ナカムラクリニック

阪神・JR元町駅から徒歩5分の内科クリニックです

2018年6月

子争い

2018.6.25

「以前、そちらから、『スタチンが原因で認知症になることがあるから主治医に相談するように』と言われたので、その旨、主治医に話してみました。
すると、『そんなことは聞いたことがない。ご希望なら中止してもいいけど、コレステロール、また上がるよ。いいの?』と言われ、返答に詰まってしまいました。
『コレステロールを下げるビタミンがあるとも言っていました』と言うと、鼻で笑って『そんなものはない』とのことでした。
どうしたらいいでしょうか。
二人の先生が真逆のことを言っているものですから、私、悩んでいます」

どこかで聞いた昔話。
「自分こそがこの子の母親」と主張する二人の女性が、互いに譲り合わず、判断がお奉行様に委ねられることになった。
「子を間にして、左右から腕を引っ張りあえ。子を引き寄せた方を母親とする」
二人の母親に腕を引っ張られた子供はその痛みに泣き声をあげる。不憫に思った一方の母親が、ふと力をゆるめた。その瞬間、子供はもう一方の母親の胸元に倒れた。
「子の痛みに思いをいたさず、自分の思いだけを振り回す者は不憫の情を知らない。子の腕の痛みを思い、手を放した女こそ、真の母親である」とした大岡裁き。

だから何、ということはない。
何となく、状況的に、僕と向こうの主治医先生で、この患者を挟んで、綱引きをしている格好だなって思っただけ。
ただ、この昔話を比喩として使うならば、こういう状況になれば、僕は、まず間違いなく腕を放します。
患者への愛情が強い弱い、の話じゃありません。
お奉行様(厚労省)は向こう持ち、というのがハナから見えているからです。
ガイドラインという錦の御旗は向こう側にある。
負けることの見え透いた争いは不毛だ。
だから、僕は突っ張りません。
患者には、こう伝えます。
「すでに説明したように、スタチンは認知症の誘因になり得ますし、ナイアシンにはコレステロール降下作用があって、しかもスタチンのような副作用はありません。
そのことを示すエビデンスは無数にあるのですが、どのデータを信用するかは、ある意味各人の自由です。
僕の説明に説得力を感じない、信じられない、ということであれば、どうか、主治医先生を信用して治療に取り組んで下さい。というか、先生の言われることが内科学会の認める正論であり、スタンダードです。
僕の考えはむしろ異端ですから」

そう、向こうの先生が正室で、所詮僕は日陰の女なんだ。
こういう位置関係にはもう慣れている。

極力しないように心がけていることは、子供の前で嫡妻の悪口を言わないこと。
少なくとも患者の前で、他の医者の批判はしない、というのが医者同士の暗黙のマナーだ。
「スタチンみたいな毒飲まされて、かわいそうにね」というのが本音だとしても、そういう言葉は僕の口からは絶対に出ない。
僕が言うのは「ナイアシンにはスタチンと同じようにコレステロール降下作用があり、かつ、副作用がほとんどありません」という客観的・科学的事実だけだ。
どちらをとるかはあくまで患者に選ばせる。
ときに、こういう僕の態度に患者は焦れて、僕に、もっと明確に態度表明して欲しい、という。
「いえ、どちらがいい悪いの話ではありません。向こうの先生の処方で、きっちり血圧もコレステロールも下がります。ただ、同じことは、栄養療法を使っても可能だという、それだけのことです。
西洋医学であれ東洋医学であれアーユルヴェーダであれホメオパシーであれ何であれ、それぞれの医学にはそれぞれの哲学なり方法論があって、あっている間違っている、の話ではありません。
僕は栄養療法を実践していて、そのメリット・デメリットについて説明することができます。何か情報が必要ならば何でも質問して下さい。
ただ、他の畑の医学と比べて、どちらが優れている劣っている、みたいなことは言えません」

