2018.6.3
「紀州のドン・ファン」の事件が話題になっているけど、紀州の生んだスーパーヒーローといえば、僕のなかでは、華岡青洲です。
全身麻酔下に癌の手術を行ったのは、彼が世界で最初。
ただし、医学の歴史には載っていない。アメリカの麻酔科の教科書を見ても、彼の名前は言及されていない。モートンが最初、とされている。
モートンがエーテル麻酔で頚部腫瘍に対して手術を行ったのが、1846年のこと。青洲の手術は1804年。
モートンよりも42年も先に成し遂げられた偉業なのにね。
華岡青洲が麻酔を完成させるまでにどういう苦労があったかを知るには、有吉佐和子の小説『華岡青洲の妻』がおもしろいです。
華岡青洲の嫁と母が、青洲の助けになろうとして、互いに張り合う人間ドラマが描かれていて、嫁と姑の小競り合いの心理って、現代とまったく同じなんだな、と思う。
ところで、世界最初の麻酔導入による癌の手術が行われた後、青洲の編み出した麻酔技術が引き継がれ、洗練されていったかというと、全くそんなことはなかった。
この点はモートンと対照的で、モートンの麻酔術は、その後いろいろな人が改良を加え、ますます洗練されていった。
なぜこんな違いが生じたか。
情報公開の有無、というのがポイントだと思う。
青洲は麻酔術を、自らの一派の秘術とした。門外不出の秘伝、みたいなね。
逆にモートンは、開発した技術を論文にして広く世に問うた。
ここには技術というものに対する東洋、西洋の違いが端的に現れている。
日本は何でも、「道」にしちゃう。
「この技術には、絶妙の間と呼吸というものがあって、教えて教えられるものじゃありません。師匠の技を目で見て盗む。そういう職人技の世界です」という具合に、何でも秘術化してしまう。
一方、西洋は知識の先取権、というものを重視する。最初に発見し公表した人に、開発者の名誉が与えられる。だから、欧米人からすれば、自分の発見した技術を秘密にしちゃうなんてありえない。どころか、広く世に知らしめてなんぼ、という価値観なわけ。
こうして公にされた技術は、多くの医学者に検証され、次第に方法として改良されていく。
逆に、免許皆伝、一子相伝、といった風通しの悪い技術の伝播様式では、どうしても保守的になりがちだ。
文明開化以後、西洋の技術がいっせいに日本に流入して、それは麻酔の技術についても例外ではなくて、青洲の麻酔術はあっという間に淘汰されてしまった。
明治以後、僕らはすでに西洋の価値観に染まっていて、「先に登録した者勝ち」とか「情報は公開し、批判にさらされてこそ、質が上がっていく」いう考えに対して、わりと抵抗なく受け入れられると思う。
「秘すれば花」的な価値観にもいい面はあるのかもしれないけど、少なくとも技術的な情報に関しては、秘しててもあんまりメリットないような気がする。
何が言いたいかというと、情報公開の重要性、という話です。
ネットは本当に革命的で、ネットの情報は僕の人生を変えてくれた。
僕がオーソモレキュラーを知ったのもネットを通じてだった。
今でもPubmedとかしょっちゅう使うし、僕の主要な情報ソースであり続けている。
別に恩返し、というわけでもないのだけど、最近、僕もそろそろ、情報を発信する側にまわろうか、という気持ちになってきている。
栄養療法を実践していると、自分なりの知見、というものが蓄積されてくる。このビタミンは一般にはこういう効き方をするとされているけど、実際にはちょっと違うんじゃないかな、とか、定説とはちょっと違う考えが芽生えてきたりする。
こういう主観に基づく個人の体験談は、anecdotalとされて、医学的なエビデンスといしては軽視されがちなんだけど、無意味というわけでは決してない。
青洲の考案した技術は秘術化したことで、歴史の闇に消えてしまった。
僕だけの技術、と呼び得るものがあるならば、いっそ公開してシェアしたほうが、少しでも人のためになるような気がする。
2018.6.3
高血圧とか高コレステロール血症とか、いわゆる慢性疾患、あるいは、統合失調症とかアトピー性皮膚炎のような難治性疾患もそうだけど、こういう病気の治療にために病院に通うということは、いわば、その病院の先生と顧問契約を結ぶようなものだ。そこにずっと通い続けるわけだからね。
そもそも慢性疾患に対する投薬治療は、治ることを前提にしていない。
薬を一回飲んで、「数字が正常値に戻りましたね。じゃ、薬はもうやめましょう」とはならない。
飲み続ける必要がある。
いつまで?
