盆と正月には、祖父母と母が眠る須磨寺に行って、坊主にお経を読んでもらう。
きのうも行ってきた。
すばらしい快晴。新年の始まり。そういう日に死者に手を合わせるというのは、しんきくさいかと思いきや、不思議と悪い気はしない。
護摩木に干支、年齢(数え年)、性別、名前を書いて、さらに祈願を書く。
そばの父が「うわ、俺もう68歳か。信じられへんな」とつぶやく。
数え年では、0歳が存在せず、1歳でスタートする。また、何月生まれであっても、元旦でひとつ年をとる。だから「今年の数え年」は、自分の認識より2個年上になる。
それでいうと僕も41歳で、確かに信じられへん感じがする。まだぎりぎり三十代のつもりでいるからね^^;
しかし西洋風の満年齢でいっても、僕は今年40歳になる。平均年齢的には、人生の折り返し地点。つまり僕の人生は、残りあと半分。
僕の人生の前半は、もっぱら自分のためにばかり生きてきたと思う。後半は、社会のために、という意識も持ちたい。
医療といえば西洋医学しかないと思われているこの国で、栄養療法を広めることは、ちょっとした社会貢献にもなっているはずだと信じよう。
ネットで見つけた書き込み。
「2050年は1990年と同じくらいの距離だ」
なるほど確かに。
2050年なんて聞くと、遥かかなたの未来のような感じがするけど、現在と1990年のへだたりと同じ程度なんだな。
今から30年前。
スマホもインターネットもなかったけれど、日本経済は絶好調だった。
これから30年後。
少子高齢化が加速して、日本経済の衰退は止まらない。その少数の若者も、AIに仕事を奪われて、定職を持つ者さえ珍しい。貧困家庭の増加は天井知らず。
そういう具合に、経済的に悲惨な状況になっている可能性はけっこう高い。
でも、それが「不幸な未来」かというと、必ずしもそうじゃないと思うんだな。今周囲を見回しても、お金持ちで不幸せそうな人はいるし、金がなくても幸せそうな人はいるでしょう?
人を真に幸せにするのは、物質的豊かさではなくて精神的豊かさなんだ、ということを実感するいいきっかけになるかもしれない。
坊主の法話を聞いた。
しゃべるのがうまいなと思っていたら、なんと、このお坊さん、自分の法話をユーチューブにアップしているという。つまり、坊主ユーチューバー^^
すごい時代だ。そのうち、お経もネットで配信されたりするのかな^^;
しかし、法話をネットにあげちゃっていいのかな。
レコードが出てきたとき、落語家たちは憤慨した。自分の高座を録音されて、それが人々に広く聞かれてしまっては、同じネタができなくなる。ネタは生き物。ウケるときもあればすべるときもあるし、その場でネタをアレンジすることもある。それが、録音という形で標本みたいに押さえられては、かなわない。
このお坊さんも、いわば自分の持ちネタをネットにさらしているようなものだから、不都合なところもあると思うんだけどね。
坊主ユーチューバーというのも相当違和感あるけど、もっと違和感があるのは、この寺、お布施のネット振り込みにも対応しているんだよね。
なんていうかな、お布施とかお賽銭というのは現金で直接やるからこそ、ありがたみがあるような気がする。お賽銭をメルペイ決済とか、何かすごく嫌だな^^;
盆と正月に直接寺に出向いて、お経やら法話やらを生で聞くことに意味があると思う。
ネット配信とかネット振り込み対応とか、あんまり興ざめなことをやらないで欲しいんだけど、2050年にはそういうのが当たり前になっているのかもしれないな。