僕のところに一度は来てくれたものの、結局西洋医学に帰っていく人ももちろんいます。「たかがサプリじゃ、やっぱりアカンわ」と。
ただ、僕は、患者に本物の笑顔をもたらしてくれるのはこれだ、と思って、今実践している医学にたどり着きました。
今日、ある患者が帰ったあと、看護師が、興奮した口調で僕に言いました。
「あの人、来院したときはヨボヨボの小刻み歩行だったのが、グルタチオン点滴で、本当に見違えて、帰るときはシャキッと歩いて、本当に別人みたいでしたね。あんな劇的な回復、あるんですね」
西洋医学では治療不能ということになっているパーキンソン病やレビー小体型認知症が、栄養療法で見事に改善する。別の医学畑から見れば「奇跡」としか言いようのない現象が、ここでは当たり前の日常風景だ。
「そうやろ、すごいやろ」と僕もニンマリ。

みんなにわかってもらおうなんて思っていません。
治療方針に共鳴してくれて、わかる人だけわかってくれて、本当の笑顔を取り戻してくれたら、僕はもう、十分なんです。

夏至

2018.6.23

きのうは夏至だった。
一番長い日だ。
でも、一番暑い時期はもうちょっと先で、7月とか8月だ。
このズレがおもしろいと思う。

これは夏至に限らず毎日のことだけど、太陽高度の最も高い正午が最も気温が高いわけではなく、気温が一番上がるのは大体午後2時頃だったりする。
1日の変化の具合と1年の変化の具合が相似形になっていて、フラクタルなものを感じる。

精神世界にも同じような現象がありそう。
たとえば、大事な身内を亡くしたとする。意外にその時点では涙とか出なくて、それほど悲しくなかったりする。
でも、2日とか3日とかしばらく時間が経ってから、本当に悲しくなったりする。
感情のピークは、身内の死という最もショッキングなその瞬間ではなく、ちょっとタイムラグを置いてから来るみたいだ。

僕は趣味で数学をよくするんだけど、ハノイの塔っていう問題を考えていて、この問題を一般化してグラフを使って考えるとシェルピンスキーの三角形というフラクタル図形が現れると知って、驚いた。
パスカルの三角形を偶奇で色分けしてもシェルピンスキーの三角形が現れて、数学のあちこちにこのフラクタルが出てくる。
人間の血管の分岐とか、腸の内壁とかも三次元のフラクタルで、数学だけじゃなくて、世界のあちこちに見られる構造なんだな。
目に見える世界だけじゃなくて、人間の内面世界にもフラクタル的なものがあるかもしれない。

統失は糖質

2018.6.23

以前勤めていた精神科病院には、入院患者におやつタイムがあった。
午後3時前になると、患者たちがぞろぞろラウンジに集まってきて、職員からお菓子が配られるのをじっと待っている。
クッキーとかどら焼きとか、それぞれの患者の好みのお菓子が配られて、患者たちは甘さの喜びを楽しむ。
病院内に売店があって、いろんなお菓子やジュースが売ってるんだけど、長期入院している患者のなかには、買い物をするだけの精神機能さえ損なわれている人がいるから、そういう人には職員が代わりにお菓子を買ってきていた。
ほとんど寝たきりの人さえも、自分用のお菓子が用意されていた。
短期入院で自由に売店に行ける人は、自由にお菓子を買っていた。

この病院で働き始めた当初、僕はこのおやつタイムに愕然とした。
こんなことしてたら、治る病気も治らないじゃないか。
上司にさりげなく提言してみた。
「何も病院のほうからわざわざ、糖質摂取のための時間を作ってあげること、ないと思うんですけど」
「いや、長く入院してる患者にはね、他に何の楽しみもなくて、食事とお菓子が唯一の楽しみっていう人もいるんだよ。そういう人から楽しみを奪うのは酷だと思うよ」

