東京駅で降りて丸の内中央口を出ると、体の正面は西側を向いているはずだ。
前方には空がひらけていて、その空のあまりの広さにはっと息をのむ。
ビルの乱立する東京の景色のなかで、行幸通りから皇居を臨むこの風景は稀有のものだ。
行幸通りは、通りというよりは広場といった印象である。この通りをまっすぐ行けば、その突き当りが皇居である。
馬車が通ることを想定して作られたこの通りに立てば、左手には丸ビルが、右手には新丸ビルがそびえたち、広大な空の左右両側に額縁を与えているようだ。
大阪の街を見知っていればある種の免疫がついて、東京のビル群を見てもさして驚かない。
しかし皇居方面を望むこの景色には、ビルの質量などという物質的なものではない、圧倒的な何かを感じる。
これが、帝都の威容ということかもしれない。
そう。東京駅は明治大帝のために作られた、いわば「天皇の駅」である。
明治29年帝国議会で、新橋駅と上野駅を結ぶ中央停車場を建設することが可決された。日清、日露戦争のため着工が遅れたものの、戦後の明治41年には建設工事が本格化した。
開業は大正3年。中央停車場は宮城の正面に設けられ、「東京駅」と命名された。
中央停車場の構造設計は、当初、ドイツ人技師フランツ・バルツァーが担当した。
バルツァーは日本建築に造詣が深く、日本の伝統的な建築様式に基づいた設計図を提案したが、採用されなかった。
日清、日露戦争に勝ち、欧米列強に追いつけ追い越せ、という気運の時代である。城の天守閣を思わせるような和風建築を、人々は喜ばず、列強に比して恥じない洋風建築を人々は求めたのである。
バルツァーに代わって設計を担当した辰野金吾は、バルツァーの試案を「赤毛の島田髷」と酷評した。
しかし、皇室用の玄関を中央に据えた点については「国威にとって欠くべからざる名案」と絶賛した。また、南側に乗車口、北側に降車口、を設けるアイデアについてもバルツァー案を継承し、丸の内本屋の設計を完成させた。
海外でも王室専用の乗降口を中央に設けた例はなく、こうして東京駅は「天皇の駅」として独自の地位を得ることになった。
いつだったか、ある日の裏山部。
「あのさ、あつしってさ、誰かに似てるなーって、思ってたんだけど、あるときね、ハタと思い当たったんだよ。
明治天皇だよ!あつしは、明治天皇に似てる」
うわ何それ、微妙な気分やわー笑
「ほら、この写真、見てみなよ。似てると思わない?」
うーん、まずね、これ、写真じゃないから。キヨソネの描いた肖像画を白黒写真で撮影したもので、写真というか絵だから。
「いや、でも絶対似てるって」
そうかなぁ。自分ではわからへんわ。
っていうようなくだりがあって、以後、裏山部では、僕を茶化すときには「さすが明治天皇だね」といじるのが定着しました笑
三日前に同級生たちがサプライズで僕のクリニックに来てくれたときにも、彼らの一人が開業祝としてくれたプレゼントは、なんと、明治天皇と皇后の肖像だった笑
クリニックにありがたく飾らせてもらうことにしたけど、、、
こんなの飾ってたら、すげぇ右の人なんじゃないかって勘違いされそうだなぁ笑