ナカムラクリニック

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2018年

秀吉、利休、テアニン

2018.6.14

秀吉は尾張中村の生まれで、もう下層も下層、どん百姓の家で育ったんだけど、見事に天下人にまで成り上がった。
信長や家康はもともとの生まれも裕福で、いわばサラブレッドとして育ったわけだから、彼らが天下をとったってそれほど不思議じゃない。
でも群雄割拠の戦国時代に天下統一を果たしたのは、下層民出身の秀吉だった。
上司に取り入るのがうまかったとか、戦でいくつも功績をあげたからとか、運だけじゃなくてそれ相応に才能があったからこそ、それだけの出世ができたんだろうけど、それにしたって、どん底からトップに登りつめたっていう、こんなサクセスストーリーは前代未聞だろう。

しかし、天下人になったからとて、芸術に対する感性や教養のなさは、俗物そのもの。
そういうのって育ちがどうしても反映されるものだから。
たとえば当時は、絵画といえば水墨画に代表されるようなワビ、サビの恬淡とした趣きが尊ばれたところ、秀吉は金箔を張りまくる派手な屏風を描かせて、大坂城の内部を飾った。
茶道では、洗練された利休の茶室に真っ向から対抗して、内部に金箔をびっしり張り詰めた茶室を作ったりした。
信長は神仏を拝まず、逆に人々に自分を拝ませようとしたが、秀吉もこの例にならい、自分を神格化しようとした。
無知や傲慢もここまで振り切ればひとつの才能なのかもしれない。

利休は大坂船場の大豪商の家に生まれ育った。
裕福な家庭で、当時でき得る限りの様々な学問を修めた。無数の古今の書籍を学び、やがて当代一流の知識人に成長した。
一方、利休は、家業の手伝い通じて、金がいかに人を狂わせ、その欲望のために身を滅ぼすか、無数の実例を見てきた。
金にできること、できないことの違いがわかっていたし、そして金のもたらす快楽がいかにはかないものであるか、その虚しさを知り抜いていた。

利休の考案した茶室を見たことがありますか。
すごく狭い入り口で、腰を屈めて、赤ちゃんがハイハイするようなかっこうにならないと、入れない。
つまり、どんな権力者だって、利休の茶室に入るには、そういう不恰好な姿勢をとらざるを得ない。
「みんな同じ人間じゃないか。妙なおごりは捨てようよ」
入り口の構造からすでに、彼の思想、人間観が、メッセージとしてにじみ出てるんだな。

さて、人間のはかなさを知り尽くす利休が、どうした運命の巡り合わせか、浮世の栄華の頂点を極めた秀吉に仕えることになった。
内面世界を悟った賢者と、卑しさを寄せ集めたような俗物。
こんなに相容れない人間性があるだろうか、というぐらいに対極的な性格の二人である。
この二人が交わったとき、どういう化学反応が起こるのか、興味あると思いませんか。

最終的には、利休は秀吉に切腹を命じられ、それに従った。
利休の首は一条堀川沿いでさらし首にされた。

秀吉は利休に対峙すると、何とも言えない不安を感じるのだった。
こいつにはすべて見透かされている気がする。俺のつまらなさも、卑しさも。
なるほど、形の上では俺に恭順の意を示し、うやうやしく頭を下げたりする。
でも、内心では俺のことを見下しているに違いないんだ。『この成金の猿が』と。

「おい、利休」と秀吉が呼ぶ。「ちょっとこっち来い」
「はい、何でございましょうか」と、利休、低頭して答える。
「お前、俺のことどう思ってるんや?」
「太閤秀吉様にございます」
「そんなことは分かっとるわい!」大声出して、萎縮させて、再び尋ねる。
「で、お前は、俺のことをどう思ってるんや?」
利休、言葉につまって、沈黙するしかない。
困惑する利休を見て、秀吉、「もうええわ、あっち行け」
権威をかさにきて、そういうふうにいじめても、秀吉の気持ちは晴れない。
それどころか、秀吉はますます不快になるのだった。

