジみたいに熱くなる ゚Д゚
作戦が当たって大勝ちすることもあれば(『ギャモン勝ち』という)、逆に、相手の策略にはめられて負けることもある。
負ければ腹立たしいことこの上ないが、勝ったときの興奮がたまらない。この興奮を求めて、「もう1ゲーム」「もう1ゲーム」と止まらなくなる。

ドストエフスキーの『賭博者』は、明らかに作者の経験が反映された作品である。
あの世界的文豪も、「カイジ的ざわざわ」の魔力に憑りつかれていた。
この本によると、ギャンブルは賭博場だけにあるのではなく、そもそも人生自体がギャンブル的なんだ。
ちょっとしたフラストレーションがあって、ドキドキがあって、その結果に一喜一憂する感覚的報酬。
この構造は、ギャンブルの骨格であると同時に、人生の構造そのものでもある。
たとえば恋愛。愛の告白、うまくいくだろうか。
たとえば仕事。上司へのプレゼン、うまくいくだろうか。
報酬の喜びを目指して、ドキドキを抱えながら未知へ飛び込む。ギャンブルに興じる心は、人生を切り開く意欲と根っこは同じなんだ。
子供の頃を思い出すといい。遊びでさえ、ギャンブルだ。
かくれんぼ、鬼ごっこ、缶けり、泥警、、、
どの遊びにも、「うまいこといくかな」のドキドキがあって、成功したり失敗したりする。

構造をもっとクリアにまとめると、こういうことだ。
問題(ルール)→試行(思考も含む)→結果の開示(報酬あるいは損失)
「ドキドキして、たまにうまくいく」
この射幸心の快感こそが、ギャンブルの骨子である(ギャンブル的報酬)。
それとは別に、バックギャモンのネット対局で言えば、勝つたびにコインが貯まっていく快感もあるし(コレクション的報酬)、勝つときの効果音や光の点滅(体感的報酬)もある。

RPG形式のオンラインゲームも、敵との勝ったり負けたりがあり(ギャンブル)、アイテムが増えていき(コレクション)、仲間のプレイヤーと連帯したり(体感)、という感じで、結局報酬のパターンはすべてこの三つに集約されるのではないか。
ゲーム制作者は人間のこういう依存性をよく知っていて、ハマる工夫を随所に散りばめているはずだ。

だとすれば、逆に、僕らが習慣化したい行動を意図的にギャンブル化することで、新しい習い事の三日坊主を脱却できるのではないか。
たとえばジム通い。体を鍛えるということは、基本的には苦痛だから、なかなか続かない。しかし、ボディビルの大会に参加したり(勝つか負けるかわからないギャンブル)、毎日太くなる腕を観察したり(コレクション)、純粋に体を動かす喜びを味わったり(体感)して、つまり、しっかり報酬を意識することで、継続する可能性が上がると思う。

そういう意味では、このブログを書くこと自体、ギャンブルに似たところがある。
僕の書いていることが読者に伝わるかどうかわからない。わかってくれる人もいれば、反発する人もいるだろう(ギャンブル)。
毎日書き続ければ、過去の文章という形で残っていく。「文を書くということは、恥をかくということだ」と確か開高健のエッセーにあって、僕もこの点にまったく同意で、僕は恥ずかしくて昔書いた自分の文章が読めないのだけど^^;、ともかく、たまっていく(コレクション)。
思考を文章に落とし込んで、そして、ブログとして公共の視線にさらす。頭の内側を見られるようで、こんなに恥ずかしいことってない。でも、文章を紡ぎ出す最中はけっこう本気になっている。書き終えた後には、それなりの高揚感があったりする(体感)。

「ブログを書くことがギャンブル的?けっこうなことじゃないか。それならバックギャモンやめて、ブログ書きなよ」
うむ、しかし植木等がこうも言っている。
わかっちゃいるけどやめられない、と(←あかんやん)。