はじめ、物事はシンプルなはずだった。すべて見慣れた簡単なものばかりで、きちんと理解できた。
でも段々複雑になってくる。わからないことが増えてきて、もはやすべてを理解するなんてできない。窒息しそうな複雑さのなかで、自分を見失わないようにすることで手一杯、という有様だ。
具体的に何に対する比喩、ということではない。
どんな物事も、単純から複雑へ、という流れに従っているようだ。
たとえば体の構成要素。
僕らが食べているものは、ほとんどがCとHとOという、ごくシンプルな元素から成り立っている。
この単純なピースが複雑に組み合わさって、精妙無比な機能を持つ細胞が作られる。
医学の研究はすべて、単純なピースが織りなす複雑系に対する挑戦のようだ。
将棋もそうかもしれない。
序盤はシンプルで、指し手も限られている。しかし局面が進むにつれ、可能な候補手は指数関数的に増えていく。
頭の中の将棋盤に様々な「あり得る未来」を描きながら、可能性の海のなかを深く潜っていく。序盤の単純さはどこへやら、今や複雑さのなかで溺れないように必死になっている。
逆に、「詰むや詰まざるや」の最終盤になると、再び候補手は絞られてくる。単純から複雑へ、そして再び単純へ、収束していく。これが将棋の流れだと思う。
将棋の強さは、中盤から終盤にかけての、特に焦点のない「ぼんやりした局面」で、いかに厳しい手をさせるか、にかかっている。
自然数もその例かもしれない。
1、2、3、4、5、、、
数字の並び。単純にして、しかも美しい。
しかしたとえば、こんな並びはどうか。
7062、7063、7064、7065、7066、、、
同様に、自然数の並びではある。しかし、別に単純でもなければ美しくもない。
自然数は、いつ「美しくなくなる」のだろう。
森毅先生が、ある本のなかでこんなことを言っていた(うろ覚えだけど)。
「たとえば正多角形を考えてみる。正三角形や正方形は基本。タイルの敷き詰めもできるし、美しい性質もたくさんある。
正五角形は内部に黄金比を宿しているし、正六角形は正三角形の組み合わせだから、やはり美しい。しかし正七角形は、数学的に特に興味深い性質もないし、特段美しくもない。
つまり、正多角形のうち最初の『美しくない』多角形は、正七角形だと言えそうだ」
言われてみれば、そうかなと思う。
人間が一度に認識できる個数は、特別な訓練をしている人でなければ、7あたりが限度だという。
目の前に6個のコップがある。「6個」と認識できる。
しかし7個以上になれば、何個というより、「たくさん」と認識する。
このあたりが、単純と複雑の境目なのかもしれない。
すべてが手のひらにおさまるような単純系は、美しくて魅力的だ。
しかし人間には、その世界に安住することをよしとせず、複雑系のなかに飛び込んでいこうとする性質があるようだ。思いがけないお宝やワクワクは、複雑系のなかにこそある、という思い込みがあるのかもしれない。
一方、ときどきそんな複雑系にうんざりして、単純さが恋しくなったりする。都会暮らしの喧騒に疲れれば、田舎の実家が心地よいものだ。
複雑と単純、両方を希求する矛盾した心が、人間の本質なのかもしれない。