利休は腰が低いだけの物言えぬ部下では決してなかった。
ここぞというときには、秀吉相手にも毅然として自分の意見を述べた。
天下統一を成し遂げた秀吉が、次に計画していたのが朝鮮出兵で、秀吉の周囲の武将は皆、太閤の意を察して何も言えなかったところ、利休は、「現時点で朝鮮に攻め込むことは得策ではありません」と秀吉に進言した。
その指摘がことごとく適切なものだから、秀吉としては聞き入れざるを得ない。それが一層秀吉を不愉快にさせるのだった。

利休は武将からの人望も厚かった。
保身を思って秀吉に諫言できない自分たちをさしおいて、一介の茶人である利休が天下人を恐れずズバッと自分の意見を言うのである。武将たちは利休の胆力に敬服した。
細川忠興(明智光秀の娘細川ガラシャの夫)なんかは利休をすごく尊敬していて、それをいぶかった福島正則が「たかが茶人に何を入れあげているんだ」とバカにしていたんだけど、忠興に誘われて利休の茶会に参加して、利休に恐れ入った。
「俺はこれまで、無数の戦で戦ってきたが、いかなる強敵にも怯んだことがない。だが、茶会で利休と対峙したとき、初めて恐怖のようなものを感じた」
秀吉に切腹を命じられたときには、前田利家や細川忠興らの大名が何とか利休の命を救おうと奔走したが、かなわなかった。
自分に媚びへつらう周囲の武将が、本当の意味で慕っているのは利休であることには、秀吉自身も充分気付いていた。
人望だけではない。芸術センスにおいても当代一流の利休に並ぶ者はなく、利休が認めた茶器には何万両という値段がつくのだった。
俺がどの茶器をほめたとて、土の塊以上の値段はつかないだろう。周囲からの人望、風流を愛でる心、豊かな教養、権力に物怖じしない胆力。
こいつは、俺の持ち合わせないものをすべて持っているかのようだ。
許せない。こいつだけは、許せない。

利休斬首の原因については諸説あって、定説はない。
でも、僕としては、秀吉の利休に対する嫉妬こそが背景であって、秀吉としては、いけ好かない利休に難癖つけて一発かますきっかけさえあれば、何でもよかったんじゃないかな。
利休を処罰した後、秀吉を諌める者はいなくなった。
朝鮮出兵を決行するも、失敗に終わった。
豊臣家の没落は、利休のような賢臣を殺してしまったことにあると思う。

ところで、利休の大成した茶道なんだけど、どんなお茶を使うか知っていますか。
番茶?ほうじ茶?違います。
抹茶です。
matchaといえば、今や外国でも通じるぐらいにメジャーになってきたけど、その成分が科学的に分析され、その効用についての研究が進んだのは比較的最近のことだ。

四月末の東京で行われたオーソモレキュラー医学会で、緑茶成分のテアニンについて研究している功刀浩先生が講演していて、興味深く聞いた。
テアニンには抗うつ作用、意欲改善作用のほか、統合失調症に対する有効性もある、とのことだった。
功刀先生いわく、
「マウス実験において、L-theaninの抗うつ作用および意欲改善作用については、有意差が出た。しかし、不安様行動を評価する試験においては、生理食塩水投与群と有意差がなかったことから、L-theaninに抗不安作用は認められなかった。」
茶をよく飲んだ秀吉ではあるが、利休に対する不安の念はくすぶり続けた。
抹茶に抗不安作用があれば、日本史は変わっていたかもしれないね。

不眠

2018.6.13

不眠を訴える人は多い。
「寝れないのなら、起きていればいいだけの話でしょ。
寝れないということは、体が眠りを欲してない、ということなんだからさ、そういうときは開き直ることだよ。
ベッドから起きだして、好きな音楽でも聞いて、気楽に過ごせばいい。それで自然に眠くなるのを待つといい」
というアドバイスは、半分当たり。半分間違い。

