神戸の花火を見ようと、船を持っている友人に乗せてもらって、いざ出発。
海上から花火を楽しんだのは初めてだ。
空に打ち上げられた無数の大輪の花が咲いては消えて、咲いては消えて。
特にラストの一斉に打ち上げる花火は大迫力で、この世のものとは思えない景色だった。
鳥肌が立った。
きれいなものを見て鳥肌が立つなんて感覚、ずいぶん久しぶりだな。
いや、正確には、きれいなのに感動したっていう、それだけじゃないな。
きれいなのはもちろんそうなんだけど、それだけではなくて、恐怖に近いような感情もあったと思う。
美が爆発音とともに咲いて、こちらにグングン迫ってきて、やがてあっけなく消える。光を放っては消える花火が、生まれては死んで行く僕ら人間の比喩のようにも感じた。
あるいは僕は、美というものを誤解していたようだ。
美は控えめなもので、こちらがその中に詩を見出さないと顕現しないものだって僕は思ってたんだけど、今日、その思い込みが打ち破られた。
おしとやかなお嬢様の美しさではなく、こっちめがけて叫び声をあげる狂女の美しさ、という感じ。
控えめな美に慣れているところに、こういう美に直面させられると、感動するというよりか、何だか怖いのよ。
この美しさが写真に撮れたらどんなにいいことだろう、と思って撮ったのがこの写真。↑
もうね、撮影しながらも写真のショボさに気付いて、うんざりした。
スマホのカメラ越しに見る花火と、今目の前の夜空に展開される花火、両方を同時に見たけど、同じものだとは思えないぐらいだった。
写真が「真を写す」だなんて、こんなウソはないね。
きれいな蝶が飛んでいる。虫取り網でサッと捕まえ、標本にする。しかし標本にした瞬間、すでに詩がなくなっている。
フワフワと空を飛んでいたときはあんなに魅力的だったのに、標本箱の蝶は、出がらしの茶のように味気ない。
花火も同じような感じで、その美しさは、どこか保存できる類のものじゃないんだな。その美しさの賞味期限は、一瞬だけ。その場限りのものなんだ。
人工知能とか最新の技術を使えば何事も簡単に再現できてしまう現代に、こういう一回性というのは、逆にますます、輝きを増しているようにも思う。
今年の花火は、泣いても笑ってもこれで終わり。同じのを見るのは、また一年待たんあかん。こういう不自由さが逆に新鮮なんよね。
こういうことを一緒に見に行っていたごうちゃんに言ったら、「そんなに気に入ったんやったら、明日の加古川の花火も見に行く?」
いや、そういう問題じゃないねん笑