ナカムラクリニック

阪神・JR元町駅から徒歩5分の内科クリニックです

2019年8月

偽医者

2019.8.25

製薬会社が主催する薬の説明会なんかに参加して、資料と一緒に弁当をもらって、弁当つまみながらMRの話を聞いたりする。
医者なら誰しも経験していることだ。そういう勉強会は、年に一回二回、なんていうレベルじゃない。科によって頻度は多少違うだろうけど、ほぼ毎週のように行われたりする。
弁当は食ったら胃袋に消える。資料は説明会が終わればすぐに捨てる。
でも、手元に残るものがある。
資料と一緒に渡されるボールペンだ。

紙カルテを使っていた頃ならともかく、電子カルテの時代に、手書きでものを書く機会は確実に減っている。つまり、ボールペンはなかなか消耗しない。
しかし製薬会社主催の勉強会に参加するたびに、資料は捨ててもボールペンは捨てないものだから、1本ずつ着実に増えていく。
勤務医の机の中をこっそりのぞいてみるといい。他の何があるか知らないが、少なくとも、大量のボールペンが見つかることは間違いない。
医者は、研修医の2年間だけで、一生使いきれないほどのボールペンを入手することになる。

掃いて捨てるほどある、そんなボールペンが、なんとメルカリで高値で取り引きされているというのだから、信じられない。
「製薬会社 ボールペン」で検索してみたら、本当だった。

なぜなのか?
値段がつくということは、それだけの需要があるということだろう。
一体どこの誰が、こんなものを欲しがるのか?
ポイントは、製薬会社のロゴ入り、というところにある。普通の百均で売ってるようなボールペンではダメで、製薬会社のオリジナル製品であるところに意味がある。

医者ではないものの医者のフリをしたい、という人が一定数存在するんだな。
本当は妻子持ちなのに、マッチングアプリなんかで女の子を捕まえて遊びたい。自分のプロフィール欄に「医師」と名乗る。もちろん経歴詐称であり、偽医者ということになる。
実際に女の子に会ったときにいろいろ突っ込まれても矛盾が出ないように、自分の中でしっかり設定は作り込んである。「35歳、外科医。某病院の消化器外科に勤務」みたいな。ふとしたときに使う筆記具が、製薬会社が薬の宣伝にばらまくボールペン。ペン回しなんかしながら「MRがペコペコしてきてね、うっとうしいんだよ」なんてグチをこぼしてみせる。
さりげない小道具として、効果的に使おうというわけだ。

断言するけど、本物の医者なら、自分を医者っぽく見せるために製薬会社のボールペンを使おうとか、思いもしない。
ニセモノだからこそ浮かぶ発想に違いないんだけど、僕はこの発想をおもしろいと思った。

僕は全然医者っぽく見えない。顔が妙に焼けてて体も鍛えてる感じで、初対面の人はドカチンだと思うだろう^^;どんなに医者っぽく見えなくても、一応本物の医者だから、身分は医師免許が保証してるわけだし、あえて医者っぽくふるまおうなんて、そういう発想自体がないのね。
医者じゃない人が医者っぽくふるまおうとなったときに、どういう努力をして(多少の医学知識や薬の名前を覚えたり)どういう工夫をするのか、すごく興味深い。

うろ覚えだけど、昔『いいとも』で「誰が本物の医者か当てましょう」みたいな企画をやってた。
スタジオに数名の偽医者がいて、そのうち本物は1人だけ。みんな姿はすりガラスで隠してて見えない。質問すれば返事は返してくれる。声も変えてある。
偽医者の一人としてタモリも参加してたんだけど、僕は完全にダマされた。「この人が本物だろう」と思った人が、タモリだった。
タモリはああいうのやらせたら、ものすごくうまいな。

「本物であること」と、「本物っぽいこと」はまったく違う。
前者は本物ゆえの自信のせいか、本物であることをひけらかさないんだけど、どこかに本物ゆえの怠慢があって、かえってニセモノっぽく見えたりする。
逆に、ニセモノは、本物になるための努力をしてて、かえって本物っぽかったりする。