むしろ逆で、長く入院する一因がお菓子じゃないかと思ったけど、根本的に考え方が違う上司をあえて説得するのも徒労だと思った。
それはもう、何十年と続いている習慣なんだから、新人がいくら理を説いたところで変わらないだろう。
それ以後、僕は何も感じないように努めた。

さりとて、理はあるんだ。
たとえば統合失調症。

妄想が出て大変だ!
→よし、クエチアピンの投与だ!
→ドーパミン受容体がブロックされて、見事、妄想消失だ!
→でも患者は不愉快だ。ドーパミン受容体を刺激されないと、生きてる喜びが得られない!
→よし、お菓子のドカ食いだ、これでいっぱいドーパミンを出すぞ!
→医者は、あれれ?また妄想が再燃してきたぞ。困ったな。クエチアピン増量だ!
(以下、ループ)

精神科で行われているいわゆる「治療」って、こんな具合です。
精神病が治らないんじゃない。
根本的な原因にアプローチしてないから、治らないんだ。

うつもアルコール依存症も同様で、糖質の影響をもろに受ける。
アルコール依存症の治療に力を入れている病院だったから、毎週依存症者の勉強会なんかを開いていたけど、そういう場でさえ、本当の原因が語られることはなかった。
彼らにアルコールと糖質の共通点を説き、ナイアシンの有効性を伝えたなら、どれほど救われることか。
治らない治療を延々続けている彼らを横目に見ながら、僕は沈黙を守った。
のみならず、効きもしないとわかっていながら、上司と同じスタイルの処方をすることもあった。
僕の処方は病院から注目されていた。
妙な処方をしないよう院内薬局から目を付けられていたし、他の医者たちも僕のカルテを面白半分にチェックしていることを僕は知っていた。
そういうのは極力気にしないようにして、患者に悪影響を与えない処方を心がけていたんだけど、時々そういう好奇の視線に耐えられなくなって、「これぞ精神科的処方の王道」というような、一般的な処方をすることもあった。
そういうときは、自分に言い訳をしている。
「この患者はもう精神科的には末期で、年齢的にも若くない。薬で抑えるより他ないんだ」と。
自己欺瞞だとわかっている。
本当はそんなことはない。栄養療法始めるのに遅いなんてことはない。この患者だって、救おうと思えば救えるはずなんだ。この患者にも嫁がいて、子供がいて、仕事があって、まだまだ人生を楽しむ余地がある。お前が守ってやらないでどうする。

心の声と、自己保身の念が頭の中に同居して、僕は引き裂かれるようだった。

あるとき、どうしても助けてあげたい患者がいた。
こっそりナイアシンの瓶を手渡した。
ホットフラッシュが起こり得ることや、服用方法について簡単に説明した。
数日後、どういう経過でか、ナイアシンを患者に手渡したことが上司の耳に入り、叱責された。それも相当な長時間、感情的に。

渡したのがただのアメだったなら、上司はここまで感情的にならなかっただろう。
ナイアシンという、毒とも薬とも知れぬ、得体の知れないものだったから、余計に僕の行為が許せなかったのだろう。

ほらね、出過ぎたことをするからだよ。救ってあげようなんてさ、ヒーローにでもなったつもりか。やめとけやめとけ。普通の薬投与してりゃいいんだよ。フツーにね。リスパダール、ジプレキサ、セロクエル。いっぱいあるじゃないか。何でもいいから処方してやれよ。それだけでいいんだ。それだけで万事うまくいく。変に頭使わないで、ガイドライン通りの処方をしていればいい。副作用?患者の真の健康?知らねえよ、そんなの。そんなもんは無視しろ。それより気にすべきは、組織内でのお前の立場だろう。一人だけ浮いて、バカみたいじゃないか。もっと保身を考えろ。そして今回のことを教訓に、いいか、よく覚えておけ。良心を持ったお前がバカだったんだと。

この話には続きがある。
患者はナイアシンを取り上げられたが、ナイアシンを服用した数日間、その効果を実感していた。退院後、自らナイアシンを購入し、服用を開始した。
その後、病気の再発は起きていない。

