ナカムラクリニック

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2019年1月28日

甘草

2019.1.28

漢方薬に使われている生薬のなかで、最もメジャーなのは甘草だろう。
非常に多くの漢方処方に含まれている。
まず特徴的なのは、その甘さ。砂糖の何十倍も甘く、しかも砂糖の甘さとは違う独特の風味がある。
甘さの立ち上がりが砂糖よりも遅く、後を引くが、この性質を生かして、西洋では昔から甘草のお菓子やアメ(リコリスキャンディー)が作られている。
漢方薬を飲んだことがある人にとっては、おなじみの味だろう。

甘草に含まれているグリチルリチンという成分に関しては、「多量摂取(漢方薬を不必要にたくさん飲むなど)によって、偽性アルドステロン症になる」ぐらいのことは医学部の授業でも習う。
でも一般の人は、こんな記述を見ても面食らう。まず「アルドステロン症」とか言われてもわからないのに、それの「偽性」と言われても意味不明だろう。
アルドステロンというのは副腎皮質から分泌されるホルモンで、腎臓の尿細管でナトリウムとカリウムの交換を促進し、尿とともにカリウムイオンと水素イオンを排泄する働きがある。
高血圧を発症する人のなかには、アルドステロンの過剰が原因になっている人がいて、そういう病態のことをアルドステロン症という。
一方、甘草の多量摂取などによって、血中アルドステロン濃度は正常であるにもかかわらず、まるでアルドステロン症のような症状を呈することから、これを偽性アルドステロン症という。
アルドステロン症であれ、その偽性であれ、カリウムを捨ててナトリウムを貯める形になる。ナトリウム(塩っ気)と水はだいたい連動して動くものだから、アルドステロン過剰によって体のなかに水もたまりがちになる。
結果、血管内の水分増量により高血圧、間質の水分増量により浮腫、という症状が現れることになる。

多量摂取で毒性が出るからといって、それが危険な物質だとは限らない。
醤油や酢にさえ、致死量があるぐらいなんだ。
「適量なら薬、摂り過ぎれば毒」
この性質はほとんどの物質に当てはまりそうな気がする。
甘草もその一つだ。
こんな論文があった。『肝臓病治療におけるグリチルリチン酸』
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC4052927/
要約
「グリチルリチン酸(GA)は甘草の根に含まれるトリテルペングリコシドである。GAは甘草の根に含まれている最も重要な活性成分で、広範囲の薬理学的・生物学的活性を持つ。
GAは、グリチルレチン酸、18βグリチルレチン酸とともに、肝臓疾患に対する抗炎症、抗ウィルス、抗アレルギー作用のある成分として、主に中国および日本で研究が進んだ。
本レビューでは肝臓病に対するGAおよびその派生物の生物学的活性をまとめたものである。
GAの薬理学的作用には、肝細胞のアポトーシス(自死)、ネクローシス(壊死)の抑制、抗炎症および免疫調整作用、抗ウィルス作用、抗腫瘍効果などがある。
本論文は医師およびGAを研究する生物学者に有益な参考資料となるだろう。」

本文には、たとえば抗炎症作用がどのような機序で生じるのか(IL6やTNFαを介してどうのこうの)などが詳しく書かれている。
甘草研究の集大成、と言いたいぐらいによくまとまったレビューだ。
ただ、こういうのは専門家が読むのはいいけど、一般の人が読むには内容が固すぎるかもしれない。

安保徹先生が著書のなかで、甘草について言及している。
一般の人にもわかりやすい切り口なので、紹介しよう。
まず、グリチルリチンの構造式をご覧ください。

何となくステロイドホルモンの構造式に似ている。
甘草の摂り過ぎでアルドステロン症が起こるのは、こういう構造式の類似を見れば腑に落ちる感じがする。
正常マウスの腹腔内にグリチルリチンを投与しても何も起こらないが、G-CSFを投与して顆粒球増多を誘導したマウスにグリチルリチンを投与すると、この顆粒球増多が消失する。
どういうことか、分かりますか?
顆粒球が増えているということは、交感神経の緊張状態、「闘争か逃走か」のモードになっている。そういう状態が、グリチルリチン投与によって緩和されたということだ。
これは人の実験でもデータがあって、顆粒球増多のある胃潰瘍患者にグリチルリチンを投与すると、顆粒球の値が正常化し、潰瘍も消失した。
逆に、リンパ球過剰状態にある人にグリチルリチンを投与すると、リンパ球の正常化が見られた。
つまり、顆粒球の多い人とは逆の反応が見られた。グリチルリチンは交感神経の緊張している人、副交感神経の緊張している人、両方に有効ということだ。
どのようにしてこんな薬理作用が生じるのだろうか。
グリチルリチンの構造式を見れば、約半分の側鎖が-OHや=Oで酸化し、残りの半分が酸化からフリーの状態になっている。
白血球分画は、自律神経系のレベルと相応しているが、自律神経系のレベルは生体における酸化還元反応のレベルでもある。
エネルギーを消費する(生体内物質の酸化)状態が交感神経刺激であり顆粒球増多を招く。逆に、エネルギーを蓄積する状態、つまり生体内物質の還元(生体内物質から酸素を奪う)反応が副交感神経を刺激し、リンパ球増多を誘導する。
つまり甘草は、酸化促進状態にある人(顆粒球優位、交感神経緊張状態)からはその側鎖で酸素を奪い、還元促進状態にある人(リンパ球優位、副交感神経過剰)にはその側鎖の-OHや=Oで生体を刺激している。
こうして、結果として、白血球や自律神経の偏りを正常化するわけだ。
甘草が多くの漢方薬に配合されている秘密はこのあたりにあるようだ。

