もともと外科系に行こうという気はなかったんだけど、ポリクリを回っているうちに、その思いは確信に変わった。自分は絶対に外科じゃない、と。
その大きな理由の一つは、一言でいうと、手洗いの面倒くささなんだけど、何というか、その知り方が、実に苦かった。
とあるマイナー外科を回っているときのこと。四十才ぐらいの指導医が、
「手洗い、習ったことないの?」
「いえ、一度授業で習いましたが、ほとんど忘れてしまいまして」
「じゃ、俺の言うようにやって」
手を濡らし、洗浄液を手にたらして、念入りに洗い、泡を水で落とす。
「ああ!ダメダメ!
泡を落とすときに、しずくが指先じゃなく肘のほうに流れるようにしないと。もう一回やり直し。最初から」
また洗浄液を手に取って、洗い始める。
さっき一度洗っているのだから、と、一回目より簡単に済ませて、すぐに泡を落とそうとしたら、
「おい!何やってんだよ!最初から、っつってんじゃん!教えられたとおりにやれよ!」
もう一回洗浄液を手に取って、今度は念入りに洗う。
いい加減イライラしてきたせいもあって、手を激しく動かして洗ったせいで、うっかり手が水道の蛇口に触れてしまう。
「ああ!ダメだ!そんなところに手がついちゃ!雑菌まみれだぞ!はい、もう一回最初から」
指導医、わざとらしく大きなため息をついた。「犬のほうがまだ物覚えがいいくらいだぞ」
ため息をつきたいのは僕のほうも同じだった。指導医に気付かれないように小さなため息をついて、もう一回最初から手を洗い始めた。
何とか手洗いは無事に済んで、次にガウン着用ということになったが、
「ガウンの着方は知ってる?」
「授業ではやりましたが、ずいぶん前なので覚えていません」
「じゃ、言われるようにやって」
そでに手を通し、マスクの両端のヒモを手伝いの看護婦に渡す途中で、触れてはいけないところに触れてしまったらしく、また叱責の声が飛んできた。
「ああ!そこは不潔だよ!ったくもう、頼むよ、ほんと」と、さげすむ目でこちらを見て、
「俺、こいつを教える金、もらってねえよ」と傍らの看護婦に大げさに嘆いて見せる。
看護婦のぎこちない苦笑い。
僕は、どういう表情を作ったらいいのか、よくわからない。
「はい、もう一回からね」と、水道のほうをあごで示した。
「最初から、何を・・・」
「決まってんじゃん。手洗いだよ」
頭が熱くなった。
この指導医への怒りなのか、自分への情けなさなのか、何だかよくわからない感情で胸がつまった。
今すぐにも泣きたいような気持だったが、いけない。
心をからっぽにして、洗浄液を手に取って再び念入りに洗い始めた。
彼の言っていることは正しいと思う。
手洗いの最中に手が蛇口に当たってしまっては最初からやり直すべきだし、ガウンの着用の際にはどこを清潔に保つべきか、きちんと認識しておかないといけない。
でもこの先生、学生指導に向いている性格だろうか。
というか、もっと根本的に、人に接するときの、人への態度はどうなのか。学生相手にこの態度なら、患者相手にはどういう態度なんだろう。
もちろん、指導医として、学生を叱る必要があるときもあるだろう。
でもその叱責が、本人のためを思って言いたくないことをあえて言ってくれているのか、それとも、権力をかさにきて人をいびることが快感だから叱っているのか、その違いくらいはわかる。
僕が外科医志望ならどうなっていただろう。
まさかこの一事のために外科をあきらめるなんてことはないだろうけど、少なくともこんな指導医がいる医局は避けようと思ったと思う。
幸いにも外科に入ろうとは考えていなかったからよかったんだけど、、、
強い殺菌作用のある薬剤で入念な手洗いを繰り返した手は、皮がむけてガサガサになった。
まぁガサガサになったって、そんなのはすぐに回復するからいい。でも、外科に対して残った嫌な思い出、こっちのほうはなかなか消えへんのよ。