警察官に憧れていて、でも警察官採用試験にどうしても受からなくて、でも警察官への憧れ捨てきれず、自分で制服とか作ってニセモノの警察官としてふるまって、結局それが本物の警察にバレて逮捕された人の話を読んだことがある。
こういう話って妙に惹かれる。
ニューハーフのほうが普通の女よりも女らしい、みたいなことを聞いたりもする。
自分がなれないものになろうとして、いろいろ工夫したり頑張ったりする。一線を越えようとする努力。
「ないものねだり」が人生の本質なんよねぇ。

ローヤルゼリーと生殖

2019.8.24

ローヤルゼリーが熱傷による瘢痕に効いた、ということを以前ブログに書いた。
瘢痕の部分に塗布することで著明に改善した、と書いたんだけど、実は塗るだけではなく、経口でも摂取していた。
有効成分が経皮的に吸収されて瘢痕に直接的にアプローチするだけでなく、食べて消化管から吸収されることで、内側から効果があるのではないかと期待していた。

実際、美肌にも効果があった。
あくまで個人的な感覚だけど、肌の張りが増した。日焼けしても、色むらなくきれいに焼けて、日焼け後のダメージが少ない。
これは予想していたことではあったが、やはりうれしかった。

以前のブログで、ローヤルゼリーによって「皮膚の潤い、経皮的水分喪失、皮膚の弾性、皮膚の厚み、抗酸化力(アスコルビン酸、尿酸、グルタチオン)」といった評価項目が改善したという論文を紹介した。
また、「熱傷箇所にローヤルゼリーを塗布することで、デフェンシン1が角化細胞からのMMP9分泌を促進し、創傷治癒に効果がある」という論文も紹介した。
つまり、ローヤルゼリーは経皮的にも効くし経口摂取でも効くのは、論文が実証済みということだ。
経口摂取によって、デフェンシン1が全身の角化細胞に働きかけて、全身の皮膚に好ましい効果を発揮するのだと思う。
美容のためにローヤルゼリーを習慣的に飲んでいる人は、こういう事実を、自分の肌で、知っていることだろう。

たとえば、「貧血の人が鉄剤を飲んでヘモグロビン値が改善した」「壊血病の人がビタミンCを飲んで血中アスコルビン値が改善した」とか、けっこうなことだ。
ただあえて難をいうなら、こういう治療って、やや直接的に過ぎるのね。
「鉄が不足してる→鉄を入れる→治る」「ビタミンCが不足してる→ビタミンCを入れる→治る」
そりゃそうだよなっていう話なんだけど、これが最上の治療かというと、そうではないと思う。
一番の理想は、食養生という言葉があるように、食べ物によって治すことだと思うんだ。
レバーや肉っ気を多めに摂ることで貧血が治る、柑橘類を意識的に摂って壊血病が治る。
遠回りのようでいて、実はこういうのが一番着実な治り方じゃないかな。

何が言いたいのかというと、ローヤルゼリーを摂ると血中アスコルビン酸濃度やグルタチオン濃度が上がるんだけど、これは「予防医学かくあるべし」という見事な例証になっていると思う。
食品中に含まれている栄養素がどのように代謝されていくのか、その代謝プロセスを図にしたカスケードがあるでしょう。
何らかの栄養素を補うのであれば、そのカスケードの上流に位置するものであればあるほど、体への負担が少なく、じっくり着実に治してくれる。
これが基本原則だ。
即効性はないよ。だから、現に何らかの症状を示している人に対しては、メガビタミン療法は強い味方になる。
でも日々の健康維持という意味合いなら、結局食養生が一番だ。

「グルタチオンは抗酸化作用があって体にいいというけど、グルタチオンの構成要素であるシステインは糖尿病を引き起こす可能性があるらしんですけど、どう思いますか?」
患者からの質問。
へー、知らなかった。僕にも知らないことはたくさんある。こういう場合は、原則に戻ろう。
グルタチオンのサプリがいいのか悪いのか、僕も知らない。論文を検索すればエビデンスがいろいろあるだろうけど。
ただ、ある栄養素のサプリを摂って「直接増やす」アプローチよりは、間接的ながら「(何か知らんけど)結果的には増えてた」みたいなアプローチが無難であることが多い。
こういうとき、結局、食品に帰着するんだな。
「ローヤルゼリー食べてればいいんじゃない?」と助言する。
血中グルタチオンも上がって、美肌になって、女性としてはうれしいことこの上ないはずだ。値段がちょっとお高いけどね^^;