2019.1.28

「月に取材した和歌は無数にある。
月の満ち欠けに権力の栄枯盛衰を重ねたり、『あなたを初めて見たのは月の美しい夜でした』といった具合に、月を心象風景として使ったり。
しかし不思議なことに、星を愛でる歌はほとんどない。
当然、千年前の日本の夜空に星が輝いていなかったわけではない。それどころか、電気が普及した現代とは比較にならないほど、漆黒の夜空を美しく彩っていたはずだ。
なぜなのか?なぜ、宮廷貴族たちは星を詠まなかったのか。
その理由はわかっていない。
本当だよ。一見すごく簡単そうに思えることだけど、学者にもその理由がわからない。
恐らく、かつて公家たちの間で、それは暗黙の了解だったのだろう。星はタブーであり、星の話題に触れないことは、彼らの『常識』だった。
そして常識は、わざわざ記録されない。
君たちだってそうだろう。日記を書くとして、『朝みそ汁とご飯を食って、昼にはパンを食って、夜には肉を食った』なんて、そんなこと書かないだろう?
そう、当たり前の日常は、あえて記録されない。紙の貴重な時代には、なおさらのことだ。
記録されるのはむしろ非日常、『お、これは珍しい。メモっておこう』ということが記録され、文字媒体として後世に受け継がれていく。
歴史的文献というのはそういう側面があることを、常に念頭に置いておく必要がある。
こうして、記録されなかった『常識』は、千年経つ間に自然と消滅してしまった。
千年前の人々にとって星がどのような存在であったか、もはや推測するより他ない」

高校のとき、古典の先生が言っていたこと。卒業して20年経っても印象に残っている。
一般に、あるものに気付くことは簡単でも、ないものに気付くのは難しい。
古典を研究している人が、あるときふと、気付いたんだろうね。「星の美しさを詠む和歌って、皆無じゃないか」と。
月のことはあれだけ礼賛するのに、星のことは完全にスルー。言われてみれば確かに不思議だ。
そもそも太陰暦を使っていた頃は、月は夜空に浮かぶカレンダーそのもので、農耕民や漁師にとって極めて実用的なものだった。
かつ同時に、ファンタジーをかき立てる存在でもあって、月から来たかぐや姫の物語なんていうのも千年前に書かれている。

西洋は、日本とは反対に、月よりも星を愛でる文化だ。
星で未来の吉兆を占おうとする占星術も西洋由来だし、「何座?」って聞かれたときにたとえば「しし座」とか「かに座」とかって答える、ああいう黄道十二星座も西洋文化のたまものだ。
ミシュランの三ツ星とか、格付けに星を使うのもそういう文化の名残と言えなくもない。
医学との関連で言えば、現代の病院に欠かすことのできないMRIやCTさえ、実は星の研究が土台になっている。
非常に巨大で、かつ極めて遠くにある物体を造影する天文学の技術を細胞に応用することで、癌細胞を可視化することができないだろうか。
この発想をもとに、開口合成の原理を応用して開発されたのがCTであり、MRIだった。

理科の動画がyoutubeにたくさんあって、最近よく見ている。
物理や化学、生物は得意だけど、地学は中学生以降全然勉強していないので、月の満ち欠けとか惑星の運行とか、小学生を対象にした動画であっても、すごく勉強になって楽しい。
さて、問題です。
月と星、地球から見て、距離的に身近なのはどっち?
圧倒的に月が身近です。
星にもいろいろあるけど、たとえばベテルギウスは地球から640光年離れている。
光年というのは、光が1年間に進む距離だ。
一方、月と地球の距離は、38万km。光年で言えば、0.00000004光年=1億分の4光年。
つまり、地球と月の距離は、地球と星の距離に比べれば、ほとんど誤差程度、ゼロに等しいぐらいの距離だ。
星は、とてつもなく遠い。ベテルギウスから、今、この瞬間に放たれた光が地球に届くのは、640年後ということだ。
ベテルギウスは星としての寿命を迎えつつあるというから、すでに500年前に死んでいて、僕らが見ているのは死後の光だと考えることもできる。
理論上、1000光年離れた星から、極めて精度の高い望遠鏡で地球を見たら、平安時代の日本が見えるはずだ。
かつての公家たちがなぜ星をそんなに忌避したのか、その理由も垣間見えるかもしれない。