院長ブログ

毒ガスと炭

2018.6.9

自衛隊では幹部以上になると、意外にもヒゲをはやしてオッケーだという。
ただし、ヒゲといっても、許されるのは口ひげだけ。あごひげはダメ。
なぜだと思う?

それは、実に軍隊らしい理由なんだが、ガスマスク着用のためだ。

あごや頬にヒゲがあっては、ガスマスクが顔に密着しない。ガスマスクに隙間があっては、防毒の意味がなくなってしまう。
彼ら、適当にはやしているように見えて、あごや頬はきれいにそっているはずだから、今度よく見てごらん。

毒ガスが戦場で使われたのは、第1次世界大戦のとき。フランスがドイツにブロモ酢酸エチルを使い、お返しとばかりにドイツがまた別の毒ガス(ホスゲン)を使い、という具合に、開発競争が進んだ。
ドイツの開発したイペリット(マスタードガス)による死傷者は18万人、アメリカの開発したルイサイトによる死者は10万人にのぼった。

1936年、ドイツのシュレーダーがシラミの殺虫剤の公開実験をしたところ、それを近くで見ていた数人が倒れた。瞳孔の縮小が見られ、神経が麻痺していた。
これをきっかけに、神経系の毒ガスであるタブンが開発された。
シュレーダーのもとで働いていた研究員が、タブンの溶液を一滴、うっかり作業台にこぼしてしまった。それだけで、同じ部屋にいた研究員らは、縮瞳、めまい、息切れを起こし、完全な回復には3週間を要した。
1g未満で致死量となり、ホスゲンやルイサイトの100倍の殺傷能力があった。

1938年にはそのタブンよりも2倍殺傷能力が高いサリンが開発された。
1944年にはサリンよりも強い史上最強の毒ガス、ソマンが開発された。

これらの毒ガス(タブン、サリン、ソマン)は大規模プラントで大量に生産されていたが、実戦で使用されることはなかった。
なぜか?
たとえばサリンは無色無臭の液体で即効性が高く、もし都市に投下すれば、都市全体を数分で死の街に変えることができる、と言われていた。
なぜヒトラーはこれほど強力な毒ガス兵器を開発しながら、実戦で使用しなかったのか。窮地に追い込まれていた同盟国側の、一発逆転の切り札にもなり得ただろうのに。

その理由はよく分かっていない。
個人的な推測だが、あまりにも効果が強すぎたから、ではないだろうか。
戦争の背後には、常に黒幕がいる。一発落としただけでロンドン市民全員を死亡させてしまうほどの殺傷能力を備えた兵器というのは、彼ら黒幕にとっても不都合だったため、その実戦使用を許可しなかったのではないか。

さて、こういう「攻撃」の開発がなされたということは、それに対する「防御」の開発もさぞ進んだことだろう、と思われるかもしれない。
しかし、「防御」のほうは、ほとんど進歩していない。
解毒薬としてPAMやアトロピンがあるが、毒ガスへの曝露からすぐに投与しないと効果がない。
ガスマスクはすでに第1次世界大戦のときに開発・使用されていたが、基本的な構造としては現在とほとんど変わっていない。フィルター部分に使う濾材として何がベストか、様々なものが試されたが、濾材はこの100年、変わっていない。
僕らのごく身近にあるものがガスマスクの濾材に使われているんだけど、それは何だと思う?

それは、活性炭だ。
炭だよ。ただの炭が、最もよく毒ガスを吸着し、最も効率よく兵士の命を守るなんて、意外だと思わないか。
百年前の毒ガス研究者にとっても、これは意外なことだろう。彼らは「この先もっと研究が進めば、もっと効率のよい濾材を使った高性能のマスクが開発されるだろう」と思っていたに違いない。
ところが、活性炭、ヤシ殻を使った炭に勝るフィルターがいまだに現れていないし、しかもその作用機序、なぜそんなにも毒ガスを能率よく吸収してくれるのか、そのメカニズムもいまだによくわかっていないというんだから、自然の精妙さの前には、人類の技術というのはまだまだ発展途上ということだね。

毒ガスの歴史の話から、いきなり僕の話にうつる。
クリニックの開業当初、看護師が「先生、少し言いにくいんですけど」とためらいつつ、こう言った。「このフロア全体のにおいが、新築っぽいというか何というか、すごくケミカルなにおいがします。私、こういう空気が苦手なので、もしよければ、空気清浄機の購入を検討してもらえませんか。そうすると、来院される患者さんも、不快な思いをされないと思います」
鼻が鈍感なせいか、においとか全然気にしない僕にはありがたい指摘だった。
そこで、どういう清浄機を買おうかといろいろ調べてみたが、意外に値が張る。しかも部屋がけっこう広いので、本気で空気をきれいにしようと思ったら、2、3台は買わないといけないだろう。
そこで、まず、空気清浄作用のある観葉植物を何種類か買って、部屋に置いた。
効果はイマイチ。
次に考えたのが、炭だった。それでダメなら空気清浄機を買おう、と思っていたが、この炭が効いた。もう、てきめんに効いた。
看護師も「いやなにおいは全くしなくなりました。」

身近に炭のパワーを感じたな。
よかったらみなさんもお試しを。
リセッシュとか、けったいな消臭芳香剤使うより、よほど自然で、かつ、効果があるよ。
サリンやソマンを無力化してしまうぐらいのパワーを秘めた炭にとってみれば、シックハウスの空気をきれいにするぐらいは朝飯前のことなのかもしれない。