寝れない人は、その「寝れない」という状態自体に不安を感じがちで、その不安が焦りを呼んで、ますます眠れないという悪循環に陥っている。
「11時に布団に入ったのに、もう2時か。やばいなぁ。明日の朝、早いのに」という具合で、ベッドの中で延々苦しんでいる。
そういうときには、開き直るのも大事だ。
寝れないときはどう頑張っても寝れないもんだ、とベッドから起き上がって、「別に寝なくてもいいや」と腹をくくる。
それで翌日の準備なんかしてゴソゴソしてるうちに、不思議なもので、眠たくなってきて、布団に入ったら今度はちゃんと寝れた、みたいな経験のある人もいるだろう。

半分間違っている、というのは、このアドバイスは寝れない人の気持ちを全く分かっていない、とも言えるから。
「あのね、体的には疲れているんだよ。体はひしひしと休息を求めている。でも、体とは対照的に、頭のほうはすっかり冴えて眠らせてくれない、という感じなんだ。
だからさ、改めてベッドから起き上がって、何かしようだなんて、そんな気持ちにはとてもなれない」
気持ちの切り替えとか、そういう次元の話ではないよ、という訴えであって、こういう訴えにどう対処するかが、医療に期待されていることなんだな。

不眠に対する一般的な医学的アプローチはお決まりで、睡眠薬の投与。これしかない。
一番よく使われるのはベンゾジアゼピン系睡眠薬というタイプの薬で、はっきり言って、これは初めて飲む人にはすごく効きます。
不眠で苦しんでいる人の「すっかり冴えわたった頭」を、もう、問答無用で強制終了させてしまう、という感じだ。
なかには、眠りに落ちるときのこの強制スリープの感覚を嫌がる人もいる。
「奈落に突き落とされるような感じで、眠るというより意識を失う、という感覚に近い」という人もいる。
しかし、ほとんどの人は問題なく使い始める。少なくとも最初のうちは。
短期間の使用にとどめるだけならいいんだけど、ベンゾを長期的に使うと、後々、かなりやばいことになる。
それは、ベンゾには耐性と依存性があるからだ。
耐性というのは、昔なら効いたはずの量でも、その量では効かなくなることだ。体が薬に慣れてしまったせいで、同じ量ではもはや効かないから、量を増やさざるをえなくなる。
依存性とはその名の通り、「もうこれなしでは生きられない」という具合に、はまってしまうことだ。
たとえば、タバコは依存性はあるけど耐性はない。「一本吸っただけではものたりない」とか言いながら一気に二本三本のタバコを吸ってる人って見ないでしょ。
一本吸っただけで、きっちり満足できる。これはタバコに耐性がないからなんだね。
アルコールは耐性も依存性もある。初めて酒を飲んだときのことを思い出してごらん。
ちょっとの量飲んだだけなのに、かなり回ったでしょ。それに比べて、今どうですか。けっこう飲めるでしょ。それが耐性です。

ベンゾはアルコールに似たところがある。というか、ざっくり、「錠剤の形をしたアルコール」と形容してもそれほど間違いじゃない。
ベンゾは睡眠薬だけじゃなくて抗不安薬にも使われるけど、不安なときにお酒飲んで気持ちを紛らせてるような人、いますよね、抗不安薬の作用って実はあれと大差ありません。
「いや、昼間から酒飲んでる人と、あがり症に悩んで抗不安薬を飲んでるまじめな社会人を一緒にするな」と言われるかもしれないけど、そういう倫理的な意味ではなくて、生理学的な意味で、です。
つまり、ベンゾもアルコールも脳のGABA受容体に対して抑制的に作用する。交叉耐性という現象もある。
アルコール依存症者の離脱症状を抑えるのにベンゾを使うことがあるけど、こういう対処をする背景には、両者の相互作用がある。
医者もこういう点をわきまえているから、ベンゾと酒は一緒に飲まないように、と注意されるはずだ。

