「病理学的には、皮膚表面も爪も髪の毛も皆、脱核した細胞でできている。脱核しているというのは、つまり、死んでいるということだよ。
つまり、僕らの体は、いわば『死』で覆われている。
僕らは上着よりも下着よりも何よりも、まず、『死』を着ている。それが体に最もフィットした衣服ということだ。
さらにいえば、僕らの体内において『死』は極めてありふれている。
古い細胞がアポトーシスを起こして『自殺』したり、何らかの外的な要因からネクローシスを起こして『壊死』したり。
環境中に満ち満ちた細菌やウィルスが侵入するが、白血球という防衛軍がそれらの病原菌と常に戦争していて、双方に大変な死者が出ている。
僕らはそうした体内の『死』に気付かない。
『死』は自分と無縁などこか遠くのもの、いつか訪れるけど今はまだ来ていないもの、と考えがちだが、そうではない。
それは常に、ここにあるんだ。
『死』は『生』の対極にある概念ではない。
『死』と『生』が不可解にまじりあい、せめぎあう場。それが僕らの体なんだ。
だからね、何もことさらに死を恐れる必要はない。
『死』は急に降ってわいたように訪れるんじゃない。
体の中にある『死』が『生』とせめぎあいつつも、次第にふくらんでいき、やがて体全体を覆う。
人間はそういうふうに死んでいく。
『生』の始まりを定義することはある程度簡単だ。精子と卵子が結合し、受精卵ができた、その瞬間を『生』の始まりと呼んで差し支えないだろう。
しかし『死』の定義は実に曖昧なんだ。医学的には、呼吸停止、心停止、瞳孔散大を死と呼んでいるが、こんなものはあくまで便宜的なもので、死んだ後にもヒゲが伸びるという話は君も聞いたことがあるだろう。
このあたりは、国家の滅亡とアナロジーをなしているように思える。政治機能の停止、経済機能の破綻、象徴的存在の消滅といった現象を国家の滅亡と定義しても、かつての国民たちはけっこう生き残っていたりするわけだ。
平時には免疫の監視下に共生関係を築いていた腸内細菌が、ゲリラ部隊となって全身を暴れ始める。腐敗が始まり、『生』はいよいよ崩壊に向かうが、言葉を換えれば、それは微生物という新たな『生』への変換プロセスだとも言える。
つまり、『死』は次なる『生』を育む土壌なんだ」
病理学者は世界を違った風に見ているようだ。
臨床現場でなまの患者を見るよりは、毎日顕微鏡をのぞく仕事である。
普通の人が見ない角度から世界を見ることで、見えてくる真理というものがあるようだ。
「死と生は対極の概念ではない。我々の体は『生』のみからなるのではなく、『死』と『生』の混合物からなる」
これは見事な弁証法になっていて、確かに一面の真理を突いているようだ。
実際の患者と触れ合わず、ただ、患者から取り出した組織片にだけ興味があって、その顔つきが良性か悪性か、その判断を下す。
病理学者のこういう仕事は、いくらか非人間的と思われるかもしれない。
しかし、彼らももちろん人間。ときには、感情が揺らぐ。
「ほら、ごらんのとおり狭い田舎町だからさ、患者に昔の同級生とか、知り合いが来ることもまれじゃないんだ。
病理医だから、患者を直接的に診るわけじゃない。でも検体が届いて、その名前を見ればすぐにわかるよ。
患者のほうで僕を認識しているかどうかは知らないけどね。
でもとにかく、患者と『やぁ久しぶり。どうしてる?』なんて会話するんじゃなくて、その人の組織片と、いわば会話をする。それが僕の仕事なんだ。
微妙な症例があった。
卵巣癌の1a期かつグレード1なら妊孕性温存術の適応になる。しかしその症例、腹膜の洗浄液の読み方次第では2c期とも見えた。
そうなれば全摘だ。今後彼女が子供を産むことはあり得ない。
彼女の肉体の健康を優先して全摘するか、挙児希望の彼女の心を優先して温存術を選択するか。
二つに一つ。真ん中はない。
その判断が、僕の判断にかかっている。
実はこういう微妙な症例は珍しくない。
『白』か『黒』か、簡単に判断のつく症例も多いが、どちらとも言い難い『灰色』の症例に対して、いかに適切な判断を下すか。
そこが僕らの仕事の肝だとも言える。
しかしその症例の判断は、いつも以上に悩ましかった。
その患者は僕の知り合いだった。
知り合いというか、もっとはっきり言うと、高校生のときに僕が密かに好意を持っていた女性だった。
そういう感情的要素は一切捨てて、虚心に病理像を見て判断すべきことは当然わかっている。
その人はすでに誰かと結婚している。僕が付け入る隙はない。それなのに、一体僕は、何を当惑しているのだろう。
高校生のときの憧れの人。その人から女性性を奪うか否か、の判定だ。
そしてそれは、青春時代に自分の抱いていた淡い恋心に、ピリオドを打つかどうかの判定であるようにも感じてしまったんだ。
仕事の重さに、気が滅入りそうだったよ。
こんな形で再会したくなかった。もっと普通に、町ですれ違うとかして再会したかったよ」
病理医はそういって力なく笑う。
『死』と『生』がまじりあう僕らの体には、いくらか『性』のスパイスもふりかかっているようで、そのことで人生が一層悩ましくなるのかもしれない。