プライドとかズタズタになっても、一人の患者の人生を救えただけで、やっぱり自分は間違っていない、また立ち上がろう、って思えるんだよね。

認知症

2018.6.22

認知症には、アルツハイマー、レビー、脳血管性、ピックなどいくつかの種類がありますが、あえて断言しますけれども、これらは皆、栄養療法で治ります。
ただし、受け身の姿勢ではダメで、本人が努力してもらうことも必要です。
だから、症状が進んで末期になって、家族の顔もわからない、寝たきりの糞尿垂れ流し、という状態になって、本人が治療意欲を持ち得ないようでは、正直回復は難しいです。
でも初期ならば、治ります。

認知症のタイプによって若干治療法は違いますが、どのタイプにも共通して有効なのは、糖質制限です。

「甘いものは大の苦手で、お菓子の類はまったく食べません」という認知症患者を僕は見たことがない。
食生活を聞けば、皆、菓子パンとかケーキとか、よく食べている。
脳機能の低下を防ぎたいなら、甘いものは極力控えましょうね、と指導すると、
「でも、先生。甘いものは脳の唯一の栄養って、この前テレビでやってましたよ。
糖がなかったら頭が働かなくなって、ますます認知症が進むんじゃないですか」
と、患者のご家族が質問する。

マスコミの刷り込みは強烈だ。
砂糖菓子を売りたい大企業がそういうテレビ番組にどれほど巨額の宣伝費をついやしていることか。
そうした宣伝が見事に功を奏して、砂糖中毒患者の大群を作り出し、そのごく一部が、こうして僕の目の前に現れる。
僕は自分の仕事の半分は、この「洗脳」を解除し、栄養の重要性を新たに吹き込むことだと思っている。
だから、しっかり説明する。
なぜ、糖質がよくないのか。どのような機序で認知症を引き起こすのか。
患者とご家族にきちんと理解してもらう。
アルツハイマー病患者の脳内にはアミロイドベータ(Aβ)が蓄積しているが、インスリン分解酵素はこのAβの分解酵素でもあるため、インスリンの分泌を極力減らすことによって、インスリン分解酵素が節約され、その分、Aβの分解が進むんだ、ということを、極力簡単な言葉で説明する。

で、1ヶ月後。
「前の診察のとき、先生がケーキはダメだっていうんでね、まんじゅうで我慢してます。日本の伝統の和菓子なんでね。まぁ害は多少マシだろうと」

僕の説明がわからないのではなく、わかりたくないんだろうな、と思う。
わかってしまったら、砂糖菓子の喜びにふける最高の時間がなくなってしまう。
甘いものを食べられないような味気ない人生なんて、とても考えられない。
私のささやかな喜びを奪わないでくれ。

そういう気持ちなんだと思う。
砂糖の魔力は、本当に麻薬だよ。
「甘いものはやめたくない。でも、認知症はどうにかして欲しい」
こういう二律背反を突きつけられて、さて、どうしたものか、と悩む。
臨床現場ではつきものの悩みなんだな。
黙ってアリセプト出して、一丁あがり、みたいなスタイルなら、こんなに悩まなくてもいいんだけどね。

ちなみに、アリセプト(抗認知症薬)は副作用ばかりでまったく効かないということで、フランスでは今年の8月1日以降、保険適用中止になるよ。
http://solidarites-sante.gouv.fr/actualites/presse/communiques-de-presse/article/l-interet-therapeutique-des-medicaments-de-la-maladie-d-alzheimer-n-est-pas
日本はありがたがって使い続けてるけど、いつまでこんな茶番が続くことやら。