さて、このベンゾ、諸外国では処方できる期間に1か月とかの上限があるんだけど、日本は基本的に野放し。だから、十年二十年ベンゾを飲み続けているという人も、ざらにいる。
一度ベンゾにはまると、やめるのは相当に難しい。
長期的な副作用として、認知症とか癌とかいろいろあるけど、個人的に一番気の毒なのは、感情鈍麻だ。
人間としての感情、うれしいとか悔しいとか、楽しいとか悲しいとか、そういうのを感じられなくなってしまう。
ベンゾにはまる前は、そういう感情をありありと感じていたのが、長らくベンゾを飲み続けたことで、自分自身の感情をリアルに感じられなくなるんだな。感情を持つことなしに人生を生きるって、どんなに苦しいだろう。
こういうベンゾ依存に陥った人が一念発起して、「なんとか薬をやめたい」って思ったとする。で、そのことを主治医に話したとする。そうすると、先生、きっと困惑するだろう。
ベンゾの減薬、あるいは断薬がどれほど大変なことか、医者も知ってるからね。
そう、一般的な医学ではベンゾ依存の状態には打つ手がないのが実情だ。
ひどい話だね。処方しといて、はまってしまったら、「どうにもできません」、なわけで。
ただ、ありがたいことに、栄養療法にはベンゾをやめさせるためのプロトコルがある。
ビタミンCとナイアシンなどのビタミンを中心とした処方なんだけど、個人的にはアダプトゲン(ロディオラ、アシュワガンダなど)を併用すると非常に効果が高いと感じている。

ベンゾにはまってしまったら大変。
なので、初手が重要です。
不眠になったときには(というか不眠に限らず、何らかの体調不良を自覚したときには)、まず栄養療法を試してみてください。
不眠を訴える患者の話を聞きながら、さて、どのビタミンを使おうかな、と考えるのだけど、栄養療法のすばらしいのは(そして悩ましいのは)、選択肢の多さだ。
つまり、不眠に効くビタミンには複数あって、どれを使おうかというのが悩ましいところ。
患者が経済的に余裕があって「効くビタミンをとにかく一通り、全部出してほしい」というような人ならともかく、普通の人はあんまり多種類の錠剤を飲むのは嫌がるし経済的にも負担だと思うから、その人に特に効きそうな栄養を選ばないといけない。
単純にメラトニン出しといたらいいか、あるいはカスケードでその上流にある5HTPやトリプトファンを出すべきか。ビタミンB群やマグネシウムも補いたいし、日中にビタミンDを飲んでもらって、自前のメラトニン生成を促すのも手か。なんとなく話している感じがうつっぽいから、GABAを出すのもいいかもしれない。いや、アシュワガンダ、ギンコ、バレリアンとかのハーブ系のほうが向いてるかな。
こういう具合に、栄養療法では、打つ手がないのではなく、打つ手の多さという、ぜいたくな悩みに突き当たります。

もちろんサプリ出しといて終わり、ではなくて、食事指導も併せて行います。
具体的には、一度徹底的に糖質を控えてもらいます。
糖質じゃなくて脂質をエネルギー源にして体が動き始めると、ケトン体が生じます。断食してるお坊さんの脳波を調べるとα波が出てて、βエンドルフィンの血中濃度も上がってる。つまり、脂質代謝が優位になると、自律神経(交感神経と副交感神経)のバランスが整って、リラックス状態になる。
別に断食ほど極端な食事制限をする必要はないけど、糖質を減らしてかわりにたんぱく質や野菜を多めに摂ってみてください。
本当のことを言うと、サプリよりは食事改善のほうがむしろ本筋で、食べるものに気を使ってもらうだけで大半の不眠は改善します。