「その成分を直接補うよりは、カスケードのより上流のものを」というのは、「精製(refine)した物質よりは、より素材に近い粗野(crude)なものを」と言い換えてもいい。
ケルセチンのサプリが売ってる。玉ねぎの粉を自分でミキサーにかけて食ってたらいいんじゃないの?
DHEAのサプリが売ってる。山芋とか自然薯をすりおろして食べればいいんじゃないの?
とかね、ほとんどのサプリは食品での代替が可能なんだけど、これは先祖返りみたいだ。
「食品で摂るのが困難だから、毎日手軽に摂るために」ということがサプリの存在意義だから、「食品に帰れ」という主張はサプリの否定みたいになっちゃうな。
でも否定してるわけじゃないんだよ。サプリは便利な道具だから、どんどん利用すればいい。
ただ、手段と目的がいつのまにか混同されて、食べ物で簡単に摂れるものまで「サプリで摂らないと!」みたいになってる状況は、本末転倒だと言いたいだけなんだ。

食品にはサプリにはないbonanza(思わぬタナボタ)があるものだよ。
ローヤルゼリーを飲むようになってから、それを如実に実感した。
飲み始めてどれくらい経ったときかな、やたらとね、朝に息子が元気になった。
起床後トイレに行ったときに、固くなったモノが邪魔でおしっこがしにくい、なんていう経験は二十代以来絶えてなかったことだ^^;
おかしい。なぜだ。なぜ急に朝立ちするようになったのか。
原因はローヤルゼリーしか考えられない。

ローヤルゼリーというのは、女王蜂(あるいは女王蜂になる予定の幼虫)だけに許された食べものだ。
働き蜂が食べるのは花粉やハチミツで、女王蜂はローヤルゼリーしか食べない。この食べ物の違いによって、女王蜂はまったく別の生物のようになる。
体の大きさは2~3倍、寿命は30~40倍にもなって、毎日約1500個の卵を産み続ける。働き蜂は卵を産めない。
蜂の社会で生殖能力を持つのはローヤルゼリーを食べる女王蜂だけだ。
どうですか。こういう記述を読んでいると、ローヤルゼリーは、いかにも「生殖の象徴」という感じがしませんか^^;

実際、ローヤルゼリーが生殖の不調に効くという研究は多い。
たとえばこんな論文。
『高齢の高血圧マウスにローヤルゼリーを投与すると陰部動脈が弛緩して勃起機能が回復する』
https://www.fasebj.org/doi/abs/10.1096/fasebj.25.1_supplement.641.26
マウスだけではなく、ヒトでの研究もある。
『男性不妊に対するローヤルゼリーの効果』
https://www.iasj.net/iasj?func=article&aId=47761
男性不妊には様々な原因があり、従って様々な治療アプローチがあるものである。
精液の分析は、男性側の生殖能力を判断するために用いられるが、妊娠が成立したというそのこと自体が、精子の能力が改善した証拠である。
男性の生殖能力は、食事や栄養の影響を受けるが、先行する研究には男性不妊に対するローヤルゼリーの治療効果を検証したものは存在しない。
83人の不妊男性に協力してもらい、このうち22人にはローヤルゼリーを1日100㎎、21人には50mg、20人には25mg、20人にはハチミツを投与した。
治療から三か月後、精子の活動性、テストステロン濃度、黄体化ホルモン濃度、低運動性精子、週当たりの性交回数が、ローヤルゼリー投与群では有意に増加した。
ただし、精子数やFSH濃度には有意な上昇は見られなかった。この治療は安全で、副作用は見られなかった。
結論として、ローヤルゼリーは安全で、不妊治療に効果的だと言える。

最近、不妊に悩むカップルが増えていると聞く。そういう人にとって、この研究は朗報ではないか。
僕のように特にパートナーがいない人にとっては、ムダに性機能が高まっても煩悩が高まるだけで、それこそムダなんだけどね^^;