死ぬまで、です。
これは病院にとって(そして製薬会社にとって)非常にありがたいことで、こういう「契約」は病院にとっての固定資産になる。こういう患者を一人でも多く確保することが病院経営の安定化に貢献している。
症状は抑えるが、治らない。こういう治療を対症療法といいます。
一方、栄養療法は、症状の真因にアプローチするので、根本的に治します。
根本的な原因が除去され、健康になった患者さんは、その後どうなるか。
病院に来ることはありません。感謝の言葉を残して、去っていきます。
自分の人生を歩み始め、もう病院に来ることはありません。
医者としてはやりがいのあることだけど、病院経営的にはどうか。
まったくもうかりません。
勤務医をしていた頃は、この点、ある意味気楽だった。自分の思うような医療を実践できないというもどかしさはあったが、月々の給料はしっかり保証されていた。
でも、開業してからは、経営的なことも考えていかないといけない。テナント料の支払い、看護師の給料、その他もろもろの経費。けっこうな額になります。
一方、収入のほうはどうかというと、経費をまかなうだけの額には遠く及びません。
開業して以後、僕は医療の抱えるこの矛盾に直面しました。
いわば、僕には「固定資産」がない。経営的にはきついことだけど仕方ない。まさに、そういう医療、患者を根っこから治す医療がやりたいからこそ、開業したんだ。
人間の体って精妙にできているので、出ている症状には必ず理由があります。
血圧が高いのはなぜか。
高い圧で血液を駆出する必要があるからこそ、心臓は頑張って血圧を上げているわけ。
その原因は複数ありえるけど、たとえば動脈硬化が進んでて末梢の虚血があるから、それでしっかり末梢に血液を届けるために血圧が上がっているのかもしれない。
だとすれば、治療は単に数字だけ見て降圧薬投与するんじゃなくて、動脈硬化の治療を優先すべき、というのがオーソモレキュラーの発想で、そこでビタミンEやリシン、セレンなどのサプリメントの使用という選択肢が出てくる。
動脈硬化が解消すれば血圧は自然と下がる。心臓が無理して高い圧で末梢に駆出する必要がそもそもなくなったから。
「血圧が高いぞ、それ、降圧薬だ」という考えと、そもそも血圧が高い必要性自体を解消してしまおうという考え、どちらが根本にアプローチしていると思いますか。
対症療法は、体の生理に反した状態を薬で無理やり作っているわけで、こういう治療法は後々になって、思わぬところで落とし穴にハマります。
たとえば、無理に血圧下げていて、脳の血流も慢性的な不足状態になっているので、認知症になりやすくなる、とかね。
そういうのって、統計的なデータとしてしっかり出ています。
姑息的(その場しのぎの)治療は、借金の先送りのようなもので、結局長い目で見れば、大きな代償を払わされることになります。
短期的であれ長期的であれ、服用によって起こり得る副作用に関しては、医師は投薬前に事前に説明する義務があるんだけど、断言するけど、こんな説明責任、まともに果たしている医者はいません。
添付文書にある副作用の一覧を見てしまったら、患者はその薬を飲もうなんて思わなくなるのは明らかなので。そうすれば客が逃げてしまう。医者も商売。バカ正直ではつとまらない。だから、一般的なクリニックの先生は、副作用の説明は、するとしてもさらっと流す程度で、詳しいことは言いません。
矛盾のなかで生きていくのはつらいことだけど、少なくとも勤務医時代に感じていた強烈なストレスからは解放されました。
経済的なきつさと、自分のやりたい医療をできないつらさ、比較すれば、前者はまだしかわいいもので、後者は地獄の苦しみなんだ。もう二度と味わいたくない。
「まず、害をなすなかれ」って医聖ヒポクラテスの言葉がある。
プラスにならなくとも、少なくともマイナスは与えるなよ、という戒めの言葉なんだけど、今の自分は、この言葉を実践できているという自負があるから、自分の仕事に誇りが持てる。
だから、経済的な苦しさにも関わらず、断言できる。
開業して正解だった、と。
2018.6.3
ホッファーはナイアシンの大量投与療法によって、6000人以上の統合失調症患者を社会復帰させた。著した論文の数は500以上。
2009年に91歳で亡くなる直前まで、臨床現場で診療にたずさわっていた。
十代で統合失調症を発症した少年が、親に連れられてホッファーの診療所を訪れた。ナイアシンによる治療を受けた。他のどんな薬を飲んでも治らなかった少年は、見事に回復し、退院していった。
数十年の月日が流れた。
少年は長じて医者になり、出世して、APA(アメリカ精神医学会)の幹部になった。
APAは3万5千人以上の会員数を擁する世界最大の精神医学会で、様々な医学雑誌を刊行し、精神科の診断基準(DSM)の作成にもたずさわるなど、世界中の精神科医の司令塔、といった存在である。組織としての資金力も豊富で(なにしろ製薬会社から流れ込む資金が莫大なので)、政治的な影響力も強い。
当然、APAとしては、栄養療法の存在など断じて許容できない。
テレビなどのマスコミを通じて栄養療法の情報が出ないよう徹底して圧力をかける。テレビ業界にとって一大スポンサーだから、そういうことが可能なんだ。政治家にもパイプが太く、精神科学会にとって有利な政策が通るよう、ロビー活動も積極的に行う。
患者にとって真に有益な治療が表に出ず、副作用の多い製薬会社の薬が臨床現場で延々使われている背景には、こうした経済的、政治的な思惑がある。
医療というのは、そもそも患者のほうを向いていない、ということは、知っておくべきだろう。
統合失調症になり、ホッファーの治療を受け、人生を救われたかつての少年は、ホッファーと敵対する組織のトップとして、一体どんな気持ちで働いていたのだろう、と思う。
自分を救ってくれた恩人に銃を向ける格好なわけで、この医師は心の中に矛盾を感じなかっただろうか。
ナイアシンがいかにすばらしい効果があるか、当然この先生は知っている。そして、自分の団体が売り出している薬がどれほど副作用の多いものかも知っている。すべてこの医師が自分の体で経験してきたことだから。
巨大な組織に所属し、莫大な資金力、圧倒的な政治力を運用する側になれば、人間としての良心なんて、どこかに吹っ飛んでしまうのかもしれない。
ナイアシンが統合失調症どれほど著効するか、知っている医者は当然いる。APAの幹部さえ、知っている。でも、決してスタンダードな治療にならない。
要するに、政治なんだよね。
こういうの、ホンマにイヤやわ。