結婚

2018.6.12

「結婚なんてのは若いうちにしなきゃダメ。物事の分別がついたらできないんだから」というのは、樹木希林の言葉。
若さとはバカさのことで、そういうバカさの赴くままに突っ走らないと、結婚なんてできない、ということだろう。
これは名言というべきで、僕にはすごく重く響く。

「若いうちに結婚して、二十代の苦楽を一緒にともにする。年収も低いのに子供作ったりして、周囲のサポートも借りながら、何とかやっていく。三十代になって収入的にもそこそこ安定して、子供も大きくなってきて、家族としても安定していく、というのが一般的な流れだろう。いや、一般的かどうかは知らないが、少なくともそれが僕の流れだった。
結婚したい、と君は言う。しかしそれは本心だろうか。
つまり、君は自炊していて、食事を誰かに作ってもらう必要がないし、すでにそれなりの収入もあって、今の生活にそれなりに満足している。
自分の食べたいものを作ったり、自分の趣味に没頭できる時間もあって、今の生活、全然悪くないと思っている。
それが、結婚したらどうなる?自分の時間を、嫁や子供に捧げることになるだろう。本を読んだり、新たな知識を吸収して自分を成長させる楽しみを犠牲にして、代わりに、家族サービスや我が子の成長に喜びを見出すスタイルに変えていかないといけない。
すでに一人暮らしが長い君に、そういうことが果たして可能だろうか。
自分を成長させることに喜びを見出す人は、ある意味でずっとその人自身が子供なんだ。いや、誤解しないで欲しいんだけど、けなしているわけではないんだよ。自分のなかの内なる子供がちゃんと生きている、ということだ。
今後、君は年収的にはもっと安定していくだろう。
そして、皮肉なことだが、安定すればするほど、ますます結婚できなくなるだろう。
収入が増えるというのは、単に預金残高が増えていくということじゃない。それに伴って、自分に対する自信や誇りも大きくなる。それ自体はけっこうなことだが、困ったことに、そうして大きくなった自尊心に見合うだけの異性を見つけることは、ますます難しくなっていく。
つまりね、二十代の若い自分というのは、社会的には何者でもない存在だ。自分を安売りする、というわけでもないが、結婚という未知に飛び込む冒険をするのも楽しそうだなって自然と思うことができる。
でも、ある程度安定して、現状に満ち足りてしまうとどうなる?
どう考えたって、結婚なんて合わないよ。そんなリスクに飛び込むバクチなんて、できやしない。
パッとしない嫁と、大して可愛くもない子供に、自分の稼いだ金、自分の時間を彼らに吸収されて、自分の人生を生きられなくなってしまったら?
そんな茶番はまっぴらごめんだろう。
だからこそ君は、結婚に対してますます慎重になっていく」

「その洞察、けっこう当たってると思うけど、話はもっと簡単。出会いの場がないねん、単純に」
と杯をあおりながら笑いに紛らそうとしたけど、同級生の言葉が不気味な予言のようにも聞こえた。
結婚せんならそれはそれでええかもな、と思ってる自分があるのは確かで、やばい傾向かもしれんなぁ。