筋トレ2

2019.8.23

ジムに置いてあるテレビに、全盛期のシュワルツネッガーを扱ったドキュメンタリーフィルム『パンピング・アイアン』がエンドレスに流れてて、トレーニングの合間にちょっと見たりする。
シュワルツネッガーといえばハリウッド俳優のイメージだけど、まず彼は何よりも、ボディービルダーだった。ミスター・オリンピア(ボディービルの世界最高峰の大会)で6連覇と無敵の強さを誇り、その経歴を引っさげて映画界に進出した。
ドイツ語なまりの妙な英語で、役者としての演技は大根なんだけど^^;、何よりもその肉体に圧倒的な説得力があって一躍映画界のスターになった。

映像を見ながら、彼のバルクのすごさに息を飲む。
どれだけの運動量をどんなふうにこなせばあんな体になれるのか。明確な理論と方法と、そして何より、血のにじむ努力があったに違いない。
僕にとって筋トレはちょっとした趣味であって、食事とか能率とかまったく考えないでやっている。
しかし本気を出して取り組めば、少しでもあんな体に近づけるだろうか?

僕は凝り性だから、もし本格的にボディービルをやるとなれば、徹底的に能率を考える。
本気で能率を考えるのであれば、ステロイドにさえ手を出すかもしれない。
こういう文脈でいう「ステロイド」は、副腎皮質ホルモンではなく、タンパク同化ホルモン(アナボリックステロイド)のことだ。
たとえば、アーノルド・シュワルツネッガーの写真。
全身これ筋肉!という体でしょう?

一方、下はボディービルのある国内大会(ミスター東京)の上位入賞者。

皆さんすごい体だけど、なんというか、シュワルツネッガーの体を一回見てしまうと、ずいぶん見劣りすると思いませんか。
この人たちが、努力の点でシュワルツネッガーにまったく及ばないかというと、全然そんなことない。
ボディービルの東京大会は、競技人口の多さから、一地方大会とは言い難いほどの激戦区で、上位入賞者は実質日本のトップレベルだといって差し支えない。
それなのに、シュワルツネッガーの体には遠く及ばない。
この違いは何なのか。
答えははっきりしている。ステロイドの使用の有無だ。
シュワルツネッガーはステロイドの使用を公言している。一方、この上位入賞者らはおそらくナチュラルだろう。

どんなに食事制限して高重量にこだわったトレーニングをしても、壁に突き当たって伸び悩む。努力だけでは、どうやったって超えられない壁がある。
しかしステロイドは、その壁をやすやすと超えさせてくれる。ナチュラルを貫くのがバカバカしいほど、ものの見事にすばらしい肉体にしてくれる。
しかしその代償は、安くはない。こんな論文がある。
『アスリートにおけるアナボリックステロイドの副作用』
https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/S0378427405001700
ステロイドは筋肥大、身体能力の向上をもたらすが、それと引き換えに様々な副作用がある。男性では不妊、女性化乳房、女性や子供では男性化が見られる。
その他の副作用としては、内臓障害、高血圧、動脈硬化、血栓、黄疸、肝臓癌、腱損傷、精神障害などがある。

陸上競技は、スポーツ医学やトレーニング法の進歩によって、世界記録がどんどん更新されていくものだ。
しかし、オリンピック女子100メートル、200メートルに関しては絶対的な例外になっている。ソウルオリンピックでジョイナーが世界記録を打ち立てて以後、30年以上経っても誰もこの記録を超えられない。
超えられないどころか、「もうちょっとで世界記録更新できたのに、惜しいな」みたいに肉薄する選手さえいない。
ジョイナー、女性にはありえない体格してたもんなぁ。

ビキニ着て髪の毛長いけど、体だけ見れば男でしょ^^;
トレーニングで作れる体じゃない。
彼女も若くして死んだ。不滅の記録の代償に、健康を犠牲にしたわけだな。

ボディービルダーの不健康さを示す研究は多いんだけど、ボディービルが体に悪いのではない。多くの研究は、ステロイドによる悪影響を指摘している。
ステロイドを使うというのは、悪魔と契約を交わすことだ。「お前に鋼の肉体を与えてやろう。しかしお前の健康寿命をもらう。それでもいいのだな?」
シュワちゃんみたいにスターになってさらに州知事にまでなって今も長生きしてる、となれば割に合う契約かもしれないけど、シュワちゃんは例外と考えるべきで、統計が示す事実はそうではない。

