開業する前は、僕の人間関係って狭いもので、ほとんどが医者ばかり。医療関係以外の人と話す機会ってあんまりなかったんだけど、開業後はいろいろな業種の人と話すようになった。
きのうの夜も、とある企業の社長さんと食事を一緒にした。
50歳だけど歳の割に若い感じで、昔柔道をしていたということもあってか、すごく体格がいい。複数のビジネスを手がけているけどどれも成功していて、その割におごったところがなくて、物腰も柔らかい。その席で社長さん、こういう話をしていた。
「赤字部門っていうのかな、利益の全然出てないこともやってるよ。障害のある子供の支援施設の代表をしているんだけど、ここは正直、採算は取れていない。ああいう施設って、人件費とか大変なんだ。
普通学校のクラスなら、40人の生徒に教師は一人でいいだろう。でも、障害児には、だいたい5人につき1人、という形でないといけない。他にも施設の維持費とか管理費でバカにならない金額がかかる。
部下からはずいぶん反対されたよ。「社長、どう考えて、手を引くべきです」って。でも俺はこの仕事、やめる気はないよ。
第一、すごくやりがいがあるんだ。
障害の程度は様々だが、共通していることがある。彼ら、みんないい目をしてる。人の話を聞くにも、何か作業をするにも、いつも真剣でね、俺はそういう彼らの目が好きなんだ。うちの社員に見習わせてやりたいくらいだよ笑
俺も直接子供たちと話をするし、作業を指導したりする。
以前、ある若い芸術家と協力して、掃除とアートの融合、というのをテーマに、子供たちに掃除の道具を作る課題をやらせた。
みんな楽しんで課題に取り組んでいたし、完成した道具も実用的で、以後、掃除はみんな自分の作った道具でやるようになった。
その取り組みがね、なんと、市の教育委員会から注目されて、他の普通の小学校でもその取り組みを採用し始めたんだ。
俺の発案した課題があちこちの小学校で行われているんだよ。こんなにうれしいことって、ないじゃないか。
そうした活動をやり始めて、何年か経った頃、不思議な現象に気付いた。
仕事の入札を出すんだが、よく競り負けていた他社ではなく、なぜかうちの会社が選ばれることが多くなった。
仕事が取れてありがたいことだからいいんだけど、なぜ、そんなラッキーが続くのか、俺自身よくわからない。社員と話してみたが、社員もわからない。
そこで、あるとき、仕事を落札してくれた当の企業の社長に聞いてみた。『なぜうちを選んでいただいたのですか』と。
そしたら意外にも、決め手は、あの障害児施設での活動だ、って言うんだよ。企業はどの会社を選ぼうかと、インターネットとか使っていろいろ調査する。うさんくさい企業とは仕事したくないからね。この世界ってさ、きれいなことやってる会社ばかりじゃない。一見普通っぽくても、実は裏に暴力団の影がある、みたいな会社も多いんだ。そういう調査のなかで、うちの会社のホームページにある、「自作の掃除道具できれいにしよう」とか「掃除を楽しくしよう」という、施設での活動を紹介した記事が、彼らの目には光って見えたわけ。赤字部門と思われていたところが、対外的には何よりの宣伝になっていたんだ。
活動を始める前に、宣伝になればいいな、という下心はなかったとは言わないよ。でも、社会のために何か役に立つことをしたいって思いも本当だったし、同じやるなら、普通の子供のためよりは障害児のために、と思っていた。
まったく、人生、何がどう吉に出るか、わからないものだね」
因縁という言葉があるって、『因』は原因と結果の世界で、場合によっては科学的な分析も可能だけど、『縁』のほうは全く不可解、理性では解き明かせないものだ、みたいなことを南方熊楠が言ってた。
この社長の話で僕がおもしろいと思ったのは、仕事をやたら落札してくれるという謎の幸運が続いて、『縁』かと思っていたら、実は障害児のための活動が結果的に宣伝になっていたという、充分に『因』で説明がつく現象だった、ということです。
たとえばサイコロを投げる。6が出た。
さて、これは偶然か、必然か。
サイコロの握り方、振る角度、サイコロの接触するテーブルの材質。そういうもろもろの要素を細かく考えていけば、6が出たのはランダムだったのではなく、必然だった、つまり『縁』ではなくて『因』だった、というふうに考えることもできる。
僕は統計学に妙に心ひかれるんだけど、それは、科学的なアプローチでどこまで『縁』にせまれるの、というのがすごくおもしろいからだと思う。
とはいえ、統計学が縁の不思議の全てを解き明かすかといえば、そんなことは決してない。
因果の必然のなかを生きているように見えて、時々思いがけないような縁が降ってかかる。そういうのが人生なんだと思う。