同級生

2018.6.11

今さっきあったこと。
「院長、お客さんが来てます」と看護師が言う。手渡された名刺を見た。神戸市北区の開業医。そして、どこかで見覚えのある名前。
まさかひょっとして、と思い、診察室を出てみると、やっぱりそうだった。
中学の同級生がそこにいた。
「久しぶり。いきなりだけど、来てみたよ」と、菓子折りを手渡しつつ、「たまたまきのうネットで検索してて、君のことを見つけた。写真も出てたし、名前もそうだし。いやぁ、驚いたなぁ」
そうしてすぐさま、あいさつに来てくれたのだった。
驚いたのはこちらも同じだった。
部屋に通し、いろいろな話をした。
中学を卒業してからの経緯をお互い話し合い、同級生の誰々が今どういう仕事をしているだとか、旧知の友人が再開したときに話しそうなことを一通り話した。
「開業しているが、僕が自力で開業したわけじゃない。引継ぎだよ。大学の医局に所属していたら、こういう話は時々転がってるものだから。こういうのは地元の医局の強みだね。
ところで、4年前に同窓会があったんだけど、知ってる?」
「いや、知らない。実家引っ越したし。フェイスブックとかでもつながってないから」
「そう、どうも連絡がつかなかったみたいだね。あつし今頃どうしてるんだろう、って話も出たけど、誰も君の消息を知らなかった。
僕は思うんだけど、同窓会に来ないタイプには二通りあると思う。一つは、単純に連絡がつかないタイプ。もう一つは、絶対に出たくない、というタイプ。
今の自分を肯定できる人でないと、ああいう場には来れないよね。
あつしは、、、なんというか、中学生のとき勉強できたし、プライドも高かっただろうから、そのプライドに見合うだけの『今』がないせいで、来れないのかもしれない、とかね、僕はふと思ってた。
でも医者をしてて開業してるわけだからさ、だからこそ驚いたんだ。全然立派な仕事をしてるじゃないかって。
同窓会ってさ、確かに何だか気恥ずかしい感じはあるよね。そういう気持ちのせいで、同窓会には出ないっていうのは、二十代ならわかる。まだ未熟で、社会的にはnobodyだから。
でも俺ら、もう37歳でさ、人生としてはある程度固まってきている年代でしょ。昔の友人に会えることを楽しみに思うっていう、それぐらいの余裕は欲しいところだよね」
「そう、俺らもう、37歳なんやなぁ。信じられる?」
「信じられへん。14歳の頃が、もう20年以上前のことだなんて、全然信じられない。」

このとき、同じ気持ちを分かち合える人がいる、ということが痛切に感じられて、何だか慰められるような気持になった。
そう、僕らは同級生だった。
退屈を持て余したような青春の日々を一緒に過ごした。
学校の帰り道でバカバカしい遊びを一緒にしたり、エロい話をして爆笑したり。
お互いの未熟な面をさらしあった仲間。
やがて別の高校に進学し、それぞれの人生を歩み始める。
中学を卒業して22年。
もう若くない。
身体的にはすでにピークは過ぎ、あとは下り坂。
深酒すれば翌日に差し支える。激しい運動をすれば、なかなか消えない疲労感。
そう、もう若くないんだ。37歳というのは、自分の老いを自覚する頃でもあるんだ。
そんなときに、目の前に、同級生が現れた。
この22年という時間の流れ、その重さを、自然と分かってくれる同級生が。
僕はうれしかった。

「結婚してるの?」
「してる。子供も二人いる。上は小学校4年生、下は幼稚園の年少。あつしは?」
首を横に振る。
「まぁ、独身生活の気楽さもいいものだよね。
子供いたら何かと大変だよ。僕に似てるというか、放っておいたら怠けてしまうから、塾に行かせてるよ。
医者になれよ、なれば何でもつぶしがきくぞ、と教えてる。結局世の中、勉強やもんなぁ。
勉強して何がえらい、ってわけでもない。でも、勉強で成り上がれるというのなら、なんというか、実に平等な話だよね。
ところでさ、今日、晩御飯でも行かへん?」

もちろん行こう、と答えた。
22年ぶりの同級生と飲む酒。
こういう楽しみは人生にそれほど多くはないと思う。

鉄剤の危険性

2018.6.11

ネットで情報発信している人のなかに、鉄剤の重要性を説いている人がいる。
なるほど、確かに、人間にとって鉄は必須ミネラルの一つで、鉄の不足は貧血をはじめ、様々な不調の原因になる。
特に若年女性は毎月出血することもあって、貧血傾向にあることが多く、鉄剤の処方が有効なことも多いだろう。
でも、鉄をすすめている某医師の著作を読んだところ、「血中フェリチン値は100を目安とすべきだ」と書いてある。
これはいくらなんでも高すぎる。
フェリチンは30もあれば充分だ。フェリチンが一桁台の人が鉄剤を開始し、30まで上昇すれば、鉄剤は中止すべき。
それ以上の鉄剤投与は活性酸素の発生源になって、かえって健康を損ねる、というのがThomas Levy先生の主張。
以下、同氏の”Hidden Epidemic”を参考にした記述です。