ボディービルダーが不健康な理由として、ステロイド以外に、サプリメントの悪影響を示す論文があった。
BCAA(分枝鎖アミノ酸)のサプリがALSの原因ではないか、という論文。
「強さは必ずしも善ならず〜ボディービル用サプリがALSの原因か」
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3049458/
結局、急がば回れで、僕みたいに能率無視で、筋トレ用のサプリとかプロテインとか飲まずに普通にコツコツ鍛えてるのが、案外一番リスクがないんじゃないかな。

筋トレ1

2019.8.23

毎日ジムに行くようにしている。
できれば1日に2回、朝仕事前に行き、仕事を終えた夕方にもう一度。

ジムでは自分なりに決めたルーチンがある。
筋肉がきちんと「悲鳴をあげる」だけの負荷をかけ、かつ、オーバーワークにならない程度の運動量を、淡々とこなす。
ジムに長居はしない。鍛える実動時間はせいぜい30分ほど。

何のための筋トレか。
ボディービルの大会に出るとか、具体的な目標があるわけではない。
健康になるためでもなければ、やせるためでもない。
ただ、漠然とながら、「筋肉をつけたい」とは思っている。

やせるためのトレーニングと筋肉をつけるためのトレーニングでは、当然メニューが違ってくる。
やせるためには「低重量、高レップ(回数)」、筋肉をつけるためには「高重量、低レップ」が基本だ。
たとえばアームカール。10kgのダンベルで10回するのと、1kgで100回(あるいは100gで1000回)するのとでは、物理でいう仕事量としては同じでも、体への影響は相当に違う。
前者は筋肥大、後者は引き締めの効果があるとされる。
瞬発力が身上の白筋(速筋)、持久力が売りの赤筋(遅筋)。
どちらの筋肉を鍛えるのか、という話だ。
目的が筋肥大なら、軽いウェイトでダラダラ長くトレーニングを続けても仕方ない。
だから僕は、ジムにいるのは30分だけ。
さっさと筋肉をいじめて、さっさと帰る。

特に食事に気を遣っているわけでもない。
もちろん、仕事柄患者に食事改善や栄養指導をする立場だから、健康的な食事を心がける、という意味での気は遣っている。ただ、筋肥大にプライオリティを置いた食事では全然ない、ということだ。
鶏のササミや卵をたくさん食べて、プロテインをこまめ飲んで、カーボローディングして、みたいなことは全くしていない。

「健康のためにプロテインを」と説く先生がいる。プロテインがある種の病態改善に有効なときもあるだろう。しかし筋肥大への効果は疑わしい。たとえばこんな論文。
『栄養状態良好な閉経後女性が2年間ホエイプロテインを摂取したものの、筋肉量は増えなかったし身体機能も向上しなかった』
https://academic.oup.com/jn/article/145/11/2520/4585841
プロテインが筋肉の増量に、あるいは少なくとも筋肉の減少(サルコペニア)を防ぐのに有効なら、高齢者のQOL維持のためにはプロテインを奨励すべき、ということになる。でもこのRCTでは有意差が出なかった。プロテインの摂取は、無意味だったってこと。

「筋トレといえばプロテイン」と、連想ゲームのようにプロテインが浮かぶのは、業者の販売促進戦略のたまものだ。あんまり乗せられないようにしよう。
そもそも僕は、現代の畜産業で作られる牛乳は体に悪いと思っている。その牛乳から精製して作ったプロテインが体にいい理屈はない。よほど食事のバランスが崩れている人ならプラスになるだろうけど、普通に食事でタンパク質がとれるなら、あえてプロテインを補う必要はないんだよ。
しかし、アメリカ産牛肉を食べないように気をつけている人でも、アメリカ産プロテインとなれば何ら抵抗なく口にするあの心理って、一体何なんだ?
遺伝子組み換え飼料を食わされ抗生剤やホルモン剤を投与された牛のミルクも、パウダーにすれば毒性がチャラになるとでも?

