院長ブログ

刑法39条

2019.1.5

勤務医の頃は、人間関係とかいろいろすごく面倒だった。
「それ、パワハラでしょ」と言いたくなるような上司の言動は無数にあった。
一番ひどいと思ったのは有給取得を認めてくれなかったこと。
基本的に角を立てたくない性格だから、理不尽な要求もグッとこらえて飲むようにしてたけど、さすがにこれには我慢できなかった。
「何も直前に休ませてくれと言っているわけじゃないんです。
一か月以上前に、事前にお伺いを立てているんです。どうしても、認めてもらえないのですか」
「少ない医者で職場が回ってるんだ。年齢的にはいい年したおっさんだが、ここではお前が一番下っ端なんだぞ。
下っ端が有給とか、何ぜいたくなこと言っている。俺だって有給取りたいよ。でも取らずに頑張っているんだぞ」
こんな具合に混ぜ返してくることはわかっていた。
議論の泥沼に巻き込まれるつもりはない。
単刀直入に、用意の言葉を言う。
「わかりました。話が通じないようなので、病院長宛てに内容証明郵便で有給願いを出します。
それでも通じないようであれば、労基に現状を話しに行きますので」
さすがに面食らったようで、急に態度が軟化した。
「いや、しかし、四日というのは、さすがに長いね。二日でどうだ。二日なら認めよう」
本当はこんな提案も突っぱねて、黙って四日休めばよかったんだと思う。
そうしたところで、病院規則に従って行動しているんだから、何も僕を咎めることはできないことは分かっていた。
でも、相手にもプライドがある。
こちらの思いのままになる、というのが、彼には許せないんだな。
このあたりが落としどころか。妥協して、二日の有給取得となった。
これでも、僕としては相当頑張ったほうだ。
しかし、こんなことを言わせるなよ。
言わせるほど、追い込まないでくれ。

いい上司、嫌な上司、なんて白黒はつけないのが基本方針。
いわゆる「いい上司」にも、生理的に受け付けない不快な癖があったりするし、「嫌な上司」にも、何とも憎めないかわいいところがあったりする。
人間は多分、どんなことからだって学べると思う。
嫌な上司も、ときにはハッとすることを言う。
「ほら、今日の措置の患者に限らないけどね、ああいう患者見て、君、どう思う?
完全に見当識がぶっ飛んでて、まったく自分を失ってると思う?
俺、そうは思わないんだな。
なるほど、疎通はできないし制止がきかない。放っておいては自傷他害の恐れのある危険な状態だ。
それでも、一抹の自分は残ってるんじゃないかな。
心が10あるとして、9はぶっ飛んでいるかもしれない。
でも1は、自分の精神の1割くらいは残っているんじゃないか。
心神喪失と心神耗弱って言葉がある。医学用語というよりは法律用語だけどね。
心神喪失状態にある人が罪を犯しても、罰せられず、心神耗弱状態にある人が罪を犯せば、減刑。刑法39条で決められてるんだ。
医者だから法律の専門家である必要はないけど、これくらいは知っておくといい。警察とか裁判所から、診断書やら鑑定書を書いてくれと求められることもあるかもしれないからな。
たとえば精神科通院歴のある患者が、駅のホームで電車を待っているときに前の人を線路上に突き落とした、みたいなニュースがときどきあるだろう。
ああいう事件の精神鑑定を頼まれたら、どうする?
『被告は犯行当時心神喪失状態にあり、理非の分別がつかず、従って被告の行為は犯罪を構成しない』と、あっさり書いていいものかどうか。
精神障害者だから無罪放免、という刑法39条の規定は、ちょっとどうなんだ、と俺は思っている。
この規則が言っていることは、要するに、『気違いを刑務所にぶち込んでも仕方ない』ということだ。
冷たくないか。
逆差別のように感じるんだ。
『罰するということは、許してやることだ』という言葉がある。
罰してもらえない彼らは、一体何なんだ、と思う。
そもそも俺は、本当の意味で『心神喪失』という状態があり得るのか疑問に思っている。
どんなにぶっ飛んで見えようが、一抹の自分は残っていたはずで、その残っていた量に応じて、多少なりとも罪を負わせてやる。
そちらのほうがよほど精神病者を対等に扱っていると思わないか」

個人的には、完全な心身喪失状態はあり得ると思う。
たとえば酒に泥酔して、記憶が飛ぶなんてことはよく経験するところで、僕の場合はそういう状況でも案外普通に会話したり受け答えしたりしているようなんだけど、酒乱で暴力的になる人もいる。
ただ、上司の言っていることもよくわかる。
「病気だから、仕方ない」という論理は、どんな罪も正当化してしまう無敵の印籠のようで、これは一見、精神病者を守っているようでいて、実は精神病者を排除する論理になっていないか。
考える価値のある深いテーマだと思う。