とってはいけないサプリメント、というものが三つある。それは、カルシウム、鉄、銅だ。なるほど、これらは生命にとって必須のミネラルだが、必要量と、毒性を発揮する過剰量との差が狭い。
カルシウムは骨粗鬆症の予防どころか、むしろ骨折の原因だということが疫学上はっきりしている。そもそも、体内のカルシウムの99%は骨に蓄えられていて、必要に応じて骨からカルシウムが供給される。わざわざカルシウムを飲むなど、ナンセンスである。カルシウムの摂取を増やし細胞内カルシウム濃度が高まると、細胞内の酸化ストレスとなり、慢性変性疾患を促進する。動脈内壁にカルシウムが沈着すれば、動脈硬化の原因ともなる。カルシウムの摂取量は、心筋梗塞の発症率のみならず、癌発症率の増大とも関連があるし、全体的死亡率とも正の相関関係がある。
骨粗鬆症に対しては、カルシウムではなくビタミンDをとるべきである。また、動脈硬化に対しては、カルシウムチャネルをブロックするマグネシウムをとるべきである。(ミネラルのなかで、唯一マグネシウムだけは、過剰症をそれほど気にする必要はない。むしろ、マグネシウムの摂取量と全体的死亡率との間には負の相関関係がある。)

鉄には、二価と三価、二通りの存在形態がある。二価の鉄イオンは過酸化物の存在下で、強力な酸化力を持つヒドロキシラジカルを生成する(フェントン反応)。このラジカルは、人類に知られた物質の中で最も酸化力の強いものの一つである。体内に鉄が多いほど、より多くのフェントン反応が起こる。つまり、細胞内の酸化ストレスは増大する。これは癌をはじめとした慢性疾患の原因となる。
ほぼすべての癌細胞は細胞内に鉄をため込んでいる。逆に、鉄キレートを用いて体内から鉄を除去すると、癌細胞は増殖を停止し、アポトーシス(細胞死)が起こる。
鉄は心筋梗塞の重大なリスク因子でもある。
鉄はヘモグロビンや各種酵素、たんぱく質の形成に必要であるが、血液検査で貧血ででもない限り、鉄の摂取は極力少なくすべきである。貧血でない人が鉄の摂取を続けると、酸化ストレスの増大を招き、癌、心疾患などの慢性変性疾患を発症する。血液検査に問題がなく、かつ、フェリチンが100 ng/cc以上の人は、献血、瀉血、遠赤外線サウナ、鉄キレート(たとえばイノシトール6リン酸)の摂取によって、フェリチンを下げるように努めるべきである。少なくとも50 ng/cc以下に抑えるのが望ましい。
鉄は病原微生物の増殖に必須である。鉄の摂取量が多いほど、腸内の病原微生物の量も多い。この病原微生物のなかには、ヘリコバクターピロリも含まれている。
アメリカでは事実上すべての加工食品に鉄が添加されているため、数百万人ものアメリカ人が鉄の過剰摂取に苦しんでいる。鉄に対して、体は特異的な排出メカニズムがないため、過剰摂取された鉄は極めて排出されにくいのである。
アメリカで食品への鉄の添加が始まったのは1941年からである。アメリカのセリアック病患者は当時よりも400%増加したが、このグルテン過敏症の背景には、鉄により引き起こされた腸の炎症がある。この炎症がリーキーガット症候群、すなわちグルテンが未消化のまま腸壁を通過してしまい、抗原抗体反応および自己免疫疾患を起こす原因となっているのである。
今やアメリカでは、赤ちゃんの離乳食にさえ、鉄が添加されている。
母乳栄養から離乳食に切り替えた時から、こうした鉄の摂取により、セリアック病の下準備がなされるのである。
また、鉄剤に含まれる鉄は、鉄鋼業でグラインドの際に生じた鉄である。本来なら廃棄されていたところ、食品への鉄の添加や、鉄サプリメントといった市場が生まれたために、そちらに用いられているのである。このあたりの事情は、フッ素が虫歯に有効というデータのために、本来廃棄されるべきフッ素が水道水に添加されているのと同様である。
鉄剤を飲み始めた人に胃腸の不快感を訴える人が多いのは偶然ではない。鉄による病原微生物の増大、鉄によるフリーラジカル生成およびそれに起因するリーキーガット症候群。これらは皆、誤ったものを摂取したことによる、体の自然な拒否反応である。

