ミトコンドリアには電気が流れる。
ウソだと思いますか?
本当です。
心電図や筋電図、あるいは脳波もだけど、ああいう計測が可能なのは、筋肉(心筋含め)や脳にミトコンドリアが多く含まれているからだ。
ミトコンドリアの電子伝達系で効率の良いエネルギー産生が行われているというのは、高校の生物の授業で習っただろう。
電子伝達系では、その名の通り、電子が大量に発生している。
電子の集まりというのは、いわゆる電気に他ならない。(電子がどの程度集まれば「電気」と呼べるのか、その定義はよくわからないけど。)
この発想に基づいて、ミトコンドリアを使って電池を作ろうという研究さえある。
https://link.springer.com/article/10.1007/s11356-015-4744-8
この論文は中国の研究者が2015年に書いたものだけど、ミトコンドリア・バッテリーのアイデアは2010年アメリカの研究者により初めて発表された。
発想のエッセンスを深く理解し、なおかつ、そこに新たな知見を加えて論文を発表するには、相応の技術力が必要なわけだけど、最近の中国の科学技術の進展はすさまじく、すでに日本を追い抜き、米中2強の様相を呈している。
https://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2018_0913.html
中国政府による潤沢な金銭的バックアップを背景に、今の中国の躍進があるという。
金だけがすべてじゃないだろう。金がなくても、ないなりに、発想力勝負でおもしろい研究をしている人は日本にもたくさんいると思う。
本当に問題なのは、新しい発想の研究に対して、「今までの定説と違う」と新しい芽を摘んでしまう日本の旧弊な体質じゃないかな。
ミトコンドリアの研究は、健康とは何か、もっと広く、生物とは何か、ということを探求する上で、多くの示唆を与えてくれる。
細胞内共生説によると、真核生物というのは、嫌気性生物のなかに好気性生物(ミトコンドリア)が住んでいるという、初手からボタンを掛け違えているような矛盾から話が始まる。
事実、異質な両者の融合はなかなかうまくいかなかった。
ミトコンドリアが分裂抑制遺伝子を持ち込み、嫌気性細胞の細胞分裂を遅くするなど、様々な工夫をこらすことによって、何とか共生を達成したものの、根本の矛盾が解決したわけじゃない。
実際最終的には、細胞はミトコンドリアの放出するフリーラジカルに身を焼かれ、つまり老化し、死を迎える。
そう、物語の最初から、結論はわかっている。細胞はみんな、死ぬ。
それでも細胞は、たとえ死ぬことがわかっていようと、実りのある豊かな生を生きようと思った。
こうして生物は、解糖系とミトコンドリアという、二つの異なるエネルギー産生システムを持つに至った。
胎生期は解糖系のピークだが、成長期の子供時代も解糖系が優位だ。
子供の特徴は瞬発力。子供は突発的に行動するものだし、集中力は大人みたいに長く続かないものだ。ADHDとなればまた話は違うけどね。
それに、細胞分裂を繰り返して体を作っていかないといけない時期だから、ミトコンドリアが多すぎて細胞分裂を抑制しちゃっても困るわけだ。
成長期もひと段落し、大人になれば、調和の時代。
解糖系とミトコンドリアのバランスが絶妙に保たれている。生産的に働き、家庭を作り、人生を作っていく時期でもある。
若者がやがて中年へ、そして老年へとさしかかるにつれ、解糖系が縮小し、ミトコンドリア系が優位になり始める。
解糖系が与えてくれた瞬発力は衰え、機敏な動作ができなくなってくる。
活性酸素を出すミトコンドリアの勢いを抑えられなくなる。肌には無数のシミやしわが刻まれる。
こうして老い、やがて死んでいく。
しかし、これは不測の事態ではない。当初からの契約だったのだ。
必滅の体となることを知ってなお、ミトコンドリアとの共生を選び、短くも輝かしい生を生きようとした。
それが僕らが12億年前にした選択だった。
共生ゆえの脆弱さ、というのもある。
ミトコンドリアは好気性呼吸で、酸素があってこそ本領を発揮できるんだけど、それゆえに、虚血に弱い。
適切な血流(酸素供給)が保たれていれば長時間働き続けられる箇所にミトコンドリアは多く分布している。
赤筋(40㎞とか走れる)、心筋(止まるときは、死ぬときだ)、脳神経(寝ているときでさえ休まない)などは、ミトコンドリアなしでは成立しえない臓器だ。
肩こりや腰痛を軽く見てはいけないよ。あれは虚血にあえぐ赤筋の悲鳴だからね。
脳梗塞や心筋梗塞で数分血流が途絶するだけで、体は大きなダメージを負う。
上手に生きれば100年以上機能する器官が、たった数分の虚血で永続的な機能不全に陥るって、考えてみればすごい話だよね。
ミトコンドリアを語る上で、血流というのも大事なテーマだ。
血流。
血の流れ。
福岡伸一先生によると、僕らは「動的平衡」のなかで生きている。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」
目の前を流れる河は、きのうと同じ河ではない。違う水が流れているわけだから。
同化と異化を繰り返す僕らの体は日々変化していて、実際二十年もすれば細胞的にはすっかり入れ替わっているという。
一見不動の存在に思える僕らの体のなかを、血流という流れが常にめぐっているのは、何か比喩的なものを感じる。
毛細血管の径は7.5~8μm、赤血球の径も大体同じで7~8μmぐらい。
この一致は不思議だ。
血管が血を流すためだけにあるのなら、もっと血管径に余裕があるべきだろう。そうでないのはなぜか。
ときには血流を止めることも必要だからだ。
怒りや興奮などによって交感神経が緊張すると、血管径が縮み、血流が低下する。
そうすることによって、解糖系が瞬発力を発揮できるからだ。
人生、進んだり立ち止まったり、だけど、これは血流も同じようなんだ。
ただし、「ときには」止めることも必要、ということであって、交感神経の興奮が続いてしまってはいけない。
基本的には血流、ゆく河の流れを保つことが重要だ。
こういうメカニズムにのっとって考えると、痛みに対して痛み止めを投与することの不自然さが見えてくる。
「痛み」というのは局所で発痛物質(プロスタグランジン)の産生が起こり、血管拡張させて、何とか血流を呼び込もうという反応だ。
その痛みの不快感を鎮めようとして、アスピリンやバファリンを飲んでも、実は根本的な解決にはなっていない。それは、人工的に「流れ」を止めたに過ぎないんだ。
体はよくできていて、症状即治療、痛みこそ実は治癒反応だったのにね。
対症療法に終始する医学は、動的平衡の考え方の真逆を行くものだろう。
ゆく河の流れを永続的に止めようとしたところで、成功するわけがない。