筋トレの能率、なんていうのも全く考えていない。
たとえば、超回復を意識した部位別トレーニング、という筋トレがある。ボディービルの大会を目指してやり込んでいるような人なら必ず実践している方法だ。
筋トレとは何か?一言でいうと、筋線維にダメージを与えることだ。
ダメージを受けた筋線維は、休養と栄養補給によって回復する。このとき、以前の状態よりも少し太くなって回復する。これを超回復という。
超回復、、、ドラゴンボール的というか、中2っぽい響きがある言葉だな^^;

超回復は、筋トレをやってから48〜72時間の休養を経て起こると言われている。
だから、同じ部位を毎日コツコツと鍛えても、24時間の休憩では超回復が起こっていない(筋線維の回復が追いついていない)わけだから、筋トレの能率が悪いのはもちろん、過負荷による筋損傷のリスクさえある。
だから、能率を考えるのであれば、鍛える筋肉は部位別にローテートすることが望ましい。月曜に腕を鍛えたら、火曜は足を、水曜は胸を、木曜になってようやく再び腕を、という感じだ。

こういうトレーニング法があるのはわかっている。
わかっているが、採用していない。なぜか。
僕の筋トレには、具体的な目標がないからだ。能率という言葉が生きるのは、目標があってこそだろう。これといった目標のない筋トレなのだから、能率は度外視でいいんだな。

できるだけ毎日ジムに行く。能率より何より、まずこれが目標。
正直どうしても気乗りしないときはある。何となくしんどいなぁ、イヤやなぁって。
そういうときは「とりあえずベンチプレスだけやりに行こう」と考える。
ベンチ60kgを10回3セット。それだけでいい。他はしなくていいから、それだけをやりに行こうと考える。
気分がちょっと軽くなって、ジムに足が向かう。
ベンチをやる。すると、もう「スイッチ」が入っている。せっかくだからついでにデッドリフトもやっとこうかな、みたいになって、結局ルーチンをひと通りこなしている。
そんな具合に、自分をだましだまし1年間ジムに通い続けた。

熱が38度以上あるのにジムに行ったときには、ごうちゃんもさすがにあきれてた。
「頑張ってるというかさ、依存症なんじゃないの?」
そうかもしれない。
「それがなければ、落ち着かない」というのが依存の定義だとすると、「筋肉への刺激と適度な疲労感、そして今日もちゃんとジムに行ったんだという事実」、これなしでは落ち着かない僕は、もはや筋トレ依存なのかもしれない。

「すごい体だね」と言われる。いや、全然すごくないよ。
やるかやらないか、そして「やる」を毎日継続する。それだけのこと。
誰でもこんなふうになれる。

食べ物に気を遣わなくても、能率を考えなくても、この程度まではいけるということだ。
筋肉は鍛えれば外から目に見えるけど、外から見えない内面の能力を磨いてるもっとすごい人は、世の中にいっぱいいると思う。でも精神の練磨は、人の目に触れない。
そういう意味で筋肉を鍛えるのは、努力の結果がすぐに体に反映される分、なんというか、コスパがいいな。
筋トレ、皆さんも始めてみませんか。

進化論

2019.8.20

また朝が来てぼくは生きていた。夜の間の夢をすっかり忘れてぼくは見た。柿の木の裸の枝が風にゆれ、首輪のない犬が日だまりに寝そべっているのを。 
百年前ぼくはここにいなかった。百年後ぼくはここにいないだろう。あたり前なところのようでいて、地上はきっと思いがけない場所なんだ。 
いつだったか子宮の中で、ぼくは小さな小さな卵だった。それから小さな小さな魚になって、それから小さな小さな鳥になって、それからやっとぼくは人間になった。
十ヶ月を何千億年もかかって生きて、そんなこともぼくら復習しなきゃ。今まで予習ばっかりしすぎたから。 
今朝一滴の水のすきとおった冷たさが、ぼくに人間とは何かを教える。魚たちと鳥たちとそして、ぼくを殺すかもしれぬけものとすら、その水をわかちあいたい。

谷川俊太郎の『朝』。何回読んでも味わい尽くせないような魅力を感じる。
詩に対して、解説めいたことを言うのは不粋だ。
詩は、詩として、そのまま味わうのが正しい鑑賞の仕方だと思うけど、ここではあえてその不粋を犯して、野暮ったいことを言おう。