フェリチンは100まで上げるべし、と言っている先生、実名をあげようかあげまいか迷ったけど、上記のLevyの翻訳をしながら、やっぱりはっきり言うべきだと思ったので、言うと、藤川徳美という先生です。
『うつ・パニックは「鉄」不足が原因だった』 (光文社新書)という本にある記述。
総じてすばらしい本だと思う。
若年女性の精神疾患の背景に貧血があることが多い、という指摘は、もっと多くの医者が知るべきだと思う。
でも、内容がいくらなんでも極端すぎる。
この本の内容を素直に信じてしまうと、別に鉄をとる必要のない人まで、「健康維持のために鉄をとろうかしら」なんて思ってしまうと思う。
アマゾンのレビューも絶賛の声が多い。
なるほど、効く人には効くだろう。でも万人の実践する健康法、というわけでは決してない。

僕は藤川先生をフェイスブックでもフォローしていて、先生がオーソモレキュラー栄養療法を実践されていて、すばらしい成果を上げていることを知っている。
だから、先生には今後とももっと活躍してほしいと思っている。それで、ホッファーやソールの名前がもっと広まればいい、と期待している。
藤川先生はフォロワー数も多く、投稿の影響力も強いインフルエンサーだ。
でもだからこそ、間違ったことは言ってほしくない。

たとえば、先生はNOWのB50をオススメしてるけど、あれは葉酸がfolic acidだから発ガン性があるし、ビタミンB12欠乏の原因になる。
さらに、ビタミンB6がピリドキシンであって、P5Pじゃないのも残念。
とっているサプリがいまいちだからギックリ腰なんてしてしまうんじゃないかと、心配になってしまう。
ただ、先生がこういう間違いを犯してしまうのは仕方がないことも理解できる。
僕はHofferの”Orthomolecular Medicine For Everyone”を翻訳したからよくわかるんだけど、ホッファー自身、葉酸は天然よりも合成のほうが吸収がよくて体にいい、なんて言ってるぐらいだから。
でも、時代は常に変わり、知識も変わっていく。
ホッファーはこの本を出して翌年には亡くなったけど、栄養療法は進歩していく。
僕らはそうした知識の変化に対して常に適応していかないといけない。

たとえば治療方針を転換した医者に対して、患者が当惑して、こっそり裏側で、
「あの先生、前は鉄剤を飲め飲めってしつこく言ってたくせに、舌の根も乾かぬうちに、鉄剤は飲んじゃダメだ、なんて、宗旨替えも甚だしい。なんて定見のない先生だろう」みたいな反応をすることはあり得ることで、そういう矛盾を指摘されたくないがために、同じ治療法にこだわり続ける、という心理はわかる。
でも医者はそれじゃダメなんだ。
患者に陰口叩かれて、コロコロ変わると言われようが、医者は常に患者のベストを考えないといけない。
フェリチン100は患者にとってのベストか。
藤川先生には再考願いたいところなんだけどなぁ。