院長ブログ

林郁夫

2018.7.23

林郁夫。
慶応大学医学部を卒業後、心臓外科医として渡米し、最新の術式を学んだ。帰国後、実績を積み、心臓外科の名医としての評判が高まり、石原裕次郎の手術チームの一員にも選ばれた。
しかし、臨床医としてどれだけ最善の努力を尽くしても救えなかった症例を見るたびに、死とは何か、そして生の意義とは何か、といったことを深く考えるようになった。
そんなとき、麻原彰晃の著書に衝撃を受け、次第にオウムに傾倒していく。やがて妻、子供らの一家四人で出家した。

1995年3月20日。営団地下鉄千代田線、北千住駅。
林郁夫は電車を待ちながら、新聞紙でくるんだビニール袋をわきに抱えていた。なかにはサリンが入っていた。
ホームを行きかう人々をぼんやりと眺めた。自分の背後に並ぶ、ランドセルを背負った女の子が目についた。
「オウムを弾圧する国家権力との戦いだったはずが、なぜこんなことになったのだろう。こんな子供を殺して、一体何になる?」

前日に村井から指示を受けていた。
「君たちが乗る地下鉄は5本とも8時10分頃に霞が関に到着する。それぞれ、自分の降りる駅が近づいたら、新聞で包んだサリンを床に落とせ。
そして駅に着き、扉が開く直前、ビニール傘の先端で袋を突き刺し、穴をあけろ。一袋につき、二回突け。
君たちがサリンをまいて降りる駅は逆算して決めた。サリンが穴から漏れ出て、車内で気化するまで10分から15分。霞が関に着く頃、最も被害が大きくなるだろう」

電車に揺られながら、アナウンスの声を聞くともなく聞いていた。「営団地下鉄千代田線をご利用いただき、ありがとうございます。まもなく新御茶ノ水、新御茶ノ水に停まります」
目の前に、若い女がいた。
極力何も考えないようにしていたが、いざ、ビニール袋を落とす段になると、胸が震えた。
サリンをまけば、この女も死ぬんだろうな。
私は人を救うために医者になったはずなのに、今、人を殺そうとしている。何をやっているんだろう、こんなところで。
降りろ、女。この後、大変なことになるぞ。
降りろ、早く降りろ。お願いします、早く降りてください!
女は動かない。ただ、つり革を持って、ぼんやりと窓外を見やっている。
林は首を振った。いけない。考えてはいけないんだ。深く呼吸し、内心にマントラを唱え、何とか平静を取り戻す。もう何も考えまい。
サリン入りの新聞包みを足下に落とした。
「お手荷物などお忘れ物のないようご降車ください。新御茶ノ水、新御茶ノ水です」
申し訳ありません、真理を守るためなのです、戦争なのです。高い世界にポアされてください。
グラインダーで鋭くとがらせたビニール傘の先端が、袋を突き破る手ごたえを感じた。
超えてはならない一線を、今、確かに超えた。林の繊細な指には、その感覚が生々しく残った。いつまでも。

千代田線(我孫子発代々木上原行)
死亡:2人、重症:231人

林郁夫は、地下鉄にサリンをまいた実行犯のなかで唯一極刑をまぬかれた。
裁判官が彼をどのように見ていたかは、たとえばこのサイトに詳しい。(https://ironna.jp/article/1153)
同じ職業だから、というだけの理由ではなくて、僕は彼に、近しいものを感じる。
彼、本気で患者を救いたかった。自分が必死にマスターした外科手技をもってしてなお、救えない患者がたくさんいた。
自分の医学は本当に正しいのだろうか。そういう疑問がふと頭にもたげていたときに、麻原の著書に出会ってしまった。
病院にオウム式の治療法を持ち込み、患者に塩水や湯、糸を飲ませたり、ジャンプさせたりするなどし、トラブルが起こった。
まるで僕の姿を見ているような気がした。
栄養療法を知って衝撃を受け、患者にこっそりナイアシンを飲ませ、それが上司に露呈して大目玉を食らった僕には、彼の気持ちがわかる。わかりすぎて、何だか胸が痛い。
もちろん流儀は違う。でも、現代医学に疑問を持ち、真に患者を救い得る方法はないものかと悩み、模索する思いは、僕と同じだ。
ただ僕は、宗教というのは、教祖とか誰か偉い人の唱える教義に身をゆだね、自分の思考を放棄することだと思っているから、個人的にはそんな生き方、まっぴらごめんだ。
自分の信じる宗教がある人の、その気持ちは尊重するけれど、僕自身は宗教は好まない。
そこは彼との大きな相違点だけど、それでも、救いたい、の思いは僕と共通で、彼、その思いで突っ走ってきたはずだった。
でも、どこでどう道を誤ったか、地下鉄でサリンまくことになってしまった。
人を救うために必死になって外科技術を身につけた彼が、人を殺すためにサリンをまく。これほどの方向転換はそうそうあるものではない。
こんなの絶対に間違っている、って良心は叫んでいるんだけど、教義のため、教団のためだ、と理性で納得しようとする。
こういう極限状態の心理は、興味深いと思う。

彼が栄養療法と出会っていれば、と思う。ビタミンEやD、Cなどの投与で心血管系の病気の発症率が下がることにはエビデンスがある。(https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/15753154)
現代医学に失望した頃には、林先生、病気に対しては治療よりも予防が重要だ、という考え方になっていたというから、栄養療法はきっとアピールしたと思うんだな。
純粋な思いも、手段の選択を誤っては、大きな悲劇になってしまう。

参考:『オウムと私』林郁夫著