一読して分かるように、この詩はダーウィンの進化論を背景にしている。
特に、ダーウィンの影響を強く受けたヘッケルの反復説「個体発生は系統発生を繰り返す」をモチーフにしている。
小さな卵だった「ぼく」が、進化の過程で、魚になって、鳥になって、やがて人間になった。
百年前も百年後もこの世にいない「ぼく」だけど、子宮のなかで自分の由来を復習して、生まれてくる。
「何千億年」は地球の歴史が46億年であることを考えると、詩人独特の表現だろう。
最終節「ぼくを殺すかもしれぬけもの」というのは、ライオンや虎のような肉食獣を念頭に置いての表現だろう。
そういう獣さえ、「ぼく」に連なる進化の系譜のひとつであり、かつ、魚や鳥と同様、水を分かち合う仲間なんだ。

そう、進化論。
発表当時から学者の間のみならず、宗教者をも巻き込んで大論争を引き起こしたし、今なお議論がある。
進化論によって、整合的に説明できる事柄もある。
たとえば共生説。真核細胞のなかにあるミトコンドリアや葉緑体は、原核細胞が起源だとする考え方だ。
二重膜であること、宿主からある程度独立して増殖し内部に独自のDNAを持つこと、内部に原核細胞性の蛋白質合成系が存在することなど、共生説によってクリアに説明がつく。
原核生物が共生を通じて真核生物に、そして多細胞生物へと進化していくという理屈には、一定の説得力がある。

一方、批判もある。たとえばキリン。なぜあんなに首の長い、奇妙な生物が生まれたのか。ダーウィンは、厳しい環境がランダムに起こる突然変異を選別し(自然淘汰)、進化に方向性が与えられる、と説く。首が長いことが生存に有利な状況下で、その形質が次第に強まり、結果、現在の首の長いキリンが誕生した、というわけだ。しかし、現在のキリンへと繋がる中間形態の生物は、化石資料からは確認されていない。
進化論は理屈としては興味深いが、それを裏付ける根拠がほとんどない。

進化論にとって、さらに逆風の研究が現れた。

[特報]ダーウィンの進化論が崩壊 : かつてない大規模な生物種の遺伝子検査により「ヒトを含む地球の生物種の90%以上は、地上に現れたのがこの20万年以内」だと結論される。つまり、ほぼすべての生物は「進化してきていない」


人間を含む現在地球上に存在する生命種のうちの 10種のうち 9種が 10万〜 20万年前に出現したことが明らかになった、という。
学者の推測でもなければ、妄想でもない。
アメリカ政府が運営する遺伝子データバンクにある 10万種の生物種の DNA と500万の遺伝子断片( DNA バーコードと呼ばれるマーカー)を徹底的に調べた結果、この結論に至ったのだ。

衝撃的な研究だと思う。
進化論に決定的にとどめを刺す一撃であり、生物学のパラダイムを根底から変える研究だろう。
元論文はこれだろう。
https://phe.rockefeller.edu/docs/Stoeckle_Thaler%20Human%20Evo%20V33%202018%20final_1.pdf
冒頭にわざわざ、こんな断りがいれてある。
「本研究はダーウィンの進化論を強く支持するものである。つまり、すべての生物は数十億年にわたる共通の生物学的起源を持ち、進化してきた、という理解に基づいた研究である。『アダム』や『イブ』のような単一の生物起源を提唱していないし、聖書にある大洪水のようなカタストロフによる淘汰が起こった、などという主張もしていない」
なぜこんな、蛇足としか言いようのない言葉を冒頭に添えているのだろうか。
内容があまりにもセンセーショナルだから、著者らはこの論文が世の中に与える影響を懸念したのかもしれない。
しかし、幸か不幸か、その心配は杞憂だった。学会でまともに相手にされていないどころか、マスコミもまったく取り上げていない。

進化論が正しくないとすると、何が正しいのか。
ほとんどの生物は、20万年前から10万年前のあいだに、「突如として」地球上に現れた、ということになる。
どこから来たのだろう?宇宙人が運んできた?
どうしてもオカルトめいた話になってしまう。こういう話、僕は好きなんだけどね^^;

進化論が否定されるということは、ヘッケルの「個体発生は系統発生を繰り返す」も否定されるということだろう。
となると、先にあげた僕の好きな詩も、前提となる根拠を失うことになるんだけど。。
それにもかかわらず、やっぱりこの詩はそれ自身のなかで完結していて、美しいままだと思うんだな。