甘いものの断ちがたさは、認知症患者に限らなくて、誰しもがそうだと思う。
糖尿病という、その病名に「糖が悪者」ってデカデカと書いてある病気になってさえ、やめられない。
「蜂蜜ならオッケーって聞いた」「黒砂糖ならいいだろう」「メープルシロップは血糖の上昇がゆるやからしい」あの手この手で甘さの喜びを得ようとする。
そもそも自分が中毒だって自覚、ありますか。

一般には糖質が原因とは言われていない病気でも、実は背景には糖質の過剰摂取がある病気は無数にある。
しかし、「糖質はやめてください」と言われて、「はいわかりました」とあっさりやめられるぐらいなら、世の中にこんなにたくさんの病気は存在しないだろう。
病気の多さ、治りにくさは、つまり、糖質のやめにくさのことだ、とあえて言い切ってしまってもいいぐらいだと思う。

だからこそ、栄養療法をオススメしたいんだな。
栄養療法には甘いもの欲求を抑える対策がちゃんとある。
まず、患者本人の治療意欲がないとダメだけど、そこに適切な栄養を補うことで、甘いものが自然と欲しくなくなります。

偉そうにいろいろ言ったけど、実は僕自身、糖質依存症だったから、患者の気持ちはすごくわかるんだよね。

平成最後の

2018.6.22

タクシーの運転手がよくしゃべる人だった。
「お客さん領収書いります?ああそう。じゃ、出しますね。
これ、見てください。平成でしょ。年号が。
困ってるんですよ。領収書の冊子が束でまだいっぱいあるものだから、早く使い切ってしまいたいんです。
何の話をしてるのかって?
知ってますか、お客さん。
来年の今頃はもう平成じゃないんですよ。
平成は、残り一年を切りました。
だから、今年は、何をやっても、「平成最後の」ですよ。
平成最後の夏ですし、平成最後の海開きですし、今日は平成最後の6月22日です。
そう、平成が終わるんです。すごい話じゃありませんか。
何か感慨深いものがありませんか。30年。いろいろあったなぁって。
今は年号よりは西暦のほうが使うこと多いでしょ。
でも私らの世代はね、年号が当たり前の世代でした。
私、昭和34年生まれですけど、西暦使うなんてよほど特殊なことがない限りなかった。何年、といえば、それは年号が当然でした。
だから、急に西暦で言われてもピンとこないんです。
今って、ほら、テレビなんかで昔の出来事を振り返ってて、1972年に何があって、みたいな話が出ても、頭の中で昭和に換算しないとイメージがわかないです。
時間軸の基本は、私にとって昭和なんです。
お客さん平成生まれでしょ。西暦が基本で育ってるから、こういう感覚ってわからないでしょうね」

いえ、僕も昭和55年なので、おっしゃってることの雰囲気はギリギリわかる世代です。
平成が終わることに感慨深いものを感じるのは、僕も同じですよ。
平成のど真ん中に青春時代を過ごしましたから。

運転手さん、目的地に着いて、会計のときに、ぽつりと、
「領収書の年号ね、次の発注からは年号じゃなくて西暦で行こうかと思ってるんです。もう、あちこち西暦なんでね。合わせていかなしゃあないかな、と」

年号で育った世代には西暦表記には違和感があるんだな。
僕はギリギリその違和感を共有できる世代だけど、現場でしょっちゅう西暦も使うから、さすがに慣れたな。
懐古的になる気持ちもわかるけど、適応していかないと仕方ないよね。

ただ、年号は世代をまとめるのに便利なくくりだと思う。
病院現場では、明治生まれの患者なんてもはやお目にかからないし、大正も相当少ない。今が昭和でいえば93年であることを考えると、それも当然だな。
今のところ、昭和生まれのほうが平成生まれよりも多い大集団だけど、それでもあと何十年もすれば、
「まぁ、この人、珍しい。昭和生まれですって。長生きねぇ」などと希少種みたいに言われる時代が必ず来る。
年号はビジネスとかの実用的な場面ではますます使われなくなるだろうけど、少なくともそういう具合に、世代を表す符丁としては残っていくと思う。