院長ブログ

国語2

2020.3.7

紳士の実感がこもったグチを聞いた。
ゆとり世代の部下の能力があまりに低いことにうんざりして、その反動として、逆に学歴の重要性を認識された、という。
紳士ご自身は自分の学歴の低さをどこかコンプレックスに思っているふしがあったが、話を聞いていて、ジアタマのよさが伝わってきた。
真剣なグチなんだけど、どこかユーモアを含んだしゃべりで、聞いているこちらとしては、笑いながら相槌を打つ。グチを聞かされている、という不快感はない。
勉強という枠組みでは必ずしも力を発揮せず、代わりにトークやユーモアセンスで才能を感じさせる人がいるものだが、紳士はまさにそういう人だった。

飲み屋のバカ話なので総じて笑いながら流したけれど、紳士の話に内心異議を唱えたいところもないわけではなかった。
紳士は「一周回って、やっぱり学歴大事」という認識に至ったが、僕は「勉強ができるのに無能」という人をけっこう見てきた。学校秀才っていうのかな。学校の勉強ができるっていう、ただそれだけの人。応用力がないし、人間的におもしろくもない人。
そういう人を見ていると、どこかの教育評論家がいう「学歴ではなくて、人間の内容こそ大事」という意見も捨てがたいと思う。

学校のテストというのは、作問者がいる。そういう「誰かの枠組み」のなかでいい成績を目指して競い合うのが学歴社会で、それはそれで、ちょっとした知的トレーニングにはなるのかもしれない。でも世の中の問題には、「答えのない問題」のほうがはるかに多い。
学校で学ぶのは、あくまで基本にすぎず、金科玉条のように押し頂くようなものではない。学校で学んだ知識なんて、リアル社会ではいまいち使えないことが多いもので、個々具体的な状況にどう対処していくかは、自分で知恵をしぼって考えていくしかない。
結局、守破離なんだな。いろいろ試行錯誤して、自分なりのスタイルを作って飛躍していけるかどうか、そこがポイントだと思う。
いうて、僕も全然できてないけどね^^;

個人的には、国語はずっと苦手だった。成績は別にして、国語という科目に得意意識が持てなかった。中学の頃からそうだし、高校でもそう。
得点能力は悪くなかった。センター試験の国語とか、ほぼ満点だった。でも、得点能力と得意意識は、僕の場合、ほとんど相関していない。その点、数学は好きだし、成績もよかったんだけど。国語に関しては、ついに自信を持てないまま、学校教育を終了してしまった。
「あんなにたくさんブログで文章書いてるのに、国語が苦手なんて、嘘やろ」と言われるけど、本当。「筆者の言いたいこと」を客観的に読み取るのではなくて、思いっきり自分に引き寄せて、自分のまな板の上に乗っけてから解釈する、みたいなところがある。誰よりも深く理解したつもりでも、試験問題という形になると、正しい選択肢を選べなかったりする。そういうのが嫌で、得意意識が持てないんだと思う。

森毅先生が、何かのエッセーで書いてた。
どこかの高校の国語の入試問題で自分の文章が使われた。その問題を解いてみたところ、ほぼ全問正解だったが、唯一、最後の一問(「傍線部について、筆者の意図に最も近い選択肢を次の中から選べ」)だけ、間違えた。解答・解説集を読んで、納得した。「なるほど、俺はこういうことが言いたかったのか」と。
すごい話だと思わない?筆者でも満点とれないんだよ?^^;
でも国語という科目は、こういうものなんだと思う。著者の意向を超えたところで展開される忖度合戦、みたいなところがある。評論文ならまだしも、詩となれば、作問者の解釈次第で解答が揺れることはざらにあるだろう。
谷川俊太郎はこういう状況に業を煮やして、学習塾大手(希学園とSAPIX)を訴えた。
『作品、勝手に受験問題集に 谷川俊太郎さんら提訴』
https://blog.goo.ne.jp/kuyan2/e/a7d718fd1c531f38b352c2e1535ac0d5
受験業界関係者のなかには「自分の作品が模試や入試で使われ、多くの学生に読まれることは著者にとって名誉なことだろう」と考える人さえいるが、とんだ思い違いである。
自分の詩を、勝手に一部空欄にされたり、横に傍線引かれたり、「作者の気持ちとして正しいものはどれか、選べ」とか、勝手に気持ちを推測されたり。作者に対して、失礼極まりないことだと思う。
ただ、この一件以後、谷川俊太郎は受験業界から「要注意人物」としてマークされ、彼の詩が受験に出ることはぱったりなくなったという。
これは、谷川さんにとって、よしわるしじゃないかな。僕が谷川俊太郎の詩を知ったのは、塾の国語の問題集を通じてだった。「なんてきれいな言葉を書く人だろう」と思って、そこから彼の詩集を手に取った。今後、受験問題集をきっかけにして谷川俊太郎の魅力に気付く人はいなくなったわけで、それはそれで寂しいことじゃないかな。