院長ブログ

2018.7.20

どこ出身だろうがどういう家庭で育とうが、その人の人間としての価値とは無関係だ、というのが現代の当たり障りのない考え方だろうけど、上岡龍太郎は真逆のスタイルだった。
東北なんて人外の土地だと思っていたし、東京出身を鼻にかける人を見れば心底軽蔑した。「東京は田舎者の集まりやろう。生粋の東京人でない人が、東京人ぶってるのが腹が立つ。」そういうことを番組で堂々と言う。
こんなタレントは、今絶対にいない。みんな、自分の好感度を上げるのに必死だからね。
攻撃するのは何も東京だけではない。自分の番組が放送されている関西も攻撃する。「大阪のひったくりは奈良と和歌山から来た奴ら」などというものだから、奈良や和歌山の県議や知事から抗議されたこともある。
自分の出身の京都にも容赦せず、「宇治は京都と認めない」と言った。南の山ばかりの田舎のくせに、平等院があるというだけで都人です、というでかい顔をしている、と。この発言で、宇治市出身のプロデューサーの反感を買い、番組を短期間で降板させられた。
東京に番組を持つようになってからはさすがにそういう露骨な発言はしなくなったけど、基本的にずっとそういう考え方の人だったと思う。というか、彼に限ったことではなくて、京都(特に京都市)出身者には、程度の差はあれ、こういう『京都中心主義』の傾向はあると思う。
ある土地で生まれ育つということは、その土地の言葉や文化、考え方をも吸収するということで、千年の都で生まれ育つということは、いい意味でも悪い意味でも、日本文化のエッセンスの洗礼を受ける、ということかもしれない。
東側に対しては総じて辛口の彼だったけど、西側には別段ノーコメントといった感じで、なぜだろうって思ったら、この人、お母さんは九州出身、お父さんは四国の出身なんだね。それなら悪口も言わんわなぁ。

保身に汲々としているようなタレントばかりのなかで、彼の歯に衣着せぬ物言いは、明らかに光っていた。
見ていて気持ちいいんだな。ズバッと言い切ってくれる爽快感。そして芸人だけあって、シャレも効いている。紳助が師匠と仰いだのもわかるよ。

超能力、占い、霊能力など、非科学的なことが大嫌いな人だった。
オウムによる一連の事件が起こる以前には、視聴率が稼げることからテレビ業界はそういう超能力系の特番をしばしば作ったものだが、上岡龍太郎はそういう風潮に一人、敢然と立ち向かった。
自分の番組にたくさんの占い師を呼んで、いきなりその一人の顔に油性ペンで、×と書いた。「今日、顔に×って書かれると予言できたか?」
占い師は屈辱で顔を真っ赤にして叫んだ。「予言してました!」
別の占い師に、「僕が今からあなたを殴るか殴らないか、わかりますか?」
「上岡さんは常識のある人だから殴らないと思います」
その言葉を聞いた瞬間、「それなら殴る」と殴りつけた。

彼には、霊や超能力など、ありもしないものを持ち出して、人々の不安につけ込んで金を巻き上げている人たちが許せなかった。
この考え方の背景には、彼の子供時代の経験がある。母が乳癌になった。霊媒師や占い師が病床の母に近づき、治りたい一心の弱みにつけこんで、病気の治療と称して多額の金品を奪っていった。結局母は彼が10歳の時に亡くなった。この経験は彼の中でトラウマとなり、非科学的なものに対するいわく言い難い嫌悪感を持つ原因となった。
霊能力者と称する人たちを番組に呼んで、
「霊というものが存在するのなら、なぜバースは広島球場でホームランを打てるのか。おかしいでしょう。原爆で亡くなった怨霊がアメリカ人の活躍を許すなんて、あり得ますか」
と笑いの効いた批判もあれば、
「ここの交差点には交通事故で亡くなったある少年の霊がとり憑いていて、しばしば出没する、と以前番組で霊能力者が言いました。そしたら、なんと、その少年のお母さん、たまたまオンエアを見ていて、以来、その交差点にしょっちゅう行くようになった。なぜだか分かりますか。我が子に会いたいんです。たとえそれが霊であってもいい。霊であってもいいから、我が子に会いたい、その一心で。でももちろん、会えません。いいですか、あなた方が公共の電波を使って垂れ流すデタラメをこんなふうに真に受けて、余計に心を傷つけている人がいるんです」
これはなかなか気持ちの乗った言葉。子供の時に母を亡くした彼には、子供を亡くした母の悲しみが、逆の立場ながらよく分かって、それだけ一層霊能力者が許せない。

「細木数子が幅を利かせているような芸能界には、もう愛想が尽きた」と2000年、芸能界を引退。
以後、公の場にほとんど顔を見せていない。

僕自身は、霊的なこととか超能力の類は信じていないんだけど、そういうのを信じる人は当然いてもいいと思うし、医者目線で言うなら、それを信じることで本当に病気が治るのであれば、大いに活用すればいい。
信じることの力、ってすごく大きくて、EBMで実薬とプラセボ使うのもそれが理由だ。プラセボなのに「よく効く薬だ」と信じて飲んだら、本当に治ってしまう人がいるんよね。
そういう具合に、いわゆる霊能力者の人が、依頼者から信心を引き出して、病気を治したり、人生をいい方向に導くのであれば、それはすばらしいことだと思うんだ。
ただし、そういう信仰の代価として、高額なお布施だとか浄財を払わないといけないとなれば、ちょっとヤバそうだ。
ちなみに、現代人の誰もが信じ込んでいる最強の宗教って何か知っていますか?キリスト教?イスラム教?違います。
それは、現代医学です。
癌ともなれば、高額なお布施と引き換えに、白衣を着た祭司が、メスとか抗癌剤という宗教道具を使って、大真面目な顔して儀式を行います。
そういう儀式から生還する人はごくまれで、多くの方はそのまま人身御供となります。

人間が死んだらどうなるのか知らないけど、仮に死後の生というものがあるとして、あの世の友人らに「いわゆる代替療法をやってたら治ってたのにね。抗癌剤なんか使ったがために寿命縮めちゃったね」って本当のことを言われたら、どう思うだろう。「死んでも死に切れん。あの医者、許せん。化けて出てやる」ってならないのだろうか。
僕の母の癌を担当した先生は、フェラーリの最新型が出るたびに買い替えたり、冬場は南国でバカンスを楽しんだりっていう具合に、人生をこの上なく満喫してるみたいだから、患者の霊に呪われているなんてことはなさそうだ。
ちょっとぐらい霊からお灸据えられたらええねん、って思うんだけど、人間いっぺん死んだら、誰のせいで自分は死んだとか、もうどうでもいいのかもしれないな。原爆の霊にとったらバースがホームラン打